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2013年12月の5件の記事

2013年12月29日 (日)

渡辺淳一〔選考委員〕VS 東野圭吾〔候補者〕…この人がいない直木賞なんて考えられません。まだまだ辞めないでください。

直木賞選考委員 渡辺淳一

●在任期間:29年半
 第91回(昭和59年/1984年上半期)~第149回(平成25年/2013年上半期)在任中

●在任回数:59回
- うち出席回数:59回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):359名
- うち選評言及候補者数(延べ):287名(言及率:80%)

 まもなく一年が終わります。今年もいろいろとハシャいだり馬鹿やったり、自由きままに書いてきましたが、最後の週ぐらいはおごそかに、厳粛に、平穏なこころで平成25年/2013年を締めくくりたいと思います。

 ……って言いながら、今回、主役として渡辺淳一さんを選んでしまいました。無理です。おごそかにやりすごせるわけがありません。

 別名、直木賞選考界のトラブルメーカー。はたまた、「実写版・大いなる助走」との異名を持ち、最近の辞書では「渡辺淳一」と引くとまず一項目に「早く直木賞委員を辞めてほしい人。」と書いてあるらしい、とすら言われている、当世直木賞界きっての悪役、つまりはひるがえって救世主。渡辺さんのことを語って、平穏でいられるわけないじゃないですか。

 ええと、ワタクシの立場から明言しておきますと、渡辺さんの選評、好きです。直木賞に興味をもちはじめた20年ぐらい前は、しばらく嫌いだったんですけど、途中から急激に好きになりました。渡辺さん自身、「僕は60歳をすぎてから、だんだんこわれてきた。(笑い)」(『週刊朝日』平成13年/2001年11月30日号)と言ってもおりまして、何というのでしょう、壊れゆくものの面白さ、とでも言いましょうか。

 だいたいワタクシは、90年代から21世紀、この時代に「直木賞」なんてものに無性に愛着を抱くぐらいの人間です。まっとうな批評。毅然とした振る舞い。どこから見ても品行方正で非のうちどころなし。……そういったものには、全然、心揺さぶられません。そこにあって渡辺さんの、ものわかりの悪さを堂々と書き連ねる、非論理的な選評。ザッツ・直木賞。それを読んだ観客たちが、渡辺さんの日ごろの行動や、渡辺さん自身の小説の出来をからめて、牙をむき出しにキャンキャン吠え立てる。ザッツ・直木賞。そうです。これなくして、何が直木賞というのですか!

 ……候補者だった東野圭吾さんも、6度の候補経験のことを、こう語っているじゃないですか。ほんとに楽しいゲームだった、と。ワタクシみたいな外野の人間とは、まったく違うレベルの「楽しさ」でしょうから、いっしょにしちゃいけませんけども。

 ちなみに言わずもがなですが、ここで東野さんが「ゲーム」という表現を使ったのは、渡辺さんがこういう選評を好んで書いていたことへのオマージュ(もしくは当てこすり)です。

(引用者注:東野圭吾の)「白夜行」(引用者注:真保裕一の)「ボーダーライン」(引用者注:福井晴敏の)「亡国のイージス」は、ともに子供の父親殺しという点で、共通のテーマを扱っている。(引用者中略)この三作の中では「白夜行」がやや読ませるが、いずれも殺人がゲーム的に書かれていて、小説になりきっていない。(引用者中略)だからといって、この種の小説を否定する気はないし、こういうものを好む人がいることも理解できるが、あくまで直木賞という賞の対象としては、いささか別のものではないか。」(『オール讀物』平成12年/2000年3月号 渡辺淳一「ゲーム的小説」より)

 いや、これを「当てこすりだ」と断言するのは不正確でした。すみません。正確には、ワタクシのような観客が勝手にそう想像してしまえるような舞台があった、と言うべきでしょう。要するに、外野にいる人たちのたくましい妄想力がなければ、「渡辺淳一 vs 東野圭吾」なんて図式は、絶対に成り立たないものでした。

 東野さんがはじめて直木賞の候補になったのが第120回(平成10年/1998年・下半期)のとき。長年の苦労を経た末に、『秘密』一作で大好評を勝ち取ったデビュー15年目のことでした。テーマへの踏み込みが足りないとして、黒岩重吾さんや阿刀田高さんが難色を示し、いや、何より候補6度目の宮部みゆきさんが同じ候補のなかにいて、その圧倒的な実績の前に、まず勝負になりませんでした。渡辺さんも、

「東野圭吾氏の「秘密」は、思いつきだけの小説で、内側で発酵していない欠陥が表れたようである。」(『オール讀物』平成11年/1999年3月号 渡辺淳一「「理由」と「この闇と光」」より)

 とバッサリ酷評はしています。ただ、渡辺さんの場合は、こんな選評を書くのは、別にふつうのことでした。とりたてて特筆すべきハナシでもありません。

 ところが、当時の渡辺さん(の私生活)に対して、相当な熱を入れて関心を持っていたひとつのメディアがありました。『噂の眞相』です。

「『噂の眞相』は一人の人物や事件をキャンペーン的に何度も繰り返して取り上げることはしないということを基本方針としていた。

(引用者中略)だが、例外はある。そのキャラクターが強烈なために記事にしても面白いし、ネタには事欠かないために比較的頻繁に誌面で取り上げざるを得ないケースもあった。その中の一人に作家の渡辺淳一がいた。(引用者中略)

 その渡辺に関する衝撃的、そして決定的情報を『噂の眞相』編集部は入手した。それは、渡辺淳一が女優の川島なお美と愛人関係にあるという情報だった。」(平成18年/2006年3月・ソフトバンククリエイティブ/ソフトバンク新書 岡留安則・著『編集長を出せ!――『噂の眞相』クレーム対応の舞台裏』「第一章 『噂の眞相』人間ドラマ裏面史篇」より)

 平成8年/1996年11月号、平成10年/1998年8月号、同年10月号と、渡辺&川島お二人の関係は記事となりまして、壊れゆく60代半ばの渡辺さんの行状が、『噂眞』の誌面を飾りつづけました。

 でも、別にそんなことはどうでもいいのです。直木賞(の観客)にとっては。ワタクシたち観客が、にわかに身を乗り出すきっかけとなったのは、『秘密』を出した東野さんがググッと話題の人となり、そして東野さんも渡辺さんと同様に、酒場界隈に積極的に出入りするタイプの方だったために、こちらも『噂眞』のアンテナにピピーンとひっかかり、渡辺 vs 東野 produced by 『噂眞』、という展開が繰り広げられたことにありました。

