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2013年12月22日 (日)

大佛次郎〔選考委員〕VS 田中穣〔候補者〕…直木賞がノンフィクション作品を選ぶわけないじゃん、という風評に敢然と立ち向かった男。

直木賞選考委員 大佛次郎

●在任期間:通算38年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第68回(昭和47年/1972年下半期)

●在任回数:68回
- うち出席回数:51回(出席率:75%)

●対象候補者数(延べ):457名
- うち選評言及候補者数(延べ):148名(言及率:32%)

 平成25年/2013年12月20日、きたる第150回(平成25年/2013年・下半期)の候補作が発表されました。だけど、リアルタイムの直木賞をうちのブログで取り上げるのは、とりあえず選考会直前まで待つことにして、今日も今日とて、まずいまを生きる日本人なら興味をもたないだろう昔の直木賞のことを、チマチマ突っつきます。

 ……と、思っていたら、何と先週、直木賞にさらなるビッグな話題が飛び込んできました。ってことで、そそくさと態度をひるがえし、いま話題の直木賞ネタについて考えてみたいと思います。

 ノンフィクションと直木賞、についてです。

 この11月から12月にかけて、東京都知事の猪瀬直樹さんが、いろいろ追及されて、そのことに関して、さまざまな立場の人が、ヤメロ豚、だの、やめなくていいよ子豚ちゃん、などと言って、ここぞとばかりに盛り上げに加担しました。それだけなら、何も直木賞とは関係がなかったんですが、社民党衆議院議員の照屋寛徳さんが、自分のブログで、12月16日に「猪瀬都知事よ、潔く辞職せよ」というエントリーを書き、首尾よく辞職した展開を見て、12月19日に「猪瀬都知事の辞職は当然だ」という文章を発信したとき、誰も予想していなかった次のような文章を載せたことで、突如、「猪瀬都知事辞任」と「直木賞」とが両者あいまじわり、まばゆいばかりの光芒を放つことになったのです。

「猪瀬都知事よ、ウソを言い続けるのはやめなさい。余りにも見苦しく、醜態をさらすのを止めて、一刻も早く潔く辞職しなさい。ついでに、直木賞も返上しなさい。政治家としても、作家としても失格だ。」(「テルヤ寛徳のブログ」平成25年/2013年12月16日「猪瀬都知事よ、潔く辞職せよ」より)

「今後は、「作家として発信し、恩返ししたい」と言うが、もう多くの国民は猪瀬作品に期待していないし、誰も読まないだろう。私は16日のブログで、直木賞を返上せよ、と書いた。今年の世相を表す漢字は「輪」である。2020年東京五輪誘致で鼻高々の猪瀬都知事は、「輪」が転げるように都知事のイスから転落した。」(「テルヤ寛徳のブログ」平成25年/2013年12月19日「猪瀬都知事の辞職は当然だ」より)

 ここから、なぜ照屋さんは猪瀬さんを語るのに「直木賞」の文字を使ったのか、ネット界隈でさまざまな憶測を生みます。「猪瀬ナオキ、に掛けたギャグではないのか」「間違った知識をわざと書くことで自らのブログを取り上げてもらおうとする姑息な売名行為」「大宅壮一ノンフィクション賞も直木賞も、一般の国民にとっては区別のつかない似たようなものだ、と暗に示し、自分が国民感覚から遊離していないことをアピールした」などなど、第150回記念で直木賞候補作がせっかく早めに発表されたのに、そんな話題を吹き飛ばす勢いで、直木賞コメンテーターとしての照屋さんの株が突如、急上昇した、というわけです。

 「直木賞」は、文学とか小説とかで成り立っているわけではなく、ましてや本を売るだの、売れないだの、商売視点だけで語れるものでもない、まったく小説や文壇に興味のない人たちに知れ渡っていて、しかも、おのおのの不十分な「直木賞」観が、いたるところで発せられ、受け止められ続けている、……要するに、日本社会のあらゆる場所に、さまざまな役割と姿を担って存在し続けていて、はじめて「直木賞」たり得る、とワタクシは思っています。その立場からすれば、ここで照屋さんが、猪瀬さんに対して「直木賞を返上せよ」などと、いかにもトンチンカンな発言をしてくれた行為と、それが巻き起こした盛り上がりこそ、まさしく「直木賞」の重要な一側面だ、と言わざるを得ません。

