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2013年2月の4件の記事

2013年2月24日 (日)

矢野八朗=村島健一(『オール讀物』直木賞受賞者インタビュアー) 山本周五郎から拒否されるほど、直木賞本体とは一心同体の〈オマケ〉。

村島健一(むらしま・けんいち)

  • 大正14年/1925年3月29日生まれ、平成2年/1990年10月13日没(65歳)。
  • 昭和24年/1949年(24歳)東京大学文学部独文科を卒業。毎日新聞社入社、記者となる。
  • 昭和34年/1959年(34歳)退社してフリーのライターに。第十五次『新思潮』で知り合った梶山季之の世話で『週刊文春』に出入り。
  • 昭和36年/1961年(36歳)『オール讀物』10月号に、第45回直木賞受賞者、水上勉のインタビュー記事「水上勉との一時間」を、矢野八朗(やの・はちろう)名義で発表(以後、「作家との一時間」シリーズは同誌昭和39年/1964年12月号まで)。
  • 昭和48年/1973年(48歳)『オール讀物』にインタビュー記事「作家とのQ&A」を、村島健一名義で発表(昭和49年/1974年まで)。

 『オール讀物』は直木賞の発表誌です。3月号と9月号に、受賞者・受賞作の発表、受賞のことば、選評が載ります。かつては4月号と10月号でした。

 先日2月22日に発売された3月号にも、第148回の発表記事が載っています。そこには、受賞作(長篇の場合は主に抄録、短篇集の場合はいくつかの収録作)や、受賞者の自伝エッセイ、インタビュー記事などなどの〈オマケ〉が付いています。いまでは、こういった定番企画がかならず併載されますが、昔からそうだったわけではありません。

 発表号における、直木賞関連の〈オマケ〉記事の先駆。といえば断然、村島健一さんのインタビューでしょう。矢野八朗さんと言い換えてもいいです。

 矢野さんの「作家との一時間」シリーズは、文藝春秋の社史にも『オール讀物』の名物だったと取り上げられるほどの好評企画であり、かつ、それほどのものでありながら単行本化もされていない、村島健一の哀しき代表作です。(直木賞発表号以外のものも含めて、一覧にまとめてみました

(引用者注:昭和)三十六年十月号の「水上勉との一時間」を皮切りにした四十一人の人気作家のインタビューが評判になった。聞き手の矢野八朗はエッセイスト村島健一のこの欄限りのペンネームだった。毎号『オール』の巻頭にくる長篇と抱き合わせに掲載される決まりだった」(平成18年/2006年12月・文藝春秋刊『文藝春秋の八十五年』「第二章 雑誌の世界」より)

 直木賞の発表号では、受賞者が大々的に持ち上げられます。晴れがましい舞台です。しかし、直木賞によって世に出た人は、歴代受賞者たちばかりではありません。矢野=村島さんも、正真正銘、直木賞のおかげで注目された人でした。

「はなはだ僭越だが、もしわたしがほんのちょっぴりでも世に出たといういい方をさせていただくなら、それは『オール読物』に連載させてもらった人物論シリーズによってだろう。当初、署名は「矢野八朗」でスタートした。種をあかせば、「ヤナヤロー」のもじりである。が、来歴は別として、わたしはこの名前が気に入っていた。」(昭和45年/1970年3月・文化服装学院出版局刊 村島帰之・村島健一・著『親馬鹿おやじ二代記――父から子へその子からまた子へ』より)

 一時間シリーズの誕生となったしょっぱな、水上勉さんの記事をもとに、それほど評判をとった記事とはどんなものだったのを、軽く紹介してみます。

 6ページの記事に、章分けが5つ。「1 ショート小答」「2 ある日ある時」「3 三人称の告白」「4 自宅にて」「5 友は語る」。インタビューをまとめてあるんですが、章ごとに切り口や見せ方を変えていく趣向で、インタビュー記事というより訪問記のようなものです。

 もちろん、受賞者インタビューを、主催者のお膝もと雑誌で紹介するわけですから、基本、提灯です。その路線は外せません。提灯にしなきゃいけないんですが、そのなかでも、いかに、シラけさせないようなピックアップの仕方をするか。矢野さんの手腕の見せどころです。