 『噂眞』編集部によりますと、発端は、平成12年/2000年2月号の「Photo Scandal」で、こんな記事を載せたことにあったそうです。「売れっこ作家東野圭吾が銀座文壇バー女性と熱愛 離婚してモテモテの東野がベストパートナー獲得」。この記事のなかで、ひとりの文壇関係者のコメントとして、川島なお美さんが熱烈に東野さんにアプローチしたが、東野さんは「あのタイプは嫌いなんだ」と言って閉口し、けっきょく川島さんがフラれたようだ、といったウワサ話が語られました。

 つづいて、『噂眞』編集部に絶大な人気を誇る渡辺さんのほうが、次号の平成12年/2000年3月号で「川島なお美との「失楽園」が終わった渡辺淳一の新しい愛人をスクープ!」と、大きな記事の標的になります。その記事中でも、川島さんが東野さんにラブコールを送っていたが失敗した、というハナシが紹介されます。そして、ページを飛ばして「文壇事情」のコーナーで、第122回(平成11年/1999年・下半期)直木賞の結果が報告されているんですが、ここに、渡辺さんと東野さんの名前がそろって登場するわけです。こうです。

「選考会が異例に長びいたことからも、票が割れてもっとも反対理由のない無難な受賞作に落ち着いたことが窺える。

 ここで問題となるのが本誌先月号の記事である。東野が川島なお美から熱烈にアプローチされたが見事にフッたという内容だ。そう、直木賞の選考委員には『失楽園』の渡辺淳一も名前を連ねているのだ。俺からのりかえようとした相手はこいつだったのかと、少なからぬ影響を与えたのは想像に難くない。本誌発売が十日、選考会が十四日というタイミングである。東野本人もひどく気にしていた様子で、なにもこの時期にぶつけて書かなくてもいいのにと、銀座でボヤいていたという。ついに本誌も直木賞の行方を左右する存在になったのか!?」(『噂の眞相』平成12年/2000年3月号「文壇事情 ●東野圭吾が直木賞を逃した“理由”」より―署名:(Z))

 やったぜ、自分たちの雑誌が、直木賞なんていうチョー有名な賞の選考に影響を及ぼした! もー天にも昇る思い、とイイ夢でも見たんでしょうね、たぶん。何でもプラス思考で、うらやましいことです。「渡辺さんが選考会より前に『噂眞』の記事を読んでいたのか、否か」「渡辺さんは自分の(かつての)愛人がアプローチをかけたから、その作家に票を入れなかったのか、否か」という重要な箇所の裏取りを省いた、基本、妄想ネタです。あれですか、福井晴敏さんも馳星周さんも真保裕一さんも、みんな、何か渡辺さんから一方的に怨みでも買っていたから授賞を反対されたんですか。

 んなわけないでしょ、って。

 推理小説だミステリーだ、と言って騒がれて売れるような小説のことを、渡辺さんがむちゃくちゃ嫌いで、こんなもの文芸作品とは呼べないぞ、とそれまでも直木賞でバシバシ不平不満を叩きつけていたことぐらい、みんな知っているでしょ。そして渡辺さんひとりが反対したって、他の委員が賛成すれば直木賞は受賞できる、っつう当たり前のことだって、みんな知っているじゃないですか。乃南アサ『凍える牙』とか赤瀬川隼『白球残映』(←これはミステリーじゃないけど)とか。

 渡辺淳一が色狂いで自分の恋愛沙汰の私怨を晴らすために受賞に反対した、とか、そういうことを言う人もいます。渡辺さんの選考基準(っつうか小説に対する好み)や、選考会内での立ち位置などを全部すっ飛ばして、よく、そんなことばかり興奮して言えるよなあ、と感心の念すら湧いてくるのです。しかも、このネタが好きな人たちはずーっと言っています。以下は平成17年/2005年の匿名座談会記事。

 文学賞は文壇政治の力学が最も発揮される場だから。実際、北方(引用者注:北方謙三が直木賞選考委員就任と同時に、盟友の船戸与一に授賞させたのは有名だし。逆に特定の作家の授賞に必ず反対する選考委員もいる。

 たとえば、渡辺淳一センセイは東野圭吾の授賞に反対しがち。おかげで東野はこれまで5回も候補になりながら、ずっと落選し続けてる。

 渡辺センセイがご執心だった女性が東野に乗り換えようとしたからというほとんど逆恨みみたいな理由だという噂だから、東野もかわいそうだよね。」(『ダカーポ』平成17年/2005年10月5日号「文芸記者匿名座談会 受賞拒否の作家も出現。文学賞選考の舞台裏」より)

 6年もたって、いまだ「噂」を頼りに同じハナシを語り続けている、という。っつうか、ほんとにかわいそう、とか思ってないでしょ、これ。

 『週刊SPA!』の坪内祐三・福田和也両氏の対談でも、もう渡辺 vs 東野の構図に触れなきゃ第134回直木賞の話題は語れない、って感じで言及されています。

坪内 今回の直木賞のポイントってのは、東野圭吾さんが候補6回目で受賞できるかどうかだったと思うのね。

福田 『容疑者Xの献身』(引用者中略)ね。東野さんは、これまでもっといい本をたくさん書いてるのに、でも、直木賞を獲っていなかったんだよね。

坪内 選考委員の渡辺淳一さんお気に入りの銀座のホステスを取っちゃったからだって、ずっと言われてきたわけだけど…。

福田 受賞作は、読みやすくできているし、はっとするトリックもあるね。けど…うーん、受賞が決まって良かったと思うから言えるんだけど、やっぱり東野さんのでもっといいの、他にいっぱいありますよ。」(『週刊SPA!』平成18年/2006年1月31日号 坪内祐三&福田和也「文壇アウトローズの世相放談「これでいいのだ」より ―構成:石丸元章)

 うーん。たしかに渡辺さんは「壊れゆく存在」ですから、お気に入りのホステスを東野さんにとられて、それを理由に東野さんに票を入れなかった、って想像したくなるのもわかります。わかりますが、そうだと仮定してもですよ。それが、東野さんが5回も落とされた主たる理由になるのは変だ、とか不思議に思わないんですかね? だってどう考えても無理でしょ。渡辺さんひとりが、他の委員たちの票を動かすなんて。

伊集院(引用者注:伊集院静 誰かの意向で結果が左右されるほど直木賞は小さいもんじゃない、ということをはっきり言っておきたい。(引用者中略)もう一つ言うと、例えば個人的に仲が良いだとか知り合いだからという理由で、一票を投じることはありえないでしょう。

