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2014年1月 5日 (日)

小島政二郎〔選考委員〕VS 津田信〔候補者〕…まわりの人に煙たがられ、時流とマッチしていなくてもなお、一つ道を行く師弟。

直木賞選考委員 小島政二郎

●在任期間:通算25年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)、第21回(昭和24年/1949年上半期)~第54回(昭和40年/1965年下半期)

●在任回数:50回
- うち出席回数:49回(出席率:98%)

●対象候補者数(延べ):330名
- うち選評言及候補者数(延べ):176名(言及率:53%)

 木々高太郎さんもそうでしたけど、小島政二郎さんもまた、いろんな人から蛇蝎のごとく嫌われていたそうです。だいたいですよ、「やーいやーい、直木賞選考委員を辞めさせられたー、ざまあみろい」なんちゅうハナシが公然と語られている、っていうそれだけで、稀代の嫌われ者、面目躍如たるものがあります。

 それで今日取り上げますのは、小島さんのことです。とにかく直木賞に〈文芸たること〉を求め続け、しかもまわりからさんざん馬鹿にされ、オチョクられてきた、という、「ミスター・直木賞」と呼ぶにふさわしい選考委員。……なんですが、こないだ、小島政二郎に関するドエラい原稿を目にしたものですから、たぶん今日はそっちの紹介がメインになると思います。

 それは「無念の人(仮)――私註・小島政二郎」と題されたWORD文書。書かれたのは山田幸伯さんです。

 山田さんは昭和30年/1955年生まれ。立教大学文学部卒業後、祥伝社に勤務し、雑誌、書籍の編集部、広告部などを経て、平成25年/2013年10月現在の「著者略歴」によれば、現在も同社在籍中、という方です。……と、書いてもピンと来ないですか。では、アノ津田信さんのご子息、と言えばきっと、……って、そっちのほうがピンと来なかったりして。

 いや。津田信の名前を聞いて身を乗り出さない直木賞フリークなど、この世におりますまい。芥川賞に2度候補に挙がってからの、直木賞、怒濤の6度候補。昔、同じ『秋田文学』に所属して研鑽し合ったジミなおっさん千葉治平が受賞したことに、ナニクソこのやろうと歯噛みをし(?)、『犀』同人としては立原正秋さんと仲違い、長きにわたるフリーライター生活で、もはや小説家としての再起は不能と思われたなか、『夜々に掟を』(昭和51年/1976年)、『日々に証しを』(昭和53年/1978年)、『結婚の構図』(昭和56年/1981年)と、長篇私小説を次々と出してカムバックしながら、昭和58年/1983年11月、58歳の若さで亡くなった直木賞史に残る候補者のひとりです。

 この津田さんは、戦中、東京府立第三商業に在学中、「風の系譜」を読んで感銘を受けたことから野口冨士男さんを訪ねていき、以来、野口さんに師事しました。さらに飛んで、昭和31年/1956年、同人誌『文学生活』に書いた「復讐」が山本周五郎さんの目にとまって、激賞の手紙をもらって以降は、たびたび山本さんのところに出入りして、励ましを受けます。このあたりから津田さん、芥川賞の候補になりはじめるのですが、

「満州での虜囚体験を綴った最初の直木賞候補作『日本工作人』(三十三年上半期)を強く推してくれたのが、銓衡委員の小島政二郎であった。これをきっかけに鎌倉雪ノ下の小島邸の門を出入りするようになるが、山本周五郎との関係も依然続いていた。二人の師を抱くわけにはいかないと悩んだあげく、彼は「小島先生」を選択した。理由の一つには酒があった。下戸の自分には酒豪の山本の対手が出来ないと判断したのである。

 この決断が、その後の津田信の運命をどう左右したかは分らない。どのみち華は咲かなかっただろう。だが、自分が信じていた文学観を芯から共有できる師と邂逅したことは、誰に何と言われようと幸福だったに違いない」(山田幸伯・著「無念の人(仮)――私註・小島政二郎」「第五章 立原正秋」より)

 という展開になりまして、津田さんは小島政二郎門下の一員となるのです。

 津田さんと小島さんとをつないだ一本の糸、「日本工作人」。これは連載中に第39回(昭和33年/1958年・上半期)の、完結後に第40回(昭和33年/1958年・下半期)の直木賞、というふうに二度候補になりました。では小島さんが、このときどれほどに熱烈な推奨ぶりを見せたのか、とくと拝んでおきましょう。

