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2012年12月30日 (日)

長谷川伸(新鷹会主宰) 彼のまわりに人が集まると、自然と直木賞が引き寄せられる、とてつもない磁力。

長谷川伸(はせがわ・しん)

  • 明治17年/1884年3月15日生まれ、昭和38年/1963年6月11日没(79歳)。
  • 明治26年/1893年(9歳)城南小学校中退。以後数々の職に就く。
  • 大正3年/1914年(30歳)都新聞の記者時代に、山野芋作名義で同紙に「横浜音頭」を連載。翌年出版。
  • 大正13年/1924年(40歳)『新小説』2月号に「夜もすがら検校」を発表。出世作となる。
  • 昭和14年/1939年(55歳)第三次『大衆文藝』創刊に当たって援助。翌昭和15年/1940年より小説勉強会「十五日会」(のち新鷹会)を結成。

 このあいだ、「(裏)人物事典」のひとりとして中谷博さんを取り上げました。『大衆文藝』誌関係者にはまだまだ、直木賞に縁ぶかい人が多いことはご存じのとおりです。ほかにも誰かふさわしい人はいないかなと物色しまして、島源四郎さんがいいかな、真鍋元之さんも外せんぞ、と思っていたんですけど、いや、それならいっそ大将にご登場いただきましょう、と思い当りました。

 大将、そう長谷川伸さんです。大衆文壇においては、超を何個重ねても追いつかないほどの重鎮作家です。大正14年/1925年には直木三十五(当時、直木三十三)らと語らって二十一日会に参加し、第一次の『大衆文藝』同人になっています。どころか、下記のように菊池寛さんとは大変近しい方でありまして、直木賞の選考委員になってもおかしくないほどの方でした。

大正十二年(一九二三) 三十九歳

この年より、『サンデー毎日』に次々と作品を書きはじめ、多いときには、同一誌上に名前だけ変えて同時に二つの作品を載せたこともあった。その第三作目にあたる「天正殺人鬼」が菊池寛の眼にとまった。彼は会計に手をまわしい受領証からペンネームの冷々亭が、じつは都新聞記者の長谷川伸二郎であることをたしかめ、使者を通じて、雑誌『新小説』に作品を書くことを勧めた。(引用者中略)

大正十三年(一九二四) 四十歳

(引用者中略)菊池寛のすすめで『新小説』にはじめて発表した「作手伝五左衛門」は、なかなか評判がよく、すぐ続けて書いた「夜もすがら検校」は、さらに好評で、この作品が小説家長谷川伸の出世作となった。「作手伝五左衛門」は最初、漫々亭のペンネームで書いたが、菊池寛から手紙で、漫々亭より長谷川伸のほうがよいと言われたので、以後ずっと長谷川伸のペンネームを使用することにした。」(昭和47年/1972年6月・朝日新聞社刊『長谷川伸全集第十六巻』所収「長谷川伸年譜」より ―作製:伊東昌輝)

 それでも長谷川さんは一度も直木賞の委員にはなっていません。はっきり言って直木賞とは無関係な人物です。

 しかし、長谷川さんのことを「直木賞とは無関係」と、どの口が裂けたって言えないじゃありませんか。試みに、不肖このブログ内を「長谷川伸」で検索してみました。今日でうちのブログは320本目のエントリーですけど、そのうち18本に長谷川さんの名前が登場しています。もちろんワタクシ自身、そんな意識なく書いてきましたけど、ずいぶん多いな、っていう印象です。まさに「直木賞(裏)人物事典」にぴったりの方なわけです。

 長谷川さん自身は直木賞と関係なくても、長谷川さんのまわりに人が集まってくると、とたんに〈直木賞パワースポット〉化してしまうという。とてつもない〈直木賞男〉です。

「大衆文学の巨匠たち、白井喬二吉川英治大佛次郎、直木三十五、子母澤寛は、それぞれ屹立した独立峰である。これに対し、長谷川伸の「新鷹会」は大きな山脈を形成しており、その文学史上における意義は、純文学の漱石山脈、直哉山脈に匹敵する存在なのである。(引用者中略)