(引用者注:林真理子 もちろんです。その反対もありません。以前「噂の真相」という雑誌があって、「林真理子は選考会で自分より若くて美人の作家に票を入れない」という中傷記事が出ていましたが、的外れもいいところです。(引用者中略)作家ってすごく嫉妬深いけれども、文学賞の選考ではドロドロとした感情は家に置いてくるんです。私情が入り込んでいたら、他の選考委員の方にあっという間に見抜かれてしまう。」(『オール讀物』平成26年/2014年1月号 林真理子、伊集院静「新しい小説のために」より)

 渡辺さんの(仮に私怨からくる)反対意見があったとしても、黒岩重吾やら井上ひさしやら五木寛之やら平岩弓枝やら田辺聖子やら津本陽やらが、自分の意見を曲げてまでホイホイとそこに乗る場面……、まあ想像できませんわな。直木賞のことに興味もなく、聞きかじりの知識で直木賞を語る人なら、想像しちゃうのかもしれませんけど。

 でもアレです。渡辺さん自身が、とにかく男女の情愛とか関係性とかのハナシが大好きな人です。もしかしたら、こういう噂バナシで盛り上がって名前を出してもらえることは、本望なのかもしれません。

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2013年12月22日 (日)

大佛次郎〔選考委員〕VS 田中穣〔候補者〕…直木賞がノンフィクション作品を選ぶわけないじゃん、という風評に敢然と立ち向かった男。

直木賞選考委員 大佛次郎

●在任期間:通算38年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第68回(昭和47年/1972年下半期)

●在任回数:68回
- うち出席回数:51回(出席率:75%)

●対象候補者数(延べ):457名
- うち選評言及候補者数(延べ):148名(言及率:32%)

 平成25年/2013年12月20日、きたる第150回(平成25年/2013年・下半期)の候補作が発表されました。だけど、リアルタイムの直木賞をうちのブログで取り上げるのは、とりあえず選考会直前まで待つことにして、今日も今日とて、まずいまを生きる日本人なら興味をもたないだろう昔の直木賞のことを、チマチマ突っつきます。

 ……と、思っていたら、何と先週、直木賞にさらなるビッグな話題が飛び込んできました。ってことで、そそくさと態度をひるがえし、いま話題の直木賞ネタについて考えてみたいと思います。

 ノンフィクションと直木賞、についてです。

 この11月から12月にかけて、東京都知事の猪瀬直樹さんが、いろいろ追及されて、そのことに関して、さまざまな立場の人が、ヤメロ豚、だの、やめなくていいよ子豚ちゃん、などと言って、ここぞとばかりに盛り上げに加担しました。それだけなら、何も直木賞とは関係がなかったんですが、社民党衆議院議員の照屋寛徳さんが、自分のブログで、12月16日に「猪瀬都知事よ、潔く辞職せよ」というエントリーを書き、首尾よく辞職した展開を見て、12月19日に「猪瀬都知事の辞職は当然だ」という文章を発信したとき、誰も予想していなかった次のような文章を載せたことで、突如、「猪瀬都知事辞任」と「直木賞」とが両者あいまじわり、まばゆいばかりの光芒を放つことになったのです。

「猪瀬都知事よ、ウソを言い続けるのはやめなさい。余りにも見苦しく、醜態をさらすのを止めて、一刻も早く潔く辞職しなさい。ついでに、直木賞も返上しなさい。政治家としても、作家としても失格だ。」(「テルヤ寛徳のブログ」平成25年/2013年12月16日「猪瀬都知事よ、潔く辞職せよ」より)

「今後は、「作家として発信し、恩返ししたい」と言うが、もう多くの国民は猪瀬作品に期待していないし、誰も読まないだろう。私は16日のブログで、直木賞を返上せよ、と書いた。今年の世相を表す漢字は「輪」である。2020年東京五輪誘致で鼻高々の猪瀬都知事は、「輪」が転げるように都知事のイスから転落した。」(「テルヤ寛徳のブログ」平成25年/2013年12月19日「猪瀬都知事の辞職は当然だ」より)

 ここから、なぜ照屋さんは猪瀬さんを語るのに「直木賞」の文字を使ったのか、ネット界隈でさまざまな憶測を生みます。「猪瀬ナオキ、に掛けたギャグではないのか」「間違った知識をわざと書くことで自らのブログを取り上げてもらおうとする姑息な売名行為」「大宅壮一ノンフィクション賞も直木賞も、一般の国民にとっては区別のつかない似たようなものだ、と暗に示し、自分が国民感覚から遊離していないことをアピールした」などなど、第150回記念で直木賞候補作がせっかく早めに発表されたのに、そんな話題を吹き飛ばす勢いで、直木賞コメンテーターとしての照屋さんの株が突如、急上昇した、というわけです。

 「直木賞」は、文学とか小説とかで成り立っているわけではなく、ましてや本を売るだの、売れないだの、商売視点だけで語れるものでもない、まったく小説や文壇に興味のない人たちに知れ渡っていて、しかも、おのおのの不十分な「直木賞」観が、いたるところで発せられ、受け止められ続けている、……要するに、日本社会のあらゆる場所に、さまざまな役割と姿を担って存在し続けていて、はじめて「直木賞」たり得る、とワタクシは思っています。その立場からすれば、ここで照屋さんが、猪瀬さんに対して「直木賞を返上せよ」などと、いかにもトンチンカンな発言をしてくれた行為と、それが巻き起こした盛り上がりこそ、まさしく「直木賞」の重要な一側面だ、と言わざるを得ません。

 その意味では、照屋さんは、まったくトンチンカンではなかったわけですね。むしろ直木賞らしさに、真っ正面から光を当てた、とすら言ってしまいましょう。

 で、「トンチンカンではなかった」と、ワタクシが思うもうひとつの理由は、「ノンフィクション」を主戦場にしてきた猪瀬さんに対して、「直木賞」の言葉を選択した点です。「ノンフィクション書いて直木賞なんかとれるわけないじゃん、バーカ」っていう感想をもつ人も多かったかもしれませんけど、こうやって、すぐに枠にハメて物事を語りたがる世間の感覚と、直木賞(の選考委員の一部)は戦ってきた歴史があるからです。

