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2012年12月の5件の記事

2012年12月30日 (日)

長谷川伸(新鷹会主宰) 彼のまわりに人が集まると、自然と直木賞が引き寄せられる、とてつもない磁力。

長谷川伸(はせがわ・しん)

  • 明治17年/1884年3月15日生まれ、昭和38年/1963年6月11日没(79歳)。
  • 明治26年/1893年(9歳)城南小学校中退。以後数々の職に就く。
  • 大正3年/1914年(30歳)都新聞の記者時代に、山野芋作名義で同紙に「横浜音頭」を連載。翌年出版。
  • 大正13年/1924年(40歳)『新小説』2月号に「夜もすがら検校」を発表。出世作となる。
  • 昭和14年/1939年(55歳)第三次『大衆文藝』創刊に当たって援助。翌昭和15年/1940年より小説勉強会「十五日会」(のち新鷹会)を結成。

 このあいだ、「(裏)人物事典」のひとりとして中谷博さんを取り上げました。『大衆文藝』誌関係者にはまだまだ、直木賞に縁ぶかい人が多いことはご存じのとおりです。ほかにも誰かふさわしい人はいないかなと物色しまして、島源四郎さんがいいかな、真鍋元之さんも外せんぞ、と思っていたんですけど、いや、それならいっそ大将にご登場いただきましょう、と思い当りました。

 大将、そう長谷川伸さんです。大衆文壇においては、超を何個重ねても追いつかないほどの重鎮作家です。大正14年/1925年には直木三十五(当時、直木三十三)らと語らって二十一日会に参加し、第一次の『大衆文藝』同人になっています。どころか、下記のように菊池寛さんとは大変近しい方でありまして、直木賞の選考委員になってもおかしくないほどの方でした。

大正十二年(一九二三) 三十九歳

この年より、『サンデー毎日』に次々と作品を書きはじめ、多いときには、同一誌上に名前だけ変えて同時に二つの作品を載せたこともあった。その第三作目にあたる「天正殺人鬼」が菊池寛の眼にとまった。彼は会計に手をまわしい受領証からペンネームの冷々亭が、じつは都新聞記者の長谷川伸二郎であることをたしかめ、使者を通じて、雑誌『新小説』に作品を書くことを勧めた。(引用者中略)

大正十三年(一九二四) 四十歳

(引用者中略)菊池寛のすすめで『新小説』にはじめて発表した「作手伝五左衛門」は、なかなか評判がよく、すぐ続けて書いた「夜もすがら検校」は、さらに好評で、この作品が小説家長谷川伸の出世作となった。「作手伝五左衛門」は最初、漫々亭のペンネームで書いたが、菊池寛から手紙で、漫々亭より長谷川伸のほうがよいと言われたので、以後ずっと長谷川伸のペンネームを使用することにした。」(昭和47年/1972年6月・朝日新聞社刊『長谷川伸全集第十六巻』所収「長谷川伸年譜」より ―作製:伊東昌輝)

 それでも長谷川さんは一度も直木賞の委員にはなっていません。はっきり言って直木賞とは無関係な人物です。

 しかし、長谷川さんのことを「直木賞とは無関係」と、どの口が裂けたって言えないじゃありませんか。試みに、不肖このブログ内を「長谷川伸」で検索してみました。今日でうちのブログは320本目のエントリーですけど、そのうち18本に長谷川さんの名前が登場しています。もちろんワタクシ自身、そんな意識なく書いてきましたけど、ずいぶん多いな、っていう印象です。まさに「直木賞(裏)人物事典」にぴったりの方なわけです。

 長谷川さん自身は直木賞と関係なくても、長谷川さんのまわりに人が集まってくると、とたんに〈直木賞パワースポット〉化してしまうという。とてつもない〈直木賞男〉です。

「大衆文学の巨匠たち、白井喬二吉川英治大佛次郎、直木三十五、子母澤寛は、それぞれ屹立した独立峰である。これに対し、長谷川伸の「新鷹会」は大きな山脈を形成しており、その文学史上における意義は、純文学の漱石山脈、直哉山脈に匹敵する存在なのである。(引用者中略)

 新鷹会には直木賞を受賞した作家が一〇人いる。もちろん、直木賞を取ったからと言って、大衆文学の世界で偉大な業績を挙げたということにはならないし、また、取らなくても立派な業績を残した作家もいる。(引用者中略)ただ、直木賞の一〇人を、戦中から戦後の二〇年間に輩出したことは、その時代における新鷹会の実力を示したものと言えるのである。」(平成18年/2006年5月・文芸社刊 中谷治夫・著『大衆文学への誘い 新鷹会の文士たち』より)

