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2013年9月22日 (日)

藤沢周平〔選考委員〕VS 志水辰夫〔候補者〕…しみじみしっとりしたのもいいけど、娯楽性を忘れたらダメだよね、直木賞は。

直木賞選考委員 藤沢周平

●在任期間:10年半
 第94回(昭和60年/1985年下半期)~第114回(平成7年/1995年下半期)

●在任回数:21回
- うち出席回数:18回(出席率:86%)

●対象候補者数(延べ):132名
- うち選評言及候補者数(延べ):113名(言及率:86%)

 朴訥で堅物で、どうせ人の情がどうしたとか、リアリズムがどうしたとか、そういう視点でしか小説が読めないおジイさんなんだろうと思えば、さにあらず。部類の海外ミステリー好きで、小説の「娯楽性」を重んじ、荒唐無稽な物語にも理解を示した、柔和な選考委員。で、おなじみの藤沢周平さんです。

 平成4年/1992年10月号、といいますから直木賞では、第107回(平成4年/1992年上半期)が終わったあとぐらいの『オール讀物』に載った、藤沢さんのインタビューにこうあります。

「――小説という表現スタイルの可能性はまだまだあるとお考えですか。

藤沢 とてもむずかしい時代に入っていると思いますね。推理小説、SF、時代小説などのジャンル小説はまだ書ける余地があると思うんだけどね。ふつうの現代小説というのは書きにくいと思う。小説をよせつけないようなもの、たとえばエイズにしたって、それを小説にするのはとてもむずかしいでしょうね。もっとも時代小説だから絵空事を書いていればいいかというと、そうではなくて、どこかで現代とつながっていないと古臭くなります。活字のむこうに何かまだある、と思わせるようなものが出ているうちは、望みはあると思いますけどね。

 小説の面白さというものを確保するのは非常にむずかしいですよ。わたしの書くものはわりとシリアスな「市塵」のような小説もありますけど、基本的には娯楽小説だと思うんです。「怪傑黒頭巾」以来の、チャンチャンバラバラを書きたい気持はずっとある。(笑)そういう小説のもつ娯楽性というものを大事にしたいですね。そういうのがなくなると、小説はつまらなくなると思うんです。」(『オール讀物』平成4年/1992年10月号「藤沢周平インタビュー なぜ時代小説を書くのか」より ―聞き手・岡崎満義)

 それでこの時期、伊集院静『受け月』よりも清水義範『柏木誠治の生活』の、あふれんばかりのチャレンジ精神とその成果のほうに票を入れたり、出久根達郎『佃島ふたり書房』と同じくらいの温度で宮部みゆき『火車』を推してみたりしていたわけです。そういう人です。

 藤沢さんが直木賞の選考委員になったのは第94回。昭和61年/1986年1月の選考会からの参加です。この当時の直木賞は、藤沢さんが受賞した第69回(昭和48年/1973年上半期)よりもさらに、マスコミのバカ騒ぎが激しく打ち鳴らされていたときでして、その点、あんまり周囲の喧騒が好きじゃなかった藤沢さんですから、いろいろとイヤな思いをしたことでしょう。

 とにかく権威に楯突きたいだけの連中は、勝手なことを言います。どうせ選考委員は真剣に小説を読んでこない、だとか。小説を読めもしないくせに自分の好みで票を入れてるだけ、だとか。選考委員を引き受けるのは、文壇人事で出世したい奴だけだ、とか。……まあ、そういう人もいたかもしれませんけど、そのなかにあって藤沢さん、不平不満を言うわけでもなく、ただひたすら候補作を読み込み、推すべきと思う候補作を愚直に推す。まわりに何と思われようと、信ずるところを曲げず、堪えしのぶの図。

 自分でそういった小説を書けば、惚れて褒めてくれる読者も、たくさんいましょうが、選考委員なんて、基本、損な役まわりです。どう選考したって、結果について受賞者じゃなく選考委員を褒めようとする人は、ほとんどいません。その仕事が認められることは稀です。しかし人間の真価は、認められるか否かにあるわけじゃない。どんなに影に隠れていても、懸命にやり遂げることが大事だ、と藤沢さんはその背で、ワタクシたちに美しい人間の姿を教えてくれたのです。

