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2013年10月27日 (日)

三上於菟吉〔選考委員〕VS 鷲尾雨工〔候補者〕…直木賞をウラで操る策士か、はたまた単なる面倒くさがり屋か。

直木賞選考委員 三上於菟吉

●在任期間:通算8年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)

●在任回数:16回
- うち出席回数:5回(出席率:31%)

●対象候補者数(延べ):70名
- うち選評言及候補者数(延べ):3名(言及率:4%)

 40を超えたおっさん同士が、友情だの仲違いだのに揉まれながら浮き世を漂い、けっきょくパタパタと死んでしまえば、だーれも気にかける人もおらず、残ったものは文学賞だけ。――という、直木賞ファンにとってはたまらないこの展開に、最もふさわしい選考委員&候補者のコンビといえば、もう三上於菟吉さんと鷲尾雨工さんの名を挙げるしかありません。

 あ、すみません、「だーれも気にかける人もおらず」、なんてウソでした。鷲尾さんについては、当時新潟東高校教諭だった塩浦林也さんの、誰もがドギモも抜くスーパー重要研究書『鷲尾雨工の生涯』(平成4年/1992年4月・恒文社刊)があって、もうこの一冊で、鷲尾さんの何から何までわかってしまう……んじゃないか、というぐらい感動させられます。え。そうでしょ。平成の世に、鷲尾雨工なんちゅう、第2回(昭和10年/1935年下半期)の直木賞を受賞したことしか知られていない、つまり大衆文芸史においてはどーでもいい(って、コラコラ)作家のことを、こうして調べ尽くす熱意。すごすぎて、まったく敬服です。

 それによりますと、鷲尾さんが、さんざん友人・直木三十五さんに食い物にされて、冬夏社の借金を背負わされ、大正12年/1923年から一時、郷里の新潟県小千谷町に帰り、大正14年/1925年5月、「直木三十五の活躍に刺激され、中野醸造を退職して上京し、牛込区矢来町二十二番地で氷屋兼おでん屋(商号は「江戸屋」)をやりながら、貧困に耐えつつ文学に志す」(同書「鷲尾雨工年譜より)といったころには、すでに三上さんとの関係が急速に深まっていたそうです。

「三上於菟吉は早稲田大学で雨工の一年先輩だったが、学生時代も中退後も雨工とは交際が無かった。後輩の雨工も先輩・三上の噂を聞くということはあっても、会って話す機会というものは無かったという。どういう用件で出向いたのかは不明だが、雨工が「初めて話合つたのは、三上氏が新見(ママ)附内で元泉社の名で出版をやつてゐた時」(同)だった。その三年後におでん屋を始めたというから、会ったのは大正十一年のことである。以後、三上は、ここに掲げたおでん屋時代を初めとして、陰に陽に雨工を支えた。その意味では、小説家・雨工の生みの親とも言える。」(同書「8 作家修業時代」より)

 以後、金の工面の相談にいった直木さんに冷たくあしらわれながら、どうにか文筆で立ちたいと苦労する鷲尾さんのことを、三上さんは、雑誌に紹介してあげたり、あるいは三井生命の勧誘員をして生活費を稼いでいた鷲尾さんのために、高額の保険に入ってあげたりと、いろいろ面倒みてあげます。鷲尾さんが、その間、書きつなぎ、どうにか春秋社から第一巻、第二巻と出た『吉野朝太平記』を読んで、これだ!これなら直木賞をとらしてあげられる!と三上さん、喜びました。昭和10年/1935年秋のことでした。

「雨工の直木賞受賞に向けて直接動いたのは、この三上だった。三上は「大衆文学の進度(ママ)」(引用者注:『吉野朝太平記』を取り上げた第3回は『東京日日新聞』昭和10年/1935年12月5日掲載)執筆前、十一月十日に刊行された第二巻が雨工から贈呈されると、第一巻とともに萱原宏一氏に贈り、おもしろいから読んでみてほしい、そして、機会があったら菊池氏に直木賞候補として推薦してほしい、と依頼していた。萱原氏が一週間の半分以上も菊池邸を訪れ、菊池寛と頻繁な接触があることを知っていたからである。この三上の依頼について、萱原氏は次のように語られた。