 まったくですね。第三次『大衆文藝』の創刊した昭和14年/1939年から、長谷川さんの亡くなる昭和38年/1963年までの20数年、直木賞界における新鷹会は、新人作家の湧き出る泉でした。

 その先鞭をつけたのが村上元三さんでした。創刊三号目の昭和14年/1939年5月号掲載の「蝦夷日誌」で第9回直木賞候補となった人です。

「自分の一門の作品から直木賞の候補作が出たというのは、よほど長谷川伸にとってはうれしかったらしい。「直木賞に落ちても、次の作品をしっかり書けよ」とはげましてくれた。

 文藝春秋の社長菊池寛を、長谷川伸は自分を世の中へ出してくれた人、といって尊敬していた。しかし、それほど親しくつき合っていたわけではない。(引用者中略)ほかに、二十七歳のとき自分を都新聞に入社させてくれた伊原青々園博士の二人を、長谷川伸は生涯の恩人としていた。その菊池寛の制定した直木賞の候補に門弟の一人がえらばれたというのは、長谷川伸にとっても感慨深いものがあったと思う。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊 村上元三・著『思い出の時代作家たち』より)

 門弟から初の受賞者が生まれたのは、その一年後。第11回受賞の河内仙介さんです。

 その受賞の報を先に受け取ったのは、河内さんではなく、長谷川さんのほうだった、っつうんですからね。直木賞あるところ、長谷川伸あり。

「河内仙介が師事している長谷川伸から、「軍事郵便」が直木賞受賞作に決定した、という通知を受けたのは、七月二十九日(昭和十五年)であった。驚き、茫然とした気持ちで長谷川邸を訪ねると、(引用者後略)(平成1年/1989年3月・文藝春秋刊『オール讀物 臨時増刊号 直木賞受賞傑作短篇35』より)

 という文章は、以前にも引用紹介したことがありました。その「軍事郵便」なる作品、じつは、長谷川さんが相当手を入れて掲載にこぎつけたものだと言われている、っていうのもご案内のとおりです。

 ほかに以前のエントリーでいいますと、新鷹会のひととして、長谷川幸延さんとか戸川幸夫さん井手雅人さんなどを取り上げたりしました。むろん、そんなものは長谷川一門×直木賞のからみの、ごくごく一部です。ここでは、さらなるビッグネームを有する二人の新鷹会会員が直木賞の舞台にあがったときの、長谷川さんのおハナシを書いておきます。

 ひとり目は、第41回(昭和34年/1959年上半期)受賞者。当時最も若かった新鷹会会員(なのかな?)平岩弓枝さんです。

「受賞の知らせを頂いた時、私は西川流の稽古場にいた。今なら誰も信じないに違いない。私は直木賞の候補になったことは知らされていたが、肝腎の選考会の日に気がついていなかった。(引用者中略)

 一つには長谷川伸先生の配慮でもあった。「鑿師」が候補に残った時、長谷川先生は私をお呼びになり、候補になった祝いとして奥様から見事な蒔絵の櫛を贈って下さった。その上で、少しでも期待する心があるとつらい思いをするから今回はこれでおしまいだと笑っておっしゃり、私は洋髪の髷に頂いた櫛を挿して何度も鏡をのぞき大喜びで御礼を申し上げた。」(平成20年/2008年11月・日本経済新聞出版社刊 平岩弓枝・著『私の履歴書』「直木賞受賞」より)

 あるいは、平岩さんが20代で若くして受賞して、はじめて講演をすることになったときのエピソードとかも、気遣いの鬼・長谷川伸の真骨頂です。

「会場の控室には、私のあとで講演をなさる尾崎一雄さんが、もうお出でになっていて、担当者の方々と談笑していらしたが、私が挨拶をすませると、そっと、こうおっしゃった。

「昨日、あなたの先生の長谷川伸さんからお電話がありましてね。平岩さんは今日が、はじめての講演だそうですね。もし、あがってしまって、時間より短くなったり、長くなったりするかも知れない。御一緒のあなたに御迷惑をおかけすることがあったら、どうかお許し願いたい、と、御丁重なお電話でした。(引用者中略)心配しないで、好きなようにのびのびおやりなさい。私はあなたよりも長いこと生きている分、講演にも馴れています。私の持ち時間が予定より長くなっても短くなっても大丈夫……しかし、あなたはいい先生をお持ちなんだなあ」」(平成11年/1999年2月・講談社刊 平岩弓枝・著『極楽とんぼの飛んだ道 私の半生、私の小説』「内弁慶」より)

