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2013年10月 6日 (日)

井伏鱒二〔選考委員〕VS 木山捷平〔候補者〕…賞をあげられていたら、よかったんだけどね。そうも行かなくてね。まあ酒でも飲もうや。

直木賞選考委員 井伏鱒二

●在任期間:通算15年
 第17回(昭和18年/1943年上半期)~第38回(昭和32年/1957年下半期)

●在任回数:22回
- うち出席回数:16回(出席率:73%)

●対象候補者数(延べ):143名
- うち選評言及候補者数(延べ):31名(言及率:22%)

 選評の書き方にはいろいろあります。源氏鶏太さんのように、なるべく多くの候補者のことに触れなくてはならぬ、とクソ真面目に一作一作、評する人もあれば、気になったものだけピックアップする大佛次郎パターンもあります。それから井伏鱒二さんみたく、たいてい授賞した作品のことだけしか書かないやり方もありました。なので、授賞なしの回の、井伏さんの選評は、どの作品にも触れられていない、なんてことがあったりします。

 井伏さんは、直木賞受賞者のなかで、一頭最初に選考委員になった人ですが、その第17回(昭和18年/1943年・上半期)の選評では、結局辞退した山本周五郎「日本婦道記」とか、立川賢「幻の翼」、辻勝三郎「雪よりも白く」のことを、あれこれ書きました。しかし、その後、井伏さんが、授賞作以外のことを書き記すことはなく、ずっと飛んで10年後、第30回(昭和28年/1953年・下半期)まで一度もありませんでした。

 第30回になって、禁(?)を破ってまで落選作に触れたのは、なぜだったのか。それはよくわかりません。わかりませんけど、どうしたって井伏さんが触れなくてはならない、あなたが何か言わなくて他の誰にそんな資格があるんですか、っていうほどの候補者が、そのなかにいたのは事実です。

 木山捷平さんです。

 井伏さんを師と仰いで、なにくれとなく励まされ、また「阿佐ヶ谷会」ではいつも顔を合わせて将棋を差したり酒を飲んだり。その人生の足跡のなかに、常に井伏さんの存在がありました。……と同時に、木山さんの身近には常に、直木賞と芥川賞の存在がありました。

 昭和8年/1933年、友人の神戸雄一さんに誘われて、同人誌『海豹』に参加。それから『鷭』だの『青い花』だの『日本浪曼派』だのと同人誌に加わって、第8回(昭和13年/1938年・下半期)ごろからひんぱんに芥川賞で名前が挙がるようになる……これはわかります。文芸を志して同人誌に拠る者、そりゃあ芥川賞のほうが目をつけたって、何の不思議もありません。だけど、井伏さんとツルんでいたばっかりに、木山さんは早々に直木賞の近くにも身を置くことになったわけです。

 「阿佐ヶ谷会」の発足については、諸説あるみたいですけど、萩原茂さんによると、こんな感じだそうです。

「阿佐ヶ谷会は戦前には阿佐ヶ谷将棋会と称しており、将棋を指したあとに飲み会が行われた。(引用者中略)小田嶽夫の文章、木山捷平の日記と年譜、井伏鱒二の「日記抄」、浅見淵の文章から考えると、正式には昭和十三年頃が阿佐ヶ谷将棋会の発足時期といえそうだ。(引用者中略)井伏鱒二が「阿佐ヶ谷将棋会が発足したのは、大体の記憶だが昭和四年頃であった」とするのは、その頃も将棋会を行っていたのは事実だが、他の会員たちにとっては、その後の阿佐ヶ谷会に続くことになる阿佐ヶ谷将棋会という認識はなかったとういうことなのだろう。」(平成19年/2007年8月・幻戯書房刊『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』所収 萩原茂「解説 阿佐ヶ谷会の素晴らしき仲間たち」より)