 その意味では、照屋さんは、まったくトンチンカンではなかったわけですね。むしろ直木賞らしさに、真っ正面から光を当てた、とすら言ってしまいましょう。

 で、「トンチンカンではなかった」と、ワタクシが思うもうひとつの理由は、「ノンフィクション」を主戦場にしてきた猪瀬さんに対して、「直木賞」の言葉を選択した点です。「ノンフィクション書いて直木賞なんかとれるわけないじゃん、バーカ」っていう感想をもつ人も多かったかもしれませんけど、こうやって、すぐに枠にハメて物事を語りたがる世間の感覚と、直木賞(の選考委員の一部)は戦ってきた歴史があるからです。

 戦ってきた選考委員の一部。……代表は、誰が何といおうと、大佛次郎さんです。「小説以外に直木賞を」と訴えつづけて30余年。「直木賞は小説に与えられるものだ、そうに決まっている!」と頑なな考えを持ちつづけた他の選考委員や、周囲の観客たちに、あきれ返った視線を浴びながら(?)、それでも、みんながこれぞ直木賞だ、と思わないものに与えてこそ直木賞には意味がある、との信念を崩さなかった、偏屈で、傍流好きな、とにかく変な人でした。

 少し大佛さんの選評から、その考えからよく現われているものを追ってみます。

「僕ら(引用者注:選考委員)は、大衆文芸作品だから、多くの人に読まれたものと云うのを決して直木賞の条件にはしていない。人の顧みなかったものでも佳作品だったら飛びつきたいのである。(引用者中略)作り上げられた標準に適うものよりも、僕らを新しく驚かせるようなものが欲しいのである。」第5回選評 『文藝春秋』昭和12年/1937年9月号より)

 「作り上げられた標準に適うもの」を、下位に置いているのがミソです。

直木三十五という人は小説だけでなく多方面の男だったから、この文学賞は単に文学作品としての形にとらわれないで、ジャアナリスチックなもの、たとえばルポルタージュとか、伝記、歴史、紀行等にも目をつけてもいいと思う。」(戦後第一回委員会での意見 『文藝讀物』昭和23年/1948年6月号「直木賞を繞って」より)

 えっ、と目を疑うような主張。コレ、狂人の発言ではありません。直木賞を選考する重鎮委員がまじめに語っている発言です、念のため。

「もう十年近くも私は直木賞の範囲を所謂大衆小説に限りたくないと主張して来ている。井伏氏の「ジョン萬次郎」を推したのも、その立場からであった。あれは大衆小説ではない。直木が多方面の男で、考証的な文章のみならず、評論や文壇ゴシップを書かせても独創のある「作品」を残したので、そう言う外側の文学でも傑出したものがあったら直木賞を贈るべきだと考えて来た。新聞雑誌に現れる訪問記事、会見記の類いでも優れたものならいゝのである。」第22回選評 『文藝讀物』昭和25年/1950年6月号より)

 あは。大佛さんの直木賞観サクレツです。

(引用者注:受賞した杉森久英の)「天才と狂人の間」は面白かったし、直木賞になってよかった。小説だと考えなくともよい。伝記でも史談でもよく、なまはんかに小説に作られたものは危険である。」第47回選評 『オール讀物』昭和37年/1962年10月号より)

 「小説だと考えなくともよい」と、さらりと言っています。

「阪田氏(引用者注:阪田寛夫の「わが町」が私には面白かった。大阪周辺の町の生活のスケッチだが、現代風で明るく微笑を誘うエスプリを持っている。」「写生文と名乗った高浜虚子の「鶏頭」の中の上方を描いた文章「風流懺法」や「大内屋旅館」「いかるが物語」が小説と考えられたように「わが町」も小説と見られる。小説に書かなかったところが、逆しまに素直に小説の効果を出したのである。直木賞にしてよいと私は思った。」第60回選評 『オール讀物』昭和44年/1969年4月号より)