 こりゃあ、弟子たちも長谷川さんにメロッちゃいますよね。

 それからもうひとり。こちらも長谷川さんにイカれちゃった苦労人作家。池波正太郎さんです。

「受賞の知らせを聞くや、池波は直ちに身仕舞いを整え、芝高輪の長谷川邸へ報告のため出かけて行った。師の長谷川七十七歳、親子の年ほど違う(引用者注:当時、池波37歳)苦労した弟子の受賞に、涙をたたえて喜んでくれた。戦後まもなく読売新聞の戯曲募集で、選者だった長谷川の知遇を得て以来、池波はひと筋に劇作の道を歩み、師の教えに従った。途中、戯曲から小説に転じたのも、芝居ではメシが食えないから小説の勉強をしておくようにと、師の長谷川から勧められた結果であった。」(平成13年/2001年5月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第五章」より)

 平岩さんも池波さんも直木賞受賞後、ビッグな作家に成長しました。それもこれも、長谷川さんの存在あったればこそです。言うまでもなく。

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2012年12月23日 (日)

戸川貞雄(日本文学報国会理事) 営業政策で始めただけの文学賞が、やたら権威化することに、イラッとする。

戸川貞雄(とがわ・さだお)

  • 明治27年/1894年12月25日生まれ、昭和49年/1974年7月5日没(79歳)。
  • 大正7年/1918年(23歳)早稲田大学英文科卒。東京社が『婦人界』を創刊するのに際し、編集記者となるが3年目に辞職。
  • 昭和13年/1938年(43歳)同志の大衆作家たちと「二十七日会」結成。
  • 昭和15年/1940年(45歳)同じく「国防文藝聯盟」を結成。
  • 昭和17年/1942年(47歳)日本文学報国会の創立に伴い事業部長に就任。

 一年に一度の大イベント、12月25日。かの戸川貞雄さんが生誕した日として、日本中がお祭りムードに包まれます。やっぱり日本人は戸川さんのことをいつまでたっても忘れられないんですね。

 ええ、そりゃそうでしょう。ワタクシだって、直木賞を愛する者として、また文学賞を気にして生きている人間のひとりです。この〈戸川貞雄の日〉を間近に控えて、彼を取り上げないわけにはいきません。

 戸川さんって人は、あまり直木賞と縁のない人でした。でも、じつはそれが、戸川さんを「直木賞(裏)人物事典」のひとりと数える最大の理由だ、といえるかもしれません。文春のやることにケチをつけながら、それでも文学賞のことは無視できなかった文壇人のひとりだったからです。

 さかのぼれば大正10年/1921年、「蠢く」一作をもって、力量ある新進作家として注目されました。そんな戸川さんが、誰と仲間意識を共有したか。菊池寛さんやその子分たちではなく、中村武羅夫さんたちの『不同調』でした。戸川さんが、文藝春秋一派、というか菊池寛さんとソリが合わなかったのは、本人も語っているところです。

「もっともその頃、文壇の大御所と呼ばれていた菊池寛と喧嘩すると、メシが食えなくなる、なんて評判されていたものだが、不同調のもっとも忠実なる同人戸川貞雄は当初から『文春』さんとは面白くなく、従って文筆稼ぎの市場としてはシャット・アウト同様、今またおのれの居城不同調のスポンサー『新潮』からもオフ・リミットを喰っては、なるほど文士としちゃあメシの食い上げ同然だッたかも知れないが、実際はそんなこと被害妄想だな。」(平成2年/1990年6月・戸川雄次郎刊 戸川貞雄・著『ピエロの口笛 おかしくもあり哀しくもあり』より)

 その後、発表舞台を探す一新人作家を見兼ねて、いろいろ助言してくれたのが中村武羅夫の書生、嘉村礒多さんだったそうです。嘉村さんの紹介で、三上於菟吉さんと縁ができ、戸川さんはせせこましい文芸界なぞ知ったことか、と新聞や通俗誌にガンガン書き出し、一気に売れっ子通俗作家として名を馳せるまでになりました。