 戦ってきた選考委員の一部。……代表は、誰が何といおうと、大佛次郎さんです。「小説以外に直木賞を」と訴えつづけて30余年。「直木賞は小説に与えられるものだ、そうに決まっている!」と頑なな考えを持ちつづけた他の選考委員や、周囲の観客たちに、あきれ返った視線を浴びながら(?)、それでも、みんながこれぞ直木賞だ、と思わないものに与えてこそ直木賞には意味がある、との信念を崩さなかった、偏屈で、傍流好きな、とにかく変な人でした。

 少し大佛さんの選評から、その考えからよく現われているものを追ってみます。

「僕ら(引用者注:選考委員)は、大衆文芸作品だから、多くの人に読まれたものと云うのを決して直木賞の条件にはしていない。人の顧みなかったものでも佳作品だったら飛びつきたいのである。(引用者中略)作り上げられた標準に適うものよりも、僕らを新しく驚かせるようなものが欲しいのである。」第5回選評 『文藝春秋』昭和12年/1937年9月号より)

 「作り上げられた標準に適うもの」を、下位に置いているのがミソです。

直木三十五という人は小説だけでなく多方面の男だったから、この文学賞は単に文学作品としての形にとらわれないで、ジャアナリスチックなもの、たとえばルポルタージュとか、伝記、歴史、紀行等にも目をつけてもいいと思う。」(戦後第一回委員会での意見 『文藝讀物』昭和23年/1948年6月号「直木賞を繞って」より)

 えっ、と目を疑うような主張。コレ、狂人の発言ではありません。直木賞を選考する重鎮委員がまじめに語っている発言です、念のため。

「もう十年近くも私は直木賞の範囲を所謂大衆小説に限りたくないと主張して来ている。井伏氏の「ジョン萬次郎」を推したのも、その立場からであった。あれは大衆小説ではない。直木が多方面の男で、考証的な文章のみならず、評論や文壇ゴシップを書かせても独創のある「作品」を残したので、そう言う外側の文学でも傑出したものがあったら直木賞を贈るべきだと考えて来た。新聞雑誌に現れる訪問記事、会見記の類いでも優れたものならいゝのである。」第22回選評 『文藝讀物』昭和25年/1950年6月号より)

 あは。大佛さんの直木賞観サクレツです。

(引用者注:受賞した杉森久英の)「天才と狂人の間」は面白かったし、直木賞になってよかった。小説だと考えなくともよい。伝記でも史談でもよく、なまはんかに小説に作られたものは危険である。」第47回選評 『オール讀物』昭和37年/1962年10月号より)

 「小説だと考えなくともよい」と、さらりと言っています。

「阪田氏(引用者注:阪田寛夫の「わが町」が私には面白かった。大阪周辺の町の生活のスケッチだが、現代風で明るく微笑を誘うエスプリを持っている。」「写生文と名乗った高浜虚子の「鶏頭」の中の上方を描いた文章「風流懺法」や「大内屋旅館」「いかるが物語」が小説と考えられたように「わが町」も小説と見られる。小説に書かなかったところが、逆しまに素直に小説の効果を出したのである。直木賞にしてよいと私は思った。」第60回選評 『オール讀物』昭和44年/1969年4月号より)

 阪田さんの『わが町』は、受賞手前の惜しいところまで行ったんですが、どうやっても随筆としか読めない、などという意見もあって、次点に終わりました。ところが大佛さんは「小説に(として?)書かなかった」点が逆に、直木賞として優れている、と言うわけです。

 要は、いかにも小説、って作品より、えっ?これを「優れた小説を決める」直木賞が選ぶの?バカじゃないか。みたいな作品を、大佛さんは採りたがっていたんですね。

 さあ、ここで大佛さんに、本気で授賞を主張させる強力な候補作が現われます。昭和45年/1970年1月のことです。

 前年、昭和44年/1969年に『三岸好太郎』と『藤田嗣治』の二つの作品を上梓した読売新聞美術記者、田中穣さん。一方の『三岸好太郎』は、できたてホヤホヤの第1回大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補にまで残り、ジャーナリズムから現われた気鋭の評伝作家・田中穣、の名を世に知らしめました。かたや『藤田嗣治』も、『三岸~』とも似て、実在の人物について見聞と取材を重ねた評伝、もしくはノンフィクション。……これが直木賞の候補に挙げられたのです。

「田中穣の「藤田嗣治」という作品を、大佛さんとしては珍しいほど、粘り強く熱っぽく支持した。」「戦後の直木賞の詮衡会議には、わたしは欠かさず陪席していると思うが、大佛さんの作品鑑賞の基準はきわめて豁達で、小説という形式に鹿爪らしく拘泥しないようにも感じられる。」(昭和47年/1972年9月・青蛙房刊 鷲尾洋三・著『忘れ得ぬ人々』所収「大佛次郎」より)

 珍しいほど、粘り強く熱っぽく……だそうです。『藤田嗣治』に対するこの姿勢、大佛さんの面目躍如たるものがありました。

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2013年12月15日 (日)

吉川英治〔選考委員〕VS 南條範夫〔候補者〕…もっといいものが書けるはずだ、と期待をふくらませ、ふくらませ、どんどんふくらませ……。

直木賞選考委員 吉川英治

●在任期間:通算20年半
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第20回(昭和19年/1944年下半期)、第27回(昭和27年/1952年上半期)~第47回(昭和37年/1962年上半期)

●在任回数:41回
- うち出席回数:25回(出席率:61%)

●対象候補者数(延べ):247名
- うち選評言及候補者数(延べ):130名(言及率:53%)

 いろんな人の回想文などによると、かつての直木賞選考会には、何となしに「座長格」とも言うべき委員がいたそうです。その座長格の委員が、場の空気を読みながら、最後に「では、この作家にあげよう」とか「今回は授賞なしで行こう」とか言い、その一言で混乱もつかみ合いの喧嘩もなく場が締まる、みたいな。

 ……と言っても、選考結果を見渡すかぎり、ほんとにそんな委員、いたのかいな、と首をひねりたくなる、傍からはほとんどうかがい知れない、その場かぎりの茫漠たる雰囲気みたいなハナシです。一時はその役目を川口松太郎さんが担っていたといいますし、それより前は、吉川英治さんがそうだった、なんて言う人もいます。と、これは前に紹介した源氏鶏太さんからの受け売りです。