3 三人称の告白

(引用者中略)ご本人が語る突っ放した自己分析だ。

(引用者中略)

 友人の選びかたもガメつい。仲よさそうに笑いながら飲むだけの友だちは意味ない、と思っているらしい。「徒労な友情はメンドくさい」というとった。不必要な相手とは、つき合いたくないんやろ。

 尊敬できるところのある人とだけ交際したがっている。前は、傷をなめ合うような交友もやってたが。

(引用者中略)

5 友は語る

(引用者中略)吉行(引用者注:吉行淳之介氏に代表として水上さんを語ってもらった。

(引用者中略)

 会いたてのころ、あの男は抒情的な私小説を書いていた。それをわたしは、人物が好すぎるために抒情に流れるのだ――と解釈していた。

 人生にウラミ、ツラミの多い人だとは知っていた。当時、高度なユーモアを盛った諷刺小説を発表していたが、ウラミ、ツラミのユーモア化でやっていく人かなと、わたしは考えたものだ。」(『オール讀物』昭和36年/1961年10月号「水上勉との一時間」より)

 水上さんの暗ーくてコワーい感じが、なんか伝わってきます。

 せっかくなのでもう一本。第49回(昭和38年/1963年・上半期)の佐藤得二さんのハナシもしておきましょう。

 当時、『オール讀物』の直木賞発表号は、受賞作ではなく、受賞第一作を載せるのがふつうでした。しかし、佐藤さん、これをすっ飛ばします。貫禄といいましょうか。おチャメといいましょうか。

「本誌でごらんのとおり、この“新進作家”には受賞第一作がない。

「締切りに追われないで、書きたいときだけ書く。それならいいんですがね。約束すると、苦になります。拘束されるのは、イヤですものね。からだも意のごとくならんし」

 こんなことを公言できるとは、トクな人である。」(『オール讀物』昭和38年/1963年10月号「佐藤得二との一時間」より)

 楽しいのは、矢野=村島さんが、「今日出海の上司」ネタ、「川端康成の旧友」ネタを逃さず、しっかり書きつけているところ。

「「いや、候補になって、そう意外でもありませんでしたよ。コンチャンが……」

 直木賞委員の今日出海氏をさす。文部省時代の部下である。

「トクさんのを推薦しといたぜ」

 そう電話をもらっていたからだそうだ。(引用者中略)

「アリャアリャといってるうちに、コンちゃんが電話をくれましてね。“満場一致だぜ”」

(引用者中略)

「小説とは、どういうものなんですかね。それよりは、一般社会に訴えたかったまでで」

 なるほど、根ッからのセンセイだ。

「だから、川端くんが……」

 川端康成氏とは、一高で同級にいた。

「ほめてくれたときも、八百長ジャネエカとおもいましたよ」」(同)

 佐藤得二さんがこういうハナシをあけすけに、村島健一さんに語っている、っていうこの状況が楽しいわけです。なんつったって村島さんといえば、この回、同じく候補に挙がっていた梶山季之さんとは大親友、一回前の受賞者、山口瞳さんとは飲み仲間。梶山さんが落ちた夜も、三人で会っていた、っつうぐらいの結びつきですもの。

(引用者注:昭和)三十八年夏、『李朝残影』が同年上半期の直木賞候補にノミネートされた。(引用者中略)しかし、受賞したのは佐藤得二氏だった。発表があったあと、結果の伝令役を演じさせられた山口瞳さんといっしょに、梶さんは拙宅の家庭騒動をとり鎮めにかけてつけてくれた。なんて男だろう。」(『文藝春秋』昭和50年/1975年7月号 村島健一「流行作家 香港に死す」より)

 まあ、佐藤さんの受賞については、その後に、三人が三人とも、いろんな噂を聞きつけたことでしょうし、仲良くグチグチと語り合ったことでしょう。そんな場面が目に浮かびます。村島さんはまさしく、直木賞に、典型的な文壇ゴシップの風を持ち込んだ男のひとりです(←って、それは少し言いすぎか)。

