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2013年8月25日 (日)

宮城谷昌光〔選考委員〕VS 三崎亜記〔候補者〕…みんなと同じじゃつまらない。いかに平凡から脱するか、を追求する。

直木賞選考委員 宮城谷昌光

●在任期間:13年半
 第123回(平成12年/2000年上半期)~第149回(平成25年/2013年上半期)在任中

●在任回数:27回
- うち出席回数:27回(出席率:100%)

●対象候補者数(延べ):161名
- うち選評言及候補者数(延べ):137名(言及率:85%)

 先週8月22日、第149回(平成25年/2013年・上半期)の選評の載った『オール讀物』平成25年/2013年9月号が発売されました。自分はこの作品のここがいいと思った、ここが駄目だと感じた、だから票を入れた・入れなかった、云々……というのが選評だと思っていると、たいていひとりの選考委員の評を読んで面食らいます。ひとを煙に巻く選評を書かせたら今や右に出る者のいない、『オール讀物』なんちゅうお手軽読み物雑誌に、異形の選評を書きつづけて早10数年、孤高の選評ライター、宮城谷昌光さんです。

 って、最近では、ややわかりやすくなった観もありますが、しかし今回も、桜木紫乃『ホテルローヤル』の文章力が断然すぐれていることを評するに、こんな論を展開しています。

「たとえば、一文のなかに遠近がもちこまれている。その遠近は、空間的だけではなく、時間的であるものもあり、その一文によって、読者はきわめて短い間に想像の拡大と縮小をおのずとおこなってしまう。書き手からすれば、その種の文は、小説のながれにあって起伏、緩急、転調などをやすやすと生じさせる足がかりとなるので、なめらかな変化を産みやすくなる。すなわち小説世界の退化をふせぐのである。」(『オール讀物』平成25年/2013年9月号)

 他の委員がもうちょっと引いたかたちで、「過不足なく描いて、ところどころに目を見張る鮮かな表現がある」(阿刀田高)だの、「表層はユーモアに終始して読めるが、女の懐の刃先が見える。よく読めばゾクッとしてしまう」(伊集院静)だの、そんな感じで済ませているなかで、「小説世界の退化をふせぐ」といった、唐突としか見えない角度から斬り込む宮城谷さん。何すか、退化って? とぽかーんとする読者を尻目に、わかるやつにだけわかればいい、の構えを貫くその姿勢が、まぶしすぎます。

 まあ、宮城谷さんの、人とは違う文章を書かなきゃならない、という強迫観念のすさまじさは、いまに始まったことじゃありません。年季が入っています。

「とにかく僕は昔から漢字が好きで、そのころ(引用者注:25歳、出版社で雑誌記者をしながら小説を書いていたころ)書いていた作品も漢字の使用量が人より多かったんですよ。(引用者中略)自分がみんなが使っているように(引用者注:漢字を)使っていることで、自分が許せなくなってきたんです。

 つまり、人が使った手垢のついた漢字を自分も使っているんじゃないかと。そうして、選択をしてから自分が使うべきだというのがわかってくると、今度は漢字が使えなくなって。

(引用者中略)

 自分のやっている、記事を書いたり取材してきたものを雑誌に載せるといったことも、なんだかオリジナリティのないものに思えてきたんですね。だからその状況を打開するためには、まず雑誌記者をやめないといけないと思った。」(『週刊文春』平成3年/1991年8月8日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 宮城谷昌光」より)

 こうも言っています。

「私は若い頃から、小説の文章、文体というものについて、自分で大いに分析・研究し、さんざん悩んでもきたわけです。その結果、小説を書く難しさのなかに閉じこめられ身動きできない状態になってしまった時期がある。」(『文藝春秋』平成8年/1996年5月臨時増刊号「司馬遼太郎の世界」所収 宮城谷昌光、清水義範「特別対談 文章に秘密あり」より)

 文章、文体で苦しんだ長い年月。そういった経験もあったでしょう。宮城谷さんの書く小説の、大きな特徴をなしているのは、なにしろ文章ですからね。ただ、その思い入れを直木賞の選評なんちゅう場でも、力をゆるめずグイグイと前面に出すところが、もう独走というか、誰もついていけないというか。多数派に迎合することなく、そして、まったくどの選考委員も書けない視点で評を残してきました。

 全員が全員、宮城谷さんみたいな選評を書いたら、何が何だかわからない大混乱の読み物になるでしょうけど。オーソドックスななかにひとつ紛れ込むから、宮城谷さんの異端さが光る、っていうことはあると思います。