(引用者中略)鷲尾さんが直木賞をもらうについても、三上さんが「鷲尾に直木賞を取らせたい。直木賞をもらうと鷲尾も本物になるのだが……」と言って、「君、菊池君の所へ行って鷲尾君のことを推薦してくれないか」と話がありました。それで少々私も運動したのです。(引用者中略)(昭和51・6・20談)」(同書「9 作家時代・戦前」より)

 ということがあって、その後、塩浦さんは、菊池寛さんがすぐに鷲尾さんに『オール讀物』用の短篇を依頼し、鷲尾さんもそれに応えて「妖啾」を書き、昭和11年/1936年1月発売の2月号に掲載されたことを受け、

「一月号『文藝春秋』の「話の屑籠」を読んで感ずる所のあった者は、この二月号に出た「鷲尾雨工」に注目したに違いない。そして、菊池寛が推奨しているという広告文に、特別の意味を見出す者もいたのではないか。こうして、芥川・直木賞委員会開催前から、直木賞には雨工の『吉野朝太平記』という雰囲気が生まれていたのである。」(同書より)

 と論じています。

 戦前、とくに最初のころの直木賞は、菊池寛さんの意向が強く授賞に影響した、ということが言われ、まあ、ワタクシもそうだろうな、とは思いますが、やや塩浦さんの話の展開は、他の委員が菊池さんに遠慮して、あえて反対もせず、菊池さんひとりが授賞を決めた、といったようにも読めます。

「雨工への授賞は「全委員の意見の一致の上」だと「委員会小記」にあるが、「直木三十五賞経緯」(『文藝春秋』昭和十一年四月号)の選評で、小島(引用者注:小島政二郎だけが積極的に雨工を推し、他は、直木が「微苦笑してゐる」とか「大勢に順ずる」とか「諸兄の推すところ」などとし、自己の見解を主張しない風がみえる。おそらく菊池の意向を慮ってのことであろう。」(同書)

 いやいや。つうより、直木賞の選考委員って、芥川賞のほうほど熱心に選考に取り組んでいなかった、というハナシがゴロゴロあります。要するに、菊池さんに慮ったんじゃなくて、みなその程度の姿勢で選考していた、ってだけなんじゃないですか? 大佛次郎さんなんか『吉野朝太平記』を通読しても来ないし。「自己の見解を主張しない風がみえる」と言いますけど、久米正雄さんも白井喬二さんも、一応、『吉野朝太平記』の出来を褒めているじゃないですか。

 「菊池寛は文壇の大御所、直木賞も彼の意向ひとつでどうとでも変わる」という視点で見るから、慮った、と見えるだけなんじゃないでしょうか。選考委員なら、みながみな、賛成と反対をはっきりさせ、熱意を込めて選評を書く、と思ったら大間違いだと思います。とくに戦前の、創設のころは。

 菊池さんは、何といっても自分で言い出した賞ですんで、そりゃ少しは関わろうと努めたでしょう。その努力も、まもなく熱を失い、どんどん菊池さんは直木賞・芥川賞との関わりから身を引いていく節もあるんですが、比べて他の委員は、小島さんを除いては、ほんとヒトゴトと言いますか、選考会にも出てこない。

 何といっても三上さんの「ヒトゴト感」は、ほんとハンパありません。第2回を含めて他の回を通じて、別に菊池さんに遠慮して、出席しなかったとか自分の意見を述べなかった、というのじゃなく、そもそもあまり自分の仕事として認識していなかったのじゃないか、と思います。鷲尾さんを文壇に押し出す縁の下の力持ちぶりを十分に発揮しておきながら、選考会に出てきていませんから、三上さんは。選評も、書いていませんから。ああ、あなたが口を極めて絶賛しないで、どうやって第2回直木賞は落ち着くというんですか、と口惜しくなります。

          ○

 三上さんが怠惰だった、ズボラだった、ってわけでもないようです。

 岩橋邦枝さんは言います。

「「わが漂泊」(引用者注:三上の随筆集、昭和10年/1935年刊)に収録された文芸時評や雑感でも窺える流行作家於菟吉の、並みはずれた読書力と勉強熱心は文学書生の頃そのままである。多作を続けながら、ペトラルカ全集の英訳全十一巻を読破し毎月送られてくる二十余種の同人雑誌すべてにまで目を通している。

 直木三十五が生前、於菟吉を評して〈恐るべき明敏性、素晴らしい読書力と、創作力、(中略)もし、彼が、全精力を傾けて、同時に一作に、その熱情を集中させるなら、通俗小説として、彼につづく作家は、一人と雖も無いであろう〉と「大衆文学作家総評」の中で述べているが、けっして親友の過褒ではないことが「わが漂泊」一冊からもよくわかる。」(『評伝長谷川時雨』「第八章 全女性進出の表示板「輝ク」」より)