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2013年2月17日 (日)

小田切進(日本近代文学館理事長) 「現代文学に大きな役割を果たしてきた」芥川賞の資料を集めるついでに、どうせだからと直木賞もとりあえず。

小田切進(おだぎり・すすむ)

  • 大正13年/1924年9月13日生まれ、平成4年/1992年12月20日没(68歳)。
  • 昭和23年/1948年(23歳)早稲田大学文学部卒。改造社に入社、『改造』の編集総務を担当。
  • 昭和30年/1955年(30歳)立教大学講師となり、以後、助教授を経て教授(昭和39年/1964年より)。
  • 昭和36年/1962年(38歳)立教祭に際して「現代文学芸術雑誌展」を開催。翌年から日本近代文学館の設立運動を主導し、同館事務局長(昭和38年/1963年)、専務理事(昭和39年/1964年)、理事長(昭和46年/1971年より)を歴任。
  • 平成1年/1989年(64歳)日本近代文学館、「芥川賞・直木賞100回記念展」を日本文学振興会と共催。

 同じ小田切でも、兄・秀雄とごっちゃになっちゃう人は、「文学賞マニアなほうの小田切」と覚えるとわかりやすいと思います。

 進さんは、まぎれもない文学賞マニアです。そして、「芥川賞にばかり興味がある」感覚から逃れられなかった人でもありました。昭和の時代を生きた文学賞マニアの典型であり、限界といっていいんでしょう。

 ワタクシのような直木賞ファンからすれば、小田切さんのような存在は大変貴重です。彼の遺したさまざまな文学賞関連の文章を読むことで、自分の感覚が小田切さんと同じ方向性を向いていないか、を確かめられるからです。ああ、よかった、だいじょうぶだとホッとしたり、つい芥川賞中心の視点に陥りそうになっている自分の思考回路にダメ出ししたり。偏した文学賞観をあぶり出すのに、小田切さんの文章はもってこい、なわけです。

 昭和43年/1968年10月。いま何かと話題の神奈川県立図書館が、「文学賞展―神奈川県にゆかりの作家と作品―」っていう資料展を開催しました。それに際して『日本の文学賞』と題する資料集を、編集・刊行。巻頭に小田切さんの「日本の文学賞について」を載せました。

 全文読んでいただければわかるんですが、「日本の文学賞」と言いつつ、主役は芥川賞です。いちおう、一部だけ引用してみます。

「歴史も古く、長く権威をもちジヤーナリズムの花形的な存在になっているのはやはり芥川賞である。この賞は、昭和10年に菊池寛が芥川龍之介と直木三十五の、早世した二人の「亡友を記念するかたがた、無名若しくは無名に近き新進作家を世に出したい」として、直木賞とともに創設したもので、第1回は石川達三の「蒼氓」に授賞された。いらい石川淳尾崎一雄中山義秀八木義徳井上靖安部公房堀田善衛松本清張五味康祐安岡章太郎吉行淳之介小島信夫庄野潤三遠藤周作開高健大江健三郎北杜夫らの有力作家を次々と送りだし、現代文学に大きな役割をはたしてきた。(引用者中略)

 しかし最初の頃の文学賞は、芥川賞のように権威をもつものも、文壇内部ではさまざまな議論や反響を呼んだものの、社会的には今日のようには注目されることがなかった。」(昭和43年/1968年10月・神奈川県立図書館刊『日本の文学賞』所収 小田切進「日本の文学賞について」より)

 うんぬん、と続いていきます。戦前にあった他の文学賞、新潮社文芸賞、野間文芸賞、渡辺賞、各紙の懸賞小説、『改造』懸賞、などなどを親切に紹介していくわけですが、話のベースには芥川賞があります。そして最後のほうでは、こうなっていくのです。

「芥川賞は現代文学に新風を送りこんだが、反面太平洋戦争下には政治的判断が加わったことがあり、また戦後は直木賞との区別がつかないような授賞がなされたこともある。戦後のマス・コミが巨大な発行部数をもつところから、おのずと商業主義的要求が強まり、授賞作品を「つくりだす」傾向もないではない。」(同)