「その頃(引用者注:吉川と源氏が選考委員をしている頃)、吉川さんの発言は、千鈞の重みがあった。同時に、十人に近い委員会のまとめ役のようになっていられた。後に、まとめ役は、川口松太郎氏になった。が、その川口氏がお辞めになってからは、ぜひ必要なまとめ役をする人がいなくなった。そのせいでもあろうか。昔の委員会は、各自独自の意見をいったが、最後は何んとなく一つにまとまった。今は、そのまとまりが薄れて来たような気がしている。」(『文藝春秋』昭和58年/1983年11月号 源氏鶏太「直木賞選考委員」より)

 じつは吉川さんも川口さんも、選考委員のなかではダンのトツに欠席の多かった人です。それでよく「まとめ役」になり得ていたな、と思わざるを得ません。彼らがいないときは、何となく一つにまとまっていなかったんでしょうか。そのことは残念ながら源氏さんは、ここでは語っていません。

 まあ、吉川さん(のようなビッグネーム)が一言いえば場が全部そちらになびく、としておいたほうがハナシは単純でわかりやすいですし、外野から語るにも都合がいいです。そこに、海音寺潮五郎敢然と吉川英治に反抗して司馬遼太郎への授賞をもぎ取る、みたいな「伝説」が跋扈する土壌があるとも思います。

 それと、もうひとつ、吉川さんの選考委員人生(とくに戦後の第27回 昭和27年/1952年上半期以降)を語るうえで、都合のいいストーリーがあります。吉川さんが時代小説の候補にあまり高い点を入れていないことから、時代作家は時代小説に厳しい、推理作家は推理小説に厳しい、要するに自分のライバルになりそうな候補者を、選考委員は落とそうとする、なんていう、すごく据わりのいい、香ばしい薫りのする、多くの人間が好んで採用する物語です。

 ……まあ、現にそういう選考委員もいたかもしれません。吉川さんにしても、戦前、第11回(昭和15年/1940年上半期)に河内仙介「軍事郵便」を新聞紙上で激賞したのに始まり、伊地知進「廟行鎮再び」、木村荘十「雲南守備兵」、戦後は白藤茂「亡命記」、長谷川幸延「裏道」「蝶々トンボ」、新田次郎『強力伝』、野口冨士男『二つの虹』、葉山修平「日本いそっぷ噺」、水上勉「雁の寺」などなど、とかく現代物を推奨する機会の多い人でした。それで、司馬『梟の城』や池波正太郎「錯乱」などに、ブーブー文句を言って注文をつける姿勢をとったものですから、よけいに時代物の後進に厳しかった、っつうイメージを助長させたかもしれません。

 ただ、ワタクシの見解では、吉川さん、今東光「お吟さま」を直木賞の場にひっぱり出した一大功績もありますし、杜山悠「お陣屋のある村」を褒めてますし、なにより1950年代から60年代前半は、候補に上がる時代小説に対して、吉川さんだけじゃなく、数多くの選考委員がなにがしか注文をつけ、しりぞける姿勢をとっていました。直木賞では時代小説が有利だ、なんていうのは、少なくともこのころに関しては、ウソです。この傾向が、吉川さんひとりの投票行動によってつくられた、などとはとうてい思えません。

 で、今日は、吉川さんから大変厳しい評を受けつづけ、授賞のときもやっぱり、高い評価を得られなかった時代小説書きのひとり、南條範夫さんの件を書きます。南條さんが受賞したのは第35回(昭和31年/1956年・上半期)。やがて吉川さん晩年のときに、若い時代作家たちよあまり才能を浪費しないでね、っていうお小言を頂戴することになる司馬遼太郎(第42回受賞)、池波正太郎(第43回受賞)に通ずる萌芽が、南條さんのときに垣間見える、吉川さんの「激闘史」です。

 南條さんは、よく知られるがごとく、時代物ではなく現代物から出発しました。昭和25年/1950年『週刊朝日』の「第1回朝日文芸「百万人の小説」百万円懸賞」にユーモア小説「出べそ物語」を投じて入選、10万円の賞金ゲット(南条道之介・名義)。翌年、昭和26年/1951年『サンデー毎日』創刊三十年記念百万円懸賞小説の「現代小説部門」に「マルフーシャ」を応募すると二席入選、これまた10万円の賞金ゲット(有馬範夫・名義)。このときは、丹羽文雄、林芙美子2人が選者を務めるはずだったのが、途中で林さん急逝のため、丹羽さんひとりで選考を務めたものですが、「歴史小説部門」の選者のひとりが吉川英治さんで、このとき選外佳作に選ばれたことが縁で、杉本苑子さんが吉川さんの家に出入りするようになります。しかし、南條さんと吉川さんとはとくに無縁でした。

 はじめて南條さんと吉川さんが接触(?)したのは、さらに2年後、昭和28年/1953年。南條さんがその筆名を使い、第1回オール新人杯に「子守りの殿」を送り、見事、当選してからです。吉川さんが選者だったわけではなく、「子守りの殿」が『オール讀物』3月号に掲載され、これを読んだ吉川さんから南條さんのもとに、励ましの手紙が送られてきたことにありました。

「私がオール讀物の新人杯第一回に当選した時、吉川さんから長文の激励文を頂いた。大変うれしかった。この文を書くのにそれを引用したいと思って探してみたが、転居の際に紛失してしまったものか、どうしてもみつからない。」(平成1年/1989年10月・講談社刊『吉川英治歴史時代文庫43 上杉謙信』所収 南條範夫「私と吉川英治氏」より)

 南條さん自身、まだ作家になろうとは思っていなかったと言います。しかし、『週刊朝日』や『サンデー毎日』でお茶を濁す(……って表現が変だな)程度ならよかったものの、オール新人杯に手を出してしまったのが運のツキ。オール新人杯→直木賞、のラインを何とか軌道に乗せようともくろむ上林吾郎編集長の策略にからめ取られ、次々と新作執筆を乞われては、同誌に原稿を書き、何度も直木賞候補に挙げられる日々が訪れるのでした。

「時代物を書いたのは「子守(原文ママ)の殿」が最初であった。(引用者中略)「子守の殿」は、昭和廿八年三月号の「オール讀物」に掲載された。第一回の新人杯当選者だから大いに引き立ててやろうと言う積りだったのだろうと思うが、その後、殆ど毎月、何か書けと言ってくれた。

 しかし、当時の私は三つの大学で講義する傍、経団連その他の経済団体の仕事をしていたし、「支配集中論」「日本金融資本論」等、本来の専門の著書をも書いていたので、なかなかその暇がない。

