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2012年10月の4件の記事

2012年10月28日 (日)

清原康正(大衆文芸評論家) あえて直木賞については踏み込まず、常識的な大衆文芸研究に邁進。

清原康正(きよはら・やすまさ)

  • 昭和20年/1945年1月2日生まれ(現在67歳)。
  • 昭和43年/1968年(23歳)同志社大学文学部卒(同大学大学院文学研究科修士課程中退)。出版社に勤務。
  • 昭和55年/1980年ごろ?(35歳)文筆業に専念。

 各誌でよく名前を見かけるのに、いっこうに著書の少ない大衆文芸研究者。っていう点では、以前、武蔵野次郎さんに出てもらいました。その意味で、ポスト武蔵野は誰か、となれば満場一致で清原康正さんが選ばれることでしょう。

 清原さんの仕事量、ハンパありません。新聞・雑誌の書評にはじまり、昔の大衆作家のいいトコを紹介するかたわら、出版文化に関する原稿や座談会、各所での講演、作家になりたい人のための創作教室で先生までやってしまう。そのほとんどが、その場限りで、後に残らず時代の激流に流されて大海に消えていく、という。

 武蔵野さんのときにも思いました。まさに、そんな清原さんの生き方そのものが、時代が経てば市場から一掃され、多くの人から顧みられなくなる「大衆文芸」の姿に重なります。ああ。大衆文芸をこよなく愛す者としては、清原康正さん自身が、大衆文芸研究の興味ぶかい対象になり得るんですよねえ。

 と言いつつも、ワタクシ、清原さんのことはほとんど知りません。清原さんって方は、その膨大なお仕事のなかに、まず自分のことを反映させたがらない書き手だからです。

 たとえば、こんな文章があります。五木寛之さんが『小説現代』昭和63年/1988年6月号(小説現代新人賞50回記念特集号)で語った、五木さんデビュー当時のころの回想を紹介したものです。

「その当時の小説誌界を振り返って、彼はこうも述べている。

「ある種のケオス、混沌たる状況の中でたしかに胎動しているものがあって、当時の大学生たちが、たとえば「小説現代」とかいった雑誌をキャンパスの中で持ち歩くことがちょっと新しい感じがした時代なんですね」

 昭和四〇年代初頭の風潮を語る貴重な証言で、昨今の状況に照らし合わせてみると、隔世の感がある。いま『小説現代』を持ち歩いているような大学生がいるだろうか。」(『出版ニュース』昭和63年/1988年6月上旬号 清原康正「中間小説誌の再生は可能か―「多様性とバランス」が活気をとりもどす―」より)

 ちょうど昭和40年代初頭といえば、清原さん自身がその大学生だった頃です。自分の体験した時代です。大学生でもなかった五木さんが語るより、清原さんが当時の中間小説誌とどう付き合っていたかを書くほうが、よほど「貴重な証言」となるはずなんですが、それには触れません。もどかしいこと、この上なし。……言い換えれば、いさぎよくてすがすがしい。

 清原さんが大衆文芸研究を志した経緯もよくわかりません。ただ、大学生の頃から関心が高かったことは確かなようです。いや、大衆文芸というより、尾崎秀樹に対する関心だったみたいですが。

「大学の学部時代の私の卒論が「尾崎秀樹論」で、大学院の修士課程(文学研究科)に進んでからは、尾崎さんの父・秀太郎と台湾日日新報のことを調べ始めもした。尾崎さんの諸著書に導かれて大衆文学評論の道に入った私にとって、尾崎さんを振り返ることは私自身の原点を再認識することになる」(『出版ニュース』平成11年/1999年12月中旬 清原康正「尾崎秀樹さんと大衆文学 作り手、送り手、受け手を三位一体のものとして」より)

 いずれ、当ブログの「直木賞(裏)人物事典」でも、尾崎秀樹さんを取り上げる日がくるでしょう。当たり前です。尾崎さんを語らずして大衆文芸の歴史もへったくれもありません。尾崎さんはまた、直木賞のことについても、数々の興味ぶかい論稿を残してくれた人でした。オー。ラブリー・ホツキ。

