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2014年1月の5件の記事

2014年1月26日 (日)

新田次郎〔選考委員〕VS 中山千夏〔候補者〕…力量があるのにまだ注目されていない、そんな作家を励ます存在でありたい。

直木賞選考委員 新田次郎

●在任期間:通算1年半
 第80回(昭和53年/1978年下半期)~第82回(昭和54年/1979年下半期)

●在任回数:3回
- うち出席回数:3回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):22名
- うち選評言及候補者数(延べ):11名(言及率:50%)

 先週は、直木賞史上もっとも在任期間の長かった村上元三さんを取り上げました。とくれば、当然今週は「在任最短」記録の保持者でいかなきゃバランスがとれません。新田次郎さんです。「低俗・蒙昧なやつほど直木賞では長く選考委員を続けることができ、高潔な人ほど短く期間を終える」っていう、いまワタクシがテキトーに考えついた直木賞の法則を、じつによく体現した委員でした(テキトーなので、鵜呑みにしないでください)。

 いや、何と言っても新田さんは、以前「新田次郎文学賞」のことを紹介したときにも、少し書きましたけど、「文学賞制度」には相当な恩義を感じ、また意気込みをかけていた人です。たぶんご自身、小説家として注目されたきっかけが、同人誌とか、プロ編集者の慧眼とか、そういったものではなく、巷間バカにされる文学賞のおかげだったことを、身にしみてわかっていたからでしょう。

「「文学者」に載っている作品はこの席上(引用者注:合評会)で徹底的に叩かれた。これはいいなと私には思えるような作品があっても、この席で讃める人はいなかった。発言する人も、ほとんどが司会者の附近に陣取っている人たちで、新人の私のところには、発言のチャンスはなかなか廻って来なかった。私が始めてこの席で発言したのは、それから三年ほど経ったころだった。(引用者中略)

 私はこのころ書きたくて書きたくてたまらなかった。四十枚ないし、五十枚ぐらいの短篇を書いては「文学者」の編集部に送ったが、活字にはならなかった。「超成層圏の秘密」の経験から、原稿は清書して出すことにしたから、このころ「文学者」で没になった原稿のほとんどは、直木賞を受賞した以後になって、日の目を見た。ほんとうに有難いことだった。直木賞受賞後はこういう手持の原稿に加筆したものを次々と発表した。

 「文学者」の他に投稿作家としての自分自身を生かすため、「講談倶楽部」、「オール讀物」、「サンデー毎日」の三誌の懸賞小説に応募した。「講談倶楽部」は何回出しても、予選にも通過しなかった。直木賞受賞後、「講談倶楽部」の新編集長斎藤稔さんから原稿の注文があったとき、この落選原稿「詩吟艦長」を新しい原稿用紙に書き直して持って行ったら、

〈これは面白い。こういう原稿を続けて欲しいですね〉

 と云われた。」(昭和51年/1976年9月・新潮社刊 新田次郎・著『小説に書けなかった自伝』「投稿作家の四年間」より ―引用原文は平成24年/2012年6月・新潮社/新潮文庫『小説に書けなかった自伝』)

 ええ、文学賞などとらずとも、同人誌でメキメキ小説書きつづけられる人、あるいは、無名時代にどこかのひとりの編集者に拾われて一躍人気作家になった人など、いくらでもいるでしょう。しかし新田さんの場合は違いました。直木賞がなかったら、おそらく、どこかで心折れて、あきらめてしまい、のちの作品も生まれなかったかもしれません。

 自分のような立場の人は、いつの時代になってもきっといる……と思ったのかどうかは知りませんけど、とにかく新人発掘機関としての直木賞に、並々ならぬ期待を寄せていました。その異常なほどの文学賞愛を、藤田昌司さんはこう伝えています。

「新田次郎は直木賞選考委員になった時、「僕は候補作を全部読みます」と強調したことがあった。当たり前のことを強調しなければならないおかしさがあったのだ。

 その新田次郎は、芥川賞直木賞の歴史を通じて、“自薦”で選考委員になった空前絶後の作家であった。“太郎、次郎、三郎”の時代とはやされ、昭和五十年代初め、司馬遼太郎城山三郎と並んで流行作家となっていた新田次郎は、文壇指南役ともいうべき直木賞選考委員のポストを文藝春秋に要求したのである。選考委員にしてくれないなら、文藝春秋から出している作品をすべて引き揚げ、他社に渡す、と文藝春秋の担当者は脅されたという。こうした経緯があっただけに、新田次郎は選考に真剣に取り組んだのだろう。」(平成1年/1989年12月・オール出版刊 藤田昌司・著『現代文学解体新書――売れる作家と作品の秘密』「III 小説の政治学―文学賞の裏表― 4 芥川賞直木賞の舞台うら」より)

 ほんとに藤田さんの文章は、長きにわたる「文芸ジャーナリスト」としてのクセが付きすぎていますよねー。新田さんが、なぜ選考に真剣に取り組んだのか、それは文壇指南役の座につくために文春を脅してまで選考委員になった経緯があったから、ですと? それ、ハナシが逆でしょ。埋もれた才能をひっぱり上げて商業小説の世界で長く活躍できるようにしてあげる、その観点から見たとき(自分の経験上もあって)やっぱり直木賞は、効果を存分に発揮できる立場にある、っていう前提があって、その任をなかなか果たせないでいた1970年代の直木賞の姿を不甲斐なく思い、よしおれがやる、と手を挙げたんじゃないんですか。

 だいたい「文壇指南役」って何すか? 直木賞選考委員が、候補者たちを指南? 藤田さん自身が、ほんとにそう思っていたのか、問い詰めたいですよ。川口松太郎さん辺りは、もしかしてそんな気分でいたかもしれないですけど、当時の他の選考委員に、「自分は直木賞を通して、候補作家たちに、何かを教えようと思っている」って感覚の人、もはやいなかったでしょ。

