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2013年10月の4件の記事

2013年10月27日 (日)

三上於菟吉〔選考委員〕VS 鷲尾雨工〔候補者〕…直木賞をウラで操る策士か、はたまた単なる面倒くさがり屋か。

直木賞選考委員 三上於菟吉

●在任期間:通算8年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)

●在任回数:16回
- うち出席回数:5回(出席率:31%)

●対象候補者数(延べ):70名
- うち選評言及候補者数(延べ):3名(言及率:4%)

 40を超えたおっさん同士が、友情だの仲違いだのに揉まれながら浮き世を漂い、けっきょくパタパタと死んでしまえば、だーれも気にかける人もおらず、残ったものは文学賞だけ。――という、直木賞ファンにとってはたまらないこの展開に、最もふさわしい選考委員&候補者のコンビといえば、もう三上於菟吉さんと鷲尾雨工さんの名を挙げるしかありません。

 あ、すみません、「だーれも気にかける人もおらず」、なんてウソでした。鷲尾さんについては、当時新潟東高校教諭だった塩浦林也さんの、誰もがドギモも抜くスーパー重要研究書『鷲尾雨工の生涯』(平成4年/1992年4月・恒文社刊)があって、もうこの一冊で、鷲尾さんの何から何までわかってしまう……んじゃないか、というぐらい感動させられます。え。そうでしょ。平成の世に、鷲尾雨工なんちゅう、第2回(昭和10年/1935年下半期)の直木賞を受賞したことしか知られていない、つまり大衆文芸史においてはどーでもいい(って、コラコラ)作家のことを、こうして調べ尽くす熱意。すごすぎて、まったく敬服です。

 それによりますと、鷲尾さんが、さんざん友人・直木三十五さんに食い物にされて、冬夏社の借金を背負わされ、大正12年/1923年から一時、郷里の新潟県小千谷町に帰り、大正14年/1925年5月、「直木三十五の活躍に刺激され、中野醸造を退職して上京し、牛込区矢来町二十二番地で氷屋兼おでん屋(商号は「江戸屋」)をやりながら、貧困に耐えつつ文学に志す」(同書「鷲尾雨工年譜より)といったころには、すでに三上さんとの関係が急速に深まっていたそうです。

「三上於菟吉は早稲田大学で雨工の一年先輩だったが、学生時代も中退後も雨工とは交際が無かった。後輩の雨工も先輩・三上の噂を聞くということはあっても、会って話す機会というものは無かったという。どういう用件で出向いたのかは不明だが、雨工が「初めて話合つたのは、三上氏が新見(ママ)附内で元泉社の名で出版をやつてゐた時」(同)だった。その三年後におでん屋を始めたというから、会ったのは大正十一年のことである。以後、三上は、ここに掲げたおでん屋時代を初めとして、陰に陽に雨工を支えた。その意味では、小説家・雨工の生みの親とも言える。」(同書「8 作家修業時代」より)

 以後、金の工面の相談にいった直木さんに冷たくあしらわれながら、どうにか文筆で立ちたいと苦労する鷲尾さんのことを、三上さんは、雑誌に紹介してあげたり、あるいは三井生命の勧誘員をして生活費を稼いでいた鷲尾さんのために、高額の保険に入ってあげたりと、いろいろ面倒みてあげます。鷲尾さんが、その間、書きつなぎ、どうにか春秋社から第一巻、第二巻と出た『吉野朝太平記』を読んで、これだ!これなら直木賞をとらしてあげられる!と三上さん、喜びました。昭和10年/1935年秋のことでした。

「雨工の直木賞受賞に向けて直接動いたのは、この三上だった。三上は「大衆文学の進度(ママ)」(引用者注:『吉野朝太平記』を取り上げた第3回は『東京日日新聞』昭和10年/1935年12月5日掲載)執筆前、十一月十日に刊行された第二巻が雨工から贈呈されると、第一巻とともに萱原宏一氏に贈り、おもしろいから読んでみてほしい、そして、機会があったら菊池氏に直木賞候補として推薦してほしい、と依頼していた。萱原氏が一週間の半分以上も菊池邸を訪れ、菊池寛と頻繁な接触があることを知っていたからである。この三上の依頼について、萱原氏は次のように語られた。

