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2013年3月24日 (日)

大村彦次郎(『小説現代』編集長) 資料に忠実に書く、しかも編集者としての回想記も書ける、最強の直木賞記録者。

大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)

  • 昭和8年/1933年生まれ(現在79歳)。
  • 昭和34年/1959年(25歳)早稲田大学政治経済学部から文学部を経て卒業。講談社入社。『婦人倶楽部』編集部に配属。
  • 昭和37年/1962年(28歳)『小説現代』創刊スタッフに加わる。昭和44年/1969年に同誌編集長に(昭和48年/1973年まで)。
  • 昭和63年/1988年(55歳)講談社の経営下に入った短歌研究社の社長に就任(平成12年/2000年まで)。
  • 平成7年/1995年(61歳)『文壇うたかた物語』(筑摩書房刊)を上梓。

 褒めるところしかなくて、ほんと困ります。大村彦次郎さん。

 大村さん自身にとっては、直木賞のことなど、あまたある関心事のなかの一芥にすぎないでしょう。けれども、直木賞の研究史のうえでは、この人を超える人材など未来永劫現れないんじゃないか、っていうぐらい、でっかいものを残してくれました。……いや、いまも残しつづけてくれています。

 『文壇栄華物語』(平成10年/1998年12月)では、昭和20年/1945年夏すぎ~昭和31年/1956年ごろまで。『文壇挽歌物語』(平成13年/2001年5月)では、昭和32年/1957年~昭和41年/1966年ごろまで。『文壇うたかた物語』(平成7年/1995年5月)は、それらと趣きが異なり、大村さん自身の見聞きした経験をふんだんに差し挟んだものですが、時代としては、大村さんが『群像』編集部に移る昭和48年/1973年ごろまでの話題が入っています。

 直木賞でいえば、第21回~第68回ごろ。さらには『時代小説盛衰史』(平成17年/2005年11月)では、明治末期から筆を起こし昭和30年代までを扱っているので、悠々と直木賞の第1回から視野に入っています。大村さんの本を読めば、直木賞のおよそ半分ぐらいの歴史はしっかりわかる、っていう寸法です。

 大村さんの本にあらわれる直木賞観は、(とくに『栄華』『挽歌』『時代小説』の三冊は)とにかく基本に忠実。選評に忠実、と言い換えてもいいです。

「「文壇うたかた物語」はわが現役の折々の体験をあやふやな記憶に頼って綴った、いわば編集者の回想記である。それとは別に、作家の生態や消息に力点を置きながら、それ自体が物語であり、読み物の対象になる文壇史を書けないか。もちろん正史にはほど遠いが、残された資料に忠実に準拠することを心がける。」(『新刊ニュース』平成13年/2001年7月号 大村彦次郎「私のなかの文壇」より)

 そこが大村文壇史、信頼を生むもとになっています。

 だいたい、編集者の回想記ですでに面白く、自分の経験に立脚した文壇バナシを繰り出していくだけでも、大村さんほどの人なら何冊も本が書けましょうに。「いや、今度は資料に忠実な読み物を書きたいぜ!」と発想するところが、異常というか、スゴいわけです。

 ちなみに、三部作を書き終えたあと、大村さんはこんな感想を洩らしていました。

「「作品の値打ちに基づく、正統な文学史とはだいぶ違います。栄枯盛衰の激しい文壇で、もの書きとして精いっぱい表現しよう、生きようとしたこれだけの人間がいた。僭越(せんえつ)ながら、その一人一人を顕彰したいという気持ちが強かった」

(引用者中略)

「流行作家の家に日参して原稿もらうのが、編集者の喜びじゃありませんよ。才能があってもなくても、いいものを書くようどこまでも励まし続ける。目次に出ない作家を追っかけてるのが、実は一番面白かった」」(『読売新聞』平成13年/2001年6月16日夕刊「“文壇物”三部作を完結させた大村彦次郎さんに聞く」より)

 ふうむ。そこがまた大村文壇史のエラいとこなんだよな。……ってことで、直木賞のなかでも光の当てられがちな受賞者ではなく、とれなかった候補者たちを、大村さんがどのように書き残しているか、確認しておきたいと思います。

 『栄華』より。畷文兵さんのこと。第8回講談倶楽部賞の受賞者として名前が出てきます。

(引用者注:第8回講談倶楽部賞の)受賞者の司馬(引用者注:司馬遼太郎は本名福田定一、三十三歳、大阪サンケイ新聞の文化部記者で、偶然に受賞した当日、文化部次長に昇格した。これまでに「名言随筆・サラリーマン」という著書が一冊あって前年の秋、大阪の六月社という小出版社より刊行していた。もう一人の受賞者畷文兵は司馬と同じく新聞記者で、富山師範を卒業後、教員生活を経て、北日本新聞社の西礪波支局長をしていた。当選作の賞金はそれぞれに十万円であった。」(『文壇栄華物語』「第十二章」より)

 以上。さすがは〈基本の〉大村さん。畷さんといえば司馬遼太郎のデビューを引き立たせるときの脇役、という定石をしっかりを踏み、そこから外れません。信頼の大村ジルシ。

 『挽歌』より。候補回数の多かった落選作家たちについて。

「司馬、戸板(引用者注:戸板康二のように直木賞の候補に一回上げられただけで、直ちに受賞の幸運に恵まれる作家がいる一方で、過去に何度も候補に擬せられながら、そのまま受賞には至らず、不遇をかこつ作家もいた。直木賞だけでも、戦前を入れて数えれば、長谷川幸延が七回、浜本浩中村八朗が六回、池波正太郎が五回、棟田博岩下俊作がそれぞれ四回候補になって落選した。(引用者中略)彼らの才能が乏しいのではなく、そのときの作品の組み合わせや時代の流行によって、運、不運が分れた。」(『文壇挽歌物語』「第五章」より)