 まあ、選考委員たちの気持ちなど無視して、直木賞のことをやたらと高みに置きたがる外野の妄想こそ、直木賞を面白くしているので、ここは深く突っ込まずに先に進みます。

 新田さんのいちばん強い思いは、やはり「これからの作家への励まし」にあったととるのが、まず妥当でしょう。新田さんが亡くなった直後、旭丘光志さんがこんなエピソードを紹介してくれています。

「新鷹会という文学会があり「大衆文芸」なる同人誌を毎月出している。その七九年新年号に桐生悠三という若手作家の“残雪”と題する小説が載った。新田次郎はどこかでその小説を読んだらしく、その同人誌の編集者に新田次郎からの葉書が舞い込んだ。

“残雪”は、正三という植字工の世界を通して、明治以来の職人気質をしっかりと書き、描写に無駄がなく、全体の人物もよく生かしている。(中略)近来出色の作であり、本当のプロとして大きく伸ばしてやるよう祈ります。

新田次郎”」(平成24年/2012年7月・山と渓谷社刊『よくわかる新田次郎』所収 旭丘光志「「アラスカ物語」――劇画化を通じて」より ―初出:『別冊新評 新田次郎の世界』昭和55年/1980年)

 それで新田さんは、第80回(昭和53年/1978年下半期)から直木賞の選考委員に就きます。昭和55年/1980年2月に67歳で亡くなるまで、出席できた選考会は3回。わずか3回。その新田さんと縁の深い候補作家を選ぶならば、これはもう、学校に上がるまえのお子さんから、社会と隔絶されて生きる独居老人まで、全国民の常識として阿刀田高さんを挙げるべきでしょう。新田次郎といえば阿刀田高。テッパンです。耳タコです。

 ただ、それではあまりに新味のない、ありきたりの組み合わせです。ど真ん中を外したい、という意味もこめて、今日は新田さん3度の選考のうち、2度候補に挙がっていた阿刀田高ではないもうひとりの人、中山千夏さんのことに触れたいと思います。以下ほとんど(ひょっとすると最後まで)新田次郎さんは登場しないかもしれません。すみません。

 第81回(昭和54年/1979年上半期)は、阿刀田さんを含めて候補者が8名。しかし、誰がどう見てもこの回、もっとも注目を浴びたのは、みんなによく顔を知られた有名人、中山千夏さんでした。

 とにかく、みんなが知っている人が候補になると、マスコミの人たちはものすごく喜びます。このときも当然、中山さんの周囲は騒がしくなりました。このときのことを中山さん自身が書いた「拾った馬券」では、あおる記者たち、何そんなに騒いでるの?と冷める中山、の構図がめんめんと綴られています。

「小説を書いたキッカケを記者に問われたのにも困った。「色川武大さんや井上ひさしさん、それに矢崎泰久さんが、顔を合わせれば小説を書け、とやかましく言う。それで書いた。十年位前から、もし小説を書いたら一番に見せる、と文春の鈴木琢二さんという人に約束していたから、そうした。で、別冊文春に載った」と本当のことを言ったら、記者氏はあからさまに落胆と嘲笑の色を見せ、「なんだ、そんな単純なことなんですか、いや、そう言っちゃ悪いけど」と言った。他の人はもっと複雑なキッカケがあるらしい。私は無くて困るから、できれば問わないで欲しい。」(昭和56年/1981年10月・文藝春秋刊 中山千夏・著『偏見人語』「拾った馬券」より)

 とにかく、候補になった人のまわりには、直木賞や芥川賞のあれこれを吹き込む人たちがいます。それで中山さんのまわりにも、当然いたらしく、「芥川賞ならいざ知らず、直木賞の候補なんて……」などと言い出す人もいたそうです。

「芥川賞直木賞といえば、私でも知っているくらい有名な賞だ。初めて小説を書いて、それが賞の対象になるなんて、そんなうまい話があるかいな、とこれが半疑。知人のひとりは、そりゃ直木賞は無理かもしれないが、芥川賞なら、全くの新人でも門外漢でも対象になるから可能性はある、と言った。

 ところが直木賞の方だったものだから、私はよけいびっくりしたのだ。この賞は、これまでも良い仕事をしてきたし、これからもきっと良い仕事をするだろう、という小説家を対象にすると聞いていた。なんで私みたいな海のものとも山のものともわからぬナンジャモンジャが、候補に紛れ込んだものやら。

(引用者中略)

 もちろんその過程には、作品の良し悪しのみならず、出版が企業である以上当然の編集者の商魂や、みんなが人間である以上当然の作者に対する人情が関係することは、当事者も認めるところである。だから、私の小説が直木賞の候補になっちゃったってことは、小説自体ちっとは面白かったのかもしれないけれど、加えて商魂やら人情やらの網の目をちゃっかりくぎり抜けたって感じなのね。」(同「拾った馬券」より)

 ええ、たしかに直木賞には、「これまでも良い仕事をしてきたし、これからもきっと良い仕事をするだろう、という小説家を対象」にしてきた面もありました。でも、候補作を選ぶなかで、そんな人・作品ばかり挙げてきたわけじゃないことぐらい、まわりの誰か知っていそうなものです。教えてくれる人、いなかったんですか? そうですか。残念です。

 文藝春秋の編集者の商魂、人情、もちろんそれもあったでしょう。だけど、それ「だけ」で候補作が選ばれる、とか言うのは、一側面のみをことさら強調して耳目を引こうとするゴシップライターの常套句じゃないですか。違うでしょ。それだけじゃないでしょ。小説に関しては海のものとも山のものともわからないナンジャモンジャ、だけど文筆の腕は以前からたしか、みたいな人の書いたもののなかから、もしかして選考委員が「コレだ!」と評価するかもしれない可能性を考えて、候補の並びを決めていく、それも(それこそ)直木賞の候補選出の常道だったじゃないですか。中山千夏さんなど、まさにぴったりの候補者だったと思いますよ。

 ……と、まっとうすぎてツマラない見立てをしたついでに、「子役の時間」誕生に関わった鈴木琢二さんが、ちらりとその頃を回想している座談会を、次に紹介したいと思います。

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2014年1月19日 (日)

