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2013年9月 1日 (日)

木々高太郎〔選考委員〕VS 藤井千鶴子〔候補者〕…探偵作家が文学を語り、文学賞の権威を奉って、毀誉褒貶。

直木賞選考委員 木々高太郎

●在任期間:17年
 第21回(昭和24年/1949年上半期)~第54回(昭和40年/1965年下半期)

●在任回数:34回
- うち出席回数:32回(出席率:94%)

●対象候補者数(延べ):260名
- うち選評言及候補者数(延べ):175名(言及率:67%)

 木々高太郎さんというのは、奔放すぎて、どこか人とは違うネジが嵌まっていて、おチャメな人だったようです。

 で、ワタクシの知るかぎり、直木賞選考委員としての木々さんについては、あまりいい話が聞こえてきません。すでに拙ブログの一本目の記事、最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』のなかにも、星新一さんを落とした立役者、みたいに取り上げられていますし、再三再四、紹介してきた青山光二笹沢左保さんの、木々さんへの怒りと殺意の件もあります。碧川浩一=白石潔さんにまつわる直木賞バナシでも、あまりいい印象では語られていません。

 要するに少なからず敵視される性格の人だったらしいです。水谷準さんは、それを敵の少ない江戸川乱歩さんとの比較で、こう綴っていました。

「木々高太郎は探偵小説という呼称を推理小説と変えるいわばモデル・チェンジ主唱者である。小説とは別に、人間的に政治性に富んでいて、よい意味では世界的に視野が広く、逆の意味では交友的に多少の批判者を作ったかもしれない。これは異端的な作風と思われている江戸川乱歩が個人としては八面玲瓏の常識人であったのと比較して、たいへん面白いこととわたしだけで解している。」(『三田文学』昭和45年/1970年1月号 水谷準「推理小説処女作当時のこと」より)

 人間的に政治性に富んでいる……そこが気に食わない、という人たちがいたわけですね。とくに推理文壇の一部の人たちとか。

「直木賞で思い出したが、木々先生が選考委員在任中は、推理小説が候補作に挙げられても、他の委員以上に評価が厳しく、そのため推理作家の受賞者が出難かった。

 それに対する不満を、私(引用者注:山村正夫)も何人かの作家たちから、聞かされた憶えがあった。(引用者中略)

 確かに先生ほど、毀誉褒貶の相半ばした作家も珍しかったが、それは若い頃から“意気高太郎”というニックネームをつけられたほど、エネルギッシュな驀進型で、一見、許容性に富んだ大らかな人柄のごとく見えながら、頑固な自説の主張者であったせいではなかったろうかと、思われてならない。(引用者中略)

 いずれにせよ、医学界、文壇、演劇界を通じて、先生は数々の肩書を持っておられた。それだけにそれぞれの分野で、能力が最大限に発揮され得なかった憾みがあるのだが、それでいながらどの分野でも、先生が口にされるのは途方もない理想だったから、悪く言えば、誇大妄想家的な印象を、周囲に与えかねなかったのかもしれない。

 それも毀誉褒貶が相半ばした、原因の一つに算え得るのではないだろうか。」(山村正夫・著『推理文壇戦後史4』「文学派の総帥、木々高太郎逝去」より)

 まあ自分のことを棚に上げて、押しの強さを武器に、周囲からチヤホヤされる椅子に居座って、傲然として偉そうにしている人は、いつの時代でも嫌われます。木々さんの場合はとくに、直木賞(と芥川賞)っていう権威をバックにつけ、というか権威を権威として盛り立てる姿勢を堅持し、これを受賞することを目標にせよ、みたいに言って後輩や傘下の人たちにハッパをかけていました。けへっ、何が「文学」だよ、けっきょく権威を信奉しているだけの俗物じゃないか、と見られても文句はいえません。

 なにせ、『三田文学』から直木賞・芥川賞受賞者が誕生できたのは、おれがいたからだ、ということを誇りにするぐらいの方でしたから。

丸岡明が三田文学に困って了って、先輩数人を集めて再刊したいという時に、小島政二郎佐藤春夫の二人からすすめられて、三田文学編輯陣に加わったのが、本当に三田文学と関係のついた時であった。(引用者中略)

 そして、誰押すとなく、私が三田文学の編輯主任みたいになってから、私の気がついたのは、今まで三田文学が一人も芥川賞も直木賞も出していないということであった。

 私は、その二つの賞を同人がとるようにならなければ、三田文学はひとりよがりになってゆく――と考えたので、積極的に、これはと思う人に小説をかかすよう工夫をはじめた。そして、二年ばかりの間に芥川賞も直木賞も三田文学から出した。

 これについては、誰もよけいなことをしてくれたとは言わなかった。のみならず、今まで探偵小説を軽蔑していた人も、少し尊敬するようになった。(引用者中略)

 それからあと、私は三田文学と別れたが、三田文学は時々芥川賞も直木賞も出すようになった。」(『三田文学』昭和41年/1966年8月号 木々高太郎「三田文学と私」より)