 ひるがえって、尾崎チルドレンのひとり、清原さんはどうでしょう。

 直木賞そのものを正面切って見つめてくれる機会は、ほとんどないようで、そこはそれ、さすが大衆文芸研究の王道を進む方は、直木賞の無意味さをよくわかっています。それでも大衆文芸に関わって文筆業などされていると、無理やりにでも直木賞に触れなきゃいけない場面も出てきます。そんなとき、清原さんはこんなふうにして身をかわします。

「芥川賞と直木賞の両賞が文藝春秋社の菊池寛によって創設されたのは、一九三五年(昭和十年)のことであった。以来、年二回の授賞で七十年ということは、今回で第百四十回になるはずなのだが、一九四五年(昭和二十年)から一九四八年(昭和二十三年)の丸四年間は中止されていたから、第百三十三回という数字になる。第一回の受賞作は、芥川賞が石川達三の「蒼氓」、直木賞が川口松太郎の「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」他であった。戦後復活の第二十一回の受賞作は、芥川賞が由紀(原文ママ)しげ子の「本の話」と小谷剛の「確証」、直木賞が富田常雄の「面」「刺青」であった。」(『新刊展望』平成17年/2005年10月号 清原康正「新世紀文学館22回 芥川賞・直木賞創設七十周年」より)

 デキる大衆文芸評論家としての顔を懸命におし隠し、凡庸なデータマンのふりをして、ただただ、大した意味もない事実関係を並べて文字数を稼ぐ、という手法です。

 このあと、誌面上では6行文つづくのですが、そこにはキレ者清原の影はどこにもありません。誰でも言えることを、澄まして書く、その清原さんの心苦しさが行間から匂ってくるばかりです。

「この両賞が社会的な話題となるようになったのは、第三十四回芥川賞を受賞した石原慎太郎の「太陽の季節」以来のことである。従来の文壇ギルドとは無縁の新人作家の登場であった。以後、文学賞のショー化と作家のタレント化が云々され、文学の変質が取り沙汰されるようになったのだった。七十年間のそれぞれの受賞作を当時の時代状況と照らし合わせていくだけでも、日本文壇史の一面と小説自体の変貌のありようをすくい取ることができる。」(同)

 尾崎秀樹さんの薫陶を受けた優秀な〈直弟子〉が、こんなどこかの新聞記事みたいな解説を書かなきゃいけなくなって、清原さん自身、心苦しくないわけがありません。よね?

 で、この記事では、第133回受賞の中村文則「土の中の子供」と朱川湊人「花まんま」を(この順番もまた心苦しさ満点!)、お得意の書評で紹介したあと、最後に植村鞆音『直木三十五伝』を持ってくることで、大衆文芸愛好者の無念を、ちょびっとだけ晴らしてくれているわけです。

「芥川賞・直木賞創設の契機となったのは直木三十五の死であった。芥川龍之介はすでに八年前に亡くなっている。」(同)

 と、清原さんは書いています。そうだそうだ、両賞のスタートは直木三十五の存在あったればこそなんだ、直木賞のほうが主で、芥川賞は付け足しなんだ、とワタクシ直木賞オタクは枕を高くして眠りにつくのでした……。

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2012年10月21日 (日)

阿川佐和子(『週刊文春』対談ホステス役) 直木賞の世界のなかでアガワといえば、今や弘之をさしおいて佐和子。

阿川佐和子(あがわ・さわこ)

  • 昭和28年/1953年11月1日生まれ(現在58歳)。
  • 昭和51年/1976年(22歳)慶應義塾大学文学部西洋史学科卒。
  • 昭和56年/1981年(27歳)TBS「朝のホットライン」リポーターとなる。以後、同局「情報デスクToday」アシスタントキャスター、「筑紫哲也NEWS23」アシスタントキャスターを経て、平成4年/1992年より1年間、アメリカ遊学。
  • 平成5年/1993年(39歳)『週刊文春』誌上(5月6日・13日合併号)で対談企画「阿川佐和子のこの人に会いたい」スタート。

