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2013年6月の6件の記事

2013年6月30日 (日)

白井喬二〔選考委員〕VS 岩下俊作〔候補者〕…「あまり勤勉な審査員ではなかった」と自分で言っちゃう人。

直木賞選考委員 白井喬二

●在任期間:8年
 第1回(昭和10年/1935年上半期)~第16回(昭和17年/1942年下半期)

●在任回数:16回
- うち出席回数:9回(出席率:56%)

●対象候補者数(延べ):70名
- うち選評言及候補者数(延べ):35名(言及率:50%)

 大衆文芸、とくに「直木賞における大衆文芸」の志士たちは、血気盛んでした。筆頭は直木三十五さん。軍人たちとツルんで「ファッショ宣言」なんてして、おおかた芸術派の文壇人からはヒかれてしまいました。三上於菟吉さんもそのお仲間。政界に打って出ようとした菊池寛さんは言うに及ばず、川口松太郎さんは、先輩を先輩とも思わない傲岸不遜な態度をとり、蓮實重彦さんから揶揄られたりしています。

 ……みな若かった。「大衆文芸」運動が勃興して、どどーんと文壇に挑戦状を叩きつけたのが大正14年/1925年。直木さんはまだ「三十三」と名乗っていたときですから、つまり三十代前半。第一次『大衆文藝』誌を出すことになった「二十一日会」のメンバーは、最も若くて江戸川乱歩さん31歳、最年長の本山荻舟さんでも44歳。およそ30代の作家たちが、明日の新しい文芸を目指して立ち上がったわけです。

 とくに口角に泡ためて、大衆文芸大衆文芸、とその定着に躍起になったのは、白井喬二さんでした。36歳。ほかの面々が、黙々と実作で自らの姿勢を示そうとしていたとき、白井さんは、いろんなところで、大衆文芸は何か、どうあらねばならないか、みたいなことを宣伝して回ったのです。直木さんも、「三十五」になり流行作家となってからは、そういう活動をどんどんやりましたけど、その先達は白井さんでした。

「大正十四年に始まり昭和三年に及ぶところの白井喬二氏の大衆文芸理論は、かりにこれを前期の理論と呼ぶことができよう。」「白井喬二氏はりっぱな理論家であった。いかにも氏は指導的理論家としての風格を備えておった人である。けれども何と言っても、一方に多忙な作家としての仕事を控えている人だった。」「言わば白井氏は大衆文芸の正統的理論家としては、孤立無援の立ち場にいたのである。」(『大衆文藝』昭和16年/1941年1月号 中谷博「理論家としての白井喬二氏」より)

 それでまあ、当然と言おうか、直木賞創設の折りには委員会のひとりに加えられます。白井さん45歳。40代なかばにして、もうすでに「大衆文芸」界では年輩のほうです。最初の直木賞委員、菊池寛、佐佐木茂索大佛次郎久米正雄小島政二郎、三上於菟吉、吉川英治のなかでは、菊池さんの一つ下、2番めの年長者でした。「ボケたオヤジが、新しい小説が理解できなくてウンヌン」などという、通ぶった人が好んで用いる文学賞観など、まだ通用しない時代でした。

 なにしろ白井さん、理論家です。自分が切り開いてきた、という自負もあります。直木賞委員となって、いろいろ言いたいこともあったでしょう。……と思いきや、さにあらず。それこそ枯れ果てたころになって書いた自伝『さらば富士に立つ影』では、けっこうあっさりと直木賞制定のころを語っています。

「直木三十五の物故で急に直木賞が制定された。同時に芥川賞も決定した。その決定の席にぼくも加わった。原案としては菊池寛賞一つにしぼるはずであったが、席上、久米正雄が、「菊池君、生きている内にそんな賞をつくるよりか、後世にまった方がいいと思うね」といった。ぼくは聞いていて感動した。菊池寛はいい友人を持ったものだと思った。菊池寛も「うん」とすぐうなずいた。名優同士という感じだった。これで二賞がそろって発足した。

 ぼくはその席で直木賞の審査員をたのまれた。直木賞と芥川賞の詮衡室は同じだったから最初のころはどっちの審査員も両方の作に意見をのべ合ったりしたものだった。ぼくは十五回まで審査にあたったが旅行先きから電報で選者評を送るようなこともあって、あまり勤勉な審査員ではなかった。」(昭和58年/1983年4月・六興出版刊 白井喬二・著『さらば富士に立つ影』「文藝懇話会」より)

 そうとう曖昧模糊たる記憶のなかで書き記しているんだろうな、ってことは、「十五回まで審査にあたった」とあるところからもわかります。あ、あのう白井さん。第16回も一応、電話回答のかたちで参加されていたらしいんですけど……。

 選考委員として怠惰だったらしいことは、白井さん自身の回想をまつまでもなく、直木賞史上、たいへん有名です。なにしろ最初の最初、誰しもが期待に胸おどらせていたはずの第1回、直木賞委員のなかでただひとり、選評を書かなかった白井さん。あまりに出席率が悪すぎて、小島政二郎さんからマジ切れされている白井さん。

 だいたい戦前の直木賞は、かなり真剣味に欠いていたとも言われています。そのなかで受賞を機に文壇に登場できた人たちはいいとして、何度も落選の報ばかりを受け取った人は、たまったもんじゃないと思うわけです。長谷川幸延さんとか。大庭さち子さんとか。あるいは岩下俊作さんとか。

 ということで岩下さんです。第10回(昭和14年/1939年・下半期)の「富島松五郎伝」を皮切りに、第11回(昭和15年/1940年・上半期)では同作がふたたび予選にかけられ、第12回(昭和15年/1940年・下半期)「辰次と由松」、第13回(昭和16年/1941年・上半期)「諦めとは言へど」で連続して最終候補に残り、第17回(昭和18年/1943年・上半期)「西域記」が連載途中で候補に挙げられました。都合5度。

 岩下さんが亡くなったのちには、直木賞を引き合いに出して、こんな記事も書かれました。

「地方在住の作家ではあったが、その死亡記事は全国紙にも大きくあつかわれ、直木賞を逸しながら賞にかわる人気を得た作家としてしのばれた。

(引用者中略)

