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2012年12月16日 (日)

川野黎子(『小説新潮』編集長) 直木賞は『小説新潮』の苦難を救えなかったけど、『小説新潮』は直木賞にとって大事な存在です。

川野黎子(かわの・れいこ)

  • 昭和5年/1930年生まれ(現在82歳)。
  • 昭和25年/1950年(20歳)実践女子専門学校国語科卒。友人の紹介で新潮社入社。『小説新潮』編集部に配属。
  • 昭和53年/1978年(47歳)『小説新潮』編集長に就任。当初の辞令では「編集長代行」。
  • 平成12年/2000年(70歳)校閲部長(昭和62年/1987年)、取締役(平成4年/1992年)を経て新潮社退社。

 今日は、川野黎子さんがインタビューを受けた『りんどう』9号[昭和59年/1984年5月]の記事「「小説新潮」編集長の川野黎子さんを訪ねて」のコピーが、たしかうちにあったはずだから、それをもとに一本書こう。……と思って余裕こいていたんですが、探しても探しても、肝心のコピーが見つからず途方に暮れてしまいました。それでも今日のエントリー、アップしちゃいます。後日、補足するかもしれません。

 で、川野さんです。昭和25年/1950年に『小説新潮』編集部の一員となって編集長をひくまで30数年。小説誌がワーッと売れて、ぐんぐん売れて、中間小説が栄華を極め、やがてピークを超えて落ち目になりかかった、元気のよいころの大衆文壇界隈を支えた裏方の代表といっていいでしょう。当然それは、「直木賞を支えた」と言い換えることも可能なわけです。

「大作家中心だった同誌(引用者注:『小説新潮』)に、新しい書き手も次々に起用した。五十五年には故向田邦子「思い出トランプ」の中の短編三作が連載中に直木賞を受賞。翌年には青島幸男「人間万事塞翁が丙午」が二年連続の受賞を果たした。日本SF大賞、読売文学賞の井上ひさし「吉里吉里人」も、五十三年から五十五年にかけて、同誌に連載されたものだ。」(『読売新聞』昭和57年/1982年11月24日夕刊「中間小説誌づくりの旗手2 川野黎子編集長に聞く」より ―署名:矢沢高太郎記者)

 そうそう。『小説新潮』っていうのは、戦後の中間小説を牽引する顔として、その役目を果たしてきたんですが、「新進作家」対象の直木賞の場では、長いこと存在感の薄い雑誌でした。

 第32回(昭和29年/1954年・下半期)の梅崎春生「猫と蟻と犬」を最後に、同誌の掲載作が直木賞候補になることは絶えます。『新潮』からはいくつか候補作が選ばれたのに『小説新潮』からは皆無、なんちゅう、いまから見るとなかなか無茶苦茶な歴史をたどったわけです。さすが直木賞です。「純文学誌vs.中間読物誌」みたいな常識が、まったく通用しません。

 まあ、『小説新潮』だけじゃなく、新潮社そのものが、直木賞=文藝春秋側から軽視されていた、ってハナシかもしれません。その間、直木賞に対抗する小説新潮賞なんてものをつくって、自前で顕彰制度を取り仕切っていましたからね。

 『小説新潮』の影がふたたび直木賞に現われはじめたのは、第67回(昭和47年/1972年・上半期)、筒井康隆の『家族八景』が候補に入ったあたりから。このころは新参入(というか看板のかけ替え)の『小説現代』が、なりふり構わぬ読み物路線で気を吐き、部数では『小説新潮』を抜き、わっしょいわっしょいと中間小説隆盛に騒いでいたころです。そのなかで『小説新潮』は、

「「通俗に堕せず、高踏に流れず、娯楽としての小説の新生面を開く――」という創刊の言葉は、今も編集哲学の根本に据えているという。」(前掲『読売新聞』記事より)

 って路線でして、裏返していえば、通俗っぽくもあり高踏っぽくもある、固いイメージを保っていました。川野さんが編集長に就いたころも、こんな感じでした。

編集部 ところで、ご自分の雑誌の悪口を耳にしたことはおありですか?