「私が感心して読んだのは、北川荘平さんの「水の壁」それから津田信さんの「日本工作人」

 小説としては、「日本工作人」の方がすぐれている。随分沢山の人物が出て来るが、それぞれの性格を描き分けている手腕は、得やすからざるものだと思う。それに柔軟な文章が、小説には最もふさわしい好ましさだった。態度も距離もいい。感心して読んだ。「秋田文学」は季刊だから、いつ終ることだろう。一日も早く完結してくれることを待つ。デキから言ったら、今度の十篇のうち、第一位を占める作品のように思う。」(『オール讀物』昭和33年/1958年10月号 小島政二郎「感想」より)

「私は今度も「日本工作人」に一番感心した。これだけ多くの男女の性格を彷彿とさせた手腕、柔かな上品な文章、全体の構図の自然な発展、どこにも間然するところがない。」(『オール讀物』昭和34年/1959年4月号 小島政二郎「感想」より)

 こんなに推しているのは、じっさい、選考会のなかで小島さんただひとりでした。

 山本周五郎さんではなく小島政二郎さんのもとへ――。津田さんとは直接関係ありませんけど、この両人については、野口冨士男さんがこんなことを言っています。

「幸福とか、不幸という言葉は、かるがるしく口にしたり文字にすべきではあるまいが、山本周五郎氏は、小説にはいい小説と悪い小説しかないという意味のことをいわれたときく。ことの当否は別として、小島さんはそんなことを決して仰言らないだろうし、仰言れないところに氏の不幸があったのではなかろうか。(引用者中略)ここからただちに山本氏を幸福な作家で、小島さんを不幸な作家だという結論をひきだせば、あまりにも性急な短絡になりすぎるが、大正時代に文学的出発をなさった小島さんには、やはりぬぐいがたい固定観念がおありなのだろう。そして、第三者の私は、やはりそれを不幸だと思わずにいられない。」(昭和48年/1973年8月・筑摩書房刊『現代日本文學大系第45巻』「月報96」所収 野口冨士男「私見・小島政二郎氏」より)

 固定観念の男、小島さんは、直木賞選考会でもソイツを楯にがんばりました。ときに他の委員から煙たがられます。ときに四面楚歌の立場に置かれます。それでも投票を変えない頑固さは、いっときの直木賞名物といっていいほどでした。ワタクシ、そういうの、けっこう好きです。

 津田さんも、その小島さんの姿に食らいつきました。高井有一さんのこんな文章を読むと、もはや津田さん、小島政二郎そのもの、とすら思えてきます。

(引用者注:『犀』の)同人会での津田さんは、頑固そのものであつた。私小説以外の小説は認めない、評論は興味がないから読まない、と言ひ放つて、周りの意見にはまるで耳を藉さなかつた。(引用者中略)自分は自然主義文学で育ち、徳田秋声を日本一の小説家と信じてゐる、と津田さんの作品の中にある。しかし、さういふ信条が古めかしいと受取られる方向へ時勢が動いてゐるのを、察しられない津田さんでもなかつただらう。」(平成9年/1997年6月・角川書店刊 高井有一・著『作家の生き死』所収「津田信 私小説家の死」より ―初出『群像』昭和59年/1984年2月号)

 それで山田幸伯さんは、父・津田さんが小島さんを師と仰ぐのを縁として、小島さんに師事するようになり、津田さんが亡くなったあとも小島さんと交流を保ちつづけました。さらに、晩年の小島さんを語るうえでは絶対に欠かせないオテンバ奥さん、視英子さんとも。

 「無念の人(仮)」は、そんな山田さんが、これまで忙しい仕事にかまけて何もモノになる文章は書いてこなかったが、いまの自分にはこれ以外に書けるものはない、と信じ、毎日毎日こつこつと、小島さんの生涯と作品とその周辺事項をまとめた「伝記」でして、WORD文書をそのまま四百字詰めに換算すると約1500枚にも及ぶ大作です。

 で、その量と熱意にも圧倒されるんですが、いや、何よりこの作品がスゲエのは他でもありません。全五章を「第一章 永井荷風」「第二章 今東光」「第三章 永井龍男」「第四章 松本清張」「第五章 立原正秋」と仕立てているところ……つまり、この5人はみな、小島さんのことを嫌い、ひそかに、あるいは公然と、小島さんの悪口を書き散らしてきた人たちなのです。