 ちなみに直木賞を受けた『三田文学』同人は、柴田錬三郎さん(第26回 昭和26年/1951年下半期)。和田芳恵さん(第50回 昭和38年/1963年下半期)。渡辺喜恵子さん(第41回 昭和34年/1959年上半期)も三田派でしょう。芥川賞では、まず何といっても木々さん自身が見出した松本清張さん(第28回 昭和27年/1952年下半期)ですね、同人じゃなくて外部から入れた血ですが。それから安岡章太郎さん(第29回 昭和28年/1953年上半期)。あるいは遠藤周作さん(第30年/1955年上半期)もここに含めちゃっていいでしょうか。

 『三田文学』関係者は、内心ではどう思っていたか知らないですけど、木々さんに向かって「よけいなことをするな」とは言わなかったと。ははあ、そうですか。

 文学賞をとりたがっているなんて公言したら、みんなに馬鹿にされますからね。そういうことを外に表わすのは避けるでしょう。でも木々さんがひとり、ブンブンと直木賞・芥川賞への欲望を隠さずに『三田文学』を両賞にアピールする姿は、きっとまんざらではなかったのではないか。悪役はすべて木々さんに押し付け、自分たちは「文学賞なんて興味ないっすよ」と、素知らぬ顔を押し通す、『三田文学』の人たち……っていうのは、まあワタクシの妄想が多分に入っています。

 木々さんはそれから『三田文学』を離れ、やがて『小説と詩と評論』っていう同人誌を主宰する立場に就きます。そこでも往年の「三田文学メソッド」を適用しようとして、同人たちには、君たち直木賞・芥川賞の候補になるぐらいの作品、書かなきゃダメだよ、と事あるごとに言ってまわったとか。で、『三田文学』時代から引き続いて『小説と詩と評論』に参加したなかで、直木賞と関わりのある人といえば、かつて渡辺祐一=氷川瓏さんを取り上げたことがありました。今回はもうひとりの、木々チルドレンを紹介したいと思います。

 藤井千鶴子さんです。

 昭和のはじめ、実践女子専門学校に通っていた頃から短歌に目覚め、物理学者の石原純さんが主導した自由律口語短歌=新短歌の『立像』同人になって、バシバシ歌を詠みはじめます。21歳で卒業して、3年後に結婚。夫は満鉄に勤務する医師、千種峯蔵さんです。峯蔵さんはおそらく40歳ぐらいでしたでしょう、年の離れた夫婦でしたが、知り合いに言わせると仲睦まじい夫婦だったそうで、藤井さんは夫とともに満洲に渡り、二人の子を産みます。その間、短歌の活動もつづけ、こういう文献にもその名が見えます。

「歌壇では、神山哲三、田中俊資、白井尚子、田山一雄、奉天新聞の平田茂(歌集「山〈木+査〉子」)、奉天毎日新聞編集長の三井実雄、藤井千鶴子(本名千種千鶴子、歌集「真旅」)、三宅豊子(歌集「七草」)、西沢茂富らがいて、満洲の短歌誌「あかしや」(甲斐水棹子主宰)、「くさふね」(西田猪之助主宰)、「満洲歌人」などに作品を発表した。」(昭和51年/1976年1月・謙光社刊 福田實・著『満洲奉天日本人史 動乱の大陸に生きた人々』「第五編 満洲国時代 第十二章 奉天文壇」より)

 戦後帰国して、小説を書くようになり、『三田文学』に参加。これは佐藤春夫さんに師事してのこと、と匂わす文章もありますが、夫の峯蔵さんが医師で、しかも慶應義塾大学出身だったそうなので、木々さんとの縁がすでにあったのかもしれません。藤井さんの活躍の場は『三田文学』にとどまらず、『文芸日本』に発表した「義歯」で、はじめて直木賞候補に挙がります。第37回(昭和32年/1957年上半期)のことでした。昭和32年/1957年『別冊宝石 木々高太郎読本』には「火傷」を発表、昭和34年/1959年には夫に先立たれ、

「千鶴子はこの予期しない運命の中で、二人の愛児を擁し、一人戦う足ならしに、長編小説の執筆を思いついた。それが「櫛」で直木賞候補作品となった。」(『女性教育』昭和36年/1961年4月号「女性文化人の面影 藤井千鶴子女史」より)

 という展開に。この『櫛』の出版記念会が開かれたときに、のちに『小説と詩と評論』の中心人物となる城夏子さんと、木々さんとが初対面を果たしたのでした。

「昭和二十七、八年頃だったらうか。私は「三田文学」を毎月購読してゐた。時々、藤井千鶴子という人の短篇小説が掲載され、その新鮮さに私は感動した。その後、佐藤春夫先生の春の日の会で、藤井千鶴子さんと知己となった。藤井さんの小説「櫛」のお祝ひの会で木々高太郎氏に初めておめにかかった。(引用者中略)藤井さんの後見人みたいに思はれた。」(『三田文学』昭和45年/1970年1月号 城夏子「「小説と詩と評論」のこと」より)

