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2013年3月17日 (日)

植村鞆音(直木三十五の甥) 直木三十五に沁みついた「直木賞ほど知られていない」の状況に、果敢に立ち向かう。

植村鞆音(うえむら・ともね)

  • 昭和13年/1938年3月生まれ(現在75歳)。
  • 昭和37年/1962年(24歳)早稲田大学第一文学部史学科卒。東映に入社。
  • 昭和39年/1964年(26歳)東京12チャンネルプロダクション(現・テレビ東京)に転職。以後、常務取締役(平成6年/1994年)、テレビ東京制作の代表取締役社長(平成11年/1999年)等を歴任。
  • 平成17年/2005年(67歳)『直木三十五伝』(文藝春秋刊)を上梓。

 「直木賞は有名だけど、直木三十五を知る人は少ない」っていう、手アカのついた言葉があります。ワタクシもおそらく、何度か使ってきました。直木賞と直木三十五のことを語るうえでは、まず誰もが言いたがるマクラであり、日本社会に定着した慣用句として、このほど『広辞苑』にも採録された、という噂を耳にしました(……デマ、とも言います)。

 はっきり言って直木賞が、他の文学賞と一線を画していることを表わす、抜群の表現だと思います。

 たいてい個人名の付いた文学賞を見るときには、どうしたってその人名に引きずられてしまいがちです。文学賞の名前に冠された物故作家と、その作家自身や作品とは何の関係もない、とたしか金井美恵子さんも断言していたと思いますが、そんなことをわざわざ言う必要性すらない、文学賞・オブ・ザ・文学賞。直木賞。

 文学賞を「商売道具として活用した」慧眼は断然、佐佐木茂索さんのものでしょう。だけど、菊池寛さんにだって、先を見通す目はあったのだ、と言わざるを得ません。直木さん本人が思っていたとおり、直木の作品は消え、彼のことは忘れられていきました。それでもなお、直木賞のおかげで直木三十五の名が残っているのは、ひとえに、菊池さんの思いつきのおかげですもん。

 で、直木三十五とは無関係に直木賞が運営されて70年。「直木賞は知られているのに直木三十五は知らない」っていう、なかば平穏だった日常をおびやかす人間が、21世紀になって登場します。植村鞆音さんです。

「芥川・直木賞が創設されて70年。(引用者中略)ところが、芥川龍之介に比べて、直木三十五の人物像や作品はそれほど知られていない。このほど刊行された植村鞆音さんの『直木三十五伝』(文芸春秋)は、甥(おい)の立場から長年、直木について考えてきた集大成で、ユニークな生涯を生き生きと伝えている。」(『毎日新聞』平成17年/2005年7月12日夕刊「伝記:『直木三十五伝』 絶えず新しいものを求めて――植村鞆音さんに聞く」より 署名:重里徹也)

 『直木三十五伝』は、オビに「「直木賞」創設70周年記念出版」とありますが、当然ながら直木の評伝に徹し、つまり極力、直木賞の有名度に寄りかからず書かれています。そこにワタクシなぞは植村さんの、反骨というか気概を感じます。

 「直木賞」の語句は、よく知られているけれど、要するに何も知られていないのと同じじゃん。このまま直木三十五を、「直木賞の人」として残しておきたくないぞ、っていう。

 たとえば本書が刊行される14年前に、植村さんは『この人 直木三十五』(鱒書房刊)なる本をつくり上げています。そこに寄せた文章から、直木三十五と直木賞の関係性に対する植村さんの思いが、ひしひしと伝わってくるのです。

「実は、私は、直木の人物と生きざまそのものが、(あまり読んではいないが)彼の小説以上にドラマテックだと思っている。(引用者中略)

 この本の価値は、収録したエピソードが伝聞ではなく、すべて当事者の証言だということにある。また、直木関連の写真がこれほどの量集大成されたのもはじめてのことである。

 他事ながら、私にとってこの編纂の作業は、いつか書くかもしれない「直木三十五伝」の資料整理の意味があった。読者諸兄には、いまはもう文学賞のタイトルの一部としてしか記憶されない作家の貴重な入門書になるはずである。この本をとおし、百年前に生れた一文士の人となりにそれなりの興味と共感を覚えていただければ、もうそれ以上のことはない。」(平成3年/1991年3月・鱒書房刊『この人 直木三十五』所収 植村鞆音「「この人」が出版されるまで 伯父・直木三十五と私」より)

 植村さんが、よおし直木三十五伝を書いてみようと思い立ったのが、昭和35年/1960年。大学生のときでした。前にも少し紹介した、横浜市富岡で行われた直木の建碑式に出席、そこで佛子須磨さんと香西織恵さんの二人に出会って交流の生まれたことがきっかけです。

 以来ン十年。仕事に忙殺されて、どんどん出世して、なかなか筆をとる余裕もなく60歳を超え、ようやくサラリーマンの終着に達した平成15年/2003年。元・文藝春秋の湯川豊さんのおかげで、夢をかなえる道が開けました。

「私の長年の夢の実現に力を貸してくださったのは、東海大学教授(元文藝春秋取締役)の湯川豊さんと文藝春秋の鈴木文彦さん、西山嘉樹さんである。まず、湯川さんが私の構想に賛意を表してくださり、湯川さんから紹介された鈴木さんと西山さんが担当を引き受けてくださった。また、もと丸善の西村みゆきさんには、資料探しや著作年譜作成などで一方ならぬ協力を受けた。四人の方の決断と協力がなければ、私の『直木三十五伝』は、日の目を見ることがなかったろう。」(平成17年/2005年6月・文藝春秋刊 植村鞆音・著『直木三十五伝』「おわりに」)

