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2013年11月10日 (日)

中山義秀〔選考委員〕VS 永岡慶之助〔候補者〕…稚拙で野暮ったいものこそ「花」だと言い切る反骨ジジイ。

直木賞選考委員 中山義秀

●在任期間:11年半
 第39回(昭和33年/1958年上半期)~第61回(昭和44年/1969年上半期)

●在任回数:23回
- うち出席回数:19回(出席率:83%)

●対象候補者数(延べ):190名
- うち選評言及候補者数(延べ):101名(言及率:53%)

 日本の秋は、中山義秀文学賞の秋。ってことで、昨日行われた第19回中山義秀文学賞の公開選考会の余熱を、当然のことながら、うちのブログでも引き継ぎまして、直木賞選考委員、中山義秀さんのことを取り上げます。まわりの状況に流されず、ただ自らの関心にのみ突き進む、いかにも中山さんらしい11年半の選考委員人生でした。

 中山さんはね、そりゃもう、他の人が褒めないような候補作を敢然と褒めて、授賞に何も貢献しない「死に票」を投じつづけた人、っつうイメージがあります。だいたい選考委員になりたての第39回(昭和33年/1958年・上半期)を見てください。山崎豊子榛葉英治かと、まわりが騒がしいときに、田中敏樹さんの「切腹九人目」をたったひとり推して、他の委員から苦笑(?)まじりの言葉を引き出している、なんていうこの光景を見ただけで、中山さんの姿勢もわかろうってもんです。

「私は「切腹九人目」を推したが、誰も賛成する人がない。推す理由はと問われたから、構想が面白いと答えた。」(『オール讀物』昭和33年/1958年10月号 中山義秀「選評」より)

「「切腹九人目」を中山義秀君がたった一人で最後まで推した事は田中敏樹君も記憶せられたい。義秀の熱意に応える意味でも好い作品を書いて欲しい。」(同号 川口松太郎「好い作品が多かった」より)

「「切腹九人目」を独り推してうごかなかった中山義秀新委員のたいどなど好ましかった。」(同号 吉川英治「寸感」より)

 あるいは、授賞した作品には、たとえ反対であっても何らか選評を残すのが世の礼儀、なんでしょうけど、中山さんは、そういうやりかたも採用しません。たとえば第42回(昭和34年/1959年・下半期)の直木賞といえば、ひとは戸板康二さんと司馬遼太郎さんのことばかりを語りますが、中山さんはこの二者に対して一行の評も残さず、落選した津田信「女夫ケ池」、新章文子『危険な関係』、杉森久英『黄色のバット』のことしか書いていません。反骨ジジイ、ここにあり、といったところです。

 むろん、いまに義秀精神を伝える(はずの)中山義秀文学賞も、そういった中山さんの姿をなるべく体現しようと心得ています。何しろイマドキ歴史・時代小説一本に絞り、東京中心の商業出版界から離れた白河の地で公開選考会をひらく、という。地方の文学賞の多くは、東京の出版界に色目を使い、選考会も東京の一料理屋でやったりして、あるいは、作家センセイ方の反感を買わないように候補作は非公開にして、キレイごとで済ませようとするこのご時世、しっかりと中山さんの精神を受け継ぐ文学賞に育っているのは、まったく敬服に値します。

中山 (引用者中略)われわれは作家の悪口を互に言ったり言われたりするけれど、悪口言われるようなその個性がみんな資本になって、小説が生れてくるのだからね。厄介なものをわれわれは持って生れてきたものだ。(引用者中略)

テレビなどで、如才なくお世辞なんか言っている年寄を見ると、いやな気がする。」(『新潮』昭和41年/1966年8月号 永井龍男、中山義秀「対談 人生凝視」より ―引用原文は昭和47年/1972年4月・新潮社刊『中山義秀全集第9巻』)

 で、今日の直木賞候補者は、義秀の弟子と名乗って直木賞を受賞した唯一の作家、安西篤子さん。でもいいんですが、昔ちらっと取り上げたことがあるので、別の方にします。こちらも中山義秀および義秀賞とは縁深く、創設のころ安西さんとともに選考委員を務め、またご自身も福島県会津の出身、戦後まもなく中山さんに師事して文学熱を高めた時代小説の雄、永岡慶之助さんです。