 で、ときとして、あまり他の委員が褒めない候補作を、断固として称えるのも、宮城谷さんの委員生活のなかでは珍しいことではありません。真保裕一『ストロボ』にはじまり、同じく真保さんの『繋がれた明日』、『イン・ザ・プール』『マドンナ』『空中ブランコ』に至るまでの徹底した奥田英朗推し、福井晴敏『6ステイン』、荻原浩『あの日にドライブ』、三田完『俳風三麗花』、乾ルカ『あの日にかえりたい』……など印象に残る推奨文もいくつかあります。

 ただ、ここで取り上げる候補者は、それらではありません。オーソドックスな候補作群のなかにまぎれ込んだ異端、三崎亜記さん。過去3度の候補に挙がった人ですが、三崎さんの作品に相対するに、宮城谷さんがどのように、ねじくり回した理論を展開したのか、見てみたいと思います。

 宮城谷ブシ、炸裂しています。

          ○

 三崎さん鮮烈なデビュー作『となり町戦争』は、第133回(平成17年/2005年上半期)の候補になり、朱川湊人『花まんま』、絲山秋子『逃亡くそたわけ』とともに決選3作に残りました。しかし落ちました。

 報道などでは、三崎さんの場合はまだ一作目なので次を待ちたい、と直木賞の「実績重視グセ」の結果と言われました。選評でも、そういった論調が目立ちます。しかし宮城谷さんは、そんな「手垢のついた」理由は口にしません。というか、どの作品をどういう理由で低く見積もったか、ほとんど書きません。

「小説を書くということは、ことばから発してことばに還るというまぼろしのようないとなみである。そのはかないいとなみに、実体をあたえるのが文体あるいは文章というものなのである。(引用者中略)

古川日出男氏の『ベルカ、吠えないのか?』をのぞいて、(引用者注:候補になった)六作品はすべて一人称を主語としている。アマチュアではなくプロの作家が書く小説では、一人称を主語とすることは、その構造のなかに社会を展開することを拒否する奇形といってよく、作者の恣意を抑制する力があらかじめ排除された世界を提示することになる。(引用者中略)小説世界には、一、二、三人称のほかに作者の人称という第四の人称があり、三人称を主語にすることで虚構が発し、第四の人称に意義が生じ、各人称が点であるとすれば、それらを線で結ぶと四角形となり、そこではじめて対角線を引くことができる。それが正常な小説空間である、と私はおもっている。今回、自分勝手としかおもわれない作品があったので、この傾向が熄むまで、一人称を主語とする候補作品に寛容をしめすことをひかえたい。」(『オール讀物』平成17年/2005年9月号「人称の問題」より)

 かの有名な、「宮城谷、直木賞選評で小説空間を四角形で喩える」の図です。三崎さんの『となり町戦争』について具体的な言及はありませんでした。いずれにせよ、「奇形」ではあったようです、他の候補作とともに。

 と思っていましたら、第136回(平成18年/2006年下半期)、三崎さんの『失われた町』が候補になり、相当な議論が戦わされたうえで、この回は受賞作なしとなるんですが、宮城谷さん、前の『となり町戦争』を踏まえて、三崎作品を論じています。これぞ宮城谷ブシ、よっ、待ってました! っていう感じの論じ方です。熱いです。

「以前に直木賞候補作品となったもののなかで、気にかかっている作品のひとつが、三崎亜記氏の『となり町戦争』である。その着想の非凡さを適切に評することができたのか、という反省が私にはある。今回、ふたたび氏の作品『失われた町』が候補作品となったので、氏の実力をみきわめる機会を与えられたという意いで読んだ。前作とちがい、この作品は一人称が語り手ではない。それだけも小説世界が拡がったのであるが、問題はいくつかある。冒頭を一読しただけで、前作同様に、

 ――この世界はありえない。

 と、誰しもおもう。しかしながら、それは氏にとっては、ありうる世界である、というよりも、ある(あった)世界であり、そういう氏のぶれのない信念にどのようにつきあうか、というのが好悪や拾捨をふくんだ読み手の課題である。この小説の意匠は、かつて存在してすでに消えた時代、都市、人を描くことと大差はなく、それが歴史(時代)小説でなくても、現代小説といいながら過去を書いている小説とおなじであるといってよい。すでにそこに形となった批判力があり、小説全体はゲルニカへ通うような戯画とみなすこともできなくはない。その点、氏の知性と感性の特異性に注目すべきであろうが、じつは文章だけをみつめてみると、特異というわけではない。作者特有の合理のなかで平凡である。文学において新しいということは、新しい人間像を造りえたか、新しい文体を作りえたか、ということ以外はない。とはいえ、小説という形式がもはや新しいとはいえないので、地球上おなじ重力の小説世界が形成されており、べつの重力空間を産みだすことに成功しているのは、私が知るかぎり、フィリップ・ソレルスしかおらず、この作品にあるのはそういう文学的宇宙空間ではない。ただし旧態の文学への批判はあるが、残念ながら批判だけで終わっている。氏がこういう書きかたをつづけるのであれば、昇華ということを考えてもらわねばなるまい。」(『オール讀物』平成19年/2007年3月号「小説世界の重力」より)