 三上さんの場合は、他のズボラな委員とは違って、昭和10年/1935年を境に、いろいろと災厄に見舞われて、直木賞選考どころじゃなくなった、って事情もあるとは思います。

「絢爛たる才華を謳われた奇才、三上於菟吉の文筆活動は昭和十一年の発病を以って終了した。三上さんはこうした悲運の到来を、なんとなく予感していたように、私には思われてならぬ。」(萱原宏一・著『私の大衆文壇史』「三上さんと金の玉」より)

 昭和10年/1935年春、といいますから第1回直木賞がまだ決まる前、自動車のドアに腕を挟まれ右腕を負傷、同じころ悪性の湿疹にも悩まされ、体中に皮膚病の薬を塗って繃帯を巻き、それでも幾本もの連載を抱えつつ、どうにかやっていましたが、昭和11年/1936年夏にぶっ倒れます。萱原さんいうところの「発病」というやつで、

(引用者注:長谷川)時雨が、於菟吉たおれる、の知らせを愛人羽根田芙蓉の家から電話でうけたのは昭和十一年夏のある朝だった。

(引用者中略)

 於菟吉は、右半身麻痺の寝たきりの体になった。(引用者中略)時雨は、病床の於菟吉を刺戟しないように面会謝絶にして、菊池寛たち親しい人たちとも会わせなかった。於菟吉はやっと少しずつ口がきけるようになったが、呂律がまわらなかった。病床生活の中で昭和十二年十三年にも数篇発表しているが、流行作家三上於菟吉の作家生命は四十五歳をもって終ったといえる。」(前掲『評伝長谷川時雨』より)

 昭和11年/1936年夏、といえば第3回直木賞が決まる前後です。その後、第16回まで名目上、直木賞委員を続け、第4回では角田喜久雄を推し、第5回第7回と選評を残していますが、病床のなかから関わっていただけで、当然、出席した記録はありません。

 まじで三上さん、直木賞はしょっぱなの第1回ぐらいしか姿を見せなかったんじゃないでしょうか。小島政二郎さんが、三上さんと酒席をともにしたことをエッセイで書いていますけど、これを読んでも、三上さんが「直木賞委員としての仲間」として遇されていない感じが、よくわかります。

「そのころ――日支事変がまだ始まっていなかったと思う。直木賞の銓衡委員会か何かのくずれで、白井喬二、大佛次郎、吉川英治と顔が合った時、白井君の言うのには、

「大衆文学の第一期の目的は達したと思うが、近ごろでは少々目標を失ったような形になっている。この辺で、我々が力を合わせてもう一度、第二期の活動にはいりたいと思う」

 そういう意味のことを言い、それには月々一回ぐらいずつみんなで集まって、一つの空気を?醸しようじゃないかということになった。

(引用者中略)

 この三人と私の外に、三上於菟吉を入れようという白井君の説に、みんなは賛成した。(引用者中略)私はこの四人とは付き合がなかった。白井、大佛、吉川とは、直木賞の委員会で年に二度ずつ顔を合わせてはいたが、それだけの付き合で、言わば公の付き合だった。(引用者中略)三上君とは、面識があるという程度だった。」(小島政二郎・著『食いしん坊』「三上於菟吉の悪酒」より)

 三上さん、元気な頃のハナシなので、それこそ直木賞が始まったばかりのことでしょう。そこで白井、大佛、吉川という3人の直木賞専任委員と、三上さんとを別に認識していた、っつうんですから、あるいは三上さんが第1回を出席したといっても、ほとんど参加しなかったのかもしれません。よっぽどです。

 ここで鷲尾さんが受賞していなかったら、三上さん、何のために直木賞委員をやっていたんだ、と言われることになったでしょう。……というか、ワタクシが真っ先に言っていたと思います。もし三上さんが体調を崩していなかったら、ぐいぐいと選考会を率いて、熱心な委員のひとりになっていたんでしょうか。それとも、やっぱり選考の表舞台には出ず、小島さんに「出てこいよ!」などとキレられていたんでしょうか。盟友親友、直木三十五の名を冠した賞に、いったいどこまで思いを込めていたのか、わかりにくい委員ではあります。

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