 直木賞・芥川賞が船出した昭和10年代には、戸川さんはもう、ひとかどの大衆通俗作家の地位にありました。つるむ相手も竹田敏彦木々高太郎、大下宇陀児、海野十三などなど、それまでの文壇とは別のグループ。これが「二十七日会」と名乗り、毎月集まっていろいろ懇談するうちに、まあやっぱり社会的な状況にも無関心ではいられんよね、ってことで軍・官・財あたりの人たちを招いて親交を深め合いました。

 これがムクムクふくらんで、次第に戸川さんも力み返って、「国防文藝聯盟」結成とか、「くろがね会」入会とか、作家業というより作家組織まとめ役、みたいなことに汗水流すことになってしまうわけです。

「僕は、或る一部の人びとから時局便乗作家だといって罵られた。今でも、そう見ている人はあるだろう。ところが、僕は国防文藝聯盟が結成されてから以来、便乗にも何にも、作家として何一つ仕事はしていない。」(昭和17年/1942年3月・育生社弘道閣/新世代叢書 戸川貞雄・著『国防文学論』所収「時局便乗作家の苦悶」より)

 当初はそれでも、一大衆作家としての発言が多く、大衆文芸はこのままじゃいかん、当局に迎合阿諛しているような大衆文芸ではいかん、といった殊勝なことを語って済んでいました。それが日本文芸中央会の準備委員となり、日本文学報国会で重要なポストを任されるようになり、と進行するうちに、戸川さんのなかにある責任感、と言いますか、〈周囲に持ち上げられて踊らされる気質〉が目覚めていってしまいます。

「「文学報国会」という名もわたしがつけたのである。文学者の集まりゆえ、やれ××、やれ○○なぞと、文学的な名前が議案となったが、要するにこれは報国団体なのだ、文学関係者の職能団体でもなければ研究団体でもない、産業報国会結成と同じ理念以外の何ものによって組織されたのだろうか。この際、割り切ってその性格に即してすなわち文学報国会とすべきではないか、というのがわたしの主張であった。(引用者中略)

(引用者注:持病の痔のため平塚の病院に入院中、久米正雄がやってきて)情報局側の意向としては、事業部長には戸川貞雄ということだ。キミ引受けてはくれぬか、キミが引受けてくれないと、僕も事務局長は引受けかねるというのであった。わたしは病気がなおりしだい引受けると快諾した。」(昭和52年/1977年3月・平塚市教育委員会/平塚市文化財研究叢書『戸川貞翁の著書・自筆略歴と建碑』所収 戸川貞雄「略歴」より)

 かくして戸川さんは、報国会で活躍をはじめます。文学報国大会の司会をしたり、機関紙『文学報国』の編集責任に当たったり、東亜文学者大会や講演旅行に随行したり。

 『文学報国』には、戸川さんの、気味のわるいくらい威勢のいい文章が、各種掲載されました。そんな地位にのぼらなければ、きっと注目されなかっただろう戸川さんの文です。なにせ、大して実作の伴ってこなかった大衆作家の戯れ言ですからね。

 しかし文学賞史のなかに、戸川貞雄の名が半永久的に刻まれたのも、やっぱりそのせいなのでした。戸川さんが、おそらく報国会小説部会幹事の立場から、日本文学報国会小説賞設定に際して「権威と責任と 『小説賞』設定に就て」の一文を寄せたからです。

 以前も少し紹介したことがあります。これは昭和19年/1944年当時に、日本の文学賞がどのように考えられていたかの一例を示す貴重な文章だと思います。

「文学賞は、古くは芥川・直木賞から近くは荒木大将の奉仕会の歴史文学賞まで、文報が授賞のお手伝ひをする奨励賞の数も少くはないのであるが、名実共に文報の面目と責任に於て行ふ賞は、先頃第一回を授賞した大東亜文学賞と今回の文学報国会賞とこの二つである。芥川・直木賞或ひは新潮賞の如きは、周知の如く、その目的は或ひは新人の推薦に在り或ひは優秀作品の推奨に存し、その存在は必しも否定さるべきではなく、今日まで長きに亘りその功績は充分高く評価されてよいのであるが、その設定の動機に関する限り、例へば芥川・直木の文名を記念する菊池寛の個人的情誼乃至文藝春秋社或ひは新潮社の営業政策から発したものであることは否定し難い事実で、文学報国会が国家の要請に応じて設立され全文学者の総意と責任とに於て『優秀なる作品の推奨』や『新進文学者の育成』に任じなければならぬ今日、既存のこれらの文学賞とは別個に、文学報国会賞を設定するの要あることは論を俟たぬところである。」(『文学報国』第15号[昭和19年/1944年1月20日] 戸川貞雄「権威と責任と 『小説賞』設定に就て」より)