村上元三〔選考委員〕VS 景山民夫〔候補者〕…「直木賞とSF」の歴史に深く関わりつづけたSFファン(自称)。

直木賞選考委員 村上元三

●在任期間:通算38年
 第32回(昭和29年/1954年下半期)~第102回(平成1年/1989年下半期)

●在任回数:71回
- うち出席回数:70回(出席率:99%)

●対象候補者数(延べ):543名
- うち選評言及候補者数(延べ):489名(言及率:90%)

 せっかくの直木賞第150回記念です。うちのブログでも、何か派手なことをやれればいいんですけど、残念ながら特別の用意はありません。今日は、150回の直木賞の歴史を彩る、大記録をもつ選考委員を取り上げまして、記念回の祝辞と代えさせていただきます。

 村上元三さんです。その記録とは、「直木賞史上もっとも毛嫌いされた」……っていうことじゃ、もちろんないです。やりもやったり35年半、71回。いまの委員のなかで最長在任期間を誇る、例の渡辺淳一さんが、あと5年もつづけなければ到達できないぐらい、直木賞でもっとも長く選考委員を務めた、という記録の保持者です。

 まず村上さんとは、どんな選考委員だったのか。ひとを褒めさせて右に並ぶ者のいない(のかな)、「大衆文芸界の良心」こと武蔵野次郎さんに、少し語っていただきましょう。

「村上氏の場合は時代小説作家として第一線に立っているという多忙さと平行して、新人作家の育成には並々ならぬ努力を払っておられるのだ。(引用者中略)自己の輝かしい業績のほかに後進の指導にも大いに尽くした故長谷川伸氏の伝統は、村上氏によってみごとに継承されているということである。(引用者中略)村上元三氏は現在、直木賞の銓衡委員でもあるが(昭和二十九年度から就任)、この新人作家登竜門においても、その卓抜な作品鑑賞眼は生かされていると同時に、ここでも後進育成の努力は営々と為されているのだ。」(昭和52年/1977年9月・中央公論社/中公文庫 村上元三・著『江戸雑記帳』所収 武蔵野次郎「解説」より)

 「卓抜な作品鑑賞眼」だという。あまりにザックリした表現すぎて、うなずくこともできなければ、ツッコむこともできません。さすが武蔵野さんの文章は、とらえどころがなく、この場合は、さほど参考にはならないようです。

 村上さんが選考委員になったのは第32回(昭和29年/1954年・下半期)からでした。その後(第39回から)選考会に加わった源氏鶏太さんを除いて、当時はまだまだ多くの委員が、「選評ではすべての候補作のことに触れる」という習慣などないころです。しかしそのなかにあって村上さんは、議論にもならずにけっこう早めに落とされた作品に対しても、こつこつと評をしたためる律義者でした。

「昭和三十年から、直木賞の選考委員になった。自分が直木賞を受けたとき、選考委員の選評は、切り抜きを戦災で失ったあとも、よくおぼえている。

 だから、候補作品に単行本が何冊あっても、読むのは苦にならないが、原稿用紙二枚の選評を書くときは、神経を使う。」(昭和54年/1979年2月・読売新聞社刊『自伝抄VI』所収 村上元三「四百字の春秋」より)

 神経を使う、と書いているので、村上さんなりに神経は使っていたのでしょう。しかしそういった配慮がうまく伝わらず、律儀に落選候補について自分なりの感想を書いていたことが、ある意味裏目に出てしまうのです。意識しないうちに、候補者やその周辺から恨みや中傷を受けることになっていきます。

 おそらく最も知られているのは、筒井康隆さんとの因縁でしょう。なぜ知られているかといえば、筒井さんがあけすけに攻撃しているからです。

「「オール讀物」誌上で、直木賞選考委員全員が、ヴェテラン作家阿部牧郎の受賞が話題になったことを契機として座談会をやっているのだが、ある大家が「受賞には運不運がある」うんぬんと発言しているのである。これで頭に血がのぼった。落選した者が自分を慰さめるためにそう言うのならよろしい。とことん議論の限りを尽し、その運不運がないようにと懸命の努力をするのが選考委員の務めではないか。この発言から決定的に欠落しているのは文学史的責任感である。(引用者中略)現在世界的にその要素なくしては純文学はおろか映画や社会現象をさえ語れなくなっているSFに対してひとつも賞をあたえないでおいて不運だとのみ言い、よく夜間眠れるものである。

 これは何も選考委員すべてに対して怒っているのではない。現在の委員はほとんど新たに就任した人であり、過去の大罪を背負ったままでまだやっている人は前述の発言をした大家ひとりだけである。武士の情で特に名は秘すが、村上元三という人である。」(平成6年/1994年5月・新潮社刊 筒井康隆・著『笑犬樓よりの眺望』「殺さば殺せ、三島賞選考委員の覚悟」より)

 まあ、たしかに。「文学史的責任感」など、村上さんにはないでしょうね。たかが直木賞を決めるぐらいで、「文学史」とかそんな大仰なこと、頭に浮かべる委員のほうが、ちょっとイタいです。「いや、だから直木賞はダメなんだ」と言われればそれまでですけど、でも直木賞って、その程度のものでしょ。昔も今も。

 村上さんは、他にもいろいろと、知らず知らずのうちに恨みを買っていたらしいです。その一端は、ご自分で明かしています。「村上元三のせいで直木賞に落選した」とのウワサが流れた、とか何とか。

「ある病院の院長に、こう言われたことがある。

「Aという作家が、あなたを恨んでいましたよ。こんどの直木賞で、あなた一人が反対したおかげで、落ちてしまった、とね」

 よく考えてみたが、心当りがない。

「なんという人ですか、それは」

 院長に訊ねても、なかなか答えない。

「どんな風の作品ですか」

 というわたしの問いに、ようやく院長は、扱った題材だけ打明けてくれた。

 それで思い当ったが、わたし一人が落したのが原因ではない。選考が始ってすぐに落されてしまった作品であった。

 雑誌に載った選考経過、選者たちの批評を読んでもらえば、はっきりするのに、その作者は何か思い違いをしたのであろう。それとも、はたから聞える雑音にまどわされたのかも知れない。