 『聞く力―心をひらく35のヒント』(平成24年/2012年1月・文藝春秋/文春新書)、祝!大ヒット! ……っていうことで、このエントリーを書くわけではないのです。阿川佐和子さんといえば、『週刊文春』の連載対談企画「この人に会いたい」のホステス。といえば直木賞受賞者がまず通る関門。いまでは直木賞とは切っても切れない存在です。当然、このブログで触れずには済まされない人であり、企画です。

 1980年代初期、阿川弘之さんがほんの短い直木賞選考委員を務めていたころ、いったい誰がこんな展開を予想したでしょうか。直木賞におけるアガワといえば、阿川佐和子さんを指す事態になろうとは……(それは言いすぎか)。

 阿川さんの対談企画が始まったのは平成5年/1993年5月。以来19年半。直木賞史のうえでは、第109回(平成5年/1993年上半期)から39期分となります。全歴史の4分の1を超えたくらいです。

 その間、誕生した直木賞受賞者は51名。直木賞を受賞してから半年のあいだに、対談ゲストにお呼ばれした人は、うち18名に及びます。19年半で18名。平均すると、だいたい1年に1名の割合です。

 しかし、もうちょっと正確に言いますと、「阿川佐和子のこの人に会いたい」の歴史における、直木賞受賞者の扱いは、19年半ずっと一定だったわけではありません。そこには、『週刊文春』という文藝春秋の支配するマス媒体の上で、直木賞と芥川賞、どちらをより優先して宣伝に回すか、熾烈な興亡と闘争のなかで直木賞が勝ち得た「18名」の数字なのです。

 ええと、じっさいに熾烈な興亡と闘争があったかどうかは知りませんよ。あくまで「この人に会いたい」の人選の流れを追って、ワタクシがそう言っているだけです。

 「この人に会いたい」は、先週の『週刊文春』平成24年/2012年10月25日号が第944回目でした(これがまたスゴい数字なんですけど、まあ、それは措いておきます)。そこまでの19年半、登場した直木賞受賞者は18名、対して芥川賞受賞者は10名。受賞してしばらくしてからお呼ばれしたゲストは含みません。あくまで「話題の人」枠、つまり次の期が訪れるまでに対談した人だけに限って数えました。