 たかだか9年の歴史しかない直木賞・芥川賞がすでに「古くは」の代表となっている点。両賞が、菊池寛の「個人的情誼」であり、また文藝春秋社の営業政策として開始されたことに、文学賞としての姿が問題視されている点。

 この二点だけは、少し表現を変えると、いまなお流布している直木賞・芥川賞観の一部と見分けがつきません。

 戸川さんにはいまひとつ、その報国会小説賞が決定したあとに書いた「文学賞の基準と性格」の文があります。受賞作となった豊田三郎『行軍』に対する選評、というより同賞の性格をしつこいぐらいに解説する内容ですが、これも見ておきます。

「既存の文学賞にも、優秀なる文学作品を推奨するといふ共通の目的に対して、それぞれ独自の意義と価値とが認められるとすれば、数多い、多過ぎるくらゐの既設文学賞の中へ、改めて文学報国会がその権威と責任に於て加へようとする文学賞には、おのずからに他と異なる、独自な、且つ有意義な性格が認められなければならない」(『文学報国』第28号[昭和19年/1944年6月20日] 戸川貞雄「文学賞の基準と性格」より)

 要は昭和19年/1944年段階で、文学賞は「多過ぎる」と言っています。多すぎるってあなた、おたくんとこの報国会がさらに輪をかけて何何賞、何何賞と次から次へ文学賞をつくるもんだからよけいに増えちゃったんでしょうが、とツッコみを入れる人はいなかったんでしょうか。

 まあ、文学賞に対する悪口のなかでも、「最近、文学賞はやたら数が多すぎる」つう部類は、ほんと、言う側にとっては安全で、人を傷つけず、お子様からおじいさんおばあさんまで、どなたでも安心して口にできる言葉ですもんね。きっと廃れることはないのでしょう。

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2012年12月16日 (日)

川野黎子(『小説新潮』編集長) 直木賞は『小説新潮』の苦難を救えなかったけど、『小説新潮』は直木賞にとって大事な存在です。

川野黎子(かわの・れいこ)

  • 昭和5年/1930年生まれ(現在82歳)。
  • 昭和25年/1950年(20歳)実践女子専門学校国語科卒。友人の紹介で新潮社入社。『小説新潮』編集部に配属。
  • 昭和53年/1978年(47歳)『小説新潮』編集長に就任。当初の辞令では「編集長代行」。
  • 平成12年/2000年(70歳)校閲部長(昭和62年/1987年)、取締役(平成4年/1992年)を経て新潮社退社。

 今日は、川野黎子さんがインタビューを受けた『りんどう』9号[昭和59年/1984年5月]の記事「「小説新潮」編集長の川野黎子さんを訪ねて」のコピーが、たしかうちにあったはずだから、それをもとに一本書こう。……と思って余裕こいていたんですが、探しても探しても、肝心のコピーが見つからず途方に暮れてしまいました。それでも今日のエントリー、アップしちゃいます。後日、補足するかもしれません。

 で、川野さんです。昭和25年/1950年に『小説新潮』編集部の一員となって編集長をひくまで30数年。小説誌がワーッと売れて、ぐんぐん売れて、中間小説が栄華を極め、やがてピークを超えて落ち目になりかかった、元気のよいころの大衆文壇界隈を支えた裏方の代表といっていいでしょう。当然それは、「直木賞を支えた」と言い換えることも可能なわけです。

「大作家中心だった同誌(引用者注:『小説新潮』)に、新しい書き手も次々に起用した。五十五年には故向田邦子「思い出トランプ」の中の短編三作が連載中に直木賞を受賞。翌年には青島幸男「人間万事塞翁が丙午」が二年連続の受賞を果たした。日本SF大賞、読売文学賞の井上ひさし「吉里吉里人」も、五十三年から五十五年にかけて、同誌に連載されたものだ。」(『読売新聞』昭和57年/1982年11月24日夕刊「中間小説誌づくりの旗手2 川野黎子編集長に聞く」より ―署名:矢沢高太郎記者)

 そうそう。『小説新潮』っていうのは、戦後の中間小説を牽引する顔として、その役目を果たしてきたんですが、「新進作家」対象の直木賞の場では、長いこと存在感の薄い雑誌でした。