 火野葦平は「無法松の一生」にふれて、「人間の一生の方角を決定する運命の瞬間というものがある。岩下もたしかに、その運命に翻弄された」と書いたが、岩下俊作は無法松の作家として、直木賞以上の庶民的栄誉を手に入れたといえよう。」(『週刊朝日』昭和55年/1980年3月14日号「誌碑 賞は逸したが人気は博した作家」より ―署名「勇み駒」)

 世のなかには「直木賞脳」ってものが、たしかに存在すると思います。どうしたって物事を直木賞との関連で見ようとしてしまう意識(無意識)のことです。ワタクシなど、その病にかかってもう20年以上たちましたが、この「勇み駒」さんも、まさしく直木賞脳の患者でしょう。死してなお、直木賞がどうだこうだと言われてしまう岩下さん。何だか申し訳ない気持ちです。

 ただそれだけ岩下さんは、直木賞史のなかに無視できない足跡をのこした人であり、何度取り上げたって足りないほどの重要人物なのです。すみません、選考委員・白井喬二さんの相手役として、またまたご登場願うことにしました。

 白井さんがもっと熱意をもって直木賞選考に当たっていたら、あるいは岩下さんは受賞していたかもしれません。第10回、選考委員のほとんどが「岩下俊作」の名を知らず、ぽーんと「富島松五郎伝」が候補作のなかにまぎれ込んでいたとき、これに大きな丸を付けたのは白井さんでした。

「私は右の作(引用者注:最終候補に残った5作)を再読考慮した上、「富島松五郎伝」と「妻の戦争」とを選び、次作として「火の十字架」を挙げておいた。(引用者中略)

「富島松五郎伝」は、一車夫の野生と純真さを描いた作である。鈍重な筆致であり、文学形式としては一種の旧套派であろう。然し強く読む者の魂をゆらいで行く所がある。直木賞が第一回より才林に囲繞されている際、斯かる茫野を其の一角に押立てる事も、あながち無意味ではないと信じた。」(『文藝春秋』昭和15年/1940年4月号より)

 つまりどういうことでしょうか。それまでの受賞者とは、何か違う資質なり作風なりを感じ取り、その点で岩下さんを推した、ということでしょうか。

 ときに第10回は、選考会に芥川賞委員たちも参加させられ、大衆文芸って何なんだ、とそんな話題で時間が費やされた回です。直木賞専任の委員は、吉川英治さんも三上於菟吉さんも欠席。そして白井さんまでも「私は、審査会には欠席勝だったが、意見は通達しておいた。」(同号)と、その場にいない。ずっと直木賞の選考に関わってきた小島政二郎さんや大佛次郎さんが、いかにも直木賞側の代表みたいなかっこうになってしまいました。

 で、小島さんです。堤千代「小指」に惚れ込み、これを推薦することに執着。「小指」を差し置いて受賞に近づくほどの票を得た「富島松五郎伝」を、「断じて大衆小説ではない。仮りに一歩を譲って、大衆小説だとしても、大衆小説としては優れた作品ではない。」(同号)と蹴落とそうと必死でした。これでは、「富島松五郎伝」が受賞する芽もしぼんでしまいます。

 結局、選考会は流れ、受賞作なしとなりました。このあたりの模様を岩下さんの三男、八田昂さんは『霧のなかの赤いランプ――無法松・俊作の一生――』(平成20年/2008年6月・北九州文学協会刊)のなかで、かなり詳しく紹介しています。ここで八田さんは、「富島松五郎伝」に対する評価は、純文壇と大衆文壇の対立を表面化させたもの、との解釈をしています。

「当時、直木賞の不振が続いていたため、芥川賞の委員が加わり、初めて合同の選考が行われた。この席で、芥川賞の委員を中心に「松五郎傳」を直木賞に推す意見が大勢を占めた。しかし、直木賞委員の小島政二郎は「『松五郎傳』は断じて大衆小説ではない」として反対、樋口一葉の片鱗さえ感じさせるという堤千代の「小指」を強く押した。

(引用者中略)

 この直木賞の選考は、作品の評価が分かれただけでなく、小島が「我々は芥川賞の委員という素人大衆小説鑑賞家を教育する義務を負わされた」と語っているように、純文学対大衆文学という対立の根深さが浮き彫りにされた。」

 このあと、その対立を懸念した菊池寛さんが、選考委員に、岩下よりも堤を支持する意向を伝えてその結果、次の回、堤千代「小指」その他が受賞した、というふうな話が続いていきます。

 しかしワタクシは思うのです。第10回の直木賞を襲ったのは、純文学対大衆文学の「対立」などでしたでしょうか、と。

 直木賞委員の大佛さんは、この回、どの作品にも触れていませんが、少なくとも「富島松五郎伝」授賞には反対していません。むしろ多数決の結果を尊重して、受賞作を出すべきだった、と言っています。猛烈な反対者は、小島さんぐらいのものでした。彼の語る「大衆小説」が、とうてい直木賞委員を代表する大衆小説観でなかったことは明らかです。問題は、病気の三上さんは別として、吉川英治さんも白井喬二さんも、選考会に出てこなかったこと。この回ばかりでなく、以前から欠席が目立っていたこと。そのせいで、小島さんがムキになること甚だしく、直木賞委員会では彼の声だけがひときわ強く響いた。そこにあるのではないですか。

 ちなみに欠席の吉川さんも、白井さんと同様、「富島松五郎伝」を推薦していたようです。この作が『オール讀物』に転載されるときには推薦文を寄せ、岩下さんから大感激・大感謝されているほどです。白井さん、吉川さん、二人がこの回、選考会に出ていって、きちんと「富島松五郎伝」への賛意を語っていたら、まず岩下さんの受賞は固かったと思います。

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2013年6月23日 (日)

田辺聖子〔選考委員〕VS 黒川博行〔候補者〕…受賞できなかった作品も、大切に評するお人柄。

直木賞選考委員 田辺聖子

●在任期間:18年
 第97回(昭和62年/1987年上半期)~第132回(平成16年/2004年下半期)

●在任回数:36回
- うち出席回数:35回(出席率:97%)

●対象候補者数(延べ):215名
- うち選評言及候補者数(延べ):196名(言及率:91%)

 田辺聖子さんを目のまえにすると、「けっ、直木賞の選考委員なんて腹黒くてノータリンの連中ばっかじゃん」と言い募ってやまないアンチ直木賞派たちが、しっぽを巻いて逃げ出す、と聞いたことがあります。え。そうですか逃げ出しませんか。どうやらワタクシの聞きまちがいだったようです。