 新鷹会には直木賞を受賞した作家が一〇人いる。もちろん、直木賞を取ったからと言って、大衆文学の世界で偉大な業績を挙げたということにはならないし、また、取らなくても立派な業績を残した作家もいる。(引用者中略)ただ、直木賞の一〇人を、戦中から戦後の二〇年間に輩出したことは、その時代における新鷹会の実力を示したものと言えるのである。」(平成18年/2006年5月・文芸社刊 中谷治夫・著『大衆文学への誘い 新鷹会の文士たち』より)

 まったくですね。第三次『大衆文藝』の創刊した昭和14年/1939年から、長谷川さんの亡くなる昭和38年/1963年までの20数年、直木賞界における新鷹会は、新人作家の湧き出る泉でした。

 その先鞭をつけたのが村上元三さんでした。創刊三号目の昭和14年/1939年5月号掲載の「蝦夷日誌」で第9回直木賞候補となった人です。

「自分の一門の作品から直木賞の候補作が出たというのは、よほど長谷川伸にとってはうれしかったらしい。「直木賞に落ちても、次の作品をしっかり書けよ」とはげましてくれた。

 文藝春秋の社長菊池寛を、長谷川伸は自分を世の中へ出してくれた人、といって尊敬していた。しかし、それほど親しくつき合っていたわけではない。(引用者中略)ほかに、二十七歳のとき自分を都新聞に入社させてくれた伊原青々園博士の二人を、長谷川伸は生涯の恩人としていた。その菊池寛の制定した直木賞の候補に門弟の一人がえらばれたというのは、長谷川伸にとっても感慨深いものがあったと思う。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊 村上元三・著『思い出の時代作家たち』より)

 門弟から初の受賞者が生まれたのは、その一年後。第11回受賞の河内仙介さんです。

 その受賞の報を先に受け取ったのは、河内さんではなく、長谷川さんのほうだった、っつうんですからね。直木賞あるところ、長谷川伸あり。

「河内仙介が師事している長谷川伸から、「軍事郵便」が直木賞受賞作に決定した、という通知を受けたのは、七月二十九日(昭和十五年)であった。驚き、茫然とした気持ちで長谷川邸を訪ねると、(引用者後略)(平成1年/1989年3月・文藝春秋刊『オール讀物 臨時増刊号 直木賞受賞傑作短篇35』より)

 という文章は、以前にも引用紹介したことがありました。その「軍事郵便」なる作品、じつは、長谷川さんが相当手を入れて掲載にこぎつけたものだと言われている、っていうのもご案内のとおりです。

 ほかに以前のエントリーでいいますと、新鷹会のひととして、長谷川幸延さんとか戸川幸夫さん井手雅人さんなどを取り上げたりしました。むろん、そんなものは長谷川一門×直木賞のからみの、ごくごく一部です。ここでは、さらなるビッグネームを有する二人の新鷹会会員が直木賞の舞台にあがったときの、長谷川さんのおハナシを書いておきます。

 ひとり目は、第41回(昭和34年/1959年上半期)受賞者。当時最も若かった新鷹会会員(なのかな?)平岩弓枝さんです。

「受賞の知らせを頂いた時、私は西川流の稽古場にいた。今なら誰も信じないに違いない。私は直木賞の候補になったことは知らされていたが、肝腎の選考会の日に気がついていなかった。(引用者中略)

 一つには長谷川伸先生の配慮でもあった。「鑿師」が候補に残った時、長谷川先生は私をお呼びになり、候補になった祝いとして奥様から見事な蒔絵の櫛を贈って下さった。その上で、少しでも期待する心があるとつらい思いをするから今回はこれでおしまいだと笑っておっしゃり、私は洋髪の髷に頂いた櫛を挿して何度も鏡をのぞき大喜びで御礼を申し上げた。」(平成20年/2008年11月・日本経済新聞出版社刊 平岩弓枝・著『私の履歴書』「直木賞受賞」より)

 あるいは、平岩さんが20代で若くして受賞して、はじめて講演をすることになったときのエピソードとかも、気遣いの鬼・長谷川伸の真骨頂です。

「会場の控室には、私のあとで講演をなさる尾崎一雄さんが、もうお出でになっていて、担当者の方々と談笑していらしたが、私が挨拶をすませると、そっと、こうおっしゃった。