川野 年中聞いてますよ。古い、面白くない、堅すぎる……。」(『週刊文春』昭和58年/1983年1月13日号「新春座談会 われら女性編集長」より)

 むろん、それでも川野さんは胸を張って「私としては読者の心に残って、しかも面白いという小説を載せてるつもり。」(同)と自信をみなぎらせています。それが大看板『小説新潮』の歩む道であって、いいのです。チンケで脈絡のない新人賞、直木賞のところにわざわざ進出してこなくたってよかったのです。

 基本、直木賞は「疫病神」ですし。およそ売り上げや営業面で見たら、こんな賞にかかずらわうとロクな結果になりません。

 しかし、川野さんが編集長となった時代、ついに『小説新潮』も直木賞の魔の手につかまえられてしまいました。かわいそうに……。中間小説誌は一蓮托生、『オール讀物』だけじゃなく『小説現代』や『小説新潮』の掲載作が毎度毎度、直木賞の候補にあがるようになった1980年代から徐々に、この業界の売り上げ低迷の道は始まったのでした。

 新潮社の伝説の編集者、斎藤十一さんもサジを投げたほどでした。

「全盛を誇っていた中間小説誌が下り坂になった頃、マジメな顔で、この雑誌はむずかしいな、オレもどうすればいいか考えたんだが、いい考えが浮かばないよ、と仰有ったことがあった。それでも尚、この小説、読んでみろよ、小説新潮にのってる小説よりよっぽど面白いよと、私など見たことも聞いたこともないような同人雑誌の掲載作品を何度か示された。齋藤さんは小説新潮はもとより、全国の同人雑誌にも本当によく目を通されていた。」(平成18年/2006年11月・冬花社刊『編集者 齋藤十一』所収 川野黎子「すべて懐かしい」より)

 一時30万部にせまる勢いだった『小説新潮』は、川野さんが編集長についた頃、公称20万部。それがいまは、発行部数3万部前後だって言いますからね。もちろん直木賞の責任だっつうのは、ワタクシの半分冗談ですけど、限られた出版社の雑誌や書き下ろしだけを候補にするようになった直木賞の歴史と現在が、ちょうど『小説新潮』が直木賞で取り上げられるようになった時代とリンクする、っていうのは、奇遇といいますか。必然といいますか。

 直木賞オタクとしてみれば、川野さんが身を粉にして頑張って新人発掘にも気合いを入れ、そのおかげで何人かの作家が直木賞にからんできた事実を、喜びたい思いではあります。ただ、そのことで直木賞は大して『小説新潮』に貢献できなかった、っていうのを見ると、直木賞の非力さが浮き彫りになってしまい、かなしい気持ちにもなるのでした。

          ○

 川野黎子さんのお名前は、すでに当ブログでも、2度ほど出てきています。デビュー以来、苦難の道を歩いた北原亞以子さんに、売れないころから目をかけつづけた人として。それから、こちらは有名なエピソード、実践女専の同級生、向田邦子さんに無理やり小説を書かせ、直木賞受賞にこぎつけた人として

 向田邦子さんとのハナシはいろいろな資料に残されていますが、そのうちをひとつをご紹介しておきます。

川野 編集者はみんな(引用者注:向田邦子の)銀座百点の連載読んで、びっくり仰天して、連絡取ってるんですよ。ただ、私は彼女と同級生で友達だったんです。だから私が褒めたって反応は冷たいの。私も銀座百点読んで、すぐうち(小説新潮)でエッセイ書いてくれって頼んだんだけど、「書くことがなんにもない」って。ほんとに冷たい(笑い)。しかたないから、半ページのコラム、原稿用紙で一枚半から頼んで、次は一ページで三枚、次は五枚……ってごまかしながらだんだん枚数長くしていったんです。