 人柄のよさと懐の深さ。……直木賞そのものは、あまり身に着けていない美点を、田辺さんは惜しげもなく選考会に振りまいてくれました。むろん、こういう方が一人いるからといって、直木賞は世間から褒めてもらえるようにはなりません。そこが直木賞のもつ負のオーラのすさまじいところですよね。はきだめにナントヤラ、っていうんですか。

 たとえば、田辺さんが選考委員を辞したあとに語ったインタビューがあります。まさしく、ナントヤラです。

「自分が推しているものが受賞作にならなくても、選評はとっても大事に思って書きました。どうしてこれを推したのか、どうしてこれが落ちたのか、その作品を書いた人だけでなく、文学志望者も、編集者の方たちも、一所懸命になって読まれると思ったから。たくさんの作者、たくさんの作品の中から候補に上がってくるというのは、それだけでも大変なこと。だから受賞できなかった作品に関しても、飾ってあげたいというか、もてはやしてさし上げたかったのね。」(『オール讀物』平成17年/2005年5月号 田辺聖子「特別インタビュー 「百花繚乱、小説を豊かに咲かせてほしい」―直木賞選考委員を辞して」より)

 ……と言いつつ、このインタビュー記事では、思い出の受賞作はわんさか出てくるのに、落ちた作品の話題には、まったく触れられていません。残念。

 これでは田辺さんの思いは、十全には伝わりません。やはり選考委員・田辺聖子といえば、落ちた候補作を抜きにしては語れないのに。もっと言ってしまえば、「直木賞におけるミステリー・SF」の件を省いて、田辺さんの激闘を振り返ることなど許されるはずがないのです。

 選考委員就任1年目、第98回(昭和62年/1987年下半期)で三浦浩『海外特派員―消されたスクープ』に熱い一票を投じたものの、落選。その2年後、山本周五郎賞の委員として大推薦しながら落ちた原リョウさんが、『私が殺した少女』を携えてふたたび田辺さんの目のまえに現われ、猛プッシュ。今度も喧々諤々、反対意見にぶち当たりますが、ようやく第102回(平成1年/1989年下半期)の授賞にこぎつけます。そのときの田辺さんの選評です。題は「開明的になった直木賞」。

「かねて直木賞はSFやミステリーを射程に入れないという噂があり、私なども残念に思っていたが、社会と文学の変貌に応じて、柔軟に対応すべきである。今回の候補作をみても、直木賞が開明的になったなあという印象を受けた。」(『オール讀物』平成2年/1990年3月号 田辺聖子「開明的になった直木賞」より)

 お、田辺さん、ミステリー・SF援護派なのか!? と色めき立たせる選評でした。いや、田辺さん以前にも、ミステリーやSFが好きだ、と公言する選考委員がいなかったわけではありません。三浦浩さんを推しに推したまま亡くなった柴田錬三郎さんなんか、その筆頭だったでしょう。あるいは村上元三さんは、再三再四、自分はSFが好き、SFはよく読む、と選評のなかで自慢していました。

 しかし、委員たちの読書傾向と、選考会での評点が、かならずしも一致するとは限らないのが、直木賞です。ミステリー・SF以外にも、読書の楽しみを味わわせてくれる強力な候補作が、たいてい同じ土俵のうえに挙がるからです。その状況下、「直木賞がSFやミステリーを射程に入れない噂を聞いて、残念」と思っていた田辺さんは、どんな作品に票を入れていったのでしょうか。そして、どのように「残念な」状態を打破しようとしていったのでしょうか。

 田辺さんが明らかに推したことが判明している、ミステリーやSF、その他冒険、ファンタジー、幻想小説の系統に連なる落選作を挙げてみます。第103回(平成2年/1990年上半期)高橋義夫『北緯50度に消ゆ』にはじまり、中島らも『人体模型の夜』、篠田節子『ゴサインタン』、宮部みゆき『蒲生邸事件』、東野圭吾『白夜行』、福井晴敏『亡国のイージス』、黒川博行『国境』、横山秀夫『半落ち』……。

 このうち、さらに半分でも受賞作に入っていれば、直木賞も開明的になった、と言えたかもしれません。田辺さんの力をもってしても、そうやすやすと直木賞に、ミステリー・SFの時代は訪れません。

 ……と言いますか、田辺さんは公平な人です。時代小説でも恋愛小説でも、これぞ、と思うものは褒め称えました。また、上記に引用した回想にもあったように、落ちた候補作のこともなるべく選評で取り上げよう、としていたと言います。なかで、19篇については、選評でもいっさい触れませんでした。

 たとえば、今井泉『ガラスの墓標』、本岡類『真冬の誘拐者』、北村薫『スキップ』、馳星周『M』、真保裕一『ボーダーライン』、伊坂幸太郎『重力ピエロ』、真保裕一『繋がれた明日』、東野圭吾『手紙』、伊坂幸太郎『チルドレン』、伊坂幸太郎『グラスホッパー』など……。伊坂さんの諸作をはじめ、意外と田辺さん、ミステリー系の候補は触れずに済ませていたフシがあります。

 血の気の多いミステリー厨・SF厨を満足させるために選考に当たったわけではありませんからね。当然のことながら。田辺さんのなかには、いかなミステリーやSFとは言え、推す・推さないの基準がきっちりあったわけです。

 さて、そこでご登場願うのは、黒川博行さんです。直木賞では第116回(平成8年/1996年下半期)『カウント・プラン』から、第117回(平成9年/1997年上半期)『疫病神』、第121回(平成11年/1999年上半期)『文福茶釜』、第126回(平成13年/2001年下半期)『国境』まで4度、田辺さんと「激突」した方です。

 いや、直木賞だけじゃありません。田辺さんはサントリーミステリー大賞の選考委員として3度、黒川さんの作品を読み、その作家デビューを見届けた方です。因縁ふかい二人なのでした。

 黒川さんは、『カウント・プラン』で直木賞の候補になる前、田辺さん(とその選考姿勢)について、このように書いています。

「田辺聖子さんは、私が作家としてデビューするにあたり、三度もお世話になった恩人である。

 一九八三年、『サントリーミステリー大賞』が創設され、私の応募した作品を含む三作が最終選考候補作になった。(引用者中略)