 他人の目から「後見人」と見えるほどに、木々さん、藤井さんの文壇進出には相当に力が入っていたのでしょう。

          ○

 藤井さんは都合3度、直木賞候補となりました。3度にわたってすべて選評で言及した選考委員は、木々高太郎さんただひとりです。

 子飼いの作家だから強引に推薦し通したか、というとそんなことはありません。そこまで木々さんも露骨なやり方はしません。

 最初の候補、第37回(昭和32年/1957年上半期)のときは、真っ先に藤井さんの「義歯」に触れました。かなり褒めています。

「今度は女性作家が多かったが、そのうち僕は藤井千鶴子と有吉佐和子とを注目してゐた。この二人の作家はまるで反対の作風なり構成なりを持つてゐる。題材のえらび方もさうで、藤井の「義歯」の異常さ、それにもかゝはらず詩にあふれてゐるのは、新らしい外の作家にないと思つたが、委員会ではそれが却つてとりあげられないもとになつたのではないかと思はれる。」(『オール讀物』昭和32年/1957年10月号 木々高太郎「戦記もののむづかしさ」より)

 異常なの、木々さん好きだからなあ。それで俗っぽくないと来れば、木々さんとすれば、そりゃあ推すでしょう。

 第42回(昭和35年/1960年4月号)は、その藤井さんの長篇『櫛』が候補になった回です。ただ、そこに行く前に、ここでは木々さん、ぜひとも書いておかなければいけない事態が勃発しました。戸板康二さん「團十郎切腹事件」のほか、水上勉さん『霧と影』、新章文子さん『危険な関係』と、候補7篇中3篇も、推理小説が並んでいたからです。

「さて、推理小説の専門家と思われている僕が、「霧と影」や「危険な関係」をおさなかった意味を問われそうであるから書いておくが、若し犯罪を取扱うなら、やはり犯罪そのものが人生的興味あるものでなければならぬ。この二作は、僕にはそう思えない。他人が用いなかったトリックだけに頼るというのでは困る。(勿論推理小説論者のうちにはトリック第一、その他はいらぬという説もある。)」(『オール讀物』昭和35年/1960年4月号 木々高太郎「推理小説の候補作品が多かった」より)

 いかんせん、この頃の直木賞の選評は短くて、評価しない理由をだらだら書く余裕がありません。『霧と影』『危険な関係』を前に、人生的興味ある犯罪が書かれていない、以上、っていうのはどうにも納得できる評とは言い難いですもんね。いまみたいに、もっと選評の制限行数が多かったら、もうちょっとその辺、突っ込んで書いてくれたでしょうに。残念です。

 で、『櫛』については、こう語っています。

「藤井千鶴子「櫛」はその描写から女性心理からひどく変っているところをとるが、やはりよみにくい。俳句をつなぎ合わせたような文章は、むしろ芥川賞作品であろう。直木賞作品としては、将来この作品はもっとよみよいものにしなければならぬ。といって変ったところを全部とって了ったのではいけないので「変ったところはのこしてよみやすく」というむりな注文となる。然し、みなこのむりな注文をきいて偉くなるのだからいたし方がない。」(同)

 推理小説に対してだけでなく、藤井さんに対しても、十分厳しいです。

 さらに4年半を経て、第51回(昭和39年/1964年上半期)。ついに『小説と詩と評論』から直木賞候補になる作品が現われます。しかも二作同時に。諸星澄子「電気計算機のセールスマン等」と藤井千鶴子「狂詩人」です。そりゃあ木々さんも、彼女たちにとってほしかったでしょうが、この回は木々さん、林青梧『誰のための大地』がお気に入りで、そちらに票を入れました。藤井さんたちのことは、こう言い放っています。

「諸星澄子「電気計算機のセールスマン等」、村山明子「指のメルヘン」は、全くちがった傾向のものであるが、何か新しさを感じさせる。その点、整ってはいるが、藤井千鶴子「狂詩人」や宮地佐一郎「闘鶏絵図」がやはり、何か古い感じがあるのは、どこに原因があるか、作者達はこの点をよく考える必要があろう。」(『オール讀物』昭和39年/1964年10月号 木々高太郎「林青梧を惜しむ」より)

 「何か新しさ」「何か古い感じ」と、漠然としすぎていて、丁寧さに欠ける辺り、おまえにそんなこと言われたかないよ、と反発を誘引するもとともなったに違いありません。いや、藤井さんがどう感じたかはわかりません。木々高太郎の秘蔵っ子とまで言われた(……ワタクシが言っているだけですけど)藤井さんでしたが、ついに直木賞は受賞できないままで、商業小説界に乗り出すことはありませんでした。

 『小説と詩と評論』は、木々さんが昭和44年/1969年に死んだあと、木々さんの直接の薫陶を受けた森田雄蔵さんを中心に刊行がつづけられました。その森田さんが平成2年/1990年に世を去るまで、藤井さんは同誌の同人でありつづけました。しかし、森田さんの死を機に退会したみたいです。ずっと交流のあった坂口〈衣+零〉子さんの文によれば、平成2年/1990年春に藤井さんは体調を崩し、病院生活に入ったのだとか。翌平成3年/1991年10月に没しました。

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