 年代順に並べますと、こんな感じです。

  • 〔芥〕第116回  柳美里(平成9年/1997年2月6日号)
      「母に包丁で刺されそうになったことがあります」
  • 【直】第117回  浅田次郎(平成9年/1997年11月20日号)
      「僕は人を好きになると愛の言葉を百万回言います」
  • 〔芥〕第119回  花村萬月(平成10年/1998年9月17日号)
      「小学生の頃から校庭でクスリをやってました」
  • 【直】第121回  桐野夏生(平成11年/1999年8月19日号)
      「子どもが昼寝してるときに「それっ」て小説を書いてました」
  • 〔芥〕第122回  藤野千夜(平成12年/2000年2月10日号)
      「女装は、男と見られる不愉快から」
  • 【直】第122回  なかにし礼(平成12年/2000年2月24日号)
      「昭和の終了と共に作詞をやめた訳」
  • 【直】第123回  船戸与一(平成12年/2000年8月10日号)
      「小説家に固執する気は全然ない」
  • 【直】第124回  山本文緒(平成13年/2001年2月15日号)
      「血管が切れそうなほど欲しかった直木賞」
  • 【直】第125回  藤田宜永(平成13年/2001年8月30日号)
      「「愛と感動のドラマ」が書けない理由は?」
  • 〔芥〕第127回  吉田修一(平成14年/2002年9月5日号)
      「年収って百万もなかったと思います でも、貧乏生活の意識がなくて……」
  • 〔芥〕第128回 大道珠貴(平成15年/2003年2月20日号)
  • 〔芥〕第130回  金原ひとみ(平成16年/2004年2月5日号)
  • 【直】第130回  江國香織(平成16年/2004年3月11日号)
      「一晩にシャンパンをあんなにいっぱい飲んだことはなくて、もう幸せでした」
  • 〔芥〕第131回  モブ・ノリオ(平成16年/2004年10月21日号)
      「芥川賞とった今、介護してるときよりイライラしてる(笑)」
  • 【直】第134回  東野圭吾(平成18年/2006年2月23日号)
      「直木賞候補のドキドキに比べたら他のドキドキなんて大したことない」
  • 【直】第135回  森絵都(平成18年/2006年9月14日号)
      「自分が好きで続けられそうなことは作文で……。作家になろうと決めました」
  • 〔芥〕第136回  青山七恵(平成19年/2007年3月1日号)
      「芥川賞をいただいた後、自分の書いた小説をドキドキしながら点検するような感じで読みました」
  • 【直】第138回  桜庭一樹(平成20年/2008年2月21日号)
      「直木賞受賞後、「よかったよかった」って一人でカレーヌードルをもそもそ食べました」
  • 〔芥〕第139回  楊逸(平成20年/2008年8月7日号)
      「留学、結婚、出産、そして天安門。 新芥川賞作家、激動の半生を語る」
  • 【直】第139回  井上荒野(平成21年/2009年1月15日号)
      「夫は私の小説を臆面もなく褒めてくれる。臆面もなく、というとこが重要です(笑)」
  • 【直】第140回  天童荒太(平成21年/2009年3月12日号)
      「『悼む人』は一つの大きな到達点。無名の「死」に心が共振して生まれました」
  • 【直】第141回 北村薫(平成21年/2009年8月27日号)
      「直木賞候補6回は名誉なことですよ。編集者には申し訳なかったけど(笑)」
  • 【直】第142回  佐々木譲(平成22年/2010年2月25日号)
      「文学者じゃなく、職人作家として書き続けたことに意味があったんですね」
  • 【直】第143回  中島京子(平成22年/2010年8月26日号)
      「初めての小説が父に見つかって怒られた。我が家で有名な「執筆停止事件」です(笑)。」
  • 〔芥〕第144回  朝吹真理子(平成23年/2011年2月24日号)
      「自分から「小説家」と明言することに、今も逡巡や戸惑いがあります」
  • 【直】第144回  道尾秀介(平成23年/2011年3月17日号)
      「ボン・ジョヴィになりたかった高校時代、『人間失格』を読んで本当にびっくりした。」
  • 【直】第145回  池井戸潤(平成23年/2011年8月25日号)
      「普通の小説好きの人たちに、企業小説も読んでもらいたい。僕はそれを常に意識しています。」
  • 【直】第147回  辻村深月(平成24年/2012年9月6日号)
      「瞬間瞬間の自分を大事にしたい。同じ考え方で小説を書くことって、きっと二度とないから。」

 まず気づくことがあります。「この人に会いたい」が開始して4年弱は、この企画は直木賞・芥川賞の話題とは距離を置いていた、ってことです。時に4年をすぎた平成9年/1997年は、この対談企画がはじめて「傑作選」としてまとめられ文春文庫から刊行された年でした。『週刊文春』誌の顔として、内外ともに認められた時期だったのかなあ、と思わされます。

 ちなみにそれまでの「この人に会いたい」に出てくる作家といえば、当然、流行作家、大物が多かったのが特徴です。はじめてゲストになった作家は、平成5年/1993年7月8日号、連載第9回目のマイクル・クライトン。と、これは別格としましても、日本人作家第一号は、同年8月5日号、第13回目の伊東昌輝・平岩弓枝夫妻。イェーイ、まったく、直木賞オタクの誇りです。

 で、平成9年/1997年以後は、芥川賞受賞者を皮切りに、直木賞・芥川賞ほぼ平等に取り上げられる期間が続きました。だいたい楊逸さんの頃まで。約10年くらいのあいだです。

 第140回をすぎた頃からの、怒濤の直木賞受賞者登場率の高さは、もう直木賞ファンとして嬉しいことこのうえありません。阿川さんの『聞く力』では、インタビューのときの心得が、さまざまな例を挙げながら紹介されているんですが、たとえば、こんな文章を読むとつい飛び上がってしまいます。

「たとえば対談相手の作家が眼帯をしていらしたとする。その眼帯が煩わしくて、目に痛みもあり、本当なら今日のアガワのインタビューは欠席したいと思ったが、頑張って家を出てきたんだと、心の中で思っていらっしゃる人の前で、会うなり、