 この公開選考会において、私の作品を推してくれたのは阿川氏(引用者注:阿川弘之ひとりで、結果は三作中三位の佳作賞。田辺さんからは確か、「華がない」というふうな評をいただいたのだが、その言葉はとても丁寧で温かみがあり、優しいお人柄が感じられて、私はほのぼのとした気持ちになった。

 翌八四年、私の応募作はまたも最終選考に残り、田辺さんは「タイトルのつけ方がうまい」とおっしゃった。しかしながら「華がない」のは前作と変わらず、結果は佳作賞。(引用者中略)田辺さんの講評は候補者に対する愛情があって、少しも嫌味ではなく、ふたたび挑戦したいという気持ちを奮いたたせてくれる。(引用者中略)

 八六年の『第四回サントリーミステリー大賞』で私は大賞を受賞した。田辺さんには「文章の軽み」を褒めていただき、これはなによりうれしかった。いつも偉ぶらず、真摯に講評される田辺さんの姿勢には頭の下がる思いで、私はますます田辺さんが好きになり、こんなことをいっては失礼だけど、ほんとうに可愛い方だと感じ入る。」(平成8年/1996年5月・新潮社/新潮文庫 田辺聖子・著『姥勝手』所収 黒川博行「解説」より)

 ちなみにここは直木賞偏重ブログなので、サントリーミステリー大賞のことには深入りせずに済ませますけど、その一度目と二度目、黒川さんの作品に田辺さんがどのような選評を贈ったのかだけ見ておきます。じっさいは公開選考会だったので、もっともっと黒川作品について語ったはずですけど。

「黒川博行さんの「二度のお別れ」は、よく考えられたトリックでどんでんを楽しめたが、それにとどまったのが物足らなく思われた。」(『オール讀物』昭和58年/1983年5月号 田辺聖子「審査評」より)

「『雨に殺せば』の黒川博行氏は二度目の挑戦なので、私もヒイキ心が出て真先に読み、前回より更に面白くできており、サスペンスもあると思った。ただ何となく作全体が低徊的で息抜きがない気がする。タイトルはいつもしゃれている人だが、その都会的なしゃれ気分がもうちょっと作品の中身にも出て欲しいところ。

 クロ・マメコンビが楽しいので、もっと黒木刑事にハードボイルドの探偵ものみたいな魅力を加えたらどうだろう。一読者としての私の感想をいうと、黒木刑事は、いつまでも結婚しないでいてほしいな。」(『オール讀物』昭和59年/1984年6月号 田辺聖子「新たなる挑戦」より)

 たしかに、大賞作ではないのに、未来に書かれるであろう作品を念頭に入れて評すことで、作者のやる気を促す感じ。人柄のよさがむんむんする田辺さんの面目躍如です。

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2013年6月16日 (日)

川口松太郎〔選考委員〕VS 野坂昭如〔候補者〕…作品のみならず人物までも評してしまう伝統の継承。

直木賞選考委員 川口松太郎

●在任期間:30年
 第21回(昭和24年/1949年上半期)~第80回(昭和53年/1978年下半期)

●在任回数:60回
- うち出席回数:37回(出席率:62%)

●対象候補者数(延べ):462名
- うち選評言及候補者数(延べ):160名(言及率:35%)

 川口松太郎さんといえば、直木賞の申し子です。なにしろ第1回(昭和10年/1935年・上半期)の受賞者。であるだけでなく、戦後復活第1回(通算第21回)には、選考委員をまかされるほどに、大衆文壇の顔であり、その後30年の長きにわたって委員の座にありました。

 選考委員としての川口さんを、ひと言で表してしまうと、「あふれ出る重鎮感」です。

 任にあった期間は、川口さんが50歳を迎えるころから80歳手前まで。生来の毒舌、というか、歯に衣着せぬ物言い、というか。候補者たちに対して「精進を望む」「叱り置く」「決定打に欠ける」「出直せ」などなど、短い言葉でバシッと刺す。そのくせ、自分は選考会を欠席、また欠席。その出席率の低さは当時から群を抜いており、川口さんを叱り置けるような人は、まわりに誰もいなかったのかな、と思わせるほどでした。年くったおじさんが、言いたい放題好き放題、候補作に讒言を投げて、平気な面して生きている……みたいな、直木賞に対する悪印象を助長するひとりとなったわけです。

 川口さんの直木賞観は、いろいろ変化しました。その点、他の選考委員と同様です。基本的には、直木賞を与えることでその作家が商業舞台に躍り出ることが理想、との思いを持っていましたが、佐藤得二さんのような、後があまりないような人の作品も推薦したりしています。いわゆる大衆小説の畑以外にも視野を広げたい、なんてことを主張した時期もありました。

 ただ、ひとつ川口さんが異常に気にしていたことがあります。「直木賞の権威を守ること」です。就任中、二度も「直木賞の権威」と題した選評を書いているぐらいです。

「直木賞受賞作家が成功しないという非難を聞く。

 四十二回に司馬遼太郎、四十四回には黒岩重吾、四十五回が水上勉で、水上は早くも直木賞委員になるほどの大作家になったが、彼を最後にしてその後の作家は受賞後の活動がぱっとしない。残念でもあるし直木賞の権威にもかかわる。」(『オール讀物』昭和41年/1966年10月号 第55回選評「直木賞の権威」より)

「残念ながら私は旅行中で書面回答をしたため委員会に居合せなかったので議論をつくす事も出来なかった。然し近年の世評には直木賞の審査が甘すぎるという批判があるので、委員の目も辛くなったのかも知れない。それはそれでいいと思うし、審査が甘すぎて若い作家達から安易に思われるのも不愉快だ。この辺でぴりっとして置くのも賞の権威を高める意味にも必要であろうし、心淋しくはあるが、次回にいい作品が出るように期待する。」(『オール讀物』昭和49年/1974年4月号 第70回選評「直木賞の権威」より)

 こんなふうに〈権威〉を気にする姿勢が、よけいに川口さんを、旧弊で旧体制派に属する、と思わせることにもなりました。読者のために書かれた小説を評する場で、〈権威〉なんてハナシを持ち出すんですから。昔から続く伝統なり、蓄積なり、つまりは自分が安定して立っていられる世界を確保・堅守したいんだな、と思われてもしかたがありません。

 この流れのなかで、野坂昭如さんが直木賞に登場します。権威なんて糞食らえ、みたいな言動でぶいぶい言わせていた人です。たとえば、昭和37年/1962年にテレビ番組で放たれた「女は人類ではない」発言。じっさいの野坂さんの言葉は、