 おそらくまじめに真摯に、文学賞を語ろうとしているんでしょうけど、その分、よけいに苦笑さぜるを得ません。

 「直木賞との区別がつかないような授賞」とか言っておきながら、直木賞がどんな賞だったかにまったく触れようともしないバランスの悪さ。ほんとにアナタ、直木賞と芥川賞のことなんて語れるの? とツッコむしかないじゃないですか。

 まあ、そりゃあ小田切さんほどの方なら語れるんでしょうけど。でしょうけど、直木賞のこと、語っていないからなあ。小田切さん視点で、ぜひ書き残しておいてほしかったですよ。とほほほ。

 小田切さんは、一般には「文芸評論家」です。しかし、ワタクシにとっては断然「日本近代文学館のひと」です。なぜなら、日本近代文学館は直木賞研究にとっても重要施設のひとつなんですが、同館と直木賞の縁もまた、やはり小田切さん抜きには語れないからです。

 同館と直木賞、っていうより、同館と文春、同館と芥川賞の縁、そのついでに直木賞、って感じですけど。

 縁その一。初の直木賞・芥川賞展のおかげで、同館の設立基金が少し増えた件。

「去る(引用者注:昭和39年/1964年)七月末から八月上旬へかけて二週間、東京池袋の西武百貨店で「芥川・直木賞三十年展」が開かれた。(引用者中略)

 芥川・直木賞展では、同時にまた選考委員と受賞作家の色紙展を開いたが、その売り上げ全額が近代文学館に設立基金として寄付される。芥川・直木賞展はそうした大きな意義をもち、文学館関係者には格別にまた有難い行事だったわけだが、それだけにその成功はうれしかった。」(『公済時報』昭和39年/1964年9月号 小田切進「芥川・直木賞展のことなど」より)

 今度、同館を訪れたさいは、ぜひ「この一部は直木賞のおかげでつくられているんだなあ」と感慨にひたりながら、壁や床を撫で撫でしたいと思います(←単なる不審者)。

 縁その二。直木賞・芥川賞の選評や受賞作の肉筆原稿、なんちゅう、両賞マニアでなきゃ何の価値もなさそうなコレクションを、同館できちんと収蔵している件。

「文化遺産の保存という仕事には意外な盲点がある。芥川・直木賞受賞作品の肉筆原稿も、そのひとつ。このほど、文芸春秋社などが積極的に原稿の保存を呼びかけたところ、合計百五十点の大半が日本近代文学館(東京・駒場)に保管できる見通しがついた。(引用者注:小田切進いわく)「文学館におさめるのが永久保存には最適だと認められてきたからでしょう」とうれしそう。」(『朝日新聞』昭和50年/1975年3月12日「ひと 芥川・直木賞原稿の保存をすすめる日本近代文学館理事長 小田切進」より)

 いや、小田切さんだもん、芥川賞(とオマケで直木賞)に関する生の原稿を目にすることができたから、うれしそうだったんでしょう。……というのは冗談ですが、「文化遺産」とやらのお仲間に直木賞を加えてくれたことが、ワタクシはうれしい! その勢いで、『サンデー毎日』懸賞や『新青年』懸賞、千葉亀雄賞やユーモア賞、新潮社文芸賞第二部、野間文芸奨励賞などなどもひっくるめて「文化遺産」扱いしてもらえると、もっとうれしいです。

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2013年2月10日 (日)

萱原宏一(大日本雄弁会講談社編集者) 次から次へと沸き出る昭和10年代の大衆文壇こぼれ話。

萱原宏一(かやはら・こういち)

  • 明治38年/1905年4月10日生まれ、平成6年/1994年1月14日没(88歳)。
  • 昭和2年/1927年(22歳)早稲田大学政経学部卒。大日本雄弁会講談社に入社。『講談倶楽部』編集部員。のち編集長、『キング』(改題後『冨士』)編集長、編集局長を歴任。
  • 昭和21年/1946年(41歳)世界社に転籍、のち社長となる。
  • 昭和47年/1972年(61歳)『私の大衆文壇史』(青蛙房刊)を上梓。