大村(引用者注:大村彦次郎) それが川野さんの凄腕なんだよ(笑い)。

川野 『父の詫び状』が文春から出たのが昭和五十三年の暮れで、改めて感想を書いて手紙を出したんです。そのときはすごく喜んでくれました。そのあと一気に二十枚にのばして、それが「中野のライオン」「新宿のライオン」となり、やがて『思い出トランプ』につながったんです。」(『銀座百点』平成8年/1996年7月号 川野黎子・大村彦次郎・豊田健次「思い出の作家たち ベテラン編集者が見た銀座百点」より)

 川野さんが早くから目をつけて『小説新潮』に場を提供した、なんてハナシを集めたら、それこそ一冊の本になるでしょう。向田さんのほかに、ここではもうひとりだけ、例示しておきます。

 渡辺淳一さんです。自社でやっていた同人雑誌賞の受賞作「死化粧」を読んで、川野さん、ピピンときました。

「渡辺さんの作品には、すでに後の氏の活躍をうかがわせるに充分なエンターテインメントの要素があった(引用者中略)

 エンターテインメント(当時は中間小説)系の編集者の小説の読み方は、その頃、小説新潮の編集者であった私も含めて、それが、たとえ純文学の賞を得た作品であっても、物語性と、多くの人たちが共感できるものを持っていないかと、無意識のうちにさがしていて、「死化粧」は、そういうアンテナにひっかかった作品だった(引用者中略)

 すぐにも原稿を頼みたかったのだが、この頃の文芸誌の編集者の中には、受賞者に、筆が荒れるから中間小説誌には書かないようにという人もおり、同じ社の文芸誌の受賞者だったこともあって、気にかかりながらも遠慮をしていた。事実、その後の渡辺さんは、直木賞の候補になるものの、「霙」「訪れ」を文学界、文芸といった文芸誌に発表していた。

 ところが、昭和四十三年、札幌医大の和田寿郎教授チームによる日本初の心臓移植が行われ、渡辺さんの「ダブル・ハート」がオール読物に掲載された。で、もう遠慮などしていられないと、十一月に北海道の渡辺さんに小説依頼の手紙を書いた。幸い、承諾の返事を貰い、翌四十四年二月に六十枚の短編小説を送って頂いた。この作品が、交通事故死した少年の血液型から思わざる秘密が明らかになる「血痕追跡」(小説新潮44年5月号)である。」(平成8年/1996年11月・角川書店刊『渡辺淳一全集 第1巻』「月報13」所収 川野黎子「渡辺さんのこと」より)

 中間小説誌の編集者の多くが注目しつつ手をこまねいているなか、純文芸誌の掲載作をさっさと直木賞の候補にして、それを手づるに『オール讀物』に書かせて、そして『別冊文藝春秋』掲載の作品で直木賞をとらせてしまう、っつうのが直木賞のズルいところ、……いや、巧妙なところなんだよなあ。ニクいやつよ。

 さて川野さんです。直木賞は文藝春秋の賞であることは確かですけど、人の生き血を吸って生きながらえてきた体質柄、『小説新潮』の川野さんのような存在にも、土台を支えられきた、と言っていいと思います。

 川野さんという方は、前掲の記事では、

「純文学と大衆文学があって、その間に来るから中間小説というわけですが、小説には面白いものと面白くないものの二種類しかないと思いますね」(前掲『読売新聞』記事より)

 と発言していて、まあ、そう言うしかないだろうなと思わされるんですが、社会がそんな単純な分かれ方をしていない以上、純文芸と中間小説のなかで苦労してきたと思います。そして最終的には、こんな境地に達しています。

「同じ編集者の仕事でも、もし所属が『小説新潮』でなくて、例えば純文学の『新潮』だったら、これだけ長く続いたかどうかわかりません。私にはエンターテインメント系の方が性に合ってたんです。

 ですからどんなに忙しくてもつらいとは思いませんでした。全部楽しかったです。」(『致知』平成4年/1992年5月号「連載53マスコミの匠たち 率直な人柄で部下をまとめる「新潮社」初の女性取締役」より)

 そうですか、そりゃよかった。直木賞は、川野さんの率いていた『小説新潮』誌を救うことはできませんでしたが、直木賞は川野さんらに大いに助けられました。それで「全部楽しかったです」との言葉が聞けて、なんだかホッとしました。

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