「昔、ギリシア人は演説のとき、“人類諸君および女類諸君”と呼びかけたそうです。女は男のアバラ骨一本からできあがったもので、男より一級下の物です。それをおだてるなんてどうかと思います」(昭和43年/1968年12月・文研出版刊 植田康夫・著『現代マスコミ・スター』より)

 といったものだったそうですが、テレビ局に女性から抗議の電話が鳴りひびき、週刊誌も書き立てるといった騒動に。目にあまる行動が放送作家協会で問題視されもします。このときは永六輔さんや野末陳平さんなどのほうが問題の中心だったみたいですが、野坂さんも合わせて議論の対象になりました。そこで野坂さん、開き直りまして、協会とは訣別、除名処分を受けました。

 『エロ事師たち』(昭和38年/1963年)以降、すでに野坂さんは小説家としての顔も知られていました。第57回(昭和42年/1967年上半期)「受胎旅行」ではじめて候補になったときも、石坂洋次郎さんから「この人などいまさら直木賞でもあるまいと思って、点を入れなかった。」と言われるぐらいの著名人でした。野坂さんの書く小説全般が、古い頭をした選考委員から猛反発を食らって受け入れられなかった、というわけではありません。

 ところがここに川口松太郎さんがいました。読み手をイラッとさせる選評を書かせたら、天下一品の腕です。川口さんは、この回「受賞作なし」を主張したひとりでしたが、野坂作品にはかなり好意的で、このように書きました。

「私は霙(引用者注:渡辺淳一の候補作)と受胎旅行を面白いと思ったが霙の作家は医者だからあの世界が書けるので、他の材料を扱った時にどうだろうという意見があった。この一作を受賞作に推すほどのものでもないので次回作に期待する事にした。受胎旅行は文体が新鮮でイキがいい。他の作品は何処かで一度お目にかかったような模倣性を感ずるが、受胎旅行はこの作家だけの独自の文章を持っている。新人作家は誰かに似ている。似ていてそこからぬけ出していたら立派だが、似ているだけに終ってはつまらない。受胎旅行はその意味で魅力的だが、あまりにも小品にすぎるのと幾分は安手でもある。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号)

 ここで終わっていたら、おそらくワタクシが辺境ブログで取り上げることもなかったでしょう。ワタクシだけじゃなく、野坂昭如さんの直木賞受賞周辺の話題に、たいてい川口松太郎さんがセットで付いてくる、なんて事態は起こらなかったでしょう。川口さんの放言は、次のように続いたのです。

「この作家は作家として大成する意気をもって取り組んでいるかどうか疑わしいような悪名声がある。テレビタレントの真似であったり、プレイボーイを自称してひんしゅくさせる言動があったり、人生を茶化している態度に真実が感じられない。真剣に取り組めばいい作家になる素質を持っているだけに次回作を期待する。」(同)

 上記の発言が引き起こしたインパクト、おびただしいものがありました。何といっても効果を上げたのは、野坂さん自身が、即刻これをネタにしたことでした。「おれは太宰二世だ」と。

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第7期のテーマは「選考委員たち」。多彩な候補作をまえに委員たちはどう立ち向かってきたか。薦めたり、けなしたり。その激闘ぶりを追います。

 うちのブログは平成19年/2007年5月に始めました。毎週1本ずつ、直木賞に関する話題をああだこうだと書いてきて、6年を超えたところです。

 直木賞、とひと口で言っても切り口は無数にありますし、書いているワタクシ自身も飽きちゃうので、1年ずつ、違うテーマを設けることにしています。これまでの6年間は、こんな感じでした

 メインテーマに、「受賞者」を持ってきたこともありました。(落選した)「候補者」も取り上げました。直接、直木賞の関連人物としてオモテ立って言及されることの少ない「評論家、編集者、そのほか裏方」を主役にもしました。となれば、当然、直木賞を彩る登場人物のうち、「選考委員」を忘れるわけにはいきません。

 だいたい受賞者や候補者ばかりに目が行きがちですけど、この人たちは直木賞と一回関わるだけの存在です。多くたって10回が最高。ゲストです。招待客です。サッと現われて、サッと消えていく。

 それに比べたら選考委員こそ、直木賞の中核をなす、と言っていいでしょう。長い人では20年も30年も、ずーっと直木賞に関わりつづけるわけですから。しかも主催者ではない。自分が始めたくて始めたわけではない。なのに外からは、いかにも「主催者と一心同体」と見られて、ガーガー文句を言われる。哀しい存在です。

 よーし、ここはひとつ、選考委員をテーマにしようじゃないかと思いました。一週につき一人。これまで直木賞の委員経験者は48人います(芥川賞委員が兼任で選考した例を除く)。だいたい一年ぐらいはもちそうです。

 ただ、単に選考委員を紹介していくだけでは、まとまりがつかなくなるおそれがあります。あるいは、選考委員の書いたすべての選評を読んで何か言う、なんて方法も考えましたが、それだと文学賞メッタ斬り!の二番煎じ、真似になっちゃいます。ですので、彼・彼女の選考のうち、候補に対する姿勢なり迷いなり高揚感なりが、よく現われている事例に、なるべく絞って取り上げていきたいと思います。

 次から次へ押し寄せる新たな候補者・候補作家たち。その状況で、選考委員はどう戦いに臨んできたのか。選考委員VS候補。血わき肉躍るバトルです。

 たぶん、横山秀夫さんをイラつかせた林真理子さんの事例とかに、多くの人が喰いつきます。偉そうにふんぞり返った委員が、読者人気の高い候補をぶっ叩く、みたいなバトルが最も人目を引くんでしょう。もちろん、そういうものも取り上げていきます。ただ、バトルはそれだけではないはずです。気持ち悪いほどひとりの候補に惚れ込んで執着した委員、落選させたことをのちのち後悔する委員など、バトルの様相はさまざまあります。いろんな選考委員の姿を紹介できたらいいな、と思っています。

 ……まず一週目は、「直木賞の申し子」から始めます。戦後の直木賞、だれにも注目されていなかった頃から、にわかにマスコミの視線を浴びるようになった時期までを経験した、ひとりの選考委員と、ある候補者について。

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2013年6月 9日 (日)

