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2013年4月21日 (日)

大竹延(南北社社長) 1960年代、新進作家の背中を押すいっぽうで、売れないはずの「大衆文学研究」分野に挑戦。

大竹延(おおたけ・すすむ)

  • 大正15年/1926年生まれ、平成17年/2005年10月12日没(79歳)。
  • 昭和31年/1956年(30歳)南北社を設立(昭和43年/1968年に倒産)。
  • 昭和34年/1959年(33歳)南北社より『大衆文学への招待』(荒正人・武蔵野次郎・編)発刊。
  • 昭和36年/1961年(35歳)南北社より『大衆文学研究』創刊、同人として参加。

 新鷹会の『大衆文藝』の影に、新小説社島源四郎さんの功績あり、っていうハナシは長谷川伸さんのエントリーで触れました。その伝でいくと、大衆文学研究会の『大衆文学研究』の影には、南北社大竹延さんがいました。

 『大衆文学研究』といっても、知らない人のほうが多いと思います。軽く紹介しますと、昭和36年/1961年、なかなか系統立った研究の育たなかった大衆文芸の世界に、出版社の南北社が資金を投ずるかたちでつくられた研究誌。その後、発行元の変転や事務局の代替わりなどを経つつ、いまもなお、発行しつづけられています。大衆文芸のはしくれに位置する直木賞を考えるうえでも、見逃せない雑誌です。いわゆる「研究」論文だけでなく、作家や出版編集者のエッセイ、インタビュー、座談会などなど、貴重すぎておなかを壊しそうな記事が、ざっくざっくと掲載されてきました。

 そのいちばん最初が昭和36年/1961年。大衆文学の研究ってテーマだけで雑誌をつくろうぜ、と売れる当てもない、荒涼たる世界に乗り出した英断、はたまた暴挙を成し遂げた中心人物が、主婦の友社編集局にいた大衆文芸オタク富永真平さん。……武蔵野次郎さんですね。それと、元『文芸日本』編集者で、情熱と執念と気配りのひと、尾崎秀樹さん。プラス、エロフィルム収集家として名を馳せるいっぽう、良心的な文芸出版業に挑戦しはじめていた弱小出版社希望の星、大竹延さんだったわけです。

 南北社が、文芸出版界で光芒を放ったのは、わずか十年あまりでした。どちらかといえば芥川賞の話題として触れるべき事項が多いかもしれません。でも、同社からは一冊、林青梧『誰のための大地』が直木賞候補に選ばれているのですもの、というわずかな突破口を理由に、大竹さんを(裏)人物に入れさせてもらうことにしました。

 『誰のための大地』は昭和39年/1964年、南北社の「新鋭創作叢書」の一冊として出版されました。この叢書について、大竹さんはこう回想します。

「図書出版「南北社」(昭和三十一年四月有限会社として設立し、三十六年四月一日株式会社に改組)を創立する時、私は三つの心覚え(誓い)を決めた。

 ①エロもの、際ものは出さない。

 ②時代の潮流に流されず、なるべく新人発掘に努力したい。

 ③「文学」という階段に一段でも半段でもプラスになるものを出版し続けたい。」(『大衆文学研究』 大竹延「『大衆文学研究』創刊の頃(III)序章(II)の三」より)

「このテーゼに沿って南北社には三つの柱が出来て行った。(小路はウロウロと沢山あったが)「新鋭創作叢書」、「現代評論選書」、「招待シリーズ」だった。「新鋭創作叢書」と「現代評論選書」はすべてその人の処女出版を基本とした。まだ誰も掘り出していない新鮮な筍を狙った。亭々と伸び行く様を描くことは嬉しく楽しい事だった。勿論失敗もあった。がほゞ間違いはなかった。「新鋭創作」の方からは、吉村昭『少女架刑』、伊藤桂一『ナルシスの鏡』、杉本苑子『二條の后』、萩原葉子『木馬館』など。「評論選書」からは、遠藤周作『宗教と文学』、大久保典夫『岩野泡鳴』、尾崎秀樹『魯迅との対話』、村松剛『文学と詩精神』、村上一郎『日本のロゴス』、このほか佐伯彰一、秋山駿などの初めての評論集は南北社から出版された。」(『大衆文学研究』 大竹延「『大衆文学研究』創刊の頃(IV)序章(III)の四」より)

 のちに紹介するように大竹さんは、「エロ事師」などと週刊誌に書き立てられるほど、16ミリエロ映画の収集家であり、また高橋鉄さんの性解放思想の支持者でもあって、高橋さんの娘を南北社に入社させていた人です。胡桃沢耕史さんがまだ清水正二郎で活動していた頃には、お互いに趣味が合ってツルんでいました。もしかして、清水さんの「非エロもの」が南北社から出ていたら、ひょっとすると、万が一にも、このとき直木賞候補になっていたかもしれません。