 その上、歴史的知識など皆無なので、全く初歩から勉強せねばならず、年に二つか三つの短篇を書くのが精一杯であったが、「不運功名譚」「水妖記」「畏れ多くも将軍家」「燈台鬼」などを「オール讀物」に載せて貰い、「燈台鬼」が、今官一氏の「壁の花」と共に昭和卅一年度上半期の直木賞を受けたのである。」(『オール讀物』昭和37年/1962年6月号 南條範夫「いつのまにか作家に」より)

 「子守りの殿」は「不運功名譚」といっしょに第29回(昭和28年/1953年・上半期)の直木賞候補に。「水妖記」で第31回(昭和29年/1954年・上半期)最終候補、「畏れ多くも将軍家」で第32回(昭和29年/1954年・下半期)予選通過、「燈台鬼」で第35回(昭和31年/1956年上半期)候補……。3年半で4度、選考会の場に作品がはかられることになります。

 その場には常に、長文の激励文をくれた吉川英治さんがいました。前半2度は欠席でしたけど。

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2013年12月 8日 (日)

伊集院静〔選考委員〕VS 桜木紫乃〔候補者〕…イチオシはしてくれない厳しい人、でも温かく励ます優しい人。

直木賞選考委員 伊集院静

●在任期間:3年
 第144回(平成22年/2010年下半期)~第149回(平成25年/2013年上半期)在任中

●在任回数:6回
- うち出席回数:6回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):33名
- うち選評言及候補者数(延べ):29名(言及率:88%)

 平成25年/2013年の日曜日もあと4回。そろそろ今年一年を回顧するのにふさわしい時期です。まるで時流からは置いてけぼりのうちのブログでも、一週ぐらいは、殊勝な顔して平成25年/2013年のおハナシをしてみたいと思います。

 今年の直木賞で最も大きな出来事は。といえば、そりゃあもう、安部龍太郎さんがチョー久しぶりに候補になって、「えっ?おれが?」と戸惑いながらも、57歳にしてさくっと受賞してしまったこと……とか言っても直木賞マニア以外からは何の共感も得られないでしょうから、ここは一般的な視点で行きます。……つい昨日までは北海道でジミーにコツコツ小説を書くお母さん、それが〈タミT〉と〈ラブホテル〉のおかげで一気に話題沸騰し、まさかアノ『ホテルローヤル』がこんな売れるか? と誰もが首をひねった、って展開でおなじみの、急転直下の桜木紫乃さん受賞。やっぱこれでしょう。

「芥川・直木両賞は、いまや狭隘な出版界の分野を越えて、社会的な話題を賑わすイベントになって久しく、第149回の直木賞受賞作品、櫻(原文ママ)木紫乃の『ホテルローヤル』(集英社)が目下、50万部のベストセラーに駆け上がっている。(引用者中略)受賞者自身、床屋上がりの父が突然始めた実在の「ホテルローヤル」の掃除を手伝って、部屋を利用した男女の成れの果ての姿を見ているだけに、小説のリアリティー性が、波紋をひろげているのである。

(引用者中略)

 読む者は、作品の成り立ちから、実話が下敷になっているやの思いに駆りたてられるが、ひときわ小さな字で書かれた最終頁の一行で、小説の醍醐味を堪能できる。」(『月刊BOSS』平成25年/2013年11月号「塩澤実信の新「ベストセラーの風景」」より)

 ちなみに「ひときわ小さな字で書かれた最終頁の一行」っつうのは、「本書はフィクションであり、実在の団体、地名、人名などには一切関係がありません。」の一文のことかと思われます。要するに塩澤実信さんは、『ホテルローヤル』は、直木賞受賞後に盛んに取り上げられたような、桜木さんの生まれ育ってきたバックボーンを知っていなければ、とうてい小説の醍醐味は堪能できない、と言っているわけですね(……って、そんなわけないか)。

 小説のリアリティー性がそんなに波紋を広げたのかどうなのか。ワタクシにはまるでわかりませんけど、少なくとも「ラブホテル」のハナシだからといって買ってみた人は、たくさんいたでしょう。そして当然ですけど、「ラブホテル」の小説だから売れたのではなくて、「ラブホテルのことを描いて直木賞をとった」小説だから売れたわけです。みんな、エロいことと権威が大好きですからね。そして期待しながら読んで、何じゃこりゃあ!と怒り狂って思わず『ホテルローヤル』を壁に投げつけた人もいたかもしれないなあ、と想像すると、ムフフフとおかしみが沸いてきます。イメージ先行からくる期待と失望。それが直木賞の魅力ですもんね。

 で、作者自身のバックボーンを、さんざんネタにされてきた先達が、今日のエントリーの主役となる選考委員です。伊集院静さん。前にも「初候補での受賞者」として取り上げたことがあります。そのときと似たようなハナシが出てくるかもわかりませんが、ご勘弁を。

 まあ、伊集院さんの作家としての歩み(いや、文学賞受賞の歩み)には、どうしたって、好奇のマスコミの目、っつうやつは外せませんから。

(引用者注:第12回吉川新人賞を受賞した)『乳房』は、がんと闘う妻へのこまやかな心づかいが描かれた作品で昭和60年、白血病のため27才で亡くなった妻・夏目雅子さんの闘病体験がモデルとなっているともいわれている。」(『女性セブン』平成3年/1991年3月28日号「伊集院静さん(42) 亡き妻夏目雅子さんがモデル?の小説で吉川英治文学新人賞」より)

 などと言って書かれ、伊集院さんもカッとなって、

「選考の対象になった本は『乳房』というタイトルの短編集である。

 この表題作が、亡妻と私の関係に似ているというので、出版の前から一部の芸能誌・紙が取りあげた。

 本人が違うと言っているのに、ライターが勝手に書き立てた。腹が立ったので、小説のタイトルを変えて欲しいと出版社に言ったら、

「『乳房』でないと売れません」

 と言われた。」(平成3年/1991年10月・文藝春秋刊 伊集院静・著『時計をはずして』所収「春が来た」より)

 と抵抗を試みようとしたエピソードとか。

 とにかくこの時期の伊集院さんといえば、小説界では「うまい人」っていう評価が広まっていたんですが、一般的にはそんなものどうでもよくて、「夏目雅子の元・夫」という印象が強いころでした。当然この印象は、それから約1年後に訪れる第107回(平成4年/1992年上半期)のときも、伊集院さんを紹介するならコレさえ言っておけば大丈夫、みたいな安定感バツグンの効果を発揮していきます。

