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2013年12月 1日 (日)

中野実〔選考委員〕VS 森荘已池〔候補者〕…わずか一回、暗喩まみれの選評一篇しか残さず。

直木賞選考委員 中野実

●在任期間:2年
 第17回(昭和18年/1943年上半期)~第20回(昭和19年/1944年下半期)

●在任回数:4回
- うち出席回数:4回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):17名
- うち選評言及候補者数(延べ):1名(言及率:6%)

 直木賞がはじまって8年。昭和18年/1943年になると、文藝春秋社の社内はいろいろ内紛などもありまして、あるいは菊池寛さんはここらが潮ドキ、と思ったのかもしれないのですが、創設のときの直木賞委員を改選することに踏み切ります。菊池さんは言いました。

「芥川賞、直木賞委員の顔触を更新することにした。自分も、両方から隠退することにした。(引用者中略)今後は、芥川賞・直木賞とも、芥川賞・直木賞受賞者の中から、適当な人に銓衡委員になって貰うつもりである。」(『文藝春秋』昭和18年/1943年9月号「話の屑籠」より)

 それで結局、誰が新しく就任したのかと言いますと、芥川賞には、片岡鐵兵河上徹太郎岸田國士。第18回から火野葦平。直木賞では獅子文六(岩田豊雄)、中野実、濱本浩、それと井伏鱒二。……菊池さんが「芥川賞・直木賞受賞者の中から」と言っているのに、それに該当するのは火野さんと井伏さんだけで、他4分の3は、全然受賞者でも何でもない、という。思いつきでササッと言うだけ言って、じっさいはそのとおりにならない、っていう相変わらずの菊池寛クオリティです。

 芥川賞はどうでもいいです。直木賞のことを語ります。獅子さん、中野さん、濱本さん。「直木賞とれなかった三銃士」が第17回から選考委員になって、獅子さんは戦後もひきつづいて声がかかり、委員をしばらく続けていくんですが、問題は残る二人。中野さんと濱本さんです。直木賞委員をやっていたのはわずか2年。戦時下ということもあって、他の時代にもまして注目度の低いこの時期。いちおう今日は中野実さんをエントリーに立てましたけど、正直、書くべきことはほとんどありません。

 だってあなた。中野さん、参加した4度ともいちおう最終決定の選考会には出席したらしいんですが、うち3回は選評なし。残る1回も、授賞者、森荘已池さんに対する評しか書かず、いったい中野さんがどんな思いで直木賞の選考に関わったのか、なーんにもわからないんですもの。

 だから中野実選考委員といえば、いまとなっては、山本周五郎さんが「あんなやつが選んだ賞を、おめおめともらえるかっつうの」と毒づき、たまたま酒場でいっしょになったときは、ナカノミノル? だれですかそれ、とか言って周五郎さん、歯牙にもかけなかった、……なんていうエピソードぐらいしか残っていないのです。

 ナカノミノル? だれですかそれ。……ほんとにそうです。21世紀のほとんどの日本人が、そんな作家がいたことなど、まるで知らないでしょう。

 中野さんは昭和のはじめ、大衆文芸の牙城『サンデー毎日』などを舞台にユーモア小説を数々書き、また昭和8年/1933年~昭和9年/1934年に『日曜報知』に連載した「パパの青春」が大評判をとって、新進ユーモア作家として名を上げます。直木賞ができた昭和10年/1935年ごろには、週刊誌、女性誌、大衆読み物誌などから注文がひっきりなしに舞い込み、直木賞の選考会でも有力候補者として名前があがったりしたんですが、当時のユーモア作家群の例にもれず、軽ーい感じの小説を毛嫌いする選考委員たちに好まれず、賞とは無縁。

 それでも、直木賞をとろうがとるまいが、活躍中の作家にとってはあまり影響はない、っていうのは創設時も、いまも、大して変わりません(←ココ重要。ええ、大して変わらないんですよ)。中野さんの売れっ子ぶりはその後も続き、おびただしい量のユーモア小説を生み出していきました。

 ひとつに、中野さんが選考委員として選評を残さない怠惰ぶりを見せたのは、そもそも自分はユーモア小説で大衆作家扱いされているけど、それが本望ではなかった、っていう意識があったのかもわかりません。中野さんはずっと、劇作家になりたかった人でした。