 まったくです。まあ、濱本浩さん、長谷川幸延さん、棟田博さんなぞは、それでもずいぶんと職業作家として活躍したほうだと思いますけどね。ワタクシからすると、この三人なんかは「直木賞があげそこねた作家」だと信じています。しかし、そこまでは筆をのばさず、「不遇をかこつ」と表現するなど、あくまで基本に忠実なところが、大村さんのよさです。

 『うたかた』より。津田信さんについて。

「そのご(昭和41年/1966年、津田信が日本経済新聞社を辞めて筆一本の生活に入ったあと)の津田さんは不遇であった。(引用者中略)立原(引用者注:立原正秋主宰の同人誌「犀」は、当初このふたりが中心になって思いつかれたようだ。津田さんは立原さんに貸し家を斡旋したりしておたがいに親密のように見えたが、ほどなく両者の間に確執が生じ、気性のはげしい立原さんが、人前で津田さんに手をかけるようなことがあって、ふたりは気まずいままに袂をわかった。立原さんにいわせれば、津田は志がいやしい、といい、津田さんはこのことについては、終始沈黙した。

(引用者中略)

 津田さんは初志を遂げずに、まもなく亡くなったが、立原さんとの関係で思うと、作家の明暗がはっきりし過ぎる。作家の運、不運は、なにによって決まるのだろう。才能はもちろんだが、才能だけとはいいきれないものがある。人のいい津田さんには、作家として生きる誇りと執念が足りなかったような気がする。」(『文壇うたかた物語』「第五章」より)

 ほんと『うたかた』では、大村さん、かなり踏み込んでいますね。その後、津田さんが、師である小島政二郎さんの向こうを張って私小説作家として再起したものの、数年しか執筆生活を送れなかったことが残念でなりません。もっと生きていれば、立原さんとの愛憎の件もきっと書いてくれていたと思うので。それこそ小島政二郎ばりに。

          ○

 ……と、だんだん大村さんのハナシから外れてきてしまいました。いかん。軌道修正します。

 数々の大村文壇史において、直木賞は付録であり、スパイスであり、挿話です。滔々と語る歴史のなかに、絶妙に直木賞の話題を溶け込ませていく手腕は、まじで惚れ惚れします。うっとりすらします。

 そんな大村さんが直木賞のことだけを語った、直木賞オタク垂涎の文章があります。『オール讀物』平成14年/2002年12月号の「直木賞オンリー・イエスタデイ」です。

 短い随想ですが、だいたい第67回(昭和47年/1972年・上半期)井上ひさしさん受賞のころまでの直木賞史を、しっかりまとめて説明してくれています。ただの回想記にしていないところが、大村イズムです。

 第10回ごろまでについて、こう解説しています。うっとりします。

「直木賞の一部の選考委員には、従来の大衆小説に飽き足らず、自分なりの夢や理想があったから、そのため選考に当たっては意見が分れた。

(引用者中略)

 直木賞選考史上のヒットは第六回に井伏鱒二の「ジョン萬次郎漂流記」を選出したことである。(引用者中略)これはのちのちまで直木賞の品格を上げるうえで役立った。文学の道幅を狭く限らなかったのもよかった。」(「直木賞オンリー・イエスタデイ」より)

 また「軍配の差し違いといえば、これはいずれの賞でも免れないが、直木賞の場合は選考委員の目が光って、大こぼしがない。委員同士の批判が補完する」として、例を挙げています。今東光を強力に推して授賞させた吉川英治、その吉川が反対した司馬遼太郎を熱く援護して受賞にもちこんだ海音寺潮五郎、その海音寺が反対した池波正太郎を弁護してついに賞をさずけた川口松太郎……といったケースを、あたかもその場にいたかのように、わかりやすく紹介しているのです。

 「この3つだけを挙げたって、大こぼしがないことの証明になっていないじゃないか」と反論する気持ちすら萎えさせる、大村さん、堂々たる貫禄です。

 また、直木賞史の重要な楔として大村さんは、山口瞳さんの「江分利満氏の優雅な生活」受賞(第48回 昭和37年/1962年下半期)を挙げています。尾崎一雄『暢気眼鏡』の作風との連想から、「芥川賞と直木賞が融和した」とさえ言います。

「各社の編集者が直木賞という文壇のイヴェントを意識して、いっせいにシノギを削るようになったのはこの頃からである。山口の次は梶山季之か村島健一か、などと、まるで出走馬を占う予想屋のような口吻を編集者が弄した。」(同)

 もちろん、デキる編集者、大村彦次郎その人こそが、先頭を切って直木賞を意識したであろうことは、ひしひし伝わってきます。直木賞を今ある、こういうものに仕立て上げてきたのは、大村さんひとりの力ではないのは当然ですが、でも「各社の編集者が直木賞という文壇のイヴェントを意識」するようなかたちを築いた編集者のひとりが、大村さんだったことは、まぎれもない事実です。

 しかも、そのことを黙ったまま墓石に眠るのでなく、次の世代に精力的に伝えてくれている、という二重の(あるいは何重もの)功績。直木賞研究の観点からは、大村さんって、ほんと褒めるところしかありません。

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