(引用者中略)鷲尾さんが直木賞をもらうについても、三上さんが「鷲尾に直木賞を取らせたい。直木賞をもらうと鷲尾も本物になるのだが……」と言って、「君、菊池君の所へ行って鷲尾君のことを推薦してくれないか」と話がありました。それで少々私も運動したのです。(引用者中略)(昭和51・6・20談)」(同書「9 作家時代・戦前」より)

 ということがあって、その後、塩浦さんは、菊池寛さんがすぐに鷲尾さんに『オール讀物』用の短篇を依頼し、鷲尾さんもそれに応えて「妖啾」を書き、昭和11年/1936年1月発売の2月号に掲載されたことを受け、

「一月号『文藝春秋』の「話の屑籠」を読んで感ずる所のあった者は、この二月号に出た「鷲尾雨工」に注目したに違いない。そして、菊池寛が推奨しているという広告文に、特別の意味を見出す者もいたのではないか。こうして、芥川・直木賞委員会開催前から、直木賞には雨工の『吉野朝太平記』という雰囲気が生まれていたのである。」(同書より)

 と論じています。

 戦前、とくに最初のころの直木賞は、菊池寛さんの意向が強く授賞に影響した、ということが言われ、まあ、ワタクシもそうだろうな、とは思いますが、やや塩浦さんの話の展開は、他の委員が菊池さんに遠慮して、あえて反対もせず、菊池さんひとりが授賞を決めた、といったようにも読めます。

「雨工への授賞は「全委員の意見の一致の上」だと「委員会小記」にあるが、「直木三十五賞経緯」(『文藝春秋』昭和十一年四月号)の選評で、小島(引用者注:小島政二郎だけが積極的に雨工を推し、他は、直木が「微苦笑してゐる」とか「大勢に順ずる」とか「諸兄の推すところ」などとし、自己の見解を主張しない風がみえる。おそらく菊池の意向を慮ってのことであろう。」(同書)

 いやいや。つうより、直木賞の選考委員って、芥川賞のほうほど熱心に選考に取り組んでいなかった、というハナシがゴロゴロあります。要するに、菊池さんに慮ったんじゃなくて、みなその程度の姿勢で選考していた、ってだけなんじゃないですか? 大佛次郎さんなんか『吉野朝太平記』を通読しても来ないし。「自己の見解を主張しない風がみえる」と言いますけど、久米正雄さんも白井喬二さんも、一応、『吉野朝太平記』の出来を褒めているじゃないですか。

 「菊池寛は文壇の大御所、直木賞も彼の意向ひとつでどうとでも変わる」という視点で見るから、慮った、と見えるだけなんじゃないでしょうか。選考委員なら、みながみな、賛成と反対をはっきりさせ、熱意を込めて選評を書く、と思ったら大間違いだと思います。とくに戦前の、創設のころは。

 菊池さんは、何といっても自分で言い出した賞ですんで、そりゃ少しは関わろうと努めたでしょう。その努力も、まもなく熱を失い、どんどん菊池さんは直木賞・芥川賞との関わりから身を引いていく節もあるんですが、比べて他の委員は、小島さんを除いては、ほんとヒトゴトと言いますか、選考会にも出てこない。

 何といっても三上さんの「ヒトゴト感」は、ほんとハンパありません。第2回を含めて他の回を通じて、別に菊池さんに遠慮して、出席しなかったとか自分の意見を述べなかった、というのじゃなく、そもそもあまり自分の仕事として認識していなかったのじゃないか、と思います。鷲尾さんを文壇に押し出す縁の下の力持ちぶりを十分に発揮しておきながら、選考会に出てきていませんから、三上さんは。選評も、書いていませんから。ああ、あなたが口を極めて絶賛しないで、どうやって第2回直木賞は落ち着くというんですか、と口惜しくなります。

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2013年10月20日 (日)

山口瞳〔選考委員〕VS もりたなるお〔候補者〕…せっかく推したけど味方なし、の悲哀、いくたびも。

直木賞選考委員 山口瞳

●在任期間:15年半
 第83回(昭和55年/1980年上半期)~第113回(平成7年/1995年上半期)

●在任回数:31回
- うち出席回数:31回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):207名
- うち選評言及候補者数(延べ):141名(言及率:68%)

 個人的に、山口瞳さんのエッセイが苦手です。こっちが素直じゃないからでしょう、例の「新入社員諸君!」なんかの広告も、何がいいのかてんでわからず、要するに仕事を始めて10年、20年たった人がアレを読んで共感する、みたいなシロモノでしょう、と思って素通りし、社会人になって20年たってもなお、ピンと来ないでいるボンクラです。