「あなたがわたしを恨むのは、誤解です」

 と、わたしはその作者あての手紙を、医師に言伝てた。住所や名前などは訊ねなかった。それで向うは納得してくれたのか、もう二度と医師を通じて苦情を言ってくることはなかった。(引用者中略)好き嫌いで作品をえらんだことはないし、公正無私を心がけたつもりである。だが長いあいだに、病院の医師に文句を言った人のように、どこかでわたしを恨んでいる人がいるかも知れない。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊 村上元三・著『思い出の時代作家たち』「三十二」より)

 これは、いちおう村上さんも気になることだったらしく、同時期に『産経新聞』の取材を受けたときにも、こう弁明しています。

(引用者注:昭和)三十年から三十五年間も直木賞選考委員を務めた村上元三(八五)は「選考会に関するゴシップまで書かれるようになったのは嫌だった」と話す。村上が反対したことで賞をもらい損なった人がいるといううわさが流れ、知らないところで恨みを買っているかもしれないという。(引用者中略)

「中には作品より作家で推す人もいたが、僕はだれが書いたかは気にしなかった。基準は、きちんと時代を書いているか、人物を書いているか、その二点。文章のうまいまずいは二の次だった」」(『産経新聞』平成7年/1995年6月30日「戦後史開封 芥川賞・直木賞」より)

 「きちんと時代を書いているか、人物を書いているか」だそうです。直木賞マニアにとっては、もうこのフレーズ、聞き飽きましたね。それをもとに懸命に選考し、気をつけて選評を書いても恨みを買い、「文学史的責任感」がない、と筒井さんに怒られる。ほんとに村上さん、長いあいだお疲れさまでした。

 で、直木賞選考委員の村上さんといえば、忘れちゃいけないのが、やっぱりSFのことです。それは「SFを落としつづけた大罪ある選考委員」ではなく、「無類の(海外)SF好きの選考委員」としての姿です。

 SFが好きすぎて(?)選評上に表われてしまった村上さんのSF関連語録。堪能しましょう。

筒井康隆氏の「ベトナム観光公社」を、わたしは買わない。日本のSFの中には、フィクションがあって、サイエンスのない作品が多い、と思う。」(『オール讀物』昭和43年/1968年4月号 第58回選評「読みやすい文章を」より)

広瀬正氏の「ツィス」は、いまに面白くなるだろうなるだろうと思いながら読み続け、とうとう面白くならずに終った。SFには、もっとびっくりするような着想と構成がほしい。」(『オール讀物』昭和46年/1971年10月号 第65回選評「残念ながら」より)

半村良氏の「黄金伝説」は、SFファンのわたしにも、やはりSFというのは難しいのだな、とつくづく思わせられた。ことに後半は、極彩色の劇画を見るようであった。」(『オール讀物』昭和48年/1973年10月号 第69回選評「二つの形」より)

「半村良氏の「不可触領域」は、SFファンの一人としても、わたしには不満であった。フィクションがあって、サイエンスがない、といつも言っていることを、また書かせてもらう。」(『オール讀物』昭和49年/1974年10月号 第71回選評「藤本氏に望む」より)

「半村良氏の「雨やどり」も、前回の参考作品になった「新宿の男」のほうが、短篇としてよくまとまっていた。わたしの慾から言えば、実力のある作家だけに、この人には長篇のSFで、直木賞を得てほしかった。」(『オール讀物』昭和50年/1975年4月号 第72回選評「文句はつけないが」より)

「最後まで残った田中光二氏の「大いなる逃亡」は、わたしがスパイ小説の読みすぎのせいか、作者があとがきに書いている創作姿勢ほどには、この作品に新しさも面白さも感じられなかった。」(『オール讀物』昭和51年/1976年4月号 第74回選評「どすんと手ごたえ」より)

 最後の『大いなる逃亡』評には、「SF」の言葉は出てきませんが、似たように、おれはスパイ小説も腐るほど読んでいるんだ、と主張したがっているようなので、付け加えさせてもらいました。

 ちなみに昭和52年/1977年の『読売新聞』夕刊一面には、村上さんへの取材記事が、こんな見出しで載ってもいます。ジャーン。「古文書あさるSF通」。

「作品は時代小説ばかりだが、推理、SF小説のファンで、翻訳物はほとんど書庫にとりそろえてある。」(『読売新聞』昭和52年/1977年9月3日夕刊「顔 村上元三 古文書あさるSF通」より ―署名:(中))

 しかし、村上さん、どんなSFが好みなんですかね? SF好き、SF通と言っている割りには、具体的な好みがまったく伝わってこないのが、(相当に)言葉足らずです。

 そのためか、「これほどのSF小説ファンなのに、選考に当たるとなれば、SFにへこひいきすることなく、まじめに全候補を精査するとは、何と村上さんは公平な人なのだろう」……などと褒め称えたい気持ちが沸き起こりません。そうやって村上さんは、憎まれて怨まれながら選考委員を続けていったわけですが、最後の最後になって、ようやくご褒美が舞い込みました。

 景山民夫さんの登場です。

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2014年1月17日 (金)

第150回直木賞(平成25年/2013年下半期)決定の夜に

 誰ですか。第150回記念だと煽っていた割りには、おばさん二人かよ、などと、憎まれ口を叩いている人は。そういう不平を言うのは、いまではありません。あなたが日本人なら、来週1月21日に本屋大賞のノミネート作品が発表されたとき、「やっぱ本屋大賞スゲー、それに比べて直木賞は……」と言わなくちゃいけない責務があるのですから、そのときまでとっといてください。

 ……冗談はさておきまして、1月16日夜(もはや日が変わって1月17日)。いま直木賞のハナシをしないで、いつするというのですか(うちのブログでは毎週してますけど)。第150回(平成25年/2013年・下半期)選考会が終わりました。日本文学振興会が懸命に働いたおかげで、今回は6つの候補作を、ずいぶん早い段階から読み進めることができたので、1か月近くも直木賞をオカズにして充実した生活を送ることができました。

 直木賞っつうのは、いまも昔も、いつの時代であっても、候補作品が主役の賞です。この真理を改めて突きつけられたとき、やはり今回も、候補作すべてを思い起こさなければ、第150回の夜を締めくくることなどできません。