「わたしは、ユーモア作家で、身すぎ世すぎをするつもりはなかった。劇作家になるつもりだったのである。

 十九歳のとき、上京して、岡本綺堂先生に師事したのも、劇作をやるつもりだったからである。(引用者中略)

 喜劇「二等寝台車」上演(引用者注:昭和6年/1931年)後、われは片々たる喜劇作家乃至はユーモア作家にあらずと、野心満々、史劇「木曾義仲」を書き、東京歌舞伎座の脚本募集に応じたところが、これも首尾よく当選し、脚光を浴びた。さてこそ宿望を達せりと、大いに期待するところがあったにも拘らず、雑誌社の註文という註文は、ユーモア小説をお書き願いたいというのである。(引用者中略)

 参考書を山と積んで、ねじ鉢巻で書いた「木曾義仲」は、一向にうかばれず、自分でも気がさすほどとぼけて綴った「パパの青春」が、いつの間にか、わたしにユーモア小説家の看板をかかげさせてしまったのである。」(昭和28年/1953年9月・駿河台書房/現代ユーモア文学全集『中野実集』所収「年譜にかえて」より)

 劇作のなかでもとくに中野さんが最初志していたのは「悲劇」だったとも言います。それが悲劇ではなく喜劇で注目され、その延長線上でユーモア小説まで書かせられる、という。中野さんいわく、「悲劇作家になりたかったのであるが、雑誌社からせがまれるまま、とうとうユーモア作家という、とんでもない所に来てしまった」(『丸』昭和30年/1955年2月号 中野実「悲劇とユーモア」より)って状況でした。

 そんなにイヤならユーモア小説、書かなきゃいいじゃないか。っつうのは、無論、無責任な外野の意見でしかありません。中野さんにも生活があります。和田芳恵さんが紹介するところによりますと、

「中野実は岡本綺堂の弟子で、劇作家が本業であった。芝居では食えないというので、「半七捕物帳」などを書いた師の真似で、小説に筆を染めたということである。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊『大衆文学大系30 短篇集・下』「解説 現代小説」より)

 売れるまでの苦難の日々については、中野さん自身も少し書いているそうで、神永光規さんのまとめた略歴を参考にすると、こういうことのようです。

「主な作品発表の場は、綺堂が主宰する『舞台』誌上であった。(引用者注:綺堂門下の嫩会に入った大正8年/1919年以後の)初期十年間にわたる修行時代に、「病気になったり、大阪の親父の處へ帰って子供の洋服を売って歩いたり、インチキなレヴュー団に関係したり、最後に東京郊外の遊園地で子供相手の芝居をしたり、ジグザグの生活を送り」(同右(引用者注:『舞台』昭和10年/1935年4月号所載の)「悲願千篇」より)といった苦悩の生活をすごす。」(平成14年/2002年7月・社会評論社刊『20世紀の戯曲II―現代戯曲の展開』所収 神永光規「中野実「明日の幸福」」より)

 要するに、本意じゃないけど売れるから通俗小説を書いて人気を博した、久米正雄さんや小島政二郎さんあたりの「第1期直木賞委員」と、その来歴は通ずるものがあります。

 しかもユーモア小説といえば、疎外された大衆文壇のなかでも、さらにあまり尊敬されない役どころ。受賞者がひとりも誕生していないこの界隈から、探偵文壇に先んじて、獅子文六、中野実、と二人も直木賞委員が生まれたのは、これはもう、戦争の影響を見ないわけにはいきません。

 獅子さんが岩田豊雄名義で『朝日新聞』に連載した「海軍」が大当たりをとったのが昭和17年/1942年、最初、獅子さんが直木賞委員になったときも「岩田豊雄」としてだった、なんていうのは、まさにこの一作の存在が大きくモノを言っていたからでしょう。いっぽう中野さんは、昭和13年/1938年、かなり早い時期に応召され、戦地に赴き、盛んに現地の様子を原稿にしたためて出版界・雑誌界から重宝されていました。昭和18年/1943年当時、ユーモア作家としてよりも「戦地作家」としての印象が強く、そのために、人材不足はなはだしい「直木賞委員になれそうな大衆文壇の人」のなかで、中野さんに白羽が立ったのだと思われます。