「山口瞳が嫌う人間とはどういうタイプなのか。『江分利満氏の優雅な生活』や「男性自身」シリーズから拾いあげるとつぎのようになる。

 ずるい奴。スマートな奴。抜け目のない奴。すばしこい奴。クレバー・ボーイ。Heartのない奴。Heartということがわからない奴。遠慮しいしい図々しい奴。権力を嵩にきる奴。オレがオレがという奴。馴れ狎れしい奴。等々。

 ああ、生前会わずにすんだのが、もっけの幸いだったと胸を撫でおろしたくなる。」(平成19年/2007年8月・柏艪舎刊 常盤新平・著『国立の先生 山口瞳を読もう』所収 中野朗「編集を終えて」より)

 ほんと、怖いですね。そりゃあまあワタクシだって、山口さんが指摘するような人たちは、好きじゃありません。だけど、いちばん苦手なのは、そういうことを包み隠さずに公然と言いのけてしまえる人種だったりします。山口さんのエッセイからは、そういう好き嫌いの激しさがピシピシと伝わってくるので、どうも苦手なんです。

 ただ、山口さんの選評は好きです。

 もちろん直木賞に関する文章だから、っつうのが第一の理由なんですが(オイオイ)、好き嫌いの激しい山口さんが、選考会のなかで少数派に属し、けっきょく意中の候補が落選して、それでもなお、とにかく全面的に自分の推した作品を褒め称えずにはいられない矜恃、はたまた悲哀。大勢にのみ込まれてしまう小舟の懸命さが、胸キュンキュンするのです。

 まずは、選考委員への就任が決まったときの意欲あふれる山口さんの声、お聞きください。

「「ビックリしてるんですよ。だって、私はそんなに沢山書くほうじゃないし、いわゆる流行作家じゃない……」

 というのは、松本清張氏の辞任、新田次郎氏の急逝のあとをうけて、阿川弘之氏とともに新直木賞選考委員に就任した山口瞳さん。

「ただし、本を読むのは好きだから、嬉しい気持もあります。私が頂いたからいうわけじゃないんですが、直木賞って大好きなんですよ」

 その理由(ルビ:わけ)は五回、六回候補になってもとれない人もいれば、

「私もそうなんだけど初めて候補になったのにとれる人もいる。これはつまり、持ち回りでなく作品本位ということですね。だから意外性もある」

 その作品本位という伝統を守りたいという。ながいこと「小説現代」新人賞選考委員をつとめているが、その読み巧者ぶりはツトに定評あるところ。

「今回(7月選考)はいろいろと有力な人がいそうで楽しみにしてます。もっとも、その人が候補になってくれなきゃ、しようがないけども」」(『週刊文春』昭和55年/1980年4月17日号「ぴいぷる 山口瞳」より)

 このときから早くも向田邦子さんの存在が頭のなかにあったんじゃないか、とうかがわせるような感じでもありますが、7月の選考で見事、山口さん泣きの粘りを見せて「初候補」向田さんを授賞に導く、ってわけです。

 しかし当然ですけど、山口さんひとりが向田授賞を実現させた、なんていうのは言いすぎでして、他に水上勉さん、阿川弘之さんの強い支持があったればこそでした。そして山口さんが第一位に推した作品が、そうそう授賞に選ばれる幸運が訪れるはずもなく、

 ……といった感じで、もちろんその間、山口さんの推奨作が授賞に入ることもあったんですが、ずいぶんと「衆寡敵せず」の撃沈回を重ねていきます。こないだ藤沢周平さんのときに取り上げた志水辰夫『いまひとたびの』なんかもそうです。そこで山口さんが、「志水辰夫ももう58歳なんだ、あとどれくらい生きられるかわからないんだ」とボソッと言っていたら選考会の流れも変わったか……どうかは知りません。山口さんの思い通りに行く回ばかりではありません。

 で、山口さんの「激闘」は、やはり山口さんの選考委員生活を彩る(?)、「山口さん推したんだけど落ちちゃった」誰かにしたいなと思い、だけどいわゆる人気の候補者じゃあシブ好みの山口さんっぽくない、と考えて、もりたなるおさんにお相手してもらうことにしました。