 「時代作家・歴史作家にとっては、直木賞で何度落選したかが勲章になる」……などと言ったのは、村上元三さんでしたっけ? いや池波正太郎さんかな? 覚えていませんが、にしても、ですよ。伊東潤さんへの授賞を延期するとは、直木賞も変らないよなあ。『王になろうとした男』に横溢する人間たちの哀しさ、それでいて暗い話に終わらせない力強さ、読者に対するサービス精神。まったく、感服しました、以外の言葉が見つかりません。今日も直木賞が、いかに至らぬ賞であるかが露呈されてしまったわけですが、ぜひ伊東さんには、授賞の日まで直木賞とお付き合いいただきたいと願っています。

 もはや千早茜さんの行く手には、何の曇りもないので、そこに今回、直木賞がからめなかったことは、直木賞としては残念なことでした。ほんとはねー、直木賞も千早さんみたく、ググーッと上り調子の人に、ささっと一回目で、しかもどちらも初候補・朝井まかてとの同時授賞、とか、そのくらいの腰の軽さがあればいいんですけどねー。なかなか、厄介な賞なものですからねー。ここはひとつ、老いた文学賞を哀れと思って、気にせず先をお進みください。

 いつもいつも万城目学さんには、直木賞を助けてもらってありがとうございます。アノ映画化された、アノテレビドラマ化された、人気若手作家が候補に~、みたいなかたちで注目が直木賞にそそがれるものですから、困ったときのマキメ頼み、今回も万城目さんの名声を借りてしまいました。「もう直木賞はいらない」などと言われるのじゃないか、と毎回ヒヤヒヤですが、これも手助け・人助けだと思って、またチャンスがありましたら、よろしくお願いいたします。

 ほんとに怖いなあ柚木麻子さんって方は。『伊藤くん A to E』でサラッと直木賞とってっちゃうのかと思いましたよ。油断のならない方だ。柚木さんはやっぱ、「え? このヘンテコリンな作品が直木賞!?」みたいなサプライズを起こせる逸材だと、勝手に思っているもので、半年に一度だけ直木賞に注目する日本中の健全な人びとの、度肝を抜かすような作品で、直木賞の場をむちゃくちゃに荒らしてほしい! ワタクシ、いまから腰ぬかして椅子から転げ落ちる練習を始めておきます。

          ○

 装丁やらオビやら評判やらで、『恋歌』っててっきり“しっとり系”の小説かと思っていたワタクシをお許しください。全然そんなんじゃないじゃん。朝井まかてさん、御見それいたしました。惚れましたよ、ワタクシは(なにしろワタクシ、北川荘平ファンなので、大阪文学学校と聞くだけで、応援したくなる、っていう思いもありつつ)。朝井さんにはこれからも、多少強引でも、枠から外れてもいいので、ガンガン趣向と工夫を凝らしたお話、読ませてもらいたいです。「直木賞をとったからどうだ」とか気にせずに。

 受賞しても変わることはないでしょう、といえば、おそらく姫野カオルコさんは、まず変わらないでしょう。トレーニングウエアに身を包んで記者会見を受けるアノ感じ、エッセイなどで知る姫野さんイメージそのままで、何だかホッとしました。受賞されたあの姿を見て、泣き出さない直木賞ファンなど、いるのでしょうか。ワタクシはいまから泣きます。泣きながら寝に入ります。

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2014年1月12日 (日)

第150回直木賞(平成25年/2013年下半期)直前集中講座 選考委員になるための5つのポイント

 かつて作家志望者にとって芥川賞はあこがれでした。それに比べて直木賞は長らく、モノ書いてカネが欲しいだけの精神的に卑しい連中に与えられるもの、とされてきました。

 しかし昭和30年代ごろから、徐々に様相が変わっていきます。小説でおカネをもらって何が悪い、と日本人のエコノミック・アニマルたる本領が存分に発揮されていくのにつれ、「うん、有名にもなれるし金も儲かるし、直木賞とるのも悪くないね」と、これをも目標のひとつにとらえる作家志望者が増え出しました。

 さらに時代はくだり、現代。その意識は変貌を遂げます。

 高給取りの編集者に偉そうに指示されながら、汗水流して小説を書き、ちまちまお金を稼ぐなんてダルくてやっていられない、と思う若者が急増します。収入の不安定な作家をめざして直木賞の受賞を目指すのは愚かなことだと、作家志望者たちの「直木賞離れ」が進みました。その結果、一年に二度、人の小説を読んで勝手きままに優劣をつけるだけで百万円も二百万ももらえ、しかも生涯、その収入が保障されている安定した職業……直木賞選考委員になりたい! とその人気が急上昇。いま、カルチャースクールなどでは「作家養成講座」は閑散としているのに、「選考委員養成講座」には、定員をはるかに超える応募者が殺到している、と各種メディアで報じられて話題となっているのは、みなさんご存じのとおりです。

 果たして、どうすれば直木賞の選考委員になれるのか。……いま最も関心をもたれているテーマのひとつと言っていいでしょう。

 第150回(平成25年/2013年下半期)の選考会が1月16日(木)に開かれる直前、「直木賞専門」をうたう当ブログでも、やはり、巷間関心の高いこの話題を無視するわけにはいきません。「直木賞選考委員を育てるスクール東京校」は、K・Hさん、K・Tさんなどを選考委員に就任させた実績で俄然その名が知られるようになりましたが、同校の全面協力のもと、そのエッセンスだけでも、うちのブログで紹介させてもらいたいと思います。

 最も大事なのは以下の5つのポイントだそうです。

■ポイント1 まわりの人たちと仲良くしましょう。

  自己顕示欲が強くて、まわりを気づかう姿勢が足りず、すぐに悶着を起こしたりしていませんか? そういう人は、すぐに改善してください。直木賞の選考会は、2時間3時間、他人から退屈なハナシを聞かされても文句を言わない、おだやかで明るく前向きな仲間を求めています。