尾崎秀樹(大衆文芸評論家) 大衆文芸研究界ですら傍流の「直木賞研究」にまで、熱いまなざしを向けた稀有な人。

尾崎秀樹(おざき・ほつき)

  • 昭和3年/1928年11月29日生まれ、平成11年/1999年9月21日没(70歳)。
  • 昭和20年/1945年(16歳)台北帝国大学在学中に徴集される。停戦後に復学したが、昭和21年/1946年に日本に引き揚げ。
  • 昭和31年/1956年(27歳)牧野吉晴の事務所係を務めながら『文芸日本』の編集に携わる。
  • 昭和35年/1960年(31歳)『近代説話』同人となる。翌年『大衆文学研究』創刊。
  • 昭和41年/1966年(37歳)『大衆文学論』で第16回芸術選奨文部大臣賞評論その他部門を受賞。

 大衆文学研究の世界には「尾崎以前、尾崎以後」という言葉があります。いや、本当にあるかどうかはともかく、です。あってもいいと思います。圧倒的な文章量、幅広い関心ジャンル、物事を推進させる力、まわりを和ませる人柄。戦前から戦後、なかなか目立たない存在だった「大衆文学研究」が、昭和30年代以降、徐々に市民権を獲得していく過程において、尾崎秀樹さんの果たしてきた功績を無視する人は、まずいないでしょう。ワタクシなどが吠え立てるまでもありません。

 ただ、直木賞研究史でも、事情はあまり変わらないのです。もしも尾崎さんがいなかったら、「研究的な視野から見た直木賞」像は、おそらくもっと貧弱なものになっていたと思います。

 昭和30年代、文学賞がまぶしい陽のもとにさらされる時代が訪れます。さあ、文学賞について解説してもらおうか、と記者連中が考えたとき、まず白羽の矢が立ったのが文芸評論家陣です。だけど、彼らは基本、芥川賞にしか興味がありません。イヤイヤながら、ついでに大衆文芸の賞も語る程度に終始し、まあ直木賞なんてヘンな賞は、軽い扱いでいいでしょ、とお茶を濁してきました。そこに新たに勃興してきた「大衆文芸評論家」なる存在。直木賞に関するお仕事が、尾崎さんのもとに流れていったのは、自然なことでした。

(引用者注:尾崎が杉森久英と)最初にお眼にかかったのは、「文芸」の編集長時代のことだが、実際にお話しするようになったのは、「天才と狂人の間」で第四十七回の直木賞を受けられた後である。(引用者中略)

 その頃(引用者注:昭和37年/1962年)はテレビもなく、受賞が決まると、即座にその受賞作についてのエッセイを新聞に書かされるのがきまりで、評論家は候補作家以上に、新聞社からの速報を待機しており、「天才と狂人の間」の受賞決定まで緊張して報せを待った思い出がある。それというのも、その前後、司馬遼太郎寺内大吉黒岩重吾伊藤桂一と「近代説話」の仲間が次々と受賞していたこともあった。」(尾崎秀樹・著『逝く人の声』所収「杉森久英」より)

 当時、尾崎さんは新進の(大衆)文芸評論家として、原稿売りに忙しいとき。昭和36年/1961年からは『東京新聞』の匿名コラム「大波小波」執筆陣にも加わっています。さらに、尾崎さん言うように、この時期、『近代説話』の連中が続々と直木賞受賞。っていうかたちのなかで、同誌の同人でもある尾崎さんは、毎回のように直木賞の原稿を書かされるはめになったのでした。

 並の評論家なら、そのうち地位も確立してくるにつれ、直木賞や芥川賞なんちゅう馬鹿バカしい行事に付き合うのはやめるものです。そこが尾崎さんの桁外れなところでした。物事を時代の連続性のなかで見よう、っていう姿勢は揺るぎません。一回一回の受賞や落選にばかり目が行って、やがて疲れ果てて、飽きちゃう人たちとは、そもそもの視点が違います。

 直木賞と芥川賞のバカ騒ぎに辟易するのは、別に、いまを生きるワタクシたちの特徴じゃありません。直木賞直木賞っていうけど直木三十五の作品なんか、もう誰も読んでいないじゃん、みたいな感想もまた、しかりです。尾崎さんが直木賞の話題を書きはじめた昭和30年代半ば、すでに、いくらでも言われていました。そこで尾崎さんは、直木賞のことをどう表現したか。

「虎は死してカワをのこす、といわれる。

 直木は死んで直木三十五賞をのこした。もっとも直木本人にいわせれば、それはあずかり知らぬ話で、迷惑この上もないというかもしれない。しかし今日直木の作品をロクに読まない読者も、直木賞は知っている。

(引用者中略)

 最近の直木賞作家が、直木三十五の作品をどれほど読んでいるか疑問だが、直木は自分の作品を読まない作家に、直木賞が贈与されてもすこしも怒ったりしないはずである。むしろにぎやかなことの好きだった故人は、直木賞のフェスチバルを、大衆文学隆盛のあらわれとして心からよろこんでいるかもしれないのだ。」(『大衆文学論』所収「直木三十五論」より)

 これ、初出は『大衆文学研究』第3号。昭和37年/1962年4月です。芥川龍之介を語るに、芥川賞を語らない論稿など、腐るほどあります。直木三十五だって、〈評論〉の立場からすれば、別に直木賞など関係ないし、触れずに済ましていいわけです。しかし尾崎さんは、文学賞の営みを馬鹿にすることはありません。それでいて、騒がしいことの好きな直木、と直木賞のお祭り感を掛け合わせて、双方に傷がつかないようにおさめる。なかなか、できることはありません。

 やはり大衆文学を研究するうえにおいては、「賞」の果たしてきた重要な役割を軽んずるわけにはいかないのでしょう。その点が、純文学系の研究とは大きく違うところです。だって、大衆文芸が花開いた昭和初期、その影に(オモテに?)は、「賞」の絶対的な機能が働いていたんですから。

「昭和の初期は大衆文学の第一次の繚乱期であった。伝奇小説、股旅小説、芸道小説、捕物小説、実録小説などの時代ものをはじめ、タンテイ小説、怪奇小説、ユーモア小説、未来小説、家庭・恋愛小説など、あらゆるジャンルの作品が一時に花ひらいた。

(引用者中略)

 大衆文学の歴史に『サンデー毎日』が寄与したものは大きい。とくに新人の登竜門となり、昭和十年代から戦後へかけて活躍した多くの作家たちを育てている。この育ての親は毎日新聞の学芸部長で、『サンデー毎日』の編集にもタッチした千葉亀雄だった。(引用者中略)