 ……って、かなり妄想が突っ走っちゃいました。らしくもないキレイごとを並べて、すみません。

 でもまあ、こういう回想文とか読まされると、つい藤沢さんに肩入れしたくもなるじゃないですか、許してください。

(引用者注:昭和52年/1977年)私が入社して初めて社の倉庫に行ったとき、ひときわ高い返品の山がありました。三、四メートルはある山が二つ。『喜多川歌麿女絵草紙』という書名で、焦茶を基調にした洒落た装丁の本で、著者は藤沢周平とありました。

 案内してくれた当時の編集長は、「この人のは中身はいいんだけど、地味だからあまり売れないんだよ」とため息まじりに説明してくれました。(引用者中略)こんなことは今だから口にできますが、そのころの藤沢さんは、作風もまだ暗さが残っていて、売行きも芳しくありませんでした。

(引用者中略)

 「ぼくの書くものは、そんな派手で面白いもんじゃないし、そんなに売れない」と、当時から、またその後に流行作家と呼ばれるようになっても、先生はいつもそう恥ずかしそうにおっしゃっていました。あちこちで取り上げられ、マスコミにもてはやされることに、最後まで困惑しているようにも見受けられました。」(『文藝春秋』平成9年/1997年4月臨時増刊号「完全保存版 藤沢周平のすべて」所収 倉科和夫(青樹社取締役編集部長)「先生の書斎のことなど」より)

 で、「売れなかった」つながりってわけでもないんですが、今日、藤沢選考委員のお相手をしてもらうのは、この方、志水辰夫さんにしました。「直木賞のほうが逃してしまった、受賞にふさわしい作家」に属するおひとりです。

 せっかくなので、まずは志水さんの、売れなかったエピソードをひとつ。

志水 (引用者注:デビュー作の)『飢えて狼』の初版が六千部で、受け取ったお金が三十万。それも最初の本だからって百冊ほど買って配ったから手元には二十万ぐらいしか残らなかった。これじゃ食えませんわな。だからライターの仕事をまだ続けてて、なかなか(引用者注:二作目を書く)時間が取れなかった。

逢坂(引用者注:逢坂剛 先にデビューしてた船戸与一の本が全然売れなかったから、後発の我々の発行部数も押さえられたんですよね。(笑)

志水 船戸はあのころから人に迷惑をかけてばかりいた。(笑)」(平成16年/2004年4月・玉川大学出版部刊 逢坂剛著・『逢坂剛対談集II 世界はハードボイルド』所収 逢坂剛、志水辰夫「ハードボイルドの現在、過去、未来」より)

 藤沢さんが日本食品経済社で『日本加工食品新聞』の編集をしながら小説を書き、「溟い海」でデビューを果たしたのが43歳のとき。いっぽう志水さんは高知刑務所での事務職などを経て26歳で上京、週刊誌ライターなどをするうち、だんだんとライター稼業の先行きに不安を感じて小説に取り組み、『飢えて狼』でデビューしたのが44歳のとき。ともに、けっこう遅咲きデビュー、などと言われていたりします。

 共通点を探せば、ほかにもないことはありません。藤沢さんは23歳のときに肺結核が見つかり、以後数年療養。志水さんも22、23歳ごろに結核を患い、上京したころもまだ完治はしていなかったそうです。あるいは、『読売新聞』の短編小説賞への投稿経験もあります。藤沢さんは35歳のとき、昭和38年/1963年1月に「赤い夕日」で選外佳作(選者・吉田健一)。志水さんは高知文学学校に三期生として学び、20代中盤で、この賞に二度入選しました。選者は永井龍男、伊藤整でした。

(引用者注:昭和)三十年代半ばには、公務員の傍ら三期生として学んだ川村光暁さん(70)が、読売短編小説賞を二回受賞する。研究科の勉強会で一緒だったメンバーは「ぐんぐん筆力が伸びて、研究科のホープのひとりだったが、後、志を立てて上京、あちらで同人誌を出したり張り切っていた」と記念誌で振り返っている。

 川村さんとは、後に志水辰夫の名で作品を発表し始め、日本推理作家協会賞や柴田錬三郎賞受賞のほか、直木賞候補に三度推される有名作家となるその人だ。」
(『高知新聞』平成19年/2007年11月30日「土を耕し種を蒔く 高知文学学校半世紀』(4) 文学賞受賞者も誕生」より)