 第32回(昭和29年/1954年・下半期)の梅崎春生「猫と蟻と犬」を最後に、同誌の掲載作が直木賞候補になることは絶えます。『新潮』からはいくつか候補作が選ばれたのに『小説新潮』からは皆無、なんちゅう、いまから見るとなかなか無茶苦茶な歴史をたどったわけです。さすが直木賞です。「純文学誌vs.中間読物誌」みたいな常識が、まったく通用しません。

 まあ、『小説新潮』だけじゃなく、新潮社そのものが、直木賞=文藝春秋側から軽視されていた、ってハナシかもしれません。その間、直木賞に対抗する小説新潮賞なんてものをつくって、自前で顕彰制度を取り仕切っていましたからね。

 『小説新潮』の影がふたたび直木賞に現われはじめたのは、第67回(昭和47年/1972年・上半期)、筒井康隆の『家族八景』が候補に入ったあたりから。このころは新参入(というか看板のかけ替え)の『小説現代』が、なりふり構わぬ読み物路線で気を吐き、部数では『小説新潮』を抜き、わっしょいわっしょいと中間小説隆盛に騒いでいたころです。そのなかで『小説新潮』は、

「「通俗に堕せず、高踏に流れず、娯楽としての小説の新生面を開く――」という創刊の言葉は、今も編集哲学の根本に据えているという。」(前掲『読売新聞』記事より)

 って路線でして、裏返していえば、通俗っぽくもあり高踏っぽくもある、固いイメージを保っていました。川野さんが編集長に就いたころも、こんな感じでした。

編集部 ところで、ご自分の雑誌の悪口を耳にしたことはおありですか?

川野 年中聞いてますよ。古い、面白くない、堅すぎる……。」(『週刊文春』昭和58年/1983年1月13日号「新春座談会 われら女性編集長」より)

 むろん、それでも川野さんは胸を張って「私としては読者の心に残って、しかも面白いという小説を載せてるつもり。」(同)と自信をみなぎらせています。それが大看板『小説新潮』の歩む道であって、いいのです。チンケで脈絡のない新人賞、直木賞のところにわざわざ進出してこなくたってよかったのです。

 基本、直木賞は「疫病神」ですし。およそ売り上げや営業面で見たら、こんな賞にかかずらわうとロクな結果になりません。

 しかし、川野さんが編集長となった時代、ついに『小説新潮』も直木賞の魔の手につかまえられてしまいました。かわいそうに……。中間小説誌は一蓮托生、『オール讀物』だけじゃなく『小説現代』や『小説新潮』の掲載作が毎度毎度、直木賞の候補にあがるようになった1980年代から徐々に、この業界の売り上げ低迷の道は始まったのでした。

 新潮社の伝説の編集者、斎藤十一さんもサジを投げたほどでした。

「全盛を誇っていた中間小説誌が下り坂になった頃、マジメな顔で、この雑誌はむずかしいな、オレもどうすればいいか考えたんだが、いい考えが浮かばないよ、と仰有ったことがあった。それでも尚、この小説、読んでみろよ、小説新潮にのってる小説よりよっぽど面白いよと、私など見たことも聞いたこともないような同人雑誌の掲載作品を何度か示された。齋藤さんは小説新潮はもとより、全国の同人雑誌にも本当によく目を通されていた。」(平成18年/2006年11月・冬花社刊『編集者 齋藤十一』所収 川野黎子「すべて懐かしい」より)

 一時30万部にせまる勢いだった『小説新潮』は、川野さんが編集長についた頃、公称20万部。それがいまは、発行部数3万部前後だって言いますからね。もちろん直木賞の責任だっつうのは、ワタクシの半分冗談ですけど、限られた出版社の雑誌や書き下ろしだけを候補にするようになった直木賞の歴史と現在が、ちょうど『小説新潮』が直木賞で取り上げられるようになった時代とリンクする、っていうのは、奇遇といいますか。必然といいますか。

 直木賞オタクとしてみれば、川野さんが身を粉にして頑張って新人発掘にも気合いを入れ、そのおかげで何人かの作家が直木賞にからんできた事実を、喜びたい思いではあります。ただ、そのことで直木賞は大して『小説新潮』に貢献できなかった、っていうのを見ると、直木賞の非力さが浮き彫りになってしまい、かなしい気持ちにもなるのでした。