 つまり、どういうことなんだ、みたいな問いかけを、端から拒否するかのごとしです。三崎さんの「知性と感性」を特異とは認めつつも、やはり文章に問題がある、ということなんでしょうか。

 さらに一年半のち。第139回(平成20年/2008年上半期)では、三崎さんとしてははじめて短篇集が候補になりました。『鼓笛隊の襲来』です。宮城谷さんとの三度目の対決。どうやら、宮城谷さん、戒めているようです。おそらく。

「三崎亜記氏の作品であるが、ここには、実在することへの不信感が、端的にあらわれている。もしかすると、実在することがことごとく平凡さに収斂されることを恐れるという氏の感覚のかたむきがあるのかもしれない。非凡をめざせば、非現実にゆきつくが、そこに主題をすえつづける困難は、察しがつく。この種の小説は、自然主義的な描写をはっきりと拒絶して、文体だけで呼吸してゆかねばならないのに、そのあたりに思い切りと工夫が弱い。氏は自身に甘い。妥協はなんの利点にもならない。文学的弱点になるだけである。」(『オール讀物』平成20年/2008年9月号「覇気不足」より)

 ううむ。三崎さんの作品より以上に、どうにも非現実感ただよう選評、と言いますか。おれは何と言われようとこのスタイルを貫くんだ、という宮城谷さんの信念は、非常によく伝わってきます。

 そしてワタクシはいつしか、選評掲載の『オール讀物』が発売されると、真っ先に宮城谷さんのページを開く癖がついてしまったのです。そして、ああ、またやっとるな、よしよしと安堵してから、他の委員の評を読むようになりました。

 直木賞は賞そのものがひとつのエンターテインメントです。宮城谷さんのような、他と相容れない独自路線を突き進む人がいてくれることが、直木賞に、どれだけ彩りをもたらしていることか、その功績は計り知れません。でもこれは、ン十年にわたる、平凡や手垢との格闘を経た宮城谷さんだから許されることでしょう。チビッコは真似しちゃ駄目よ。

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コメント

こんにちは。
とても楽しく読ませていただきました。思わず何度も「うんうん」と頷いてしまいました。

>つまり、どういうことなんだ、みたいな問いかけを、端から拒否するかのごとしです。

そう!宮城谷さんの選評って、ものすごく回りくどくて、「えっと、つまり何が言いたいんだろう。」って感じです(^^;)
ほめてるのか貶してるのか、そもそも作品をちゃんと読んだのか・・・。

そういえば宮城谷さんは、伊坂さんを徹底的に認めませんでしたね。「私は失敗作をなじるつもりはない」というコメントは、強烈でした。
おそらく全国の伊坂ファンを敵に回したんじゃないかと心配です。

これからも、「難解すぎてわからない宮城谷ブシ」をぜひ貫いていただきたいですね。

投稿: まひろ | 2013年9月23日 (月) 14時59分

まひろさん、

そうです、いいのです伊坂ファンを敵に回しても。
宮城谷さんには、もっともっと自由に、天井つきぬけて、訳わからん選評の
めくるめく魅惑の世界を突き進んでほしいと、ワタクシも願っています。

投稿: P.L.B. | 2013年9月24日 (火) 02時50分

初登場はまだソレほどでも無かった気がしますが
回を追うごとに深まっていった宮城谷ワールド。
特に130回台ぐらいはその思想や漢字のあまりのムズカシさに
「ひぃ~、スンマヘ~ン(汗)!」とあわてて読み飛ばして次の方の選評に…
ボク的にはそんなカンジでした。

でも最近は管理人サンやメッタ斬りのお2人もおっしゃってるように
わかりやすくなってきた気がしマス。
ムズカシいコトを言う時にも「氏にたいして少々わかりにくいことをいえば、(145回・島本サンに)」って
最初にコトワリを入れてらっしゃいますし(笑)
そのおかげでユニークな小説観が読みやすく伝わってくるようになって
最近は宮城谷サンの選評を読むのがとても楽しみになりました。
147回の「盤上の夜」や148回の「ふくわらい」の選評なんか「なるほど~」というカンジでとても印象的デス。

あとソレとはまったく違う意味で印象に残ってるのが137回の「吉原手引草」への選評で
「こいつはすげえや、と手を拍って喜ぶ気にはなれなかった」
…宮城谷サンが「すげえ」なんてフランクな口調になるとは!というオドロキがミョーに印象に残ってマス(笑)

投稿: しょう | 2013年10月20日 (日) 23時14分

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