「彼らは小島政二郎への嫌悪、軽侮の情を隠さなかった。ある者はそれをやがて発表する日記に再三にわたって記し、ある者は雑誌の談話記事で語り、新聞紙上に書いた。また、メディアで公言せずとも親しい仲間や編集者を相手にそれを露にした。

(引用者中略)

 私はこれから、最初に挙げた五人を中心にして、小島政二郎への「毀」と「貶」を眺めてゆきたい。言わば「悪口で綴る小島政二郎」である。

 「誉」と「褒」については、小島信奉者の私が書くものであるから、いくら抑えたところでその悪口への反論という形で自ずとにじみ出てこよう。うまくいけば、文壇および世間の「小島観」がどのように作られていったかが窺えるだろう。できれば、「純文学から出発し、後に通俗小説に転じた」と一行で片づけてほしくないその作家像に迫り、いまなお色褪せない魅力を紹介したい。」(前掲「無念の人(仮)」「序――なぜ余技なのか」より)

 こういった切り口から書かれた人物伝が、面白くないはずがありません。

 山田さんが本文で紹介している逸話を読むと、ほんとみんな、遠慮なくバシバシと小島さんの悪口を叩いているのですね。これらに対する山田さんの「反撃」もまた痛快。そして、当然(?)直木賞がらみの悪口、というか対立も、ふんだんに語られているのが、ワタクシにとっては、さらにありがたい。

 とくに、永井龍男さんの手柄として巷間有名な、例の「松本清張、直木賞候補から芥川賞へ」の事件。そもそも「或る『小倉日記』伝」を読んで、これは直木賞向きの作品じゃない、と思ったのは永井さんひとりではなく、たとえば小島さんもそう考えて、当日欠席につき書面にてその旨を提出していました。しかし、なにしろ永井さんは小島さんのことを異常に嫌っており、また松本清張さんも、受賞直後には「永井さんと小島さんのおかげで」直木賞から芥川賞にまわされたと聞いた、と書いていたのに、後年には、小島さんの名を省いて回想するようになってしまって、徐々に、この事件から小島さんの存在が消されていった……みたいなハナシが語られていきます。

「永井龍男がこの小説をいつ読んだのかは分らないが、直木賞候補作として自分のもとへ届けられた後と考えるのが妥当だろう。いずれにせよ読了して「これは芥川賞にふさわしい」と感じて銓衡会に出席、冒頭で一席弁じたわけである。勿論この時、政二郎の書面を読んで自分と同意見なのを知ったが、永井にとってそれは「芥川賞に回す」という自分の提案を補強してくれたにすぎない。あくまで、自分が会の席上で強く主張したからこそ「松本清張の芥川賞受賞」という結果を生んだのであり、政二郎は他の委員と同様の賛同者の一人である。後年、往時を回想する永井の頭に、小島政二郎の存在が浮かび上がるはずもない。忌み嫌っていたならなおさらである。」(前掲「無念の人(仮)」「第三章 永井龍男」より)

 清張さんのほうもアレです。受賞してまもなく、「小島政二郎を悪く言う党」党首のような今東光さんと親しくなったり、小島門下の和田芳恵さんと交流を続け、ずいぶんと小島さんのダメなとこ、イヤなとこを吹き込まれたはずで、だから、この事件を語るときに、小島さんの名前を無視するようになった、のかもしれない、と山田さんは推論を立てています。なーるほど。

 そのほか、「無念の人(仮)」では、山田さん自身が小島さんからもらった昔のノートや直接聞いたハナシなども紹介されています。これがまた貴重なもので、ワタクシ、目ランラン輝いちゃいました。たとえば、昭和10年/1935年当時の小島さんの収入状況を細かく綴っていくところでは、こんなエピソードも出てきます。

「この頃(引用者注:昭和10年/1935年ごろ)、文藝春秋主催の愛読者大会&講演会で他の作家たちと頻々と全国各地を巡っているが、これは文春への協力で講演謝礼は貰わなかったと私は本人から聞いた。無論、アゴアシ――いい列車に、いい宿は文春持ちで、九年暮れから十年にかけての講演会では「一万五千円位かかった」と菊池寛は書いている(『話の屑籠』)。

