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2012年11月18日 (日)

中谷博(大衆文芸評論家) 大衆文芸の通俗化をくい止めようと孤軍奮闘した、直木賞の「戦友」。

中谷博(なかたに・ひろし)

  • 明治32年/1899年12月1日生まれ、昭和46年/1971年10月25日没(71歳)。
  • 大正15年/1926年(26歳)早稲田大学文学部卒。第一早稲田高等学院のドイツ語担当講師となる。のち同学院の教授、教務主任や、早稲田大学文学部講師などを経て、昭和24年/1949年、早稲田大学文学部教授。
  • 昭和9年/1934年(34歳)『新文芸思想講座』八巻、九巻(文藝春秋社刊)に「大衆文学本質論」を発表。
  • 昭和14年/1939年~(39歳)第三次『大衆文藝』を舞台に作家論、月評等を数多く発表。
  • 昭和45年/1970年(70歳)早稲田大学を定年退職、名誉教授となる。

 直木賞がまだ、芥川賞と比較にならないぐらい光が当たらず、文芸ネタのなかでも蚊帳の外に置かれていた時代。大衆文芸? なにそれ、愚民に迎合して「売れりゃ何でもいい」と思っている浅はかな連中が書いた、芸術性のかけらもない、紙の無駄遣いのこと? ……みたいに、威張りくさった文学亡者たちが馬鹿にしていた時代。

 「大衆文芸」の果てしない可能性と将来性に賭けて、後押しをしてくれた人といえば、千葉亀雄さんや菊池寛さん、木村毅さん。それと中谷博さんあたりの名前が思い浮かびます。

 とくに中谷さんといえば、大衆文芸論を書き出したのが、ちょうど昭和9年/1934年ごろ。直木賞が生まれるタイミングと重なっています。

「大衆文学評論家としては、三田村鳶魚、千葉亀雄、木村毅の諸氏が先輩として論陣をはった。中谷博が「大衆文学本質論」を発表したのは昭和九年であって、奇しくもそれは白井喬二氏が、十年批評するなかれと宣言して第一次『大衆文芸』を創刊してから、ほぼ十年を経た頃であった。それはこれら先人批評家の筆がやや以前ほどの熱ぽさを失いかけていた時であったし、何よりもこの新興の文学が、文学運動としての生命力を次第に喪失しはじめていた頃であった。このことが彼をして大衆文芸評論のペンをとらしめたとも言える」(昭和48年/1973年9月・想い出の中谷博・刊行会刊『想い出の中谷博』所収 中谷治夫「父への手紙から」より)

 要は、「大衆文芸」なる用語の広まりはじめて約10年。とかく人間は飽きっぽいので、そろそろ「大衆文芸」といっても新鮮さはなくなり、通俗小説の類いと混ざり合って、「文芸作品より劣等なもの全般」と区別がつかなくなっていた時期でもありました。

 あるいは、「大衆文芸」っていう呼称の弊害、と言っていいかもしれません。いまでもまだそうでしょうが、だいたいこの単語を聞いた人はすぐ、「大衆のための文学」と考えて、その思い込みから外に出ようとしません。「直木賞は、大衆向けに書かれた小説だからうんぬん」なんて言葉は、21世紀になってなお、そこかしこで見ることができます。

 中谷博さんって方は、呼称に縛られたそういう観念に、決然と異を唱えた人です。

「大衆文学とは大衆の読む文学である。従って大衆の読む文学なれば何でも大衆文学である。これでは話にならない。

(引用者中略)

大衆小説作者は世のあらゆる読者に、甲乙なく読んで貰おうとしては筆を取らない、特に愛好して呉れる一団の読者を目標として制作しているのだ。そしてその一団の読者とは、云うまでもなく、知識人である、大人である。若し大衆文学が変則的な発展をして来たとするならば、それは正しく此の一団の読者の存在が、それを行わしめたのであろう。即ち此の知識人の大衆文学への要求とその要求に答えんとする作者の精進とが、それを結果したものであろう。」(昭和48年/1973年7月・桃源社刊 中谷博・著『大衆文学』所収「大衆文学本質論」より)