 また大衆文学の発展に力を添えたのは、直木賞の創設だった。直木三十五にたいする友情のしるしとして菊池寛によってはじめられたこの文学賞は、昭和十年以後、川口松太郎鷲尾雨工海音寺潮五郎木々高太郎らに贈られてきた。」(尾崎秀樹・著『文壇うちそと』所収「大衆文学はなにを遺したか」より)

 この歴史を知らず、直木賞と芥川賞は同じようなものだとしか認識していないような人たちが語る直木賞(の歴史)は、まず信頼できないと思わざるを得ません。そして直木賞を取り巻く言論はずーっと長らく、信頼できない言説がブクブクあふれ返った状況、もしくは信頼できそう人は文学賞に興味がないので語ってくれない、みたいなことが続いてきました。

 泣けてきます。泣ける時代が粛々と刻まれていったからこそ、ひとり尾崎秀樹さんは、直木賞研究の視座からも、得難い存在として光かがやいていたわけです。

 以下は第60回(昭和43年/1968年・下半期)のときの、尾崎さんの文章です。

陳舜臣早乙女貢のふたりが、直木賞のニューフェースにえらばれた。いずれも新人というには、あまりにも名がうれている。(引用者中略)しかしミステリー畑からそだった陳舜臣が本格的な歴史ものへの発表をうちにはらみ、クラブ雑誌作家から転じた早乙女がよりシリアスなものへと向うコースからいえば、ふたりの直木賞受賞も意義あることといえよう。

(引用者中略)

 この六十回の歩みについて、奥野健男が新聞紙上に書いていた。そろそろ、その功罪が文学史的にふりかえられていい時期だろう。だいぶまえに瀬沼茂樹が、芥川賞と直木賞の歴史について文学史的なまとめをやったが、さらに社会心理史的に、検討される必要がある。

 陳舜臣・早乙女貢ふたりとも、外地派の作家だ。ひとりは神戸生れではあるが外国籍の持主、ひとりはハルビンの生れで、いずれも日本のしめった心理的土壌とはふっ切れた作家たちで、直木賞の一つの曲り角を暗示するともいえる。」(『出版ニュース』昭和44年/1969年2月下旬号 尾崎秀樹「曲り角にきた直木賞」より)

 直木賞批評ではおなじみ「曲がり角」論を吐いているところなどは、ご愛嬌。これが、どこかの新聞記者の文ならば、またテキトーなこと言ってらあ、で済ませられるのですが、なにしろ尾崎さんですからね。受賞者二人が外地派、だから曲り角、っていう視点は、ちょっと無理な切り口じゃないかとは思います。だけど、芥川賞と独立して直木賞を振り返ろうとするこの姿勢が、もう尊敬に値するわけです。ほかに誰もやろうとすらしてこなかったことですから。

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2013年6月 2日 (日)

小野詮造(文藝春秋新社・事業調査部長→『オール讀物』編集長) 50年代の「直木賞黄金時代」の中枢にいた名部長、名編集長。

小野詮造(おの・せんぞう)

  • 明治45年/1912年7月16日生まれ。
  • 昭和11年/1936年(23歳)早稲田大学国文科卒。
  • 昭和16年/1941年(28歳)文藝春秋社入社。
  • 昭和21年/1946年(33歳)文藝春秋新社の設立に参加。
  • 昭和27年/1952年(39歳)直木賞・芥川賞の運営を担当する事業調査部長に就任。
  • 昭和29年/1954年(41歳)より『オール讀物』編集長を務める。以後、編集局次長(昭和35年/1960年)、編集局長(昭和36年/1961年)、相談役(昭和57年/1982年)など。

 『オール讀物』の編集長っつうポストは、長くてもだいたい4年程度で交代します。……って、人の会社の人事などどうでもいいんですけど、直木賞と密接に関わる話題なので、しかたありません。

 なかで、歴代編集長のうち、長期にわたってその職にあった人。たとえば小野詮造さん、という方がいます。6~7年間は編集長を務めていたみたいです。直木賞でいえば、第30回(昭和28年/1953年下半期)~第44回(昭和35年/1960年下半期)のこととなります。

 この時代は、直木賞黄金時代、とのちに呼ぶ人が現われたほど(ワタクシがたったいま命名しました)、豪華な受賞者陣を生んでいます。戸川幸夫新田次郎南條範夫山崎豊子城山三郎平岩弓枝司馬遼太郎池波正太郎……。〈豪華〉というのは、いま振り返ったときの感想です。受賞当時はだいたいみなさん、まだ本の一冊も出していないとか、そもそも一度も商業誌に小説を書いたことがないとか、そんな人ばっかりでした。直木賞の受賞が引き金となって、これだけ多くの人が職業作家の道に進み、それぞれが小説界の屋台骨を支える地位にまでのぼっていった、という。「黄金時代」と呼ばれるゆえんです。

 で、そのとき『オール讀物』の編集長だったのが小野さんです。小野さんがいなければ、彼らの文壇登場もなかった、……とはさすがに言えませんが、彼の名前は、直木賞受賞者の回想文などにはしばしば登場します。おかげで小野さんも、映画に出たことのある素人役者、としてだけでなく、「名編集者」といった評価を、いまも得ています。おそらく。

 たとえば新田次郎さんは、信頼できる編集者のひとりに、小野詮造さんの名を挙げています。『小説に書けなかった自伝』から。

「私は、この頃(受賞して2年、昭和33年/1958年ごろ)になってもまだ小説家としての確信のようなものが持てず、この世界から突然消えて行く自分の姿におびえていた。(引用者中略)当時、小野詮造氏は「オール讀物」の編集長をしていた。彼は役人作家としての私を認めてくれた第一番目の人であった。

 彼は年の初頭に、何月までに現代ものを何枚、そのつぎには何月までに時代もの何枚というように仕事の予約をしてくれた。大体年三本であったが、このように前から話があると、それまでによいテーマも探せるし、時間の調整もできてまことに助かった。「小説新潮」の方は川野黎子氏が最初から私の担当だったが、やはり私の立場を理解して、原稿を渡した瞬間に次の原稿の予定枚数と期日を知らせてくれた。」