 同様に、この年スタートした芥川・直木賞でも、銓衡料などなかったそうだ。菊池と縁のある作家たちの、文春と小説界の興隆のための奉仕であり、それゆえ真剣な討論の場であったと私は聞いた。

 現在では、この両賞に限らず文学賞の銓衡というものは、著名作家にとっては立派な営業品目――収入源になっており、いい作品に出会わず苦労した場合には、「選考料はある意味、この苦痛に対して支払われるものだと私は考えている」(高樹のぶ子「第一三八回芥川賞選評」平成二十年)と堂々と書く人までいるくらいだから、賞の趣旨も作家の姿勢も変わってしまった。『日本文学振興会 小史』や永井龍男の回想を読んでも、銓衡料については分らない。読者の多くは、銓衡委員になることは作家の名誉であるから厚意で務めていると信じているかもしれない。ぜひ内情を知る関係者に、銓衡料の発生、変遷、現状を書き留めておいていただきたい(引用者後略)(前掲「無念の人(仮)」「第三章 永井龍男」より)

 まったくですね。少なくとも、いつ、どういう理由で、直木賞に「選考料」なるものが発生したのかは知りたいです。誰か書きのこしたりしていないかなあ。

          ○

 さて津田信さんですが、『日本工作人』を小島さんに褒められたあと、4度、直木賞候補になります。どれもこれも、選考委員たちから散々に評価され、まるで受賞に近づく気配もなかったのですが、小島さん(だけ)は5度目の「夜の暦」(第47回)、6度目の「破れ暦」(第52回)に丸をつけてくれました。

「私は「夜の暦」と「怪談」(引用者注:木野工に一番点を入れた。

 しかし、誰の同感も得られなかった。短篇と長篇とを一緒に読まれるのは、短篇作者に気の毒だ。どうしても押して来る力が違う。短篇と長篇とは区別して、別々の条件で読むような何か制度見たいなものを設ける必要があると思う。無条件では、どしても長篇の方が得をする。不公平な気がした。」(『オール讀物』昭和37年/1962年10月号 小島政二郎「小説的盛上り弱し」より)

「今度くらい委員諸君と私の考えとが大きく隔たったことはなかった。(引用者中略)

 津田信君の「破れ暦」も、よく書けていると思ったが、イージーゴーイングとの評だった。私はそうは思わないのだが――」(『オール讀物』昭和40年/1965年4月号 小島政二郎「意外なこと」より)

 そう、小島さん自身が言っています。いずれも、津田作品に好意的な評を貫いたのは、小島さんただひとりでした。……って、小島さん、こんなんばっかり。

 その後、津田さんはお仲間たち(昔の、を含む)が芥川賞や直木賞を次々ととる場面に遭遇します。高井有一さん第54回芥川賞、千葉治平さん同回直木賞、立原正秋さん第55回直木賞……。千葉さんの受賞に関しては、今度出します『直木賞物語』(バジリコ刊)って本でも少し触れたんですが(こそっと宣伝)、「無念の人(仮)」を読んでいたら、あ、記述が正確じゃなかった、マズい、と思わされる箇所が多々あり(……全然宣伝になっていない)、恥ずかしいかぎりです。

 一か所だけ言います。津田さんが日本経済新聞社を敢然と辞めるところ、これは千葉さんの直木賞受賞を知って、よしオレも、と奮起したからなのではなく、以前から辞職を決めていたのだそうです。

(引用者注:昭和)四十一年一月十七日の晩、まさかの報せが飛び込んできた。千葉が新橋遊吉と共に受賞した。ただの一回目の候補で、直木賞を獲ったのである。

 津田信はショックだった。呆っ気にとられた。してやられたと思った。銓衡前には多少気になっていた立原のことなど、すでに頭から消し飛んでいた。

 実はこの時、翌月の二月いっぱいで、二十年近く勤めた新聞社を辞める決意を固めていた。長らくいた編集局から広告局への配転の内示を受けたのが直接のきっかけだが、四十歳を過ぎ、勝算はまったくないが、このへんで筆一本の生活に賭けてみたいという願望が以前から膨らんできていたのだ。できれば「受賞」して堂々と退社したかったが、それがもう無理なのは充分分っていた。ただ、このタイミングでまさか千葉にそんな幸運が訪れるとは――。」(前掲「無念の人(仮)」「第五章 立原正秋」より)