「昨日、あなたの先生の長谷川伸さんからお電話がありましてね。平岩さんは今日が、はじめての講演だそうですね。もし、あがってしまって、時間より短くなったり、長くなったりするかも知れない。御一緒のあなたに御迷惑をおかけすることがあったら、どうかお許し願いたい、と、御丁重なお電話でした。(引用者中略)心配しないで、好きなようにのびのびおやりなさい。私はあなたよりも長いこと生きている分、講演にも馴れています。私の持ち時間が予定より長くなっても短くなっても大丈夫……しかし、あなたはいい先生をお持ちなんだなあ」」(平成11年/1999年2月・講談社刊 平岩弓枝・著『極楽とんぼの飛んだ道 私の半生、私の小説』「内弁慶」より)

 こりゃあ、弟子たちも長谷川さんにメロッちゃいますよね。

 それからもうひとり。こちらも長谷川さんにイカれちゃった苦労人作家。池波正太郎さんです。

「受賞の知らせを聞くや、池波は直ちに身仕舞いを整え、芝高輪の長谷川邸へ報告のため出かけて行った。師の長谷川七十七歳、親子の年ほど違う(引用者注:当時、池波37歳)苦労した弟子の受賞に、涙をたたえて喜んでくれた。戦後まもなく読売新聞の戯曲募集で、選者だった長谷川の知遇を得て以来、池波はひと筋に劇作の道を歩み、師の教えに従った。途中、戯曲から小説に転じたのも、芝居ではメシが食えないから小説の勉強をしておくようにと、師の長谷川から勧められた結果であった。」(平成13年/2001年5月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第五章」より)

 平岩さんも池波さんも直木賞受賞後、ビッグな作家に成長しました。それもこれも、長谷川さんの存在あったればこそです。言うまでもなく。

          ○

 長谷川さんが惜しまれつつ亡くなったのが昭和38年/1963年6月。直木賞でいうと、第49回(昭和38年/1963年・上半期)の時期です。

 それまでは、数多くの新人作家が、『大衆文藝』誌に掲載された作品でもって、直木賞候補となり、大衆作家として生きていく決意をかためてきました。

 赤江行夫さんとか。

「並々ならぬ意気込みで書かれた『長官』は連載半ばで直木賞の候補になった。未完の作品が候補になるとはクウゼンゼツゴのことだろう。直木賞とは変テコな賞だと私は思った。『長官』は完結後、当然ながらまた候補となった。受賞だなと私(引用者注:野村敏雄)は思った。ところが落ちたのである。直木賞とは残酷な賞だと私は思った。赤江さんのダメージは相当なものだったろう。(引用者中略)

 しかし赤江さんは立直り、ふたたび旺盛な創作活動をはじめた。」(『大衆文芸』平成3年/1991年2月号 野村敏雄「重戦車の貝殻節」より)

 あるいは、上記の追悼文を書いているご本人、野村敏雄さんとか。

「その頃、新小説社では「大衆文芸賞」と称する懸賞小説をやっていた。当時「大衆文芸」誌からは、有能な新人作家が輩出していたので、この賞は直木賞に次ぐ数少ない文学賞の中でも注目されはじめていた。

 それで、私もなんとなく色気を出して応募した。(引用者中略)結果は入賞できなかったが佳作一席になり、「応募するのが十年早過ぎた」という、褒められたのか、慰められたのか判らない選評が出た。

 その私を、島(引用者注:島源四郎)さんがどう思ったのかは判らない。つぎに会ったとき、

「あの作品はあのままでは勿体ないから、懸賞とは関係なく、うちで活字にしよう」

 と言ってくれ、本誌に発表してくれたのが、その年下半期(昭和三十年)の直木賞候補になった。候補になったのは「大衆文芸」という有力誌に出たことが幸いしたのであって、多分に運もあったろうと思う。」(『大衆文芸』平成7年/1995年2月号 野村敏雄「島源四郎さんのこと」より)

 しかしです。長谷川さん没後、新鷹会から直木賞候補へ、の流れは、ぱたりとやみました。第48回(昭和37年/1962年下半期)に小橋博「火と土と水の暦」が候補となったのを最後に、『大衆文藝』誌から直木賞候補になる作品は出ませんでした。そこから先、『大衆文芸』誌は、新小説社の手を離れて新鷹会の発行となり、綿々と続けられていきますが、第64回(昭和45年/1970年下半期)に武田八洲満「紀伊国屋文左衛門」が候補となった以外、直木賞とは縁が切れてしまったのです。