 同人誌界ではすでに多少名の知られていたもりたさんが、中間小説界に乗り出した第一歩、小説現代新人賞の選考委員として一票を入れたのが山口さん、っていう縁もありますし。

 ちなみにもりたさんは、この賞で二回最終候補になっていまして、落ちた「幕下」(第21回)と受かった「頂」(第23回)、それぞれの山口さんの評を引いておきます。

「もりたなるおさんの『幕下』も、まことに推しい作品だった。相撲の社会の実情をうまく書いているのであるが、作者はそっちのほうを面白がってしまっていて、人間の関係がおろそかになっている。(引用者中略)それに、全体に汚い作品になっているのが私には気になった。相撲社会の華やかな面を書けというのではなく、作品としてのハナがほしかった。」(『小説現代』昭和48年/1973年12月号 山口瞳「惜しかった『卵焼き』」より)

「『頂』の森田成男さんは、前回『幕下』でお馴染の作家。前回は結城(引用者注:結城昌治)さんが強く推されて、私はそれほどにも思わなかったが、今回のものを読んでみて結城さんの眼力に驚くような按配であった。

 まず第一に読みやすい。従って第二にわかりやすい。これは中間小説としては非常に大事なことではあるまいか。私はここに描かれたような相撲の八百長はあり得ないと思っているが、それでいて納得させられてしまうのは相当な筆力である。それも楽々と書いているところがいい。(引用者中略)一筋縄でいかない作家だという印象をうけた。」(『小説現代』昭和49年/1974年12月号 山口瞳「『頂』の筆力を買う」より)

 一筋縄でいかない……。かもしれません。ここから先、もりたさん、相撲物だけでなく、推理小説、二・二六事件、警官物と書き進み、しかも常に「日の当たらないところ」へのまなざしを推し通す、派手さのない路線を歩みます。昭和55年/1980年、オール讀物推理小説新人賞を受けたときも、こんなふうに紹介されていました。

宮原昭夫氏などの「木靴」の同人歴もながく四十九年には小説現代新人賞も受賞している。理想とするのが「尾崎一雄川崎長太郎の世界」というだけにいつも陽の当らない人間を題材にした地味な作風、「どっからも声がかからないので思いきって畑違いの推理小説に挑戦」したのが、なんと一発で金的を射とめてしまった。」(『週刊文春』昭和55年/1980年7月24日号「ぴいぷる もりたなるお」より 太字下線は引用者による)

 以来、もりたさんは直木賞候補に挙がること5度。だいたい山口さんは好意的に、もりたさんの進展を受け止めました。……選考会のなかでは少数派でありながら。

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2013年10月13日 (日)

浅田次郎〔選考委員〕VS 池井戸潤〔候補者〕…ほんとに何度いってもわからない奴だな、……もう賛成するしかないか。

直木賞選考委員 浅田次郎

●在任期間:6年半
 第137回(平成19年/2007年上半期)~第149回(平成25年/2013年上半期)在任中

●在任回数:13回
- うち出席回数:13回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):76名
- うち選評言及候補者数(延べ):76名(言及率:100%)

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2013年10月 6日 (日)

井伏鱒二〔選考委員〕VS 木山捷平〔候補者〕…賞をあげられていたら、よかったんだけどね。そうも行かなくてね。まあ酒でも飲もうや。

直木賞選考委員 井伏鱒二

●在任期間:通算15年
 第17回(昭和18年/1943年上半期)~第38回(昭和32年/1957年下半期)

●在任回数:22回
- うち出席回数:16回(出席率:73%)

●対象候補者数(延べ):143名
- うち選評言及候補者数(延べ):31名(言及率:22%)

 選評の書き方にはいろいろあります。源氏鶏太さんのように、なるべく多くの候補者のことに触れなくてはならぬ、とクソ真面目に一作一作、評する人もあれば、気になったものだけピックアップする大佛次郎パターンもあります。それから井伏鱒二さんみたく、たいてい授賞した作品のことだけしか書かないやり方もありました。なので、授賞なしの回の、井伏さんの選評は、どの作品にも触れられていない、なんてことがあったりします。