 で、萩原さんが作成した「「阿佐ヶ谷会」開催日一覧」を見ると、いちおう正式に(?)阿佐ヶ谷の将棋会として記録されている第一回目は、昭和13年/1938年3月3日ってことになっています。当然、木山さんもそこには出席していました。じつはこれ、名目上は、その年の2月、井伏さんが第6回直木賞を受賞したことを受けて記念で開催されたものだったらしいんです。

「三月三日 直木賞受賞を記念して、阿佐ヶ谷の将棋会所で将棋大会が開かれる。幹事は小田嶽夫と外村繁が務め、古谷綱武、太宰治中村地平、秋澤三郎、木山捷平等が集まった。二次会は、永井龍男(当時、文藝春秋社勤務)の次兄永井次郎が阿佐ヶ谷駅近くで経営していた、支那料理屋“ピノチオ”で行われた。」(平成11年/1999年12月・新典社刊 松本武夫・著『井伏鱒二年譜考』所収「井伏鱒二年譜」より)

 みなさん純文芸にご熱心な阿佐ヶ谷の集まりに、「外道・直木賞」の風まで吹かせてしまった男、井伏鱒二。まったく、直木賞ファンとしては頭が下がる思いです。って、井伏さんに何の自覚もなかったでしょうけど。

 満洲での生活を経て、戦後は郷里に疎開、なかなか再上京できなかった木山さんに、井伏さんはじめ阿佐ヶ谷会のメンバーは励ましの寄せ書きを送ったり、あるいは昭和27年/1952年8月には、お仲間たち参集して「木山捷平を激励する会」を催したり。なかなか注文原稿が増えずに、貧乏な状況から抜け出せず、あるいは心の晴れない日々を送る木山さんにとって、阿佐ヶ谷の仲間たちは、いつも温かく接してくれました。

 そして訪れたのが、芥川賞ではなくて、直木賞候補に入った、という報です。

 井伏さんは書きます。

「木山君の日記を見ると、阿佐ヶ谷将棋会が発足した昭和十二年以後、最晩年まで、私のことや共通の友達のことがたびたび記されてゐる。(引用者中略)たとへば昭和十四年二月五日のところを見ると、宇野浩二の日曜会に出席したときのことが書いてある。当時の芥川賞、直木賞のこと、日支事変で変質化して行く文学青年たちの突発的な行動などが記されてゐる。(引用者中略)

 木山君は芥川賞には大して関心を持つてゐないやうな風をしてゐたが、日記に書いてゐるやうに候補に立てられたと知つた上は、是非とも貰ひたいと思つたに違ひない。木山君は文壇将棋会でも、賞与が貰へるのを子供のやうに楽しんでゐた。」(『小説新潮スペシャル』昭和56年/1981年1月 井伏鱒二「木山捷平の詩と日記」より ―引用原文は昭和61年/1986年9月・新潮社刊『井伏鱒二自選全集 第十二巻』)

 あるいは、ちょっと先の二度目の候補「耳学問」関係のエピソードになっちゃうんですが、妻・みさをさんによる、捷平さんの文学賞バナシもあります。

「この年『耳学問』が直木賞か芥川賞の候補になっていると某氏からきいたが、この時は今東光氏の『お吟さま』と穂積驚氏の『勝烏』が受賞した。今までも賞の候補となった作品は二、三あったようだが、受賞はなかった。自分の文学が恥をさらしたものといって、人には決して語らなかった。」(昭和54年/1979年1月・講談社刊『木山捷平全集 第三巻』 木山みさを「あとがき」より)

 何が恥であるもんですか。と思うわけですけど、何度も落とされた木山さんの身にしてみたら、やっぱり受賞したかったのが正直なところでしょう。「直木賞候補」止まりじゃ、何の屁の役にも立ちません。

 さて「脳下垂体」が候補に挙がった第30回直木賞です。このときは、結局、ベテラン田宮虎彦か、新人白藤茂か、っていう争いになってどちらとも決めかねず授賞なし、に落ち着いたんですが、井伏さんがまず一番に心に秘めていたのは、どうやら木山さんの作品でした。当然のことながら。