 ええと、引用箇所にもありますとおり、この時期、津田さんは、立原正秋との感情的なもつれ、という状況にありました。昭和40年/1965年9月に、津田さんの紹介で立原さんが鎌倉市津に転居、ところがその後12月ごろまでに津田さんは『犀』を脱退、翌昭和41年/1966年2月、直木賞・芥川賞贈呈式で何が因かは不明ですけど、立原さんが津田さんに手をかけるなど悶着を起こし、その場面をいろんな人に見られています。

 ちなみにこの第54回は、小島さんにとって最後の選考会になった、ってことは以前のエントリーでもたびたび取り上げてきたことです。ところが翌第55回、つまり立原さんが受賞したとき、文藝春秋主催の贈呈式で、立原さんに賞を手渡す役をおおせつかったのが、じつは退任したばかりの小島政二郎さんだった、……ってことも「無念の人(仮)」の指摘ではじめて知りました。文春からダメ選考委員扱いされて首を斬られた、とかそんな一方的な見かたばかりしてちゃいけませんね。小島さん、いちおう、大切にされていたんじゃん!

 ところで津田さんのほうです。千葉さん受賞周辺のころを、私小説『日々に証しを』(昭和53年/1978年10月・光文社刊)のなかでかなり長めに触れています。以下ほんの一部だけ。

「数え四十二歳のとき、私は新聞社を辞めた。

 それまでに八回、私の小説は文学賞の候補になったが、一向にうだつがあがらず、このまま二足の草鞋をはいていたら、結局、あぶはちとらずになるんじゃないか、という焦燥が日ましに深まって、筆一本で喰えなくなったら、そのときはそのときだ、とようやく決心がついた。(引用者中略)

 辞めるきっかけになったのは、千葉治平の直木賞受賞だった。彼の受賞を祝って同人誌が特集号を出したとき、私は次のような感想文を寄せた。

(引用者中略)趣味で小説を書いている人は問うまい。しかし、やがては職業作家になることを目ざして、同人雑誌で勉強している者は、例外なく芥川賞や直木賞が欲しいはずである。『そんなもの、俺はいらない』とうそぶく人もいるが、私は信じない。芥川賞患者、直木賞亡者とののしられようが、みんな喉から手が出るほど欲しいのである。鰻屋の前で、何度かその匂いを嗅がされながら、ついにのれんを分けて入ることを許されなかった私は、その罪な匂いから十年目でやっと後ずさりすることができた。これからは匂いに惑わされず、自分なりの仕事に精を出さねばならない。そして鰻を食べた千葉治平は、それを栄養素として、受賞作をのりこえる作品を書かねばならない。(引用者後略)」」(『日々に証しを』より)

 立原さんは、どんな場面でかはわかりませんが、津田さんのことを「志がいやしい」と評したことがあったそうです。まあ立原さんが、そこまで高潔だったかどうかは問いませんけど、こと文学賞に関するかぎり、津田さんって、全然いやしくないですね。何しろ、私小説第一の信念をまったく曲げずに8度も候補になったんですから。その間、賞が欲しくて編集者や読者が喜ぶだろう、と思うほうにすり寄ったりしなかったんですから。

 で、退社から10年のときを経て、書き下ろした小説が私小説、という。いやはや。信念の人がやるこたあ、恐ろしいのことです。

 ……と、今日のエントリーで再三再四引用させてもらいました山田さんの「無念の人(仮)」ですが、これもまた、自分が小島政二郎のことを書かなくて誰が書く、いや、自分が思いを込めて書くことができるのは小島政二郎のこと以外にない、との信念、意欲、執着から生まれた作品でしょう。全然、直木賞がメインの作品ではないのに、こんなブログで取り上げちゃってすみません。ぜひ、みなさんは、嫌われ者・小島政二郎のいろんな側面を読み取っていただければと思います。

 って、これ、刊行される予定ないんですか? ナニ。惜しすぎるぞ、出版界。

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コメント

以前からブログは愛読しております。
拝読のみ、と自制していましたが、この「無念の人(仮)」記事には反応してしまいました。
「無念の人(仮)――私註・小島政二郎」、どこに問い合わせれば読むことは叶いますか。
小島政二郎に興味関心がありまして、ぜひ読んでみたいのですが。

投稿: 函館のシト | 2014年6月10日 (火) 12時52分

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