 少し前の資料ですが、こんな話があります。

「女流作家が両賞の選考委員に加わるようになったのは、第九十七回(昭和六十二年上期)からで、芥川賞に河野多恵子大庭みな子、直木賞に平岩弓枝田辺聖子が加わったのである。

(引用者中略)女性作家を選考に加えなければ……という意向は、関係者の心中にはあったようだが、容易に実現しなかった。選考委員の入れ替えは通常、委員の辞任、死亡などによる補充として行われるが、新しい選考委員の選定については、まず従来からの選考委員の了承を得ることにしている。それができなかったのである。」(平成1年/1989年12月・オール出版刊 藤田昌司・著『現代文学解体新書』より)

 従来からいる委員に嫌われていないことが、かつては選考委員になる条件だった、と言っているわけですね。

 彼らに選考を委任する主催者にとっても、選考委員同士のあいだでイガミ合いが勃発するのは、好ましいことではありません。ですから、やはりこういう観点での人選を行なうこととなります。

「選考委員は、日本文学振興会の理事長である文藝春秋の社長が大所高所に立って人選する。私は尋ねられれば幾人かの作家を上げられるよう、日頃から心がけていた。選考会だから、協調性のある人であるとつとまらない。」(平成20年/2008年12月・青志社刊 高橋一清・著『編集者魂』「「芥川賞・直木賞」物語」より)

 すぐ喧嘩して、場を台無しにするような人は、作家向きではあるかもしれません。しかし選考委員向きではありません。選考委員を目指すみなさんは、ぜひ、「自分は人サマからお金を頂戴している雇われの身なのだ」という自覚をもてる常識人でいましょう。

 

■ポイント2 面倒な役回りも積極的に引き受けましょう。

 選考委員になりたいという人は、いまの日本にはたくさんいます。しかし、選考委員を人選する人たちは、うらぶれた、よそで注目を浴びていないような人には、声をかけてくれません。

 ですので、ともかくも「消えてしまうこと」「人から忘れられてしまうこと」は絶対的な恐怖なのだと認識してください。そして、それに打ち克つことこそ、選考委員になる日へとつながっていきます。

「自分は直木賞を取っただけの作家で終わってしまうのかもしれない、としばしば不安になった霧の中の十年間でしたが、この期間にもとにかく書き続けてこられたことで、ちょっと腕力がつきました。自分ではすごく良く書けたと思った作品なのに、期待したほど売れなくてがっかりしたことも何度かありましたが、あまりにもたくさん書いたから、売れるも八卦、良い作品も八卦、玉石混交も仕方ないよね、という境地にまで至りました。(引用者中略)

 私は、直木賞以降の年月を自ら「失われた十年」と言うことも多いのですが、なにはともあれ、絶対にすべてを芸の肥やしにしてやる、と思って努力し続けていると、実は後でいちばん胸を張れる期間になっていたりします。」(平成25年/2013年4月・講談社/講談社現代新書 林真理子・著『野心のすすめ』「第三章 野心の履歴書」より)

 なぜ「失われた十年」なのかといえば、十年後に柴田錬三郎賞を受賞したから……つまり文学賞に縁のなかった期間を、ぬけぬけと「失われた」と表現してしまう感覚、自分には持てないなあ、などと思った瞬間、あなたは選考委員の座から遠ざかります。林さんを見ならわなくてはいけません。

 林さんの場合は、受賞前に十分メディア露出を果たしていましたから、その後は、少し控えても問題はありませんでした。しかし、多くの人に顔が知られた時期がある、ということは重要です。もしあなたが、目立ちたがり屋で、人前に出ていくことに抵抗がないようであれば、テレビやラジオ、講演などなど、大勢の前に出られる仕事は進んで引き受けましょう。

 自分はそういう柄ではない、とあきらめる人がいるかもしれません。がっかりしないでください。オモテに出ることがイヤならば、ウラで頑張る手もあります。たとえば阿刀田高さん、北方謙三さん、東野圭吾さんなどが務めた日本推理作家協会の会長職は、いまでは「直木賞選考委員への近道」とすら言われています。グループ内の集まりなどでは、「長」のつく仕事――これは基本、面倒な仕事が多いですが――は、イヤそうなそぶりをしてでも引き受けることが重要、というわけです。

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2014年1月 5日 (日)

小島政二郎〔選考委員〕VS 津田信〔候補者〕…まわりの人に煙たがられ、時流とマッチしていなくてもなお、一つ道を行く師弟。

直木賞選考委員 小島政二郎

●在任期間:通算25年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)、第21回(昭和24年/1949年上半期)~第54回(昭和40年/1965年下半期)

●在任回数:50回
- うち出席回数:49回(出席率:98%)

●対象候補者数(延べ):330名
- うち選評言及候補者数(延べ):176名(言及率:53%)

 木々高太郎さんもそうでしたけど、小島政二郎さんもまた、いろんな人から蛇蝎のごとく嫌われていたそうです。だいたいですよ、「やーいやーい、直木賞選考委員を辞めさせられたー、ざまあみろい」なんちゅうハナシが公然と語られている、っていうそれだけで、稀代の嫌われ者、面目躍如たるものがあります。

 それで今日取り上げますのは、小島さんのことです。とにかく直木賞に〈文芸たること〉を求め続け、しかもまわりからさんざん馬鹿にされ、オチョクられてきた、という、「ミスター・直木賞」と呼ぶにふさわしい選考委員。……なんですが、こないだ、小島政二郎に関するドエラい原稿を目にしたものですから、たぶん今日はそっちの紹介がメインになると思います。

 それは「無念の人(仮)――私註・小島政二郎」と題されたWORD文書。書かれたのは山田幸伯さんです。

 山田さんは昭和30年/1955年生まれ。立教大学文学部卒業後、祥伝社に勤務し、雑誌、書籍の編集部、広告部などを経て、平成25年/2013年10月現在の「著者略歴」によれば、現在も同社在籍中、という方です。……と、書いてもピンと来ないですか。では、アノ津田信さんのご子息、と言えばきっと、……って、そっちのほうがピンと来なかったりして。