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2012年12月 9日 (日)

斎藤美奈子(文芸評論家) 権威の臭いがするものは取り上げずにいられない、文学賞の併走者。

斎藤美奈子(さいとう・みなこ)

  • 昭和31年/1956年生まれ(現在56歳)。
  • 昭和54年/1979年前後(23歳)成城大学経済学部卒。児童書・子育て雑誌などの編集に携わる。
  • 平成6年/1994年(37歳)初の著書『妊娠小説』を上梓。
  • 平成20年/2008年(51歳)各メディアに発表した書評をまとめ『本の本 書評集1994-2007』を上梓。

 権威っぽいものを目の前にすると毒づきたくなる性分、とお見受けします。斎藤美奈子さんって方は。当然、直木賞も、斎藤さんの手にかかり、面白いように料理されてきました。その意味でこの方も、直木賞大好き人間、と言ってしまっていいでしょう。

 いいわけないですか。

 でもまあ、直木賞史を研究するうえでは絶対はずせない評論「林真理子 シンデレラガールの憂鬱」(平成14年/2002年6月・岩波書店刊『文壇アイドル論』所収)をお書きになった方です。あるいは、百々由紀男の奇書(キショい、とも言う)『芥川直木賞のとり方』に食いつくぐらいの方です。きっと斎藤さん、直木賞や芥川賞がかもし出す摩訶不思議な現象なんかは、お好きなんだと思います。おお、同志よ!

「百々由紀男『芥川・直木賞のとり方』も期待にたがわぬオトボケ本だ。タイトルを見て、だったらさっさと自分で賞をとればいいじゃない、とはだれもが考えつく台詞だが、そんな次元も超えているのね、この本は。志茂田景樹は直木賞をとれたがために先輩である自分をさしおいてどこぞのパーティーで乾杯の音頭をとっていた、やはり賞はとっておくものだ、とか。あとは想像に任せます。」(平成10年/1998年10月・マガジンハウス刊 斎藤美奈子・著『読者は踊る』「カラオケ化する文学 字さえ書ければ、なるほど人はだれでも作家になれる」より)

 この文章につづく節が、「芥川賞は就職試験、選考委員会はカイシャの人事部」。初出が平成9年/1997年5月。節題から察せられるとおり、ほとんどぜーんぶ第116回(平成8年/1996年下半期)芥川賞の選評、受賞作、候補作などなどのおハナシで、直木賞については、芥川賞を買うとサービスでついてくるドリンク扱い。さすが、文芸評論家を名乗る方だ、直木賞・芥川賞の扱い方を心得ていらっしゃる。

 本文9割程度、芥川賞のことだけ語り尽して、最後の段落で、いきなりこうカマします。

「そもそも芥川賞・直木賞とは何なのか。選考委員が全員作家である(批評家がいない)点に注目したい。つまり両賞は、新しい作品を見きわめて励ますためのものではない。新人作家の中から自分たちの仲間に入れてやってもよさそうな人材を一方的にピックアップする、一種の就職試験なのですよ。選考委員はいわば文壇の「人事部」で、だからこそ受賞予備軍の人たちが結果に一喜一憂したり、受賞者が記者会見で大袈裟な挨拶をしたりするんだよね。」(同書「芥川賞は就職試験、選考委員会はカイシャの人事部」より ―太字下線は原文傍点)

 せっかくウマいこと言おうとしているんだから、「芥川賞・直木賞」などと節約した表現をしないで、芥川賞が就職試験なら直木賞は何なのか、もうちょっとガンバって比喩ってほしかったなあ、と思いつつ。

 そんな直木賞ファンの歯噛みする思いを汲んでくれるところが、斎藤さんのやさしさです。芥川賞ばかりを可愛がって済ませるはずがありません。『趣味は読書。』(平成15年/2003年1月・平凡社刊 初出『月刊百科』平成11年/1999年7月号~平成14年/2002年10月号)では、直木賞受賞作では珍しく売れた本、浅田次郎『鉄道員』を分析し、直木賞候補作としては珍しく売れていた本、天童荒太『永遠の仔』にメスを入れる、という大サービス。

「初読の興奮がおさまってみると、新たな謎がふつふつとわいてきた。『鉄道員』は怪談だという事実を、なぜ今日までだれも教えてくれなかったのだろう。(引用者中略)『鉄道員』はそもそもが八編の小説を収めた短編集であって、八編全部が、死霊・生霊・幽霊のたぐいが出てくる幻想譚。本来ならば「浅田次郎の怪奇短編集!」とでも銘打って売るべき本なのである。」