 今日び、萱原宏一さんの資料をもとに大衆文芸を語ったりしたら、馬鹿にされますよね。でも、しょうがないじゃん、創設当時の直木賞のことをいろいろと吹聴してくれている人といえば、和田芳恵さんと萱原さんが、両巨頭ですもん。

 で、萱原さんです。戦前の大衆文壇についての教科書、『私の大衆文壇史』(昭和47年/1972年・青蛙房刊)を書いた人です。当時の直木賞の様子がわかる、貴重な貴重な文献です。

 なんつったって、萱原さんは平記者のころから直木三十五の作品を高く評価して、直木の家に通い詰め、直木その人にも気に入られたほどの人です。

「万人向きを標榜する講談倶楽部には、直木さんはぴったりの作家とは思われていなかった。

 といって、無視することのできぬ力を持った異色の作家、淵田(引用者注:淵田忠良)さんや岡田(引用者注:岡田貞三郎)さんの評価はまさにこんなところであった。私がむやみと高い点をつけるので、若い者の感想はこんなもんかなあ、と淵田さんがつぶやいていた。

(引用者中略)

 このころ(引用者注:昭和5年/1930年ごろ)になると、もう私は直木家の定連のような格好になり、玄関はフリーパスであった。須磨子夫人が、あなたと笹本(寅)さんは、案内を乞わなくてもいいのよ、いつでも黙って上がって下さいと言われていた。」(『私の大衆文壇史』より)

 で、こんな萱原さんだからこそ、次のような文章も書けるわけです。

「直木さんの死と換えた諸作によって、日本の大衆文芸は大きく進展した。昔なら大衆文芸家とその愛好者によって、直木賞の設定のほかに、直木大明神の祠が建ったかも知れないと思うほどだ。」(同)

 いま多くの読者に愛され「すごい傑作を書く人」などと言われている作家も、たぶん何十年もたてば、いま直木三十五に向けられているのと同じ無関心と低評価を味わうことになるんだろうな、と寂しくなりますね。

 『私の大衆文壇史』を読んで感じるのは、モチ、寂しさだけではありません。昭和10年代の直木賞候補者リストに名前は出てくるけど、あんまり注目されてこなかった多くの作家のことに触れられている。おお、この作家が! えっ、あの作家も! っていうワクワク感が味わえるんです。

 竹田敏彦さんとか。

「始めは実話ものを書いた。書いたというより、「沢田正二郎物語」がたいへんよく出来ていたので、実話ものばかり書くのを、余儀なくされたという方が正しい。満洲事変が起ってから、竹田さんの活躍舞台が開けた。(引用者中略)

 竹田さんはこういう出方をしたので、実話作家と呼ばれ、際もの作家と呼ばれた。それを言われるごとに、反発を感じていた。(引用者中略)

 書くものは、すべて大衆受けをした。ことに看護婦、女工、女教師といった階層の女性や、恵まれない不幸な境遇の女性には、絶対の人気を持っていた。竹田さんは中学生のころ家が没落し、青年時代を惨憺たる境遇のうちに過し、世のあらゆる辛酸をなめつくしているのである。その体験から、不幸な人々、恵まれない境遇の人々に対する同情と共感を、強い正義感をもって描き出し、その人達の行く手に、明るい燈火を点ずるのが、竹田さんの小説の生き方であった。」(同)

 ね、こんな紹介のされ方をされたら、竹田さんの小説、読んでみたくなるじゃないですか。

 浜本浩さんも、そう。直木三十五さんより一つ年上の〈新進作家〉、萱原さんにとっては書き残しておくべき作家だったようです。

「私が浜本さんを知ったのは、直木三十五の紹介によってである。文芸春秋に「あるエキストラの死」という小説が載り、その後であったと思う。然るべき席を設けて、直木さんが引合わしたのだ。その意味は大衆文芸に進出の意志のあった浜本さんに、助力してほしいということで無論あったわけだ。

(引用者中略)