 中谷さんは言っています。「大衆の文学」と名が付いているのは、あくまで建前であって、実は大衆文学とは知識人のための文学だ。純文学が文学青年のための文学であるのと違って。……と。

 あるいはこんな表現も使っています。「大衆文学の作者は決して車夫や馬丁を対象として制作をしておらない。明かに知識人を相手に書いているのだ」。つまりは、通俗小説の類いや、大衆文学ならぬ「大衆的文学」は、車夫馬丁相手の読み物であって、大衆文芸はそういうものを指していない、ってことです。

 まあ、おのれの位置を高く表現するために、他の事物を持ってきて低きに置く、士農工商なんとやらの論法のような気もしますけど、主張の内容はともかく、昭和9年/1934年の段階でこういう問題意識をもっていた中谷さんの姿は、おのずとその年暮れに制定された直木賞の姿を思い出さないわけにはいきません。

「純文学の世界に昭和のルネッサンスといわれた一時期があったように、大衆文学の分野でも、昭和十年前後にひとつのもりあがりがみられた。大正の末年にチャンバラ小説として誕生した日本の大衆文学は、次第に新講談的な部分を洗い落し、新興文学としての内容と形式を成熟させ、マスコミとの癒着をつよめた。

(引用者中略)

 直木賞の制定は大衆文学の時代的なひとつの曲り角に位置していたことは明きらかだ。」(『直木賞事典』所収 尾崎秀樹「直木賞と大衆文学状況」より)

 尾崎秀樹さんは、このころを内容と形式の成熟期と見ます。対して中谷博さんは、ジャーナリズムによって味噌もクソも大衆文芸と呼ばれてしまい、そもそもの文学運動がかき消されていった時期だ、と論じています。

 そこに直木賞が誕生しました。「優秀な大衆文芸の新人」を見出して顕彰しよう、というなかなか挑戦的な賞です。

 さて直木賞は、尾崎視点、中谷視点、どちらの方向性に近かったのでしょうか。……といえば、「どちらも採り入れようとした」、ってことになるでしょうね。

 かつての大衆文学の枠では計り切れない内容や形式をもった、さまざまな作品を、直木賞に組み入れようとする動き。井伏鱒二さんの記録もの、橘外男さんの饒舌なる実話ふう読物、神崎武雄さんの現代小市民物語、などなど。戦後にいたっては、受賞作群を「大衆文芸」なんて一言でくくるの、とうてい無理でしょ、といった景色となっていきます。

 いっぽうでは、通俗に堕してはならない、っていう矜恃が直木賞のなかで大きな存在感を持ちました。小島政二郎選考委員あたりがその急先鋒です。かつて中谷博さんは大衆文芸を、「車夫馬丁とはちがう、知識人としての大人のための小説」と考えました。1970年、80年代ごろからは直木賞の界隈では、「子供の読み物とはちがう、大人のための小説」に与える、みたいなことが言われました。いまでも、「大人の小説」に固執する選考委員が残っていることが、この路線の根強さを物語っていましょう。渡辺淳一さんとか。

 どっちがいいとか悪いとか、そういうハナシではありません。たかが大衆文芸、たかが直木賞ですし。

 どちらにせよ、大衆文芸や直木賞は、昭和9年/1934年のころにはすでに、誤解やら無理解やらを受け、商業主義に手を入れられてグチャグチャにされ、はっきりとしたかたちのないシロモノであったんでしょう。そのなかで、周囲の(とくに純文芸至上主義の連中の)冷たい視線に耐えながら、直木賞はがんばって続けました。中谷さんもがんばって大衆文芸評論を書きつづけました。