「思いきってひと言で要約してしまおう。『永遠の仔』は「アダルト・チルドレン」の小説なのでした。(引用者中略)最近のミステリにはアダチル小説がやけに多くない? 『永遠の仔』といっしょに直木賞候補作になった福井晴敏『亡国のイージス』(講談社)もそうだったし。」

 と、『永遠の仔』といっしょに『亡国のイージス』までも触れてくれるという。

 そんな斎藤さんのやさしさに、さらに出会える本が『誤読日記』です(平成17年/2005年7月・朝日新聞社刊 初出『週刊朝日』平成12年/2000年4月28日号~平成13年/2001年12月28日号+『アエラ』平成14年/2002年12月30日・平成15年/2003年1月6日合併号~平成16年/2004年9月6日号)。

 斎藤美奈子といえば歯に衣着せぬ爽快な物言い、その斎藤さんが新刊とリアルタイムに向き合う書評のお仕事をする、……となれば文学賞の受賞作群がその対象に入ってこないはずがなく、惜しみなく直木賞の土俵のうえに乗ってきてくれています。

「『長崎ぶらぶら節』映画化のニュースを聞いて、疑問が氷解した。愛八を演じる女優は吉永小百合。なるほど、そういう筋書きか。

 それで思い出したのが、浅田次郎『鉄道員』(集英社文庫)である。『鉄道員』は主演は高倉健。『長崎ぶらぶら節』は吉永小百合。この2作は、とてもよく似ているのだ。

 どっちも話題の直木賞受賞作。ホロリとさせる人情話。古いタイプの日本人が主人公(熟年の鉄道員/年増の芸者)。詩情豊かな土地が舞台(雪の北海道/大正ロマンのころの長崎)。お国言葉を多用(北海道弁/長崎弁)。健気な少女が登場。(引用者中略)

 だけど、原作者としては、このキャスティングでいいのか。(引用者中略)小説の解釈としてはそれでいいんですかね。もともと人畜無害、いやほっと一息な作品を、もっと無害にしてどうすんだ。」(『誤読日記』「文学をめぐる現象 『長崎ぶらぶら節』なかにし礼」より)

 たしかに『長崎ぶらぶら節』の愛八=吉永小百合は、違和感しかなかったですよねー。小説では「美人じゃない」設定ですからねー。というか、よくぞあの地味な小説が映画化なんかされましたよねー。「直木賞受賞作」の看板のおかげでしょうねー。

 なんつう共感もさることながら、ここに斎藤さんのこんな一文がある点に、ワタクシは小躍りしちゃいました。

なかにし礼『長崎ぶらぶら節』が第122回直木賞を受賞した。珍しく今回は、ノミネート作を全部読んだ私。」(同)

 芥川賞候補作の読破より、直木賞候補作のそれのほうが、おそらく無益で無粋で、そのくせ時間だけがやたらとかかる作業だったことでしょう。がんばって全部読んでも、日本の文学を語るお仕事には、あまり役立たないですもんね。「文学現象を語る」ことにはつながっても。

 ご本人いわく、

「斎藤美奈子には『読者は踊る』『趣味は読書。』といった類書もあって、そのころから(引用者注:『誤読日記』には)何の進歩も進展も見られないのはまことに遺憾だが、」(同書「『誤読日記』斎藤美奈子」より)

 いやいや、「芥川賞・直木賞」の併記戦法を捨てて、人畜無害な直木賞まで目をかけるようになってくれた、っていう進展があるじゃないですか!

続きを読む "斎藤美奈子(文芸評論家) 権威の臭いがするものは取り上げずにいられない、文学賞の併走者。"

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2012年12月 2日 (日)

瀬沼茂樹(文芸評論家) 直木賞ってさ、最初からよくわからない賞だったんだよね、と昭和30年代に指摘。

瀬沼茂樹(せぬま・しげき)

  • 明治37年/1904年10月6日生まれ、昭和63年/1988年8月14日没(83歳)。
  • 昭和4年/1929年(24歳)東京商科大学本科卒。
  • 昭和8年/1933年(28歳)初の単著『現代文学』(木星社書院刊)上梓。
  • 昭和35年/1960年(55歳)「文学賞をめぐる諸問題」(『文学』昭和35年/1960年2月号、3月号、5月号)を発表。

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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