 私はすぐ浜本さんに小説を頼んだ。作家馴れしていない浜本さんは、デビュウでもあり、題材にも迷いに迷い、おいそれとなかなか小説は出来なかった。(引用者中略)長い空白の時間の後、それでも抒情味の豊かな好短篇を、いくつか書いてくれた。

「十二階下の少年たち」や「浅草の灯」は、浜本さんの代表作のようになっているが、私は土佐の農村などを舞台にした素朴な短篇に、あの人の本領があったように思う。」(同)

 まあ、直木賞選考委員まで務めた浜本さんのことを「あまり注目されてこなった作家」枠で語っちゃいけないかもしれませんけど。

 と、萱原さんの紹介ぶりがあまりにも素晴らしいんで、それに載せられて『私の大衆文壇史』からばかり引用してきましたが、後半は、萱原さん真の代表作(?)をご案内することにしましょう。

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2013年2月 3日 (日)

十返肇(文芸評論家) 一般読者を対象にせっせと文学賞のことを語りつづけた、「文学賞(軽)評論」の巨人。

十返肇(とがえり・はじめ)

  • 大正3年/1914年3月25日生まれ、昭和38年/1963年8月28日没(49歳)。
  • 昭和10年/1935年(21歳)日本大学芸術科卒。
  • 昭和16年/1941年(27歳)初の単著『時代の作家』(明石書房刊、十返一名義)上梓。
  • 昭和29年/1954年(40歳)『文壇と文学』(東方社刊)刊行以降、文壇に関する著書を数多く発表。

 巨人です。「大十返」と呼んでもいいです。過去生まれては死んでいった無数の日本人のなかで、「文学賞評論家」の肩書きを付けてもよさそうな人は、あまりいないと思いますが、十返肇さんは稀少なるその有資格者です。

 十返さんのお仕事は、戦前の分から含めれば山脈をなすほどにあります。そのうちの何割が文学賞関連のお仕事なのか。数えたこともなければ数えようとも思わないのでわかりませんが、全体からすれば微々たる割合かもしれません。しかし、1950年代から60年代にかけて、ひとりであれだけの量の文学賞評論を発表した人がいるでしょうか。

 文学賞の歴史は古いです。文学賞に対する批評も、明治の頃から散々おこなわれてきました。しかし、「文学はよくわからないけど、文学賞には目を惹かれる」っていう常識的な一般人にとって、たとえば作家や評論家の書く文学賞評論って、小難しい。また、散発的に新聞や雑誌で放たれる評論が、彼らの生活圏内に入ってくることは稀でした。つまり、「昭和20年代までの文学賞は、文壇内の一行事にすぎなかった」と、誰もかれもが得意げに語っているのは、そういうところから来ているわけです。

 そこに十返肇さんが現われました。「軽評論」の若き志士です。みずから軽評論家と名乗りました。そして十返さんは叫びます。これからは軽評論の時代だ!と。

(引用者注:アカデミックな専門評論家は)軽評論は、読者から考える能力を奪い、いたづらにその場限りの面白さをあたえるに過ぎない、あのようなものは評論ではなく読物にほかならぬと非難している。当然この私なども非難される側に属する。

 しかし、私は評論もまた読物であつてよいと思つている。専門的領域内の読者をのみ対象として書かれる評論は別として、一般読者を対象として書くべき雑誌や新聞の評論は、むしろ一種の読物でなければならないと信ずる。(引用者中略)小説において純文学にたいして中間小説が存在するように、中間評論ともいうべき軽評論が存在することは当然であり、そうした風潮の起るのが遅過ぎたともいえよう。広汎な読者層をもつ週刊雑誌に、いたづらに独断的で観念的な難解な評論を書いたところで誰が読むであろう。」(昭和30年/1955年6月・三笠書房刊 十返肇・著『文壇風物誌』所収「文壇風物誌 18軽評論の流行」より)

 ほんと、アレです。純文壇から軽蔑されつづける大衆作家が、そもそも多くの読者に読まれる小説を書いて何が悪い、とキレているのとほとんど同じです。

 十返さんが「軽評論家」として多くの仕事をかかえた時代。それはちょうど、文学賞が市民権を獲得した時代でもありました。石原慎太郎さんの芥川賞受賞が、昭和31年/1956年1月のことです。