 藤沢さんと志水さん、そういう奇縁もあるんですが、何といってもここで取り上げるのは、藤沢さんの直木賞選考委員人生は、志水辰夫に始まって志水辰夫に終わった、と言ってもいいからです。振り返ってみれば。はじめて藤沢さんが選考会に参加した第94回(昭和60年/1985年下半期)と、最後に出席した第112回(平成6年/1994年下半期)、両回ともに候補者として名を連ねたただひとりの作家が、志水辰夫さんだったんですから。

          ○

 志水さんがはじめて候補になった第94回。藤沢さんは森田誠吾『魚河岸ものがたり』と落合恵子『A列車で行こう』の二作授賞を主張しまして、選評もだいたいこの二作と、受賞者、林真理子さんに対する文章で占められています。ただ、最後の最後に島田荘司『夏、19歳の肖像』と志水辰夫『背いて故郷』に簡単に触れ、まったく評を省略した山崎光夫篠田達明両名の作品に対する姿勢とのちがいを、わずかながらも感じさせました。

「島田作品は青春の恋愛感情をナイーブに描き出したものの、ミステリイ部分が粗雑で、志水作品は力作だったが結末に難があった。」(『オール讀物』昭和61年/1986年4月号「本物の凄み」より)

 次に志水作品が直木賞の場に登場するのは、その約5年後。第103回(平成2年/1990年上半期)です。藤沢さん、あまりその『帰りなん、いざ』は買わなかったのですが、その理由がなかなかイカしています。

「志水辰夫さんの「帰りなん、いざ」には、この種の小説に読者が無意識に期待するカタルシスがなかった。話は過疎地の資本に対する防衛戦争かと思うと、最後は元町長の私怨をはらす戦争になってしまうし、主人公は最後まで両陣営から利用されっ放しで、結果があまりスカッとしないのである。そうかといって、恋愛小説としても成功していないと思った。この作者の持味は、破天荒な構想がもたらすおもしろさにあったように記憶するのだが、その点今回の候補作は柄が小さく理に落ちたように思う。」(『オール讀物』平成2年/1990年9月号「大人の小説」より)

 志水よ、もっと破天荒な構想でぐいぐい押してくれ、っつうわけです。

 そして、志水さん三度目の候補になる日がやってきます。第112回(平成6年/1994年下半期)。二度目のときから、再びの約5年後です。『高知新聞』の片岡雅文さんには「寡作の人だから文芸ジャーナリズムの時流に浮上することは少ないが、すでに並みいる流行作家をしのいだ感さえあった。」(『高知新聞』平成7年/1995年1月17日夕刊「コラム 話題」より)などと表現され、「いまさら」感ぷんぷんの、つまりは直木賞が好んで食いつく状況にまでなっていました。

 いっぽうの藤沢さんです。平成7年/1995年の暮れ、といいますから1月に第112回の選考会に出て、7月には体調不良で欠席したその年、委員辞任のことを娘の夫に、こう洩らしています。

「私(引用者注:遠藤展子)は知らなかったのですが、父はこんな話も夫にしていたそうです。

「実は、直木賞の選考委員を辞めようと思っているんだ」

 驚いた夫が「どうしてですか」と聞くと、父は「選考するのに、作品を読むのだけれど、結構体力がいってね。最近疲れるんだよね」と言ったそうです。

 入院する前の年の終わり頃でした。夫が、「それでも、お父さんに選んでもらって喜ぶ人もいると思うし……」と言うと、「そうか、そういうこともあるか……」と言って黙っていたそうです。」(平成18年/2006年9月・文藝春秋刊 遠藤展子・著『藤沢周平 父の周辺』より)

 体力を減らしながらも候補作と向き合い、結果、藤沢さんにとって最後となった第112回選考会ですが、受賞に達していると見た作品が三つありました。坂東眞砂子『桃色浄土』、中島らも『永遠も半ばを過ぎて』と、そして志水辰夫『いまひとたびの』です。

「志水さんの「いまひとたびの」を読むと、文学の原点に出会ったようでほっとするのも事実である。(引用者中略)小説は、ああおもしろかったと読み捨てるのではなく、読後なにかしらこころに残るようなものでありたいものだが、「赤いバス」にはそれがある。(引用者中略)