 ここからわかることは、小野さんが、新田さんのことを、きちっと計画を立てて書くことで力量を発揮できる人だ、と見抜いた事実です。そして、わざわざそんな原稿依頼の仕方をした、と。さすがです。

 新田さんのなかで、さらに小野さんの株が上がった、と思わせるエピソードが、そのあとに出てきます。『酒』誌での有名な、文壇酒徒番付と匿名編集者座談会の一件です。これに新田さん、ムッとし、編集者というのは小野さんみたいな人たちばかりでない、と教えられたんだとか。

「私はこの日まで編集者には特別な敬意を払っていた。(引用者中略)ところがその人たちが、匿名をいいことにして、かなり名の通った作家に対しても乱暴な調子でこきおろしているその記事を読んで以来、私は編集者全体に対して、大きな不信感を持つようになった。編集者は小野詮造氏や川野黎子氏のような人ばかりではないと思った。気をつけないとひどい目に会うかもしれないとそれからは注意することにした。

 「酒」の角力番付における私の位置はずっと砂かぶりであったが或る年前頭に昇進させて、敢闘賞をやるから、その言葉を原稿に書いて送ってくれと云って来たことがあった。私はこの番付と座談会がまことに不愉快な存在であることを指摘して執筆を拒否した。現在も尚、このばかげたことが為されているかどうかは知らないが、作家をこきおろすんだったら、堂々と本名を使ってやればまた別な味も出ることだろうと思っている。」(同)

 これで、じつは匿名座談会の出席者のひとりに、小野詮造さんがまじっていた、なんて真相が明らかになったら仰天です。もちろん、そんなどんでん返しはありません。新田さんにとって、大切な理解ある編集者でした。

 つづいて登場するのは、池波正太郎さんです。五度、直木賞候補に挙がりながら、手が届かず、第43回(昭和35年/1960年上半期)「錯乱」でようやく賞が与えられます。この過程をつぶさに見る立場にあったのが小野さんです。と言いますか、小野さんは、池波さんの受賞に、重要すぎるほどの役割を果たした人です。

 ご本人の回想から。ちょっと長めですが引用してみます。

「私(引用者注:小野詮造)は、昭和廿七年以来、直木賞選考委員会の進行係を受持っていたので、およそのことは記憶にあるが、なかでも惜しかったのは、第三十六回に、『恩田木工』が候補になった時である。『恩田木工』はその回の、有力な本命と目されていた。しかし、遂に受賞作に推されなかった。

 今東光穂積驚両氏が、その時の受賞者である。お二人の直木賞受賞パーティの席で、挨拶に立たれた日本文学振興会の佐佐木茂索理事長が、最后に声を張り、

「池波さん、池波さんはこの席におられますか」

 と呼びかけられ、今度の『恩田木工』が、受賞にはずれたのは残念なことであった。あの作品は受賞作と比べて遜色なかったと、自分は思っている。池波さん、どうかこれからも精進をつづけて、是非近い将来、直木賞を受けて欲しい。そんな風に語られた。

(引用者中略)

 長い間、「オール讀物」を担当していた私として、挨拶をきいたとき、示唆に含んだその言葉の意味を、ただちに悟らねばならなかった筈である。思えば迂闊なことであった。

 池波さんはそれからも、時代物作家として、有力な直木賞候補であった。しかし私は、ずっと何の仕事も頼んでいないのである。」(昭和51年/1976年5月・朝日新聞社刊『池波正太郎作品集3』「付録月報4」所収 小野詮造「『錯乱』の思い出」より)

 ということで、第36回の「恩田木工」から、第37回「眼」、第38回「信濃大名記」、第40回「応仁の乱」、第41回「秘図」まで、5度の候補作はすべて『大衆文藝』に掲載されたもの。そのまま『オール讀物』が、池波さんに小説を依頼していなかったら、どうなっていたのか。知るすべはありません。小野編集長が……いや、池波さんの先輩、北條秀司さんが、小野さんのところに訪ねてきて、こんなやりとりがあったからです。

「北條さんは、

「今日は君に一寸用があって来たのだが、一応二人だけの話としてきいて貰いたい」

 と前書きされて、

「実は池波君のことだが、彼は僕の仲間の一人で、『鬼の会』(北條氏を中心とした劇作家の親睦会)のメンバーでもあり、マジメで、なかなかいい仕事をしているんだよ。御承知の通り、何回も直木賞の候補にもなって、今が大事な時なんだ。君は池波君を、どう思っているのか、ひとつ本気で考えてみてくれないか。彼を励まして、いいものが書けたら、『オール讀物』で取りあげるようにできないものか。よろしく頼みますよ」

 まことに云われる通りで、全く一言もない。

 北條さんは、シビレを切らして態々たずねて来られたのである。それは佐佐木さんの挨拶を聞いた時、すぐ私が思い当らねばならぬことでもあったのだ。

 私は自分の編集者としての怠慢を、ピシャリと一本、正面から打ち込まれたと思った。ハッキリそう思ったのである。」(同)

 それではじめて『オール讀物』が池波さんに「題材は自由に」ということで依頼し、出来上がってきたのが「錯乱」でした。これが、何だかんだと非難を受けつつ、6度目の候補でようやく受賞。

「私も格別嬉しいことであり、正直云って、肩の荷を降ろしたようにホッとした。」(同)

 と小野さん、安堵に包まれたわけです。たかが候補になった程度で、『オール讀物』が声をかけることはない、という当時の直木賞事情、『オール讀物』事情がかいま見えるエピソードではあります。

 池波さん6度目の選考会は、海音寺潮五郎さんが猛反対し、川口松太郎さんが強引に押し切って授賞に導いた、というのはよく知られているところです。『オール讀物』平成25年/2013年5月号「池波正太郎の手紙」でも、そのように紹介されていましたね。いったい、このとき司会役を務めていた小野さんが、どんな気持ちで進行していたのか、想像するのも楽しいことです。

 小野さんが編集長だった頃の直木賞は、いまからは想像できないくらい、『オール讀物』の小説や、文藝春秋新社から出た小説が、候補に挙がる機会が少なく、受賞も稀でした。しかも「錯乱」は、じつは最初、文藝春秋新社の予選では評判が高くなく、外されかかったんですが、「もう一度だけチャンスをあげたい」という声が出て、予選通過作となった、なんて紹介する文献もあるんです。それで何とか受賞したのですから。小野さん、本気で「ホッ」としたのかもしれません。

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