 それまで十返さんは、一般読者を対象として、文学賞のことにしつこく言及していたんですが、それが功を奏すときが来た、とも言えます。「文学賞評論家」としての十返さんの存在価値が、にわかに高まりました。

 さて、そんな十返さんですが、どのような文学賞観をもっていたのでしょうか。確認しておきましょう。

 ひとことでいえば、「文学賞全面賛成」派でした。

「以前から、文学賞の功罪ということは、しばしば問題になっているが、私には“罪”とよぶべき弊害は、ほとんど認められない。ことに、文学賞が作家を堕落させるものであるかのようにいう一部の道徳的な意見は、まったく本末を転倒したものに過ぎない。もしも、そうした事実があったとすれば、それは文学賞の罪ではなくて、作家自身の罪ではないか。」(昭和36年/1961年10月・白凰社刊 十返肇・著『十返肇の文壇白書』「第二章 文壇ぱとろーる 文学賞罪ありや」より)

 何とまあ頼もしい。十返さんは「軽評論」の「軽」について、軽蔑の意もたくぶん含まれている、と書いていましたが、まったく。文学賞に功はあっても罪などない、と胸を張って言うのですから、まじめなお歴々からそうとう軽蔑されるでしょうなあ。

 こうも言っています。

「文学賞は、いかに多くても多すぎることはない。ただ、“受賞作家”ということで世間が彼らを特別視する必要はない。受賞しようとすまいと、作家としての彼にはなんの価値変化もないはずだ。ただ文学賞は、作家によろこびと励ましを与えるに役立つから意義があるので、出版社の宣伝ショーであるかないかは作家の知るところではない。もちろん、そうであっても別に悪いことではない。」(同)

 基本、作家視点で文学賞を語っています。読者視点が薄いのが惜しいところです。まあ60年代にここまで文学賞の肩をもってくれる人がいただけで、ワタクシは爽快です。

 十返さんの文章を借りて言えば、ワタクシはこう思います。「出版社の宣伝ショーであるかないかは読者の知るところではない。もちろん、そうであっても別に悪いことではない。」……悪いわけがありますか。これほど楽しい行事を、馬鹿にしたり無視したりする人の気が知れません。

 ええと、ワタクシの戯れ言はこれぐらいにして、十返さんに戻ります。

 ここまで十返さんの「文学賞」応援隊長ぶりを見てきました。しかし、ここは直木賞専門ブログです。文学賞のなかでもとくに憐れな扱いを受けてきた直木賞です。十返さんは直木賞をどのように考えていたのでしょうか?

 十返さんの書いたものをざーっと見ていくと、やはり最初は芥川賞のことばかり語っています。

「文壇といふものは、現在では文壇だけでは成立してゐないのである。それはジャーナリズムに密着してゐるとともに、更に読者といふ広汎な層をも含めて成立してゐるのである。芥川賞作家の中に、現在ほとんど活動してゐない作家が幾人もゐるといふ事実は、極言すれば、「文壇に出ても、それだけでは、なんにもならない」事実を示してゐるではないか。文壇のいふがままにジャーナリズムが動き、読者がまたそれをそのまま受け取つてゐた幸福な時代は終つた。」(昭和29年/1954年12月・東方社刊 十返肇・著『文壇と文学』所収「文壇天気図(二)」より ―初出『中央公論』昭和29年/1954年8月号)

 直木賞については、影もかたちもありません。これじゃあ普通の文芸評論家と同じです。「文学賞評論家」十返肇の名折れです。

 しかし、そこはそれ、並の評論家とは違います。「芥川賞・直木賞の作家群」(『別冊文藝春秋』昭和28年/1953年12月号)をはじめ、十返さんには直木賞を語った文章も数多くあります。そこでも、十返さんの「一般に(文学に詳しい人たちから)言われていることに、とりあえず反発しておきたい」病が、美しいまでに発症しています。

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