 この作者は静寂という言葉が好きらしいが、ここ(引用者注:「トンネルの向こうで」)でも「人の家の軒先のしじま」と書きとめる。こういう読む喜びをあたえる文章を読むと、小説は大所高所から高邁な意見をのべたりするものではなく、このような細部によって天地自然や人間と人生が成り立っているという、ささやかな発見を大切に記すものではなかろうかと思わせる。(引用者中略)これも十分に受賞に値いする短篇集だった。」(『オール讀物』平成7年/1995年3月号「感動が残る志水作品」より)

 それまで志水さんの、柄の大きな小説世界を期待し、そうではない作品が候補に選ばれて歯噛みしてきたものの、しかし最後に、選評の題名に「感動が残る志水作品」と付けるほどの、じんわりと切々と胸にせまる佳作『いまひとたびの』に出会って、これに心を寄せました。せっかくの推奨作が、結局落選にいたる現場に立ち合って、藤沢さんもつらかったでしょうが、こういうところで大事な候補者を取りこぼすのもまた直木賞。「志水辰夫に直木賞を授けられなかった選考委員のひとり」という不名誉な役回りになってしまいましたが、おそらく藤沢さんですから、ぐっと堪えて甘んじて受け止めたことでしょう(……また妄想です)。

 その後の志水さんの活躍ぶりは言わずもがな。現代小説から離れ、時代小説へと行き、奇しくも藤沢さんと似た土俵のうえに立つことになりました。

「これからは昔の時代作家の後は継がないで、現代人のための時代小説を書きたいと思っています。現代人にも違和感のない読みやすい内容で、今の人たちに時代小説の魅力を伝えることが次の目標。大仏次郎の『鞍馬天狗』が好きだったんですよ。藤沢周平や池波正太郎はあまり読んでいません。せいぜい山本周五郎まででしたね。(引用者中略)

 ずっと五十代以上の男性読者だけを意識して「合う人だけ付き合ってください」という姿勢でやってきました。“一部の人の作家”で満足だったから、マーケティングを意識して作風を変えようとか、宣伝をしようと思ったことはないし、これからも今までどおりにやっていくつもりです。現状のスタンスは変えず、なるべくマスコミには出ないように(笑)。孤高というわけでもないんですけどね。」(平成20年/2008年3月・宝島社刊『別冊宝島 もっとすごい!!『このミステリーがすごい!』』所収「このミス1位インタビュー1992年度 『行きずりの街』志水辰夫」より)

 志水さんと藤沢さんのもうひとつの共通点、偏屈でまわりに流されないところ。……ということもありそうですが、これは二人にだけ特有なわけじゃないですからね、あえて言うほどのことではないかもしれません。

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コメント

藤沢さんはいつも選評も丁寧で読みごたえ十分ですよネ。
「選考委員」に対するpeleboサンの意見、同感です。
ムズカシイ役回りを引き受ける人がいてこそ、の賞ですもんネ(^^)

結果的に藤沢さんの最後の選考会になった112回が
「受賞作なし」なのはちょっとサミシイですよネェ~。
特に「いまひとたびの」はいわば「鉄道員」「花まんま」ラインというか、
世間のイメージ以上にイロイロなタイプの受賞作がある直木賞の中でも
特に「これぞ直木賞!」のラインだとボクは勝手に思ってるんで
取ってほしかったですネェ~。
っていうかトイレに行ってる間に風向きが変わった、ってホントですか?ビックリ。
行かれたのはどなたか、さしつかえなければ教えて欲しいデス。
周平サンか重吾サンかひさしサンか瞳サンか。かなり気になりマス。

「火車」に関しては推してた藤沢さんと陳舜臣さんが選考会を欠席されてたのも痛かったですよネ。
ソレでも「佃島ふたり書房」との差は大きそうですが、ソレでももうちょい「二作受賞」の線も議論されたカモ。

投稿: しょう | 2013年9月27日 (金) 22時56分

しょうさん、

トイレの件ですが(……って何か表現が変ですが)、
「頻尿症の選考委員」というヒントしかワタクシも知らず、
まあ、誰か選考会に出席していた文藝春秋の社員か、選考委員あたりが新聞記者にしゃべったのでしょう、
もはや真偽不明のゴシップです。

『いまひとたびの』は、ほんと、直木賞作のなかに加わっていて、何の問題もない、
しみじみーとした、ほっとする作品集だと思います。
「ほとんど直木賞受賞作」、と記録されてもいい候補作ですね。

投稿: P.L.B. | 2013年10月 5日 (土) 21時44分

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