「清水正二郎さんとは個人的に趣味も合い、一しょに海外旅行や夜のつきあいもしながら彼の本を一冊も刊行しなかったのもこんな理由から(引用者注:エロものは出さないと決めていたから)であった。『近代説話』に書いたもの「壮士両び還らず」などをまとめて上梓の話もしたが、彼は「もう少し待ってほしい。必ず南北社で出しても恥かしくないものを書くから」と辞退した。彼は近代説話の東京事務所兼所長を引き受けていたが、同人たちが次々と芥川賞、直木賞を受賞するのを淋しく悲しみながら世話役に徹していた。」(同)

 いや大竹さん、そこで「芥川賞」を出すのはおかしいでしょう、とツッコむのは野暮ってもんです。当時の大竹さんの意識する「新鋭」作家とは、芥川賞もしくは直木賞を取るか取らぬか、の辺りにいた作家だったのでしょう。芥川賞と直木賞は、どちらにしたって同じようなもの、っつう直木賞観です。たしかに、それも立派な一直木賞像には違いありません。

 大竹さんにとって、芥川賞と直木賞、はそのまま純文学と大衆文学、という区分けだったと思われます。そして昭和30年代、そんなものは崩れた、あるいはグチャグチャになった、との意識があったみたいです。それで南北社の柱の一角〈招待シリーズ〉の2冊目のテーマに、大衆文学を選び、昭和34年/1959年刊行、1万2000部ほど売れた、と。

「昭和三十年代は既成大家たちと戦後の新進作家たちの混乱期にあった感じがする。このカオスの中に果敢に斬り込んだのが『大衆文学への招待』ではなかった、と今でも自負を持っている。大出版社では企画に乗っても必ずつぶされるプランであったろう。

 この『大衆文学への招待』の成功(とはいえないまでも損しなければよいという目的は達成されたこと)によって、南北社に集まってくる人たちが増えて来たことは事実である。人は社業が発展し伸びるところに自然と集まるといわれる。

 またこの単行本の刊行が「大衆文学研究」という特異な雑誌を生む原動力というか基礎になった。」(同)

 『大衆文学研究』は、そこから尾崎秀樹という巨人を生んで育み、また「大衆文学って、研究してもいいんだ」の裾野を広げることに貢献。儲かるはずのないこの雑誌の一切合財、資金面で面倒みた大竹さんなかりせば、まず起こり得なかった歴史だと思います。

「22号(引用者注:南北社で『大衆文学研究』を出していたあいだ)を続けるまで(創刊の話の時代を加えると約十年間)私は尾崎(引用者注:尾崎秀樹)さんからコーヒー一杯ご馳走になった事はない。編集費、交通費(京都・大阪その他都内の人たちに逢いに行く交通費すべて)、例会費用、印刷代などみな私個人の出費だった。大衆文学というジャンルを戦後初めて目に付け斬り込み、育成し続けたのは南北社であり、私であったというのは驕りかもしれないが、大衆文学研究家としての尾崎秀樹の誕生をいささかなりとも育てて行ったのは南北社であり、私であったといっても過言ではないような気がする。」(『大衆文学研究』 大竹延「『大衆文学研究』創刊の頃 序章(I)」より)

 ほんとっすね。それはつまり、随一の大衆文学研究家として尾崎さんが、その後発表しつづけた数々の直木賞に関する文章の礎は、もとをたどれば大竹さんのバックアップにあったと、ワタクシはいま、思っています。

          ○

 もはや直木賞の話題でも何でもなくなってきたんですけど、それでも触れずにはいられません。南北社がついに力尽きて、大衆文学の世界から手をひくにいたった頃のことを。

 大竹さんは、21世紀を迎えるまで(たぶん尾崎秀樹さんがこの世を去るまで)、『大衆文学研究』を出していたころの南北社については、語りたくなかったそうです。

「永い間この雑誌には人間関係も含め拘わりたくない心情があったのは事実である。所謂心理的記憶喪失状況というのであろうか。(引用者中略)その根底にあるのは強烈な挫折感である。人間は悪い、いやな記憶は自ら拒否し忘れようとする心理がある、と有名な精神心理学者は云っている。」(同)

 南北社の『円卓』同人で、それ以来親交のあった三浦佐久子さんは、追悼文でこう表現しています。

「南北社が廃業したことは、大竹氏にとって不幸だった。大きな打撃と深い挫折感から、生涯にわたって立ち直ることが出来なかったようである。」(『大衆文学研究』 「追悼 大竹延顧問を偲ぶ」より)

 大竹さんの思いの細部まではわかりません。また、大竹さんと精神的に疎遠な関係になっていった尾崎さんのほうの思いもまた、なかなか計ることはできません。ただ、事実と、大竹さんの文章をつなぎ合わせてみて、言えることは、南北社が借金までこしらえて、育ててあげ文壇の重鎮の座にまでのぼったのに、恩義の言葉ひとつ述べるでもなく、向こうはみんなからチヤホヤされ、こちらは文芸出版の夢ついえてしまった。その溝を感じた状況で、大竹さんは、南北社倒産以後を生きたらしいです。