 阪田さんの『わが町』は、受賞手前の惜しいところまで行ったんですが、どうやっても随筆としか読めない、などという意見もあって、次点に終わりました。ところが大佛さんは「小説に(として?)書かなかった」点が逆に、直木賞として優れている、と言うわけです。

 要は、いかにも小説、って作品より、えっ?これを「優れた小説を決める」直木賞が選ぶの?バカじゃないか。みたいな作品を、大佛さんは採りたがっていたんですね。

 さあ、ここで大佛さんに、本気で授賞を主張させる強力な候補作が現われます。昭和45年/1970年1月のことです。

 前年、昭和44年/1969年に『三岸好太郎』と『藤田嗣治』の二つの作品を上梓した読売新聞美術記者、田中穣さん。一方の『三岸好太郎』は、できたてホヤホヤの第1回大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補にまで残り、ジャーナリズムから現われた気鋭の評伝作家・田中穣、の名を世に知らしめました。かたや『藤田嗣治』も、『三岸~』とも似て、実在の人物について見聞と取材を重ねた評伝、もしくはノンフィクション。……これが直木賞の候補に挙げられたのです。

「田中穣の「藤田嗣治」という作品を、大佛さんとしては珍しいほど、粘り強く熱っぽく支持した。」「戦後の直木賞の詮衡会議には、わたしは欠かさず陪席していると思うが、大佛さんの作品鑑賞の基準はきわめて豁達で、小説という形式に鹿爪らしく拘泥しないようにも感じられる。」(昭和47年/1972年9月・青蛙房刊 鷲尾洋三・著『忘れ得ぬ人々』所収「大佛次郎」より)

 珍しいほど、粘り強く熱っぽく……だそうです。『藤田嗣治』に対するこの姿勢、大佛さんの面目躍如たるものがありました。

          ○

 ええ。このときの大佛さんの選評、熱いですよ。とくとご賞玩あれ。

「私は田中氏の「藤田嗣治」を推した。前から直木賞には、評伝とか紀行の類の優れたものが当選しても不思議はないと信じ、本誌の選評でも度々これを主張した。芥川賞ではそうも行くまいが、直木賞はもっと幅を広く、社会的な要素も考えてよいと思った。いつも小説らしい小説ばかりが当選するのは、段々と小説が袋路地へ落込むことである。以前に井伏君の「ジョン万次郎漂流記」を推薦したの私で、当時の委員だった久米正雄菊池寛から、よいものを見つけてくれたと賛成を受けた。実話だが文学であった。「藤田嗣治」を私は同じように見た。伝記には違いないが、画家の伝記と云うよりも高級インチキ師の生涯を描いてあるのが人間臭く面白く、小説と見ることさえ出来そうに思った。外国には厳格な伝記のほかに、小説ではないが人間を中心に描いた伝記があって文芸と見られている。「藤田嗣治」はそのジャンルのもので、日本にはこれまで稀れなものだし、成功したものと信じた。優れた画家の一人の伝記に止まらず、これを押上げた現代社会と云う怪物も描かれている。芸術家で同時に世俗の天才だった男が、この現代と如何に取組んで成功したかも描いてある。小説以上に面白かったのである。私はフジタを知っていた。私の家へ来たこともあるし、パリで彼のレジダンスを訪ねたこともある。だから、こう云う性格を体臭には感じていたのだが、田中氏の「藤田嗣治」にはそれが鮮やかに書いてあるのに感心した。」(『オール讀物』昭和45年/1970年4月号 大佛次郎「「藤田嗣治」」より)

 この選評は、もちろん大佛さんの『藤田嗣治』評が中心です。その箇所については、花田清輝さんのように、何だオサラギってやつは、とカチンと来た筋もあったようです。

「たとえば大佛次郎は、直木賞の選評のなかで、田中穣の『藤田嗣治』について、「画家の伝記というよりも高級インチキ師の生涯を描いてあるのが人間臭く面白く、小説と見ることさえできそうに思った。といっている。インチキ師を、高級なやつと低級なやつとに分けるセンスもどうかとおもうが、フジタを、「高級インチキ師」と呼んで、いささかも抵抗を感じていないらしいところに、いかにも日本のインテリらしい、マキャヴェリ以前的なセンスがうかがわれる。」(『展望』昭和45年/1970年4月号 花田清輝「読書ノート 田中穣著 藤田嗣治」より)