「ああ、初めまして。このたびは直木賞受賞、おめでとうございまーす!」

 もちろん、その挨拶も大事ではあろうけれど、本人としてみれば、それより目が痛いし眼帯が煩わしいことの問題のほうが頭を占拠しているはずです。」(『聞く力』「I 聞き上手とは」より)

 ここで、「芥川賞受賞」ではなく「直木賞受賞」の言葉を、阿川さんがさらっと選択するところが、近年の「この人に会いたい」における直木賞率の高さをまざまざ物語っている気がするのです。

 むろん、「この人に会いたい」=『週刊文春』=文藝春秋の企画なので、受賞作が文藝春秋から出れば出るほど、ゲストになる確率が高い、とは言えましょう。しかし、どんな手を使ったっていいのです。直木賞のほうが芥川賞より勝っている点が、そんなことでもいいから一つでもある、っていうのは、個人的にはすごく落ち着きます。

 これから直木賞は、文藝春秋なぞは脇において、もっと広く「えっ! 何これ、こんなのが直木賞!?」みたいなものをどしどし選んでいってほしいんですが、そうなっても、「この人に会いたい」にだけは、直木賞受賞者を優先してセッティングしてほしいと切に願います。

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2012年10月14日 (日)

川崎竹一(『文藝通信』編集部員) 直木賞・芥川賞が創設されるきっかけになった記事を書いたのは私だ、と言った男。

川崎竹一(かわさき・たけいち)

  • 明治37年/1904年3月23日生まれ、昭和57年/1982年4月28日没(78歳)。
  • 昭和4年/1929年(25歳)九州帝国大学仏文科卒業。文藝春秋社入社。
  • 昭和6年/1931年(27歳)『オール讀物』(『文藝春秋オール讀物號』)創刊、編集メンバーに加わる。昭和7年/1932年に『文藝春秋』編集部へ異動。
  • 昭和8年/1933年(29歳)『文藝通信』創刊。時期不明ながら編集メンバーに加わる。『文藝通信』は昭和12年/1937年に廃刊、『文學界』に合併される。
  • 昭和14年/1939年(35歳)『文學界』編集長ののち、調査部長(昭和15年/1940年)。
  • 昭和19年/1944年(40歳)文藝春秋社を離れ、フランス文学者として著述業に就く。

 直木賞をつくった面々のひとり、永井龍男さんを太陽とするならば、川崎竹一さんは月でしょう。いや。ほとんど光量がないため、望遠鏡でも肉眼では確認できないくらいかもしれません。

 なにせ、チョイ役ぶりが甚だしいです。たとえば永井さんの残した直木賞・芥川賞に関する回顧文では、その名前は触れてさえもらっていません。

「その年(引用者注:昭和9年/1934年)の十月初め、東京新聞社の裏手にあった花の茶屋で新年号の編集会議が行われ、席上菊池寛の意中にした芥川・直木賞の実施が発表され、翌日からわれわれ部員は細則の検討に、両賞銓衡委員の選定に依頼に、持ち場をさだめて動き出した。なお、両賞の事務一切は常任理事という体裁のよい肩書をもらった私の担当ということになった。(引用者中略)

 創設された芥川・直木賞の事務一切が、編集部員のかたわら私の担当であった。数ある同人雑誌を整理し眼を通し、それぞれ気難しい委員達の通読をもうながさなければならなかった。委員会の会場の取り決めから、正賞の時計を購入することも役目で、財団法人の規約に従う記帳や、委員の送迎、選評の編集と、佐佐木茂索専務が几帳面だっただけに、私はよく働いた。昭和十七年頃、満洲文藝春秋社創立のために、新京へ渡るまで、一人で事務を処理したが、この仕事に関する限り私は心残りを持っていない。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』より ―初出『文學界』昭和53年/1978年1月号~12月号 下線太字は引用者によるもの)

 ええと、「一人で事務を処理」っていうのはどういう意味でしょうか。ほんとに誰の手も借りずにやったのか。それとも、何人かで手分けしたけれども、自分が担当責任だったから、我ひとりの仕事だと言っちゃっているのか。わかりません。