 少し直木賞とは外れますけど、まずは中山さんと永岡さんの縁から。

 よく知られているところですが、中山さんは最初の妻、赤田敏さんとのあいだに4男1女をもうけて、そのうち次男・黎也、三男・大和、四男・晋也の3人を生後1年足らずで次々と亡くし、昭和10年/1935年には敏さんをも喪います。残った長男・哲也さん、長女・玲子さんは、妻の家の「赤田」姓を名乗り、いっとき東京に住む中山さんから離れ、郷里の福島で育てられました。大正12年/1923年生まれの哲也さんは、旧制中学まで福島で学び、卒業後の昭和16年/1941年、妹とともに中山さんのもとに引き取られます。

「私(引用者注:赤田哲也)が中学を卒業して上京するので、それまでアパート住いだった父は、世田谷の梅ヶ丘に家を求めた。私はそこから予備校に通い、妹も恵泉女学院に転向した。(引用者中略)昭和十八年、父は海軍報道班員として南方地域に行き、半年ほど家を留守にした。私たち兄妹は、作家真杉静枝が決めた鎌倉極楽寺の家に移った。何が何だかわからなかったが、彼女と一緒に生活することになった。その年の十二月、私は兵隊に引っぱられた。」(平成12年/2000年10月・中山義秀顕彰会刊『中山義秀の映像』所収 赤田哲也「懐かしの義秀節」より)

 哲也さんが復員したのは昭和20年/1945年。そのとき、中山さんの鎌倉の家には、娘・玲子さんの他に、二番目の妻・真杉静枝さんとその両親、真杉さんの妹(寡婦)と娘4人、あるいは別の妹のもとに生まれた甥2人と、真杉ファミリーがわんさか暮らしていて、

「真杉は両親だけを私たちの家において、妹家族四人は隣家の六畳の間をかりて移し、食事だけいっしょにするようとりはからった。私の長男も復員してきたが、このありさまにおちつけなかったとみえ、会津の祖母の家へ行ってしまった。」(『東京新聞』昭和40年/1965年8月12日~9月17日 中山義秀「私の文壇風月」より ―引用原文は昭和47年/1972年4月・新潮社刊『中山義秀全集第9巻』)

 その後まもなく哲也さんは再度、東京に出てきます。中山さんとは鎌倉文士のお仲間、大佛次郎さんの始めた『苦楽』誌に編集者として働きはじめました。昭和22年/1947年はじめごろ、と推察されます。

 このころ、中山さん一家のまわりは、家族関係でゴタゴタしていた時期でして、真杉ファミリーと玲子さんとのあいだが険悪な仲となり、真杉の甥が玲子さんに暴力をふるって流血騒ぎまで起こすにいたってしまい、中山さん憤然となって、真杉さんと離縁。玲子さんは玲子さんで、中山さんが勧めていた縁談バナシを婚約までしながら断ると、哲也さんの軍隊時代の友人だった山本克巳さんと結婚することを決め、昭和22年/1947年に結婚。これが中山さんの「華燭」のモデルとなったハナシです。翌年、哲也さんも結婚、そして中山さん自身も再婚、という具合にパタパタと縁が結ばれていきます。

 それで永岡慶之助さんですが、このころ鎌倉に住み、中山さんの家に通っていたそうです。哲也さんとの関係だった、といいますから福島の旧制中学で同級だったとか、そういう縁でしょうか。

「昭和二十二年の初夏、当時極楽寺九二番地といった中山邸の小庭の梅樹に、熟れた青い実がのぞかれた季節の夕景、私(引用者注:永岡慶之助)は義秀先生とともに、手廻し式のポータブル蓄音器を前にして神妙に耳を傾けていた。その頃の私は、中山邸の隣家の藤棚のある部屋から、江の電の線路を隔てた月影谷に居を移していたが、ほとんど家人のように師の許に出入りしていたのである。」(前掲『中山義秀の映像』所収 永岡慶之助「虚空鈴慕」より)

 中山さんと三人目の妻とのあいだに生まれた日女子さんは、永岡さんから聞いたこんな話を披露しています。

「永岡慶之助さんは会津出身の小説家でいらっしゃるが、兄(引用者注:哲也)との御縁でその頃鎌倉に住まわれて文学修業をしていらした。ちょうど父と真杉さんの住居の真ン中あたりにしばらく住んでいらしたそうだ。