(引用者注:昭和41年/1966年)文芸誌「南北」を創刊した。「文学界」「文芸」「群像」を目標にしたのだが、所詮資金力もバックもない小出版社がすることではない。他社との融通手形が不渡りになりそれを喰い止める力もなく敢無く倒産。私は三~四年ほど出版界から離れた。「大衆文学研究」は借金を続けながらも成長し最終刊は二百頁を超す雑誌になっていた。この雑誌をこのまま埋没させるのは耐え難く、当時編集長であった尾崎さんに一時預りの形にして、私の留守の間何とか維持してほしいと頼んだ。

 私が倒産時に迷惑をかけた周辺の人たちに借金返済など若干整理して出版界に復帰しようとした頃、「大衆文学研究」はまだパンフレットも出していなく、私が預りにしたそのまゝの形だったので、私は尾崎さんにこの三、四年のお礼とお詫びを申し上げ、私の再出発の足がかりにしたいと思っているので「大衆文学研究」をご返却預けないだろうかと情理を尽くした手紙を書いた。しかし尾崎さんからは何の返事もなく、それと前後して「大衆文学研究」関係のB4位のパンフレットが出はじめた。」(『大衆文学研究』 大竹延「尾崎さんのこと」より)

 ここで尾崎秀樹さんが、大竹さんに手を差し伸べていたら、どうなっていたのか、といまさら振り返っても仕方がないんですが、何とも胸が痛みます。

 南北社は昭和43年/1968年に倒産。しかもそれに追い打ちをかけるように、大竹さんは事件に巻き込まれ(というか、みずから関わったというべきか)、逮捕されて新聞・雑誌を賑わせてしまっているのです。

 昭和43年/1968年3月、日本大学経済学部の会計課長だった富沢広さんが、東京国税局の調査を受けて3日後、突然行方をくらまします。調べてみると富沢さん、経済学部の金を数億円の単位で横領していた、という疑いがあるとして全国に指名手配。そのなかから浮かび上がってきたのが、富沢さんとは福島県梁川町で同級の友人だった、大竹さんの姿でした。

 結局、富沢さんの逃亡を助け、匿っていたのが大竹さんだったと露見。「あの不正課長が横領した大金、いくらかは南北社に流れていたんじゃねえの?」と噂されるどころか、週刊誌にも書かれてしまいます。「南北社の倒産はじつは偽装だったんじゃないか」だの、「大竹って人はエロフィルムのコレクターで、夫婦交換パーティーを主催してた」だの、まあ、週刊誌お得意の、「噂話をつなぎ合わせて一人の人間を極悪人のように仕立て上げる」攻撃にさらされてしまいます。

 ほんの一部だけ引用。

「一つの疑問が出てくる。それほど多角経営であくどく稼いでいたのなら、南北社が倒産でつぶれるのはおかしいではないか。まして、富沢から一億円もの金が流れているのだ。

「ええ、ぼくの友人にも南北社とひっかかりのあるのがいて、あれは擬装倒産ではないかといってます。印刷とか下請け業者にはそう思っている人が多いようですね」

 と、大竹とつきあいのあったN出版の社長。

 さきほどのA氏も、そういう疑惑をもとに、こういう。

「株か仮空名義の定期預金か、あるいは宝石などの現物か、相当の隠し財産があるとぼくはにらんでいるんですよ。警視庁につかまる前に帳簿類もぜんぶ焼いているし、なにか計画的なニオイがする」

 実業家の仮面をかぶった虚業家というわけ。」(『週刊サンケイ』昭和44年/1969年11月24日号「夫婦交換パーティーも主催した日大事件の黒幕・大竹延 主役・富沢も踊らされた虚業家とエロ事師の素顔」より)

 大竹さんを紹介するに、本来こういう記事は無視すべきでしょうが、週刊誌ジャーナリズムの気持ちわるさと、大竹さんの挫折感は、倒産の事実だけじゃなくて、こういう記事のせいで大竹さんと距離を置くようになった人がいたためではないか、と思ったので触れました。直木賞のことを追っているうちに、だんだん話題がズレていき、こういった類のハナシに食いつくところが、うちのブログの下品さです。

 下品な部分は勘弁してもらうとして、大竹さんのチャレンジ精神あふれる新進作家登用や、研究材料のメインストリームのなかに大衆文学を引き上げる試みは、まったく色褪せません。もしも現在、「大衆文学を研究する」という視点が、ここまで充実していなかったら、直木賞のことを調べるだけでも、そうとうな障壁とぶち当たることでしょう。どう考えても大竹さんは、偉大な先人だと思います。

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