 いや。津田信の名前を聞いて身を乗り出さない直木賞フリークなど、この世におりますまい。芥川賞に2度候補に挙がってからの、直木賞、怒濤の6度候補。昔、同じ『秋田文学』に所属して研鑽し合ったジミなおっさん千葉治平が受賞したことに、ナニクソこのやろうと歯噛みをし(?)、『犀』同人としては立原正秋さんと仲違い、長きにわたるフリーライター生活で、もはや小説家としての再起は不能と思われたなか、『夜々に掟を』(昭和51年/1976年)、『日々に証しを』(昭和53年/1978年)、『結婚の構図』(昭和56年/1981年)と、長篇私小説を次々と出してカムバックしながら、昭和58年/1983年11月、58歳の若さで亡くなった直木賞史に残る候補者のひとりです。

 この津田さんは、戦中、東京府立第三商業に在学中、「風の系譜」を読んで感銘を受けたことから野口冨士男さんを訪ねていき、以来、野口さんに師事しました。さらに飛んで、昭和31年/1956年、同人誌『文学生活』に書いた「復讐」が山本周五郎さんの目にとまって、激賞の手紙をもらって以降は、たびたび山本さんのところに出入りして、励ましを受けます。このあたりから津田さん、芥川賞の候補になりはじめるのですが、

「満州での虜囚体験を綴った最初の直木賞候補作『日本工作人』(三十三年上半期)を強く推してくれたのが、銓衡委員の小島政二郎であった。これをきっかけに鎌倉雪ノ下の小島邸の門を出入りするようになるが、山本周五郎との関係も依然続いていた。二人の師を抱くわけにはいかないと悩んだあげく、彼は「小島先生」を選択した。理由の一つには酒があった。下戸の自分には酒豪の山本の対手が出来ないと判断したのである。

 この決断が、その後の津田信の運命をどう左右したかは分らない。どのみち華は咲かなかっただろう。だが、自分が信じていた文学観を芯から共有できる師と邂逅したことは、誰に何と言われようと幸福だったに違いない」(山田幸伯・著「無念の人(仮)――私註・小島政二郎」「第五章 立原正秋」より)

 という展開になりまして、津田さんは小島政二郎門下の一員となるのです。

 津田さんと小島さんとをつないだ一本の糸、「日本工作人」。これは連載中に第39回(昭和33年/1958年・上半期)の、完結後に第40回(昭和33年/1958年・下半期)の直木賞、というふうに二度候補になりました。では小島さんが、このときどれほどに熱烈な推奨ぶりを見せたのか、とくと拝んでおきましょう。

「私が感心して読んだのは、北川荘平さんの「水の壁」それから津田信さんの「日本工作人」

 小説としては、「日本工作人」の方がすぐれている。随分沢山の人物が出て来るが、それぞれの性格を描き分けている手腕は、得やすからざるものだと思う。それに柔軟な文章が、小説には最もふさわしい好ましさだった。態度も距離もいい。感心して読んだ。「秋田文学」は季刊だから、いつ終ることだろう。一日も早く完結してくれることを待つ。デキから言ったら、今度の十篇のうち、第一位を占める作品のように思う。」(『オール讀物』昭和33年/1958年10月号 小島政二郎「感想」より)

「私は今度も「日本工作人」に一番感心した。これだけ多くの男女の性格を彷彿とさせた手腕、柔かな上品な文章、全体の構図の自然な発展、どこにも間然するところがない。」(『オール讀物』昭和34年/1959年4月号 小島政二郎「感想」より)

 こんなに推しているのは、じっさい、選考会のなかで小島さんただひとりでした。

 山本周五郎さんではなく小島政二郎さんのもとへ――。津田さんとは直接関係ありませんけど、この両人については、野口冨士男さんがこんなことを言っています。

「幸福とか、不幸という言葉は、かるがるしく口にしたり文字にすべきではあるまいが、山本周五郎氏は、小説にはいい小説と悪い小説しかないという意味のことをいわれたときく。ことの当否は別として、小島さんはそんなことを決して仰言らないだろうし、仰言れないところに氏の不幸があったのではなかろうか。(引用者中略)ここからただちに山本氏を幸福な作家で、小島さんを不幸な作家だという結論をひきだせば、あまりにも性急な短絡になりすぎるが、大正時代に文学的出発をなさった小島さんには、やはりぬぐいがたい固定観念がおありなのだろう。そして、第三者の私は、やはりそれを不幸だと思わずにいられない。」(昭和48年/1973年8月・筑摩書房刊『現代日本文學大系第45巻』「月報96」所収 野口冨士男「私見・小島政二郎氏」より)

 固定観念の男、小島さんは、直木賞選考会でもソイツを楯にがんばりました。ときに他の委員から煙たがられます。ときに四面楚歌の立場に置かれます。それでも投票を変えない頑固さは、いっときの直木賞名物といっていいほどでした。ワタクシ、そういうの、けっこう好きです。

 津田さんも、その小島さんの姿に食らいつきました。高井有一さんのこんな文章を読むと、もはや津田さん、小島政二郎そのもの、とすら思えてきます。

(引用者注:『犀』の)同人会での津田さんは、頑固そのものであつた。私小説以外の小説は認めない、評論は興味がないから読まない、と言ひ放つて、周りの意見にはまるで耳を藉さなかつた。(引用者中略)自分は自然主義文学で育ち、徳田秋声を日本一の小説家と信じてゐる、と津田さんの作品の中にある。しかし、さういふ信条が古めかしいと受取られる方向へ時勢が動いてゐるのを、察しられない津田さんでもなかつただらう。」(平成9年/1997年6月・角川書店刊 高井有一・著『作家の生き死』所収「津田信 私小説家の死」より ―初出『群像』昭和59年/1984年2月号)

 それで山田幸伯さんは、父・津田さんが小島さんを師と仰ぐのを縁として、小島さんに師事するようになり、津田さんが亡くなったあとも小島さんと交流を保ちつづけました。さらに、晩年の小島さんを語るうえでは絶対に欠かせないオテンバ奥さん、視英子さんとも。