「ボクはね、両方と会う機会があるでしょう。そうするとね、お互いに安否を尋ねるんだね。道で真杉さんに会うと、『どう、義秀さん元気?』って聞いて来て、義秀先生のところへ行くとね、『真杉、どうしてるかね』って聞くんだね」

 と話して下さった。」(平成9年/1997年4月・講談社刊 中山日女子・著『鎌倉極楽寺九十一番地』「うたかた」より)

 永岡さんは、赤田哲也さんと同様にまもなく雑誌編集に仕事の口を見つけ、昭和22年/1947年に公友社に入り、『明日』から娯楽雑誌……といいますから『新読物』か『読物と講談』あたりの編集に携わります。このときに、山手樹一郎さんのところに通ううち、上野一雄さんや横倉辰次さんらが山手さんを巻き込んで始めた勉強会「要会」(かなめ会、とも)に参加するようになります。昭和30年/1955年、公友社がつぶれ、河出書房に移りますが、そこには一年も在籍せず、以後文筆業。倶楽部雑誌などを中心に歴史物を書いていました。

 かなめ会の同人誌『新樹』に第2号から第10号まで連載したのが「斗南藩子弟記」で、これが昭和35年/1960年大和出版から刊行されますと、永岡さん、38歳にしてはじめて直木賞候補に挙げられます。第45回です。

 下馬評ではとにかく、売れっ子作家・水上勉さんの、『別册文藝春秋』に掲載された「雁の寺」の評価が高く、まずこれだろうと思われていたフシもあるんですが、いやいや、『斗南藩子弟記』も相当に認められ、存外に票を集めてしまうのです。とくに熱く推したのが、そう、中山義秀さんでした。

          ○

 この回の中山さんの選評は、全篇、永岡さんの『斗南藩子弟記』に対する評で占められています。

「「雁の寺」の授賞にたいし、「斗南藩子弟記」を推した、三委員中の一人として、一般読者にも私の考を知ってもらいたいと思う。

「子弟記」を読んだ人々がこぞって認めているような、この八百枚におよぶ長篇には、作者の並々ならぬ努力がそそがれている。

 その大きな努力の重みのために、かえって作品の流露感が鎖ざされてしまっているような形になった。

 それがこの作品の賞を逸した主な所以ではなかったかと思われる。「雁の寺」をはじめ巧緻な二、三の作品とくらべてぎこちなく、稚拙と感じられるほど野暮ったい。

 しかし、私はそれだからこそ、この作品を高く買っている。ざらざらした野石みたいな素朴さの中に、無垢な生命があふれ耀いている。売文のために書かれたのではない処女性を、私は尊しとするのだ。

 私は主張の通らなかったことを、いまだに遺憾に思っている。こうした作品は、二度書きうるものではない。それだけに惜しくてならぬ。

 作者のためというよりも直木賞のために。敢ていえば、作者は賞を逸したが、直木賞は花を逸した。」(『オール讀物』昭和36年/1961年10月号 中山義秀「直木賞の花」より)

 ベタ褒めと言いましょうか。ピッカピカに輝く新進作家・水上さんを差し置いて、永岡さんの地味で地道な努力作『斗南藩子弟記』をこそ、「花」だと言うのですから。中山さんの考えが、よーくわかる選評です。

 かなめ会でもお仲間の、大衆雑誌の編集者、伊藤文八郎さんはこう語っています。

「永岡慶之助は「斗南藩子弟記」で直木賞を水上勉と競い、この時は水上の作品「雁の寺」が受賞した。選者であった中山義秀は、永岡慶之助の作品を激賞、今回の直木賞に関しては花を逸した、とまで残念がってくれた。永岡は福島県出身の作家で、郷土の誇りを賭け、会津士魂を高らかに詩う作家だが、新聞連載の長編「伊達政宗」は、彼の知能を全力で投げ込んだ、時証も含んでの快作である。重厚が彼の作品の独自性である。」(平成10年/1998年5月・桃園書房刊 伊藤文八郎・著『紙魚の鼻いき 編集者生活五十年 私的戦後文壇史』「第4章 踏み越えて、また」より)