「化粧品のCMで起用したのが縁で結婚した女優の夏目雅子さんを85年に白血病で失い、酒と競輪の日々から執筆活動に入った。そんな人生経験が作品の世界に深みをもたせるのか。」(『朝日新聞』平成4年/1992年7月17日「ひと 伊集院静さん」より ―署名:白石明彦)

「「野球というゲームを考え出したのは人間じゃなくて、人間の中にいる神様のような気がするんだ」◆作中の人物にこう語らせている。伊集院静氏の直木賞受賞作「受け月」は情感豊かな短編集だ。(引用者中略)◆伊集院氏は夫人の夏目雅子さんを亡くして、作家活動に専念した。「神様がこしらえた野球」が直木賞受賞作をこしらえてくれた。」(『読売新聞』平成4年/1992年7月16日夕刊「よみうり寸評 伊集院静氏が野球を通して人生を描いた「受け月」が直木賞に」より)

(引用者注:受賞の)決定は原稿執筆中の宿で聞いた。「敷金、礼金が払えないんで、居を定められない。宿代のために働いているようなものです。直木賞で本が売れるようになるといいなと期待しているんですけれどね」。選評に「キザだが読み終わった後、反感を抱かせない」の言葉があったが、これはご本人にも当てはまりそうだ。亡妻は女優の夏目雅子さん。」(『毎日新聞』平成4年/1992年7月16日「ひと 伊集院静さん」より ―署名:小玉祥子)

 最後の『毎日新聞』の記事なんか、もう。それを言わなければ絶対に原稿が完成しない、と言わんばかりに、前段までとのつながりを完全に無視して強引に入れた感ぷんぷんするかたちになっています。

 伊集院さんは、夏目さん関係だけでなく、他にもいろいろと女性関係を週刊誌に書かれつづけており、しかも受賞から半月後には篠ひろ子さんとの結婚が発表されて、マスコミにとってはビッグなプレゼントとなりました。もう芸能ニュースの人たちの興奮ぶりは上がりに上がりまして、と同時に、伊集院さんの受賞作『受け月』も、「直木賞受賞作はもうあまり売れなくなった」と言われる状況のなかで(←当時、すでに言われていたんすよ、ほんとに)、芸能ネタが後押しになって大いに売れちゃったのです。20年ぐらい前のおハナシです。

 直木賞の件を利用する芸能報道&その盛り上がりで広報されていく直木賞、の図。「ラブホテル」だけではまだまだ弱かった桜木さんの逸話も、ゴールデンボンバーの熱心なファンだ!記者会見で金爆の詞を褒めた! といった話題があったおかげで一気に関心をひくことになり、伊集院静→桜木紫乃の、作者の私的なハナシが芸能報道を刺激するラインが首尾よく完成したわけです。

 先に『毎日新聞』が、キザだが読み終わった後、反感を抱かせない、これは伊集院さん本人にも当てはまりそうだ、と書いていました。受賞後、桜木さんは、直木賞受賞者の特権(……!?)『週刊文春』での阿川佐和子さんとの対談にお呼ばれするんですが(平成25年/2013年8月29日号)、そこで伊集院さんとのエピソードについて語っています。これは現状ネットでも読める「花の送り主」(『朝日新聞』平成25年/2013年7月30日)に書いてありますが、まったく伊集院さんキザだなあ、としか思えません。自分の書いた小説の主人公の名前で、花を贈る、とかいう。キザすぎます。

 桜木さんは、それに続けて、選考委員であり先輩作家、伊集院さんとの関係性を、こう綴ります。

「「桜木、なにも気づかなかったならそれでいい。ただもう二度と俺の本は開くな」

 新人賞から十二年が経った。どちらの選考会でも、厳しく優しい目で桜木を見守ってくれたひとだ。たった一度、お目にかかったことがある。「あなた大丈夫だから」という言葉をもらった。あのひとことを支えにして書き続けている。花が問うているのは「お前、次はなにを書くんだ」だろう。耳の奥で「覚悟はいいか」と響いている。」

 伊集院さんが、小説現代新人賞のときに選考委員のなかで結城昌治さんが「ただひとり誉めてくれた」と記憶している、というハナシを思い出します。「厳しく優しい目」……伊集院さんは、桜木さんにどんな目を注いできたんでしょうか。選評で追ってみます。

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2013年12月 1日 (日)

中野実〔選考委員〕VS 森荘已池〔候補者〕…わずか一回、暗喩まみれの選評一篇しか残さず。

直木賞選考委員 中野実

●在任期間:2年
 第17回(昭和18年/1943年上半期)~第20回(昭和19年/1944年下半期)

●在任回数:4回
- うち出席回数:4回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):17名
- うち選評言及候補者数(延べ):1名(言及率:6%)

 直木賞がはじまって8年。昭和18年/1943年になると、文藝春秋社の社内はいろいろ内紛などもありまして、あるいは菊池寛さんはここらが潮ドキ、と思ったのかもしれないのですが、創設のときの直木賞委員を改選することに踏み切ります。菊池さんは言いました。

「芥川賞、直木賞委員の顔触を更新することにした。自分も、両方から隠退することにした。(引用者中略)今後は、芥川賞・直木賞とも、芥川賞・直木賞受賞者の中から、適当な人に銓衡委員になって貰うつもりである。」(『文藝春秋』昭和18年/1943年9月号「話の屑籠」より)

 それで結局、誰が新しく就任したのかと言いますと、芥川賞には、片岡鐵兵河上徹太郎岸田國士。第18回から火野葦平。直木賞では獅子文六(岩田豊雄)、中野実、濱本浩、それと井伏鱒二。……菊池さんが「芥川賞・直木賞受賞者の中から」と言っているのに、それに該当するのは火野さんと井伏さんだけで、他4分の3は、全然受賞者でも何でもない、という。思いつきでササッと言うだけ言って、じっさいはそのとおりにならない、っていう相変わらずの菊池寛クオリティです。

 芥川賞はどうでもいいです。直木賞のことを語ります。獅子さん、中野さん、濱本さん。「直木賞とれなかった三銃士」が第17回から選考委員になって、獅子さんは戦後もひきつづいて声がかかり、委員をしばらく続けていくんですが、問題は残る二人。中野さんと濱本さんです。直木賞委員をやっていたのはわずか2年。戦時下ということもあって、他の時代にもまして注目度の低いこの時期。いちおう今日は中野実さんをエントリーに立てましたけど、正直、書くべきことはほとんどありません。