 ただ、「マキャヴェリ以前的なセンス」の問題はともかく、ここでは直木賞選考委員としての大佛さんの姿勢を中心に据えて、先を続けます。。

 この作品は直木賞の選考会で最終投票にまでもつれ込み、わずか一票差で、落選と決まりました。その経緯と、田中穣さん本人の受け止め方は、以前「これぞ名候補作」の枠で紹介したことがあります。要するに、大佛さんの意見などさして周囲には伝わらなかったらしく、この作品はノンフィクションだから直木賞にふさわしくない、とかいう理由で反対する票が上回ったとか何とか。「いや、選考会でそんなことを口にした者はいないぞ、テキトーなこと書くな」と松本清張さんが怒ったとか何とか。

 付け加えますと、田中さんは、この作品と直木賞との関わりについて、こう書きました。

(引用者前略)私はフジタの生いたちから死までの“人と作品”の全容を浮き彫りにする文章を書いた。これを巻末の読物の一つに使いたいという依頼のきた月刊総合雑誌「自由」に連載し、さらに加筆して新潮社から出版したのが、(引用者中略)私の『藤田嗣治』であった。

 たまたまこれは、文壇の大御所で直木賞の審査委員でもあった大佛次郎氏の目にとまり、その年度下期の直木賞の候補に選ばれた。」(田中穣・著『評伝藤田嗣治』「第一章 数々のフジタ伝説をめぐって」より)

 大佛さんの目にとまったから、直木賞の候補に選ばれた、と言っています。まさしく大佛さんが選評で書いているように、井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』が直木賞に推薦された経緯と、どうやら同じです。

 田中さんの『写楽 その隠れた真相』「第十一章 写楽は歌麿?」にも、このときの落選についての記述があります。そちらには、落選以降のことが紹介されていまして、それによりますと、落選はしたものの、『藤田嗣治』が直木賞で選考されて以降、田中さんのもとには続々と、「実名で事実を書く私の小説的“美術家評伝”に対する雑誌社(あるいは出版社)からの注文が、引きもきらず」寄せられた、と。たとえば、直木賞のお膝元、『オール讀物』には昭和46年/1971年3月号~12月号に「佐伯祐三の死」を連載し、まもなく文藝春秋から単行本化されました。

 ほんと、小説かどうかとか、どうでもいいですよね、この経緯を見ても。当選しようが落選しようが、けっきょく、作家を見出してきて世に紹介する、という直木賞の責は、しっかり果たされたわけですから。

 大佛さん自身は、第68回選考会をもって自ら委員を退任する際、こんなことを言いました。

「私は私なりに何かの役に立って来たのであろう。古く井伏君の「ジョン万次郎」。この前の回の「斬」など、口幅ったいことを云わせて頂ければ、私が居たので、入選した。それだけでもひそかな誇りとして、私は直木賞委員から退席する。」(『オール讀物』昭和48年/1973年4月号 大佛次郎「思うままに」より)

 またまた、ご謙遜を。大佛さんが繰り広げてきた、「小説以外にも直木賞を」の熱は、確実に直木賞の一側面を築いてきたものと、ワタクシは見ます。『藤田嗣治』と田中穣さんだって、この落選が、もしも大宅壮一ノンフィクション賞のほうだったら、きっとその後の注文の多寡、媒体の種類などは、大いに違っていて、評伝作家・田中穣がどこまで活躍できたかは、わかりませんもん。

 ただ、そういった大佛さんの「直木賞観」は、選考会のなかで決して主流とは言えませんでした。また、まわりにいる直木賞の観客たちにも、あまりその奮闘は伝わってこなかったことは残念です。以前、井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』の受賞周辺を取り上げたエントリーでも書きました。大佛さんがいくら、これは小説のなりをしていないからこそ推薦したのだ、と主張しても、とかく人は、創作と言えないシロモノを選んだ直木賞委員、お粗末なことよ、と見当ちがいの批判をするもんです。ノンフィクション作家イノセ某みたいな人とか。

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