 「無念の人(仮)」は、そんな山田さんが、これまで忙しい仕事にかまけて何もモノになる文章は書いてこなかったが、いまの自分にはこれ以外に書けるものはない、と信じ、毎日毎日こつこつと、小島さんの生涯と作品とその周辺事項をまとめた「伝記」でして、WORD文書をそのまま四百字詰めに換算すると約1500枚にも及ぶ大作です。

 で、その量と熱意にも圧倒されるんですが、いや、何よりこの作品がスゲエのは他でもありません。全五章を「第一章 永井荷風」「第二章 今東光」「第三章 永井龍男」「第四章 松本清張」「第五章 立原正秋」と仕立てているところ……つまり、この5人はみな、小島さんのことを嫌い、ひそかに、あるいは公然と、小島さんの悪口を書き散らしてきた人たちなのです。

「彼らは小島政二郎への嫌悪、軽侮の情を隠さなかった。ある者はそれをやがて発表する日記に再三にわたって記し、ある者は雑誌の談話記事で語り、新聞紙上に書いた。また、メディアで公言せずとも親しい仲間や編集者を相手にそれを露にした。

(引用者中略)

 私はこれから、最初に挙げた五人を中心にして、小島政二郎への「毀」と「貶」を眺めてゆきたい。言わば「悪口で綴る小島政二郎」である。

 「誉」と「褒」については、小島信奉者の私が書くものであるから、いくら抑えたところでその悪口への反論という形で自ずとにじみ出てこよう。うまくいけば、文壇および世間の「小島観」がどのように作られていったかが窺えるだろう。できれば、「純文学から出発し、後に通俗小説に転じた」と一行で片づけてほしくないその作家像に迫り、いまなお色褪せない魅力を紹介したい。」(前掲「無念の人(仮)」「序――なぜ余技なのか」より)

 こういった切り口から書かれた人物伝が、面白くないはずがありません。

 山田さんが本文で紹介している逸話を読むと、ほんとみんな、遠慮なくバシバシと小島さんの悪口を叩いているのですね。これらに対する山田さんの「反撃」もまた痛快。そして、当然(?)直木賞がらみの悪口、というか対立も、ふんだんに語られているのが、ワタクシにとっては、さらにありがたい。

 とくに、永井龍男さんの手柄として巷間有名な、例の「松本清張、直木賞候補から芥川賞へ」の事件。そもそも「或る『小倉日記』伝」を読んで、これは直木賞向きの作品じゃない、と思ったのは永井さんひとりではなく、たとえば小島さんもそう考えて、当日欠席につき書面にてその旨を提出していました。しかし、なにしろ永井さんは小島さんのことを異常に嫌っており、また松本清張さんも、受賞直後には「永井さんと小島さんのおかげで」直木賞から芥川賞にまわされたと聞いた、と書いていたのに、後年には、小島さんの名を省いて回想するようになってしまって、徐々に、この事件から小島さんの存在が消されていった……みたいなハナシが語られていきます。

「永井龍男がこの小説をいつ読んだのかは分らないが、直木賞候補作として自分のもとへ届けられた後と考えるのが妥当だろう。いずれにせよ読了して「これは芥川賞にふさわしい」と感じて銓衡会に出席、冒頭で一席弁じたわけである。勿論この時、政二郎の書面を読んで自分と同意見なのを知ったが、永井にとってそれは「芥川賞に回す」という自分の提案を補強してくれたにすぎない。あくまで、自分が会の席上で強く主張したからこそ「松本清張の芥川賞受賞」という結果を生んだのであり、政二郎は他の委員と同様の賛同者の一人である。後年、往時を回想する永井の頭に、小島政二郎の存在が浮かび上がるはずもない。忌み嫌っていたならなおさらである。」(前掲「無念の人(仮)」「第三章 永井龍男」より)

 清張さんのほうもアレです。受賞してまもなく、「小島政二郎を悪く言う党」党首のような今東光さんと親しくなったり、小島門下の和田芳恵さんと交流を続け、ずいぶんと小島さんのダメなとこ、イヤなとこを吹き込まれたはずで、だから、この事件を語るときに、小島さんの名前を無視するようになった、のかもしれない、と山田さんは推論を立てています。なーるほど。

 そのほか、「無念の人(仮)」では、山田さん自身が小島さんからもらった昔のノートや直接聞いたハナシなども紹介されています。これがまた貴重なもので、ワタクシ、目ランラン輝いちゃいました。たとえば、昭和10年/1935年当時の小島さんの収入状況を細かく綴っていくところでは、こんなエピソードも出てきます。

「この頃(引用者注:昭和10年/1935年ごろ)、文藝春秋主催の愛読者大会&講演会で他の作家たちと頻々と全国各地を巡っているが、これは文春への協力で講演謝礼は貰わなかったと私は本人から聞いた。無論、アゴアシ――いい列車に、いい宿は文春持ちで、九年暮れから十年にかけての講演会では「一万五千円位かかった」と菊池寛は書いている(『話の屑籠』)。

 同様に、この年スタートした芥川・直木賞でも、銓衡料などなかったそうだ。菊池と縁のある作家たちの、文春と小説界の興隆のための奉仕であり、それゆえ真剣な討論の場であったと私は聞いた。

 現在では、この両賞に限らず文学賞の銓衡というものは、著名作家にとっては立派な営業品目――収入源になっており、いい作品に出会わず苦労した場合には、「選考料はある意味、この苦痛に対して支払われるものだと私は考えている」(高樹のぶ子「第一三八回芥川賞選評」平成二十年)と堂々と書く人までいるくらいだから、賞の趣旨も作家の姿勢も変わってしまった。『日本文学振興会 小史』や永井龍男の回想を読んでも、銓衡料については分らない。読者の多くは、銓衡委員になることは作家の名誉であるから厚意で務めていると信じているかもしれない。ぜひ内情を知る関係者に、銓衡料の発生、変遷、現状を書き留めておいていただきたい(引用者後略)(前掲「無念の人(仮)」「第三章 永井龍男」より)

 まったくですね。少なくとも、いつ、どういう理由で、直木賞に「選考料」なるものが発生したのかは知りたいです。誰か書きのこしたりしていないかなあ。

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