 だってあなた。中野さん、参加した4度ともいちおう最終決定の選考会には出席したらしいんですが、うち3回は選評なし。残る1回も、授賞者、森荘已池さんに対する評しか書かず、いったい中野さんがどんな思いで直木賞の選考に関わったのか、なーんにもわからないんですもの。

 だから中野実選考委員といえば、いまとなっては、山本周五郎さんが「あんなやつが選んだ賞を、おめおめともらえるかっつうの」と毒づき、たまたま酒場でいっしょになったときは、ナカノミノル? だれですかそれ、とか言って周五郎さん、歯牙にもかけなかった、……なんていうエピソードぐらいしか残っていないのです。

 ナカノミノル? だれですかそれ。……ほんとにそうです。21世紀のほとんどの日本人が、そんな作家がいたことなど、まるで知らないでしょう。

 中野さんは昭和のはじめ、大衆文芸の牙城『サンデー毎日』などを舞台にユーモア小説を数々書き、また昭和8年/1933年~昭和9年/1934年に『日曜報知』に連載した「パパの青春」が大評判をとって、新進ユーモア作家として名を上げます。直木賞ができた昭和10年/1935年ごろには、週刊誌、女性誌、大衆読み物誌などから注文がひっきりなしに舞い込み、直木賞の選考会でも有力候補者として名前があがったりしたんですが、当時のユーモア作家群の例にもれず、軽ーい感じの小説を毛嫌いする選考委員たちに好まれず、賞とは無縁。

 それでも、直木賞をとろうがとるまいが、活躍中の作家にとってはあまり影響はない、っていうのは創設時も、いまも、大して変わりません(←ココ重要。ええ、大して変わらないんですよ)。中野さんの売れっ子ぶりはその後も続き、おびただしい量のユーモア小説を生み出していきました。

 ひとつに、中野さんが選考委員として選評を残さない怠惰ぶりを見せたのは、そもそも自分はユーモア小説で大衆作家扱いされているけど、それが本望ではなかった、っていう意識があったのかもわかりません。中野さんはずっと、劇作家になりたかった人でした。

「わたしは、ユーモア作家で、身すぎ世すぎをするつもりはなかった。劇作家になるつもりだったのである。

 十九歳のとき、上京して、岡本綺堂先生に師事したのも、劇作をやるつもりだったからである。(引用者中略)

 喜劇「二等寝台車」上演(引用者注:昭和6年/1931年)後、われは片々たる喜劇作家乃至はユーモア作家にあらずと、野心満々、史劇「木曾義仲」を書き、東京歌舞伎座の脚本募集に応じたところが、これも首尾よく当選し、脚光を浴びた。さてこそ宿望を達せりと、大いに期待するところがあったにも拘らず、雑誌社の註文という註文は、ユーモア小説をお書き願いたいというのである。(引用者中略)

 参考書を山と積んで、ねじ鉢巻で書いた「木曾義仲」は、一向にうかばれず、自分でも気がさすほどとぼけて綴った「パパの青春」が、いつの間にか、わたしにユーモア小説家の看板をかかげさせてしまったのである。」(昭和28年/1953年9月・駿河台書房/現代ユーモア文学全集『中野実集』所収「年譜にかえて」より)

 劇作のなかでもとくに中野さんが最初志していたのは「悲劇」だったとも言います。それが悲劇ではなく喜劇で注目され、その延長線上でユーモア小説まで書かせられる、という。中野さんいわく、「悲劇作家になりたかったのであるが、雑誌社からせがまれるまま、とうとうユーモア作家という、とんでもない所に来てしまった」(『丸』昭和30年/1955年2月号 中野実「悲劇とユーモア」より)って状況でした。

 そんなにイヤならユーモア小説、書かなきゃいいじゃないか。っつうのは、無論、無責任な外野の意見でしかありません。中野さんにも生活があります。和田芳恵さんが紹介するところによりますと、

「中野実は岡本綺堂の弟子で、劇作家が本業であった。芝居では食えないというので、「半七捕物帳」などを書いた師の真似で、小説に筆を染めたということである。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊『大衆文学大系30 短篇集・下』「解説 現代小説」より)

 売れるまでの苦難の日々については、中野さん自身も少し書いているそうで、神永光規さんのまとめた略歴を参考にすると、こういうことのようです。

「主な作品発表の場は、綺堂が主宰する『舞台』誌上であった。(引用者注:綺堂門下の嫩会に入った大正8年/1919年以後の)初期十年間にわたる修行時代に、「病気になったり、大阪の親父の處へ帰って子供の洋服を売って歩いたり、インチキなレヴュー団に関係したり、最後に東京郊外の遊園地で子供相手の芝居をしたり、ジグザグの生活を送り」(同右(引用者注:『舞台』昭和10年/1935年4月号所載の)「悲願千篇」より)といった苦悩の生活をすごす。」(平成14年/2002年7月・社会評論社刊『20世紀の戯曲II―現代戯曲の展開』所収 神永光規「中野実「明日の幸福」」より)

 要するに、本意じゃないけど売れるから通俗小説を書いて人気を博した、久米正雄さんや小島政二郎さんあたりの「第1期直木賞委員」と、その来歴は通ずるものがあります。

 しかもユーモア小説といえば、疎外された大衆文壇のなかでも、さらにあまり尊敬されない役どころ。受賞者がひとりも誕生していないこの界隈から、探偵文壇に先んじて、獅子文六、中野実、と二人も直木賞委員が生まれたのは、これはもう、戦争の影響を見ないわけにはいきません。

 獅子さんが岩田豊雄名義で『朝日新聞』に連載した「海軍」が大当たりをとったのが昭和17年/1942年、最初、獅子さんが直木賞委員になったときも「岩田豊雄」としてだった、なんていうのは、まさにこの一作の存在が大きくモノを言っていたからでしょう。いっぽう中野さんは、昭和13年/1938年、かなり早い時期に応召され、戦地に赴き、盛んに現地の様子を原稿にしたためて出版界・雑誌界から重宝されていました。昭和18年/1943年当時、ユーモア作家としてよりも「戦地作家」としての印象が強く、そのために、人材不足はなはだしい「直木賞委員になれそうな大衆文壇の人」のなかで、中野さんに白羽が立ったのだと思われます。

 中野さんが、対峙した(はずの)直木賞候補は、2年間で17件。どれもこれも、ユーモアなどとはほど遠い、重くてマジメな作品ばかりでした。唯一、中野さんは第18回の森荘已池さんに対してだけは評を残したんですが、はっきり言って、「これが選評かよ!」とツッコまれること必至の、のらりくらりとした選評でした。

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