 おそらく、昭和52年/1977年に植田康夫さんが「芥川賞裏話」(『創』昭和52年/1977年3月号)において、川崎竹一さんの回想を紹介しておかなかったら、いまでもすべて永井発言のみが信用されていたことでしょう。

 植田さんは言います。……菊池寛がそもそも直木賞・芥川賞をつくろうと思った動機のひとつに、川崎さんが『文藝通信』に書いた海外文学賞事情の記事があったのだと。菊池は、この記事を読み、日本にも権威ある文学賞をつくって作家の育成に当たるべきだと書いてあったことを「いい提案だ」と褒めたうえで、川崎さんに賞創設の準備を進めるように指示したのだと。

 もしこれが本当なら、永井回想はとんでもなく重要な部分を端折っていることになります。いったい、この両説の掛け違いは何なのでしょうか。

 ……ってことで、植田さんの紹介文に頼っていてもラチが明きません。川崎竹一さんの発表した原文を見ることにしましょう。『東京新聞』昭和47年/1972年7月18日夕刊に載った「芥川・直木賞創成記」です。

 本当は全文引用したいところですが、そうは行きません。重要な箇所だけかいつまみながら引用してみます。

「これは、現代の日本文学発展史のために書いておかなければならないことの一つである。

(引用者中略)

 菊池寛は、芥川・直木賞制定について、文芸春秋の「話の屑篭」の中に、次のように書いている。

 ……いつか「話の屑篭」に書いて置いた「芥川」「直木」賞をいよいよ実行することにした。主旨は亡友を記念する旁々、無名、若しくは無名に近き新進作家を世に出したい為である。だから芥川賞の方は、同人雑誌を主として詮衡するつもりである。また広く文壇の諸家にも候補者を推薦して貰うつもりである。……(原文のまま)

 こうして日本文学振興会の名のもとに芥川・直木賞は発足した。

(引用者中略)

 昭和八、九年ごろから十一年ごろまで、文芸春秋には、付録的な小冊子の「文芸通信」がついていた。

 作家や匿名の作家や、ジャーナリストたちが、文壇の批評やニュースなどをゴシップ的に気軽に執筆したもので、菊池寛の発案によるものだった。その記事の中には、社中同人の私や、永井龍男(作家)などの執筆や匿名記事も入っていた。

 そのころたまたま「文芸通信」を担当した私は、昭和九年のある号に、フランスの文学賞のゴンクール賞や、スウェーデンのノーベル文学賞など、海外の世界的に権威のある文学賞と、世に出た作家のことを紹介したついでに、日本でも権威のある文学賞を設けて、なぜ作家の育成と文学の隆盛を大いに進めないのか、と、アジテートするような短い記事を「文芸通信」に書いた。

 ところが、この記事を読んだ菊池寛が、自分もかねて、そういう腹案を持っていたらしく、「これはいい提案だから、早速実現しよう。ついては、文学賞の設定、発表と共に、すぐに発足の準備がいる。まず、社中で、準備委員会を作り、また、賞の選考委員には、熱心な作家を十人ほど依頼したい。早速とりかかってくれ」といった。

 そこで、私や永井君など数人が、準備委員に指名されて、活動をはじめた。

 賞の選考委員の中で、若い人の作品や、同人雑誌に通暁していた、瀧井孝作と今の文芸春秋の前社長の佐佐木茂索や、菊池寛と親しかった久米正雄などを、特に協力者にたのみ、数多い同人雑誌、文学雑誌、その他、半年間に発表された小説類を社中で予選し、専門委員にはかった上で、候補作をおよそ十編ほどにしぼって、選考委員に作品を回し、いよいよ会議に上程して、会を重ねていった。

 選考委員会の熱心な討議の席で、会の進行を受け持っていた私や永井龍男は、白熱の議論や採決の場で、手に汗を握る思いをしたことがたびたびだった。」(川崎竹一「芥川・直木賞創成記」より)

 まず、この文章からわかることがあります。川崎さん、おそらく原典に当たっていないか、当たっていても勘違いしたまま書いているなあ、ってことです。

 例を挙げてみます。川崎さんがわざわざ「原文のまま」として引いている菊池寛の文は、「話の屑籠」に書いたものではありません。『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号の「芥川・直木賞宣言」記事に菊池が寄せた「審査は絶対公平」のなかの文章です。