 井伏さんは、直木賞受賞者のなかで、一頭最初に選考委員になった人ですが、その第17回(昭和18年/1943年・上半期)の選評では、結局辞退した山本周五郎「日本婦道記」とか、立川賢「幻の翼」、辻勝三郎「雪よりも白く」のことを、あれこれ書きました。しかし、その後、井伏さんが、授賞作以外のことを書き記すことはなく、ずっと飛んで10年後、第30回(昭和28年/1953年・下半期)まで一度もありませんでした。

 第30回になって、禁(?)を破ってまで落選作に触れたのは、なぜだったのか。それはよくわかりません。わかりませんけど、どうしたって井伏さんが触れなくてはならない、あなたが何か言わなくて他の誰にそんな資格があるんですか、っていうほどの候補者が、そのなかにいたのは事実です。

 木山捷平さんです。

 井伏さんを師と仰いで、なにくれとなく励まされ、また「阿佐ヶ谷会」ではいつも顔を合わせて将棋を差したり酒を飲んだり。その人生の足跡のなかに、常に井伏さんの存在がありました。……と同時に、木山さんの身近には常に、直木賞と芥川賞の存在がありました。

 昭和8年/1933年、友人の神戸雄一さんに誘われて、同人誌『海豹』に参加。それから『鷭』だの『青い花』だの『日本浪曼派』だのと同人誌に加わって、第8回(昭和13年/1938年・下半期)ごろからひんぱんに芥川賞で名前が挙がるようになる……これはわかります。文芸を志して同人誌に拠る者、そりゃあ芥川賞のほうが目をつけたって、何の不思議もありません。だけど、井伏さんとツルんでいたばっかりに、木山さんは早々に直木賞の近くにも身を置くことになったわけです。

 「阿佐ヶ谷会」の発足については、諸説あるみたいですけど、萩原茂さんによると、こんな感じだそうです。

「阿佐ヶ谷会は戦前には阿佐ヶ谷将棋会と称しており、将棋を指したあとに飲み会が行われた。(引用者中略)小田嶽夫の文章、木山捷平の日記と年譜、井伏鱒二の「日記抄」、浅見淵の文章から考えると、正式には昭和十三年頃が阿佐ヶ谷将棋会の発足時期といえそうだ。(引用者中略)井伏鱒二が「阿佐ヶ谷将棋会が発足したのは、大体の記憶だが昭和四年頃であった」とするのは、その頃も将棋会を行っていたのは事実だが、他の会員たちにとっては、その後の阿佐ヶ谷会に続くことになる阿佐ヶ谷将棋会という認識はなかったとういうことなのだろう。」(平成19年/2007年8月・幻戯書房刊『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』所収 萩原茂「解説 阿佐ヶ谷会の素晴らしき仲間たち」より)

 で、萩原さんが作成した「「阿佐ヶ谷会」開催日一覧」を見ると、いちおう正式に(?)阿佐ヶ谷の将棋会として記録されている第一回目は、昭和13年/1938年3月3日ってことになっています。当然、木山さんもそこには出席していました。じつはこれ、名目上は、その年の2月、井伏さんが第6回直木賞を受賞したことを受けて記念で開催されたものだったらしいんです。

「三月三日 直木賞受賞を記念して、阿佐ヶ谷の将棋会所で将棋大会が開かれる。幹事は小田嶽夫と外村繁が務め、古谷綱武、太宰治中村地平、秋澤三郎、木山捷平等が集まった。二次会は、永井龍男(当時、文藝春秋社勤務)の次兄永井次郎が阿佐ヶ谷駅近くで経営していた、支那料理屋“ピノチオ”で行われた。」(平成11年/1999年12月・新典社刊 松本武夫・著『井伏鱒二年譜考』所収「井伏鱒二年譜」より)

 みなさん純文芸にご熱心な阿佐ヶ谷の集まりに、「外道・直木賞」の風まで吹かせてしまった男、井伏鱒二。まったく、直木賞ファンとしては頭が下がる思いです。って、井伏さんに何の自覚もなかったでしょうけど。

 満洲での生活を経て、戦後は郷里に疎開、なかなか再上京できなかった木山さんに、井伏さんはじめ阿佐ヶ谷会のメンバーは励ましの寄せ書きを送ったり、あるいは昭和27年/1952年8月には、お仲間たち参集して「木山捷平を激励する会」を催したり。なかなか注文原稿が増えずに、貧乏な状況から抜け出せず、あるいは心の晴れない日々を送る木山さんにとって、阿佐ヶ谷の仲間たちは、いつも温かく接してくれました。