 中野さんが、対峙した(はずの)直木賞候補は、2年間で17件。どれもこれも、ユーモアなどとはほど遠い、重くてマジメな作品ばかりでした。唯一、中野さんは第18回の森荘已池さんに対してだけは評を残したんですが、はっきり言って、「これが選評かよ!」とツッコまれること必至の、のらりくらりとした選評でした。

          ○

 中野さん自身が直木賞史に書き残した、ただひとつの足跡、第18回における伝説となった(?)選評の、以下が全文です。

「曠野へ旭日を仰ぎに出て、たまたま野菊を一本見つけた。こまやかな愛情にしっとり湿れていて、土に深く根ざした養分が、ほのほのと、花の香になって匂っている。しかも、その野菊の咲いていた径は、旭日を仰ぎに出る大道である。

 その意味で、私は「蛾と笹舟」を採る。」(『文藝春秋』昭和19年/1944年3月号)

 これが選評かよ!……すみません、お約束どおりツッコんでみました。

 どういう趣旨の選評なのか、ほとんどわかりません。というのも、この回、森荘已池さんは「山畠」が候補に残されており、「蛾と笹舟」は参考作品扱いでした。しかしあえて「山畠」ではなく、「蛾と笹舟」の裏底に流れる人の情、それをあえて声高に書き込まずひたひたと読み手に感じ取らせる作風のほうを「採る」、と言っているのか。それとも、劉寒吉「十時大尉」や原田種夫「家系」、龍胆寺雄『鳳輦京に還る』などの他候補に比べて、森さんの作品を「採る」と言っているのか。それさえ判然としません。

 「旭日」とは何のことでしょう。大衆文芸の目指すべき目標地点のことを言っているのでしょうか。その萌芽が、たしかに森さんの作品のなかに見出し得る、と言いたければ、はっきりそういえばいいものを、なかなかに意味深な評を書いて、さらりとかわす。まったく中野さん、やることがイキすぎて、逆にムチャクチャなことになっています。

 森さんのその後については、ここで紹介するまでもないでしょう。このブログでは何度も取り上げてきました。結局、岩手は盛岡の地に住みつづけ、自分で雑誌社に原稿を売り込むことを億劫がり、小説を書いて生活するなんてヤなこった、と戦後早いうちに悟ってしまって、流行作家とは全然ちがう自らが見つけた唯一無二の「直木賞受賞者の道」を選んだ人です。……いったい、中野さんいうところの「旭日」とは、おそらく無縁のままで暮らしました。

 それで中野さん自身ですが、だいたいユーモア作家であることを「身すぎ世すぎ」と表現するような方です。戦後もひきつづき、ユーモア小説を書きましたが、大衆文芸のために生きよう、とかそんな思いは、まずなかったでしょう。「悲劇」ではないものの、自ら望んでいた「劇作」の道が大きく開け、戦後は、新派のベテラン劇作家として、また自作の演出家として、大活躍するようになっていきます。

 菊田一夫、北條秀司、川口松太郎の、いかにも新派を牛耳る偉そうな(あるいは、ほんとに偉かった)面々といっしょに「四人の会」を結成し、「劇界の四天王」と呼ばれたこともあったとか。

「川口松太郎、北条秀司、菊田一夫氏と「四人会」を結成、新派の大劇場公演は、ほとんどこの「四人会」の作品が中心となっていた。」(『読売新聞』昭和48年/1973年1月4日「中野実さん、演舞場で急死 「明日の幸福」初日の演出中に」より)

 昭和48年/1973年1月3日、上に引用した記事タイトルにもあるように、自分の作・演出の舞台を、客席のうしろにあった監事室で演出している最中に、中野さん、事切れます。「劇作家としては本望だったろう」などといったコメントや記事が、当時、いろいろ書かれたみたいですが、まあたしかにそうだったかもしれません。少なくとも、新喜楽で直木賞を選考中に死ぬよりは、何十倍も何百倍も、中野さんにとってはましだったでしょう。

 いまとなっては、中野さんが取り上げられる数少ない機会において、劇作家、あるいはユーモア小説家として紹介されることはあっても、直木賞選考委員として語れることは、まずありません。直木賞は有名でも、直木賞委員・中野実は、まったく存在感がありません。旭日を仰ぎ見る大道に咲いた一本の野菊のような選考委員でした(……中野さんのお株をうばって意味不明)。

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