 いずれにせよ、歴史・時代作家、永岡慶之助の名を知らしめたのは、まさにこの一作によって、だったと言っていいでしょう。永岡さん自身、この作品が新人物往来社から再刊されるときの「あとがき」で、

「この書は、私の処女作であるにも関わらず、思いがけなく直木賞候補に推され、また賞を逸しこそすれ、諸先輩から望外の評価をいただけたことで、記念すべき作品であった。」(昭和48年/1973年7月・新人物往来社刊 永岡慶之助・著『斗南藩子弟記――会津落城以後』「あとがき」)

 と書いているほどです。また、このあとがきでは、直木賞選考とからめたエピソードも書かれており、むろん(!)中山さんもここに登場します。

「川原勝治(引用者注:『斗南藩子弟記』を書くきっかけとなった覚書きを残した人。元・日本郵船の船長)についても、『斗南藩子弟記』は奇妙な因縁を生じた。というのは、当時直木賞選者の一人であられた故中山義秀氏から、後日うかがった話だが、同じ選者であられた今日出海氏が述懐されたそうだ。「川原さんという船長は、ぼくの親父の親友だった人だよ」と。人も知るごとく、今東光、日出海両氏の父君は、日本郵船の船長として、ながらく外国航路上にあられた方である。」(同)

 永岡さんは「諸先輩から望外の評価をいただけた」と書いていましたが、何といっても一番は、中山さんに褒められたことでしたでしょう。若き日、鎌倉の中山さんのもとに出入りしながら日の目を見ず、その後、同人誌に書いて、それが単行本化されたものが直木賞候補となり、しかも永岡さん、ここで中山さんのもとにすがろうとしなかった。その姿勢もまた、中山さんにとっては、潔く映り、激賞するに足るものだ、と思われた点でした。

 前掲の中山日女子さんは、不遇の時期、中山さんが聖書と出会い、古本屋で買い求めて精読した、ということを紹介しています。昭和22年/1947年ごろ、その読み込んだ聖書を、中山さんが永岡さん(当時は旧姓・富岡)に贈った、という逸話から、直木賞のことに触れています。

「その聖書を若い友人、会津出身の永岡慶之助さんに贈っている。昭和二十二年頃だ。その頃には父は文壇での地位を確立していたが、永岡さんはかつての父と同じように苦しんでいらしたのだろうか。永岡さんは父と違って穏やかなお人柄だが、やはり文学の毒にのたうちまわった日々もおありだったのだろう。キラキラと才能のきらめく人たちが集う鎌倉の「地獄谷」で、永岡さんは周囲の人が皆、自分よりも多くの才能を持つように思える日々を過ごされたそうだ。(引用者中略)

 永岡さんは二度直木賞の候補になって、二度とも落選なさった。昭和三十三年から、父は直木賞の選考委員をつとめていた。永岡さんは御自身と父との親しい間柄を考慮されて、作品が候補作となった時、父の元に顔を出されなかった。落選が決まったあと、あいさつに見えた永岡さんに、

「お前は立派だよ。よく俺のところへ来なかったな」

 そういって父は永岡さんの潔い身の処し方をほめた。永岡さんは直木賞の「選評」で父から好評を受け、また身の処し方をほめられたことで、

「賞はもらえなくてもこれでいい。これで一生行くんだ」

 と決心されたのだった。」(前掲『鎌倉極楽寺九十一番地』「十字架を負って」より)

 いいっすねえ。「賞はもらえなくてもこれでいい。これで一生行くんだ」のところ。直木賞は、受賞した、有名になった、とかそんな華やかさにまぎれて、こういうハナシがゴロゴロ転がっているところが、ワタクシ、好きです。

 第56回(昭和41年/1966年・下半期)、世間が五木寛之の登場に目くらましされているときに、中山さんがひとり、好意的に評した『VIKING』同人の津本陽さんが、そのことに感謝して小説を書きつづけ、のちに直木賞を受け、いまもその恩から、中山義秀文学賞の選考委員を務めているんですからね。中山さんが、その反骨ジジイの血を、少しでも直木賞に流しておいてくれたことを、ワタクシは直木賞ファンとして嬉しく思います。

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