 そして訪れたのが、芥川賞ではなくて、直木賞候補に入った、という報です。

 井伏さんは書きます。

「木山君の日記を見ると、阿佐ヶ谷将棋会が発足した昭和十二年以後、最晩年まで、私のことや共通の友達のことがたびたび記されてゐる。(引用者中略)たとへば昭和十四年二月五日のところを見ると、宇野浩二の日曜会に出席したときのことが書いてある。当時の芥川賞、直木賞のこと、日支事変で変質化して行く文学青年たちの突発的な行動などが記されてゐる。(引用者中略)

 木山君は芥川賞には大して関心を持つてゐないやうな風をしてゐたが、日記に書いてゐるやうに候補に立てられたと知つた上は、是非とも貰ひたいと思つたに違ひない。木山君は文壇将棋会でも、賞与が貰へるのを子供のやうに楽しんでゐた。」(『小説新潮スペシャル』昭和56年/1981年1月 井伏鱒二「木山捷平の詩と日記」より ―引用原文は昭和61年/1986年9月・新潮社刊『井伏鱒二自選全集 第十二巻』)

 あるいは、ちょっと先の二度目の候補「耳学問」関係のエピソードになっちゃうんですが、妻・みさをさんによる、捷平さんの文学賞バナシもあります。

「この年『耳学問』が直木賞か芥川賞の候補になっていると某氏からきいたが、この時は今東光氏の『お吟さま』と穂積驚氏の『勝烏』が受賞した。今までも賞の候補となった作品は二、三あったようだが、受賞はなかった。自分の文学が恥をさらしたものといって、人には決して語らなかった。」(昭和54年/1979年1月・講談社刊『木山捷平全集 第三巻』 木山みさを「あとがき」より)

 何が恥であるもんですか。と思うわけですけど、何度も落とされた木山さんの身にしてみたら、やっぱり受賞したかったのが正直なところでしょう。「直木賞候補」止まりじゃ、何の屁の役にも立ちません。

 さて「脳下垂体」が候補に挙がった第30回直木賞です。このときは、結局、ベテラン田宮虎彦か、新人白藤茂か、っていう争いになってどちらとも決めかねず授賞なし、に落ち着いたんですが、井伏さんがまず一番に心に秘めていたのは、どうやら木山さんの作品でした。当然のことながら。

「田宮君の「都会の樹蔭」は、巧妙に書けてゐると思つた。木山君の「脳下垂体」も落ちつきのある作風で素朴なユーモア掬すべきものがあると思つた。しかし木山君の作品は私小説に属するので、大衆小説として選ぶには異論があるかもわからない。もし異論が出るとすれば、その場合は田宮君の作品を推すつもりで私は会に出席した。

 席上、今回あたりから新人の作品を選びたいといふ説が出た。(引用者中略)木山君も新人ではない。田宮君はすでに流行作家の一人である。ことに木山君の作品は競争向きでない。

 いつたいに銓衡にかかる率が多いのはルポルタージユ風の作品のやうである。これは直木賞の場合だけでなく他の賞の場合も同じ傾向である。外国の何々賞受賞作品といふやうなものを見ても大体においてそれに近い。素材が刺戟的であるためばかりでなく、もしかすると刺戟的な珍奇な素材は自然に新風ある表現を生むせゐかもわからない。」(『オール讀物』昭和29年/1954年4月号「選を終へて」より)

 遠慮がちではありますが、でも異論がなければ木山作品を推し通したい、っていう思いがひしひし伝わってきます。

 木山さんのほうはどうだったかと、日記を見てみます。先に引用した井伏さんの文章にあるように、自分と関わりのある回ですから、直木賞・芥川賞のことを日記に書きつけていてもおかしくないんですが、このときは、1月22日に発表された結果に関してはとくに書き残されていません。ただ、その一週間前のところに、こうあります。

「一月十五日、金、晴。(成人の日)

 井伏氏訪問。昨日の小沼君との約束で、午後二時頃、小沼、吉岡両君と訪問。将棋をし、御馳走になり、円タクにて帰る。井伏邸には直木賞候補の雑誌が沢山きていた。」(昭和53年/1978年12月・講談社刊『木山捷平全集 第二巻』所収「日記 昭和十五年~三十年」より)

 直木賞のこと、気にはなっていたんでしょう。そりゃあ、まあ、そうでしょう。

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