 中谷さん。あなたのことは、直木賞からすれば戦友と呼ばざるを得ません。

          ○

 中谷さんは、直木賞とはちがって(?)多くの人に慕われる方だったそうです。そのため、没後、周囲の人たちの手によって『大衆文学』(昭和48年/1973年7月・桃源社刊)と、『想い出の中谷博』(昭和48年/1973年9月・想い出の中谷博・刊行会刊)、二冊がつくられています。

 『想い出の中谷博』のなかから、大衆文芸評論家としての中谷さんが、どのような時代を生きたのかを紹介しておきましょう。おのずと、直木賞が生きてきた時代相もうかがえるでしょうから。

 まずは、作家の長見義三さんから。中谷さんの教え子です。

「早稲田で直接先生の授業をうけたのは、第一高等学院文科の確か倫理の時間であったと思うが、そこで、私たちは先生の破格の講義「通俗小説論」を拝聴したのであった。ようやくその方面の小説に後世に名をとどめるような作品が出現して来た時代であり、それを主題としての研究に手をつけられた達見は、今日になって振りかえってみれば先生の第一の御業績であったのではないかと思われる。

 しかし、所謂純文学を志していた私は、先生のその御努力が、空しいものではないかと不審にも思っていたものである。」(長見義三「中谷博先生の記」より)

 うーん、空しいっちゃ空しいでしょうね。大衆文芸に限りませんよ、見る人が見れば、文芸研究なんておよそ空しいでしょう。

 新人の大衆文芸作家として中谷さんと接した村上元三さんの弁。

「中谷さんとわれわれ(引用者注:新鷹会)のつき合いは、昭和十四年の「大衆文芸」の誌上からであった。それまで、大衆文学に論理的な批評を書いてくれる人は皆無、といっていい状態であった。月刊誌や新聞の作品評に、いわゆる大衆小説が扱われることはなかった。

 「大衆文芸」のほか、海音寺潮五郎たちの拠っていた「文学建設」が毎月、作品批評を載せるにすぎない、というときに、中谷さんの「大衆文学本質論」は、砂漠でオアシスを発見したような喜びであった。」(村上元三「中谷さんと雑誌「大衆文芸」」より)

 それから、このころ、まじめに文学をやろうとする人は大衆文学になんか行かない、などと中野重治さんは指摘していましたが、それがいかに暴言だったかがわかる真鍋元之さんの文章も。

「島源四郎が、長谷川伸の援助のもとに、月刊誌、『大衆文芸』(第三次)を復刊したのは、(引用者中略)昭和一四年三月である。

 当時の大衆文学青年の、ほとんどすべてがそうであったように、わたしも創刊以来、欠かすことなく愛読していたこの雑誌には、毎号のごとく中谷博の名が見られていた」(真鍋元之「わたしの中谷さん」より)

 おお、「大衆文学青年」なんて存在が、この当時あったんですね。にやにや。

 あと、純文壇の人が見たらきっと反論したくなるような、こんな文章を梅坂洋右さんがぶち撒けています。とくとご賞味あれ。

「昭和十七年九月には、「大衆文芸」に載った宇井無愁の「板倉政要」という作品を先生(引用者注:中谷博のこと)に教えられて読んだが、これは歴史に材をとりながら、実は当時の政治家、軍部、資本家が民衆を犠牲にしながら、互いにゆ着して策略をめぐらしている権力構造を描き出したもので、もし当時の軍検閲が見たら発禁になったであろう。当時の文壇には、もはや文学はなく、大衆文芸の陣営だけが文学を守って闘っていた。」(梅坂洋右「私の学んだこと」より)

 戦時下、大衆文芸の陣営〈だけ〉が文学を守って闘った、……何と新鮮な文学史観でしょう。こういうお話を聞かされると、ふるえますね。

 中谷さんご自身は、ほとんど直木賞に対する文章を残しませんでした。しかし、新人作家に対する叱咤激励の文を数多く発表。ほとんどの評論家が純文芸にばかり目を囚われている状況において、大衆文芸で新進作家を発掘しようとする直木賞の「空しさ」を、少しは和らげる存在になってくれました。おそらく。

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