 すでに父親のように慕っていた城山三郎さんに、オビの推薦文を依頼し、あまりオビを書いたことがないという城山さんの許しを得て、読後の感想をしたためた手紙の一節を使わせてもらった。というエピソードは『気骨の人 城山三郎』(平成23年/2011年3月・扶桑社刊)に出てきます。

 この本は、各紙・各誌で取り上げられました。その紹介記事の多くでは、定番中の定番、「直木賞はよく知られているが、直木三十五のことは知られていない」ふうの慣用句が、ここぞとばかり、惜しげもなく使われました。

 ええ、ワタクシも直木賞への関心から、『直木三十五伝』を読んだ口です。

 この人にして、この賞あり、と思いました。直木と直木賞は何の関係もないとわかっています。わかっていながらも、破天荒というか、規格破りというか、ムチャクチャなところを、直木賞はきちんと直木さんから受け継いだんだなあ、と嬉しくなったものでした。

          ○

 いちおう「「直木賞」創設70周年記念出版」ですから、この書をもとに『オール讀物』も企画を立てました。村松友視さん、久世光彦さんという昭和初期の文壇に詳しい二人の作家を招いて、植村さんとの鼎談を組んだのです。

 リード文にはこうあります。

「文壇華やかなりし時代において異彩を放った大衆作家、直木三十五。/盟友・菊池寛が彼の名を冠した「直木三十五賞」を創設して、/今年で七十年を迎える。現在では、あまり知られていない/直木三十五の実像とその時代を、作家、村松友視氏、久世光彦氏と、/直木三十五の甥である植村鞆音氏が語る。」(『オール讀物』平成17年/2005年8月号「直木三十五と文士の時代」より 「/」は改行を示す)

 『直木三十五伝』では完全な脇役だった「直木賞」が、まあ、この鼎談でも脇役ですけど、それでも一人の直木賞受賞者が加わっているおかげで、ちらちら姿を現してくれています。直木賞ファンにはありがたい企画です。

 村松さんが回想します。

「直木賞をもらった直後に、椎名誠さんと東海林さだおさんと三人で旅をした際に、ちょうどテレビつけたら、ニュースで僕が映っていたんです。そうしたら、その土地の芸者さんが、「あ、この人この前、“植木”賞もらった人だよね」と(笑)。もともと「直木」というペンネームは、本名の「植村」の「植」という字を二つに分けて付けたんですね。その話を当時は、まったく知らなかったから、そのときは大笑いしたんですが、植村さんが伯父について書かれた『直木三十五伝』(小社刊)で、冒頭に由来が書かれていて、「あの芸者さんもあながち間違ってはいなかった」と思ったりしました(笑)。」(同)

 そうそう、直木と植木の間違いも、直木賞においては「あるある」すぎて、サビ付いた観が否めません。それを村松さんは、『直木三十五伝』をダシにすることで、サビを振り落とした新たな「あるある」ネタに磨き直しています。さすがです。

 あと、このお三方が、なぜ直木賞が創設されたか、を語り合っているところなんぞ。そんなことが、直木三十五とは遠く離れてやってきた21世紀の『オール讀物』に載っちゃうわけですから、もう『直木三十五伝』を出した植村さんの功績は、ハンパないわけです。

久世 (引用者中略)菊池寛の直木に対する友情がすごく篤いように思えるのは、芥川賞は芥川が死んだ直後作ったものではない点ですよ。芥川は昭和二年に死んだときには、すでに菊池寛は「文藝春秋」をやってるわけだから、けっして「芥川賞」を作るのは不可能ではなかった筈なのに、直木さんが亡くなったときに、初めて八年前に遡ってお二人を並べて「芥川賞」と「直木賞」をつくろうとした。恐らく、直木さんが死んだことの方が大きな動機だったんでしょう。

植村 芥川賞と直木賞が出来たのは、「文藝春秋執筆回数番附」が元ではないかと思われます。大正十四年(文藝春秋創業三周年)と昭和七年(十周年)の二回掲載があるんですが、ともに「西の横綱」が直木三十五。「東の横綱」は大正十四年が、芥川龍之介で、昭和七年は、武者小路実篤。このとき芥川は故人で欄外に「張出横綱」として名前があります。

村松 それは面白いですね。」(同)

 まっとうな見立てだと思います。

 ワタクシのように、植村さんの『直木三十五伝』のおかげで、もう「直木三十五なんてよく知らない」などと気軽に口走れなくなった、っていう人は多いと思います。しかも、この年の7月にはテレビでも直木三十五の生涯が取り上げられました。

 平成17年/2005年7月16日にTBSで放映された「直木賞七十周年記念 この人をご存知ですか!?~文壇の異端児・直木三十五~」です。本を手にとるのが億劫な、大多数の人も、テレビを通して直木さんのことを知ったのじゃないかと思います。知ったはずです。

 しかし、まわりを見渡してみてください。いまだに「直木三十五? 知らないよ」と勝ち誇っている人は絶えることがありません。知っているこっちのほうが何か普通じゃないと責められているかのようです。

 『直木三十五伝』を出して4年後、植村さんはこんな文章を書いています。ワタクシはつい目頭が熱くなってしまうのです。

「賞の冠として知ってはいても、直木三十五(本名植村宗一)という人物、あるいはその事績について知るひとは少ないのではなかろうか。

 一風変わった作家だった。小心にして傲岸、寡黙にして雄弁、浪費家で稀代の借金王、口説き下手の芸者好き。すべてが矛盾だらけだった。」(『國文学 解釈と教材の研究』平成21年/2009年6月号 植村鞆音「直木三十五――人とその文学」より)

 直木賞の高まる虚名ぶりと、直木三十五の実像をもっと広げたいとする植村さんとの壮絶な闘いは、まだまだ続いているようです……。

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