「田宮君の「都会の樹蔭」は、巧妙に書けてゐると思つた。木山君の「脳下垂体」も落ちつきのある作風で素朴なユーモア掬すべきものがあると思つた。しかし木山君の作品は私小説に属するので、大衆小説として選ぶには異論があるかもわからない。もし異論が出るとすれば、その場合は田宮君の作品を推すつもりで私は会に出席した。

 席上、今回あたりから新人の作品を選びたいといふ説が出た。(引用者中略)木山君も新人ではない。田宮君はすでに流行作家の一人である。ことに木山君の作品は競争向きでない。

 いつたいに銓衡にかかる率が多いのはルポルタージユ風の作品のやうである。これは直木賞の場合だけでなく他の賞の場合も同じ傾向である。外国の何々賞受賞作品といふやうなものを見ても大体においてそれに近い。素材が刺戟的であるためばかりでなく、もしかすると刺戟的な珍奇な素材は自然に新風ある表現を生むせゐかもわからない。」(『オール讀物』昭和29年/1954年4月号「選を終へて」より)

 遠慮がちではありますが、でも異論がなければ木山作品を推し通したい、っていう思いがひしひし伝わってきます。

 木山さんのほうはどうだったかと、日記を見てみます。先に引用した井伏さんの文章にあるように、自分と関わりのある回ですから、直木賞・芥川賞のことを日記に書きつけていてもおかしくないんですが、このときは、1月22日に発表された結果に関してはとくに書き残されていません。ただ、その一週間前のところに、こうあります。

「一月十五日、金、晴。(成人の日)

 井伏氏訪問。昨日の小沼君との約束で、午後二時頃、小沼、吉岡両君と訪問。将棋をし、御馳走になり、円タクにて帰る。井伏邸には直木賞候補の雑誌が沢山きていた。」(昭和53年/1978年12月・講談社刊『木山捷平全集 第二巻』所収「日記 昭和十五年~三十年」より)

 直木賞のこと、気にはなっていたんでしょう。そりゃあ、まあ、そうでしょう。

          ○

 3年後、『文藝春秋』昭和31年/1956年10月号に木山さんの「耳学問」が発表されました。

 『文藝春秋』っていうのは、つまりアノ『文藝春秋』なわけでして、そんなところに載った小説が直木賞候補になるなんて、まず誰も思ってやしません。それまで候補になったのは、井伏さんが受賞した頃の遠い遠い昔、第7回(昭和13年/1938年上半期)、文春っ子の橘外男さんが書いた「ナリン殿下への回想」、ただ一例しかありませんでした。

 「耳学問」は、木山さんの代表作のひとつ、と言われるほどの好評を博して、いろいろなところで取り上げられ、戦後木山さんがはじめて出す作品集『耳学問』の表題ともなるわけですが、当時まだ河出書房に勤めていた山口瞳さんも、これに惚れ込んだひとりだったそうで。

「何年前だか忘れてしまったが、まだ戦後という感じが濃かったころ、木山さんの『耳学問』という小説を読んだ。凄い小説だと思った。文芸時評をやっている人や匿名の批評欄をもっている人の誰かれなしに、その小説を取りあげてくれるように頼んだ。文学賞推薦の一票を持っている人にも、それを推してくれるように頼んだ。編集者仲間にも吹聴した。

 そのころは、むろん、木山さんと面識がなかった。どうしてあんなに夢中になったのかわからない。多分、私の考えている小説と『耳学問』がぴったりあったのだろう。」(昭和44年/1969年5月・文藝春秋刊 山口瞳・著『小説・吉野秀雄先生』所収「木山捷平さん」より)