 当然それは、直木賞の世界から見た場合、『大衆文藝』の後見人、長谷川伸さんの存在が大きかったということでもありましょう。もしくは、新小説社=島源四郎さんの力量が、新鷹会と直木賞をつなぐ縁としていかに機能していたかを、まざまざと物語っている、とも言えます。

 島源四郎さんというのは長谷川伸さんの義弟で、お互いの妻が姉妹、っていう関係にありました。オタどんさんのブログ「神保町系オタオタ日記」に、島さんが平成6年/1994年11月に死去していたことを教えられ、当時の『大衆文芸』誌をチェックしてみましたら、上記の野村さんによる追悼文や、あるいは編集長伊東昌輝さんによる以下のような文章が載っていました。オタどんさん、サンクス!

「長谷川先生の奥さまの七保夫人の妹の春子さんを妻に迎え、長谷川家の身内の一人となった。もっとも入籍したのは長谷川先生が歿ってしばらくしてからだったから、本当の意味で身内とはいえなかったかもしれないが、私が二本榎の先生のお宅にお邪魔するようになった昭和32年ころは、島さんは先生の義弟ということでそこに同居していた。(引用者中略)

 その当時は、長谷川先生の義弟という肩書は、私たちにとってはものすごく大きな重圧だった。そして、島さんもそれを最大限に利用していた。だから、長谷川先生が歿ると同時に、島さんの力も失われてしまった。

 晩年は訪れる人もなく、孤独だった。数年前、体調を崩して入院したが、そのまま養護施設を転々とし、平成6年11月22日午前零時八王子の老人ホームで息を引きとった。」(『大衆文芸』平成7年/1995年1月号 伊東昌輝「編集後記」より)

 「長谷川先生が歿ると同時に、島さんの力も失われてしまった」の一文が、もっと裏に何かあったんだろうな、の感じを伝えていますよね。

 野村敏雄さんも追悼文では、このあたり口を濁しています。

「長谷川先生ご夫妻が亡くなられたあと、島さんは「大衆文芸」と新鷹会から離れてしまったが、その経緯について私がここで云々するのは筋ではない。

 生前から「しまげんの頑固」は有名で、私にも判らなくはないが、それでも、島さんが「大衆文芸」を発行し、挿絵画家を世に送り出し、新人作家の育成に力を注いだことは事実だし、その意味では、「大衆文芸誌史」という歴史の流れの中に、確かに存在した一人である。」(前掲 野村敏雄「島源四郎さんのこと」より)

 それこそ、直木賞候補になることと、大衆文芸の作家として活動していくことは、別に一対一の関係じゃありません。大衆文芸の勉強に邁進する新鷹会にとっては、直木賞の世界と離れて以来、直木賞なぞ何ほどの価値もなくなったことでしょう。

 それでも長らく、長谷川さんの薫陶を受けた新鷹会の血は、「選考委員」というかたちで直木賞の世界に残りました。村上元三さん、池波正太郎さん、平岩弓枝さん……。しかし、平岩さんが第142回(平成21年/2009年下半期)をもって退任したことにより、ついに長谷川さん(と島さん)の影が、直木賞から消えました。

 そう考えると、長谷川伸さんって、やっぱ直木賞にとっても偉大な存在なのでした。

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コメント

あけましておめでとうございます。今年も楽しい記事を楽しみにしております( ^ω^ )
平岩さんはよく選評でも
「長谷川伸先生にかつて教えられたのは…」みたいな話をされてましたよね。
講演の話はステキですねぇ。理想の師匠No.1かも。

投稿: しょう | 2013年1月 1日 (火) 00時47分

しょうさん、

新年あけましておめでとうございます。コメントありがとうございます。励みになります!

そうそう、平岩さんの選評といえば、「自分は昔先輩からこんなふうに教えられた……」のくだりです。
あれを読むたび、長谷川伸さんや戸川幸夫さんの顔が目に浮かんで、
さーっと新鷹会の風が吹いたものでしたが、
あれが選評から消えてしまったのは、さびしいかぎりです。

投稿: P.L.B. | 2013年1月 1日 (火) 14時53分

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