 山口さんのウラ活動が功を奏した、ってことはないんでしょうが、でもこの作品は直木賞予選会に推薦されて、あっとびっくり、候補となってしまうのです。

「一月十二日、土、曇、風強く寒し。

(引用者中略)夜六時、日本文学振興会より速達。『耳学問』直木賞候補になりたるにより、略歴、作品歴、を知らせよとの往復ハガキ。」(前掲『木山捷平全集 第三巻』所収「日記 昭和三十一年~三十四年」より)

 へえ、1月21日に選考会が行われるっつうのに、12日に速達が来ていたのか。ずいぶんとのんびりしていたんだな。……ということはさておき。

 1月21日がやってきます。無論、井伏さんは木山さんの味方です。支援者です。ここは一席ぶってくれるか、と思っていたら、あらら残念、その日、井伏さんは所用のため欠席。文春の係の人に、口頭で意思を表明するにとどまりました。

「私は都合あつて銓衡会に出席できなかつたので、幹事代理の人へ左のごとく口頭で申し入れておいた。

 ――候補作品のうち、単行本の方では村松喬氏の「異郷の女」を推し、切抜原稿の方では木山捷平氏の「耳学問」を推す。(引用者中略)捷平氏の作品は、文藝春秋に出たとき可成りの反響を呼んだ。作品の質が甚だ優良と認められたのであつた。衆目といふものを一応は尊重したい。事実また、大きな動乱を泰然として書きこなしてゐる手腕は相当なものだと思ふ。以上の二篇、いづれが取りあげられたにしても私は賛成するつもりだが、相成るべくは二篇とも当選すればいいと願つてゐる。」(『オール讀物』昭和32年/1957年4月号「報告」より)

 今度も落ちました。このときは木山さん、しっかり日記に残しておいてくれています。

「一月二十一日、月、晴。

 夜八時のニュースで直木賞に落選したことを知った(ツバメパチンコ店にて)。十時のニュースは、今東光、穂積驚両氏と告ぐ。芥川賞なし。」(前掲『木山捷平全集 第三巻』所収「日記 昭和三十一年~三十四年」より)

 夜8時のニュースでは、受賞者名を報じなかったんでしょうか。どんな内容だったんでしょう。「木山捷平氏は選ばれませんでした」とか……いや、まさかねえ。

 それで木山さんは、芥川賞からも、直木賞からも認められることなく、静かで地味な売れない作家として鬱屈と過ごしつづけることになるのでした。って続けようと思ったら、どうやらそうではなかったそうです。すみません。

「昭和三十一年(一九五六年)に、満州時代のことを書いた「耳学問」を『文藝春秋』に発表するんですが、この作品は、我が家にとって画期的なものでした。これが直木賞の候補になったおかげで、出版社から原稿の注文が来るようになったんです。

 父の顔もほんとうに生き生きしてきました。書けるということが、嬉しかったんでしょう。それまでは書いても発表するあてがない、発表の場は自分でつくらなくてはいけなかったのが、書くことを頼まれるようになった。母や私は心底「よかったなあ」と思いました。

(引用者中略)満州へ行って、この一年の苦しみは百年の苦しみだと言いながら帰ってきて、また十年も書けずに苦しんでいた。それを乗り越えて、「耳学問」で認められた。

 そういう「苦汁三十年」を支えてくださったのが、井伏先生をはじめとする阿佐ヶ谷会の方たちだったとぼくは思っています。」(前掲『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』所収「父・木山捷平の反骨 木山萬里さんに聞く」より ―聞き手:岡崎武志・河上進)

 「直木賞候補」止まりでも、多少は直木賞の効果があったんでしょうか。いや、直木賞っていうよりも、「耳学問」の力と、これが生まれるまでを支えてきた井伏鱒二さんたちの力でしょう、萬里さんが言うように。

 ここで直木賞が賞を送れていればなあ、きっと、「直木賞のおかげで木山さんはどしどし注文が来るようになった」とか、いろんな人に語り継がれることになったんだろうなあ。ああ、惜しかったね、直木賞君。いつものことだけど。

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