 また、「日本文学振興会の名のもとに」発足した、というのも間違い。当時はまだ、そんな名前の組織は存在していませんでしたから。

 かような川崎文を、いったいどこまで信用していいのか、と疑いながら読み進めると、問題の『文藝通信』の「短い記事」の件が出てきます。

 調べました。『文藝通信』創刊号(昭和8年/1933年10月号)から昭和9年/1934年12月号までを。……見当りません。海外文学賞について、ノーベル賞、ゴンクール賞やその受賞者を合わせて紹介した文など、どこにも。ただ、私の見落としの可能性もありますので、見つけた方はぜひご教示ください。

 さて、見当りませんと言いました。しかしです。「フランスの文学賞のゴンクール賞や、スウェーデンのノーベル文学賞など、海外の世界的に権威のある文学賞と、世に出た作家のことを紹介した」記事が、同誌に載っていないわけではありません。載ってはいますが、それは昭和10年/1935年2月号なんです。直木賞・芥川賞の制定が発表されたあとです。

 「世界文学賞物語」と題された無署名のものです。こちらは別サイトに、全文を写しておきました。ご興味があればご参照ください。

 上記「世界文学賞物語」も、いくつか間違いの散見される記事なんですよね、ってことがまた、川崎さんの手による感じを匂わせています。

 それはそれとして。川崎さん自身、「昭和九年のある号」と書いているほどです。実物を確認しなかったんでしょうか。40年近く前のことを、記憶にたよって書いた。そう見るのが自然でしょう。

 そして記憶には、当然ながら脚色が混じります。意識的に、無意識的に。

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2012年10月 7日 (日)

見城徹(角川書店編集者→幻冬舎社長) 「直木賞製造マシーン」の異名から放たれる腐臭に耐えられず、早々に直木賞の枠から脱出。

見城徹(けんじょう・とおる)

  • 昭和25年/1950年12月29日生まれ(現在62歳)。
  • 昭和48年/1973年(22歳)慶應義塾大学法学部卒。廣済堂出版に入社。
  • 昭和50年/1975年(24歳)角川書店に入社。『野性時代』編集部に在籍。のち昭和60年/1985年より『月刊カドカワ』編集長。
  • 平成5年/1993年(42歳)幻冬舎を設立。社長となる。

 編集者って存在は、なかなか表に出てこないものです。直木賞の受賞作や候補作に関わった編集者は、何百といるはずですが、現在よく知られている名前はごくわずかに過ぎません。

 そのなかで、直木賞×編集者の視点でみたとき、言及数、メディア露出数などでトップクラスに入るのが見城徹さんでしょう。直木賞は作家のためだけに存在する大看板ではないぞ!ってことを、これほど世に知らしめた人が、他にあったでしょうか。

「昭和50年角川書店入社。『野性時代』の編集部に9年間在籍する。その間つかこうへい村松友視山田詠美など、5人の作家の直木賞作品を担当した。業界で付けられたあだ名が“直木賞製造マシーン”。」(『十人十色』平成3年/1991年3月号「ベストセラーの仕掛人 月刊カドカワ編集長 見城徹」より)

 そう。昭和50年代から昭和60年代。直木賞の舞台に、ドーッと角川書店の小説が候補作として登場した時期がありました。

 そのうち見城さんは、有明夏夫『大浪花諸人往来』(第80回 初出『野性時代』)、つかこうへい『蒲田行進曲』(第86回 初出同)、村松友視「時代屋の女房」(第87回 初出同)、山田詠美『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』(第97回 初出『月刊カドカワ』)、景山民夫『遠い海から来たCOO』(第99回 初出『野性時代』)の5つの受賞作を担当したんだそうです。

 この時期、候補になった角川書店刊行作または『野性時代』掲載作はまだまだたくさんあります。そのうち、つかこうへい「ロマンス」「かけおち」「ヒモのはなし」(第82回)、村松友視の「セミ・ファイナル」(第85回)と「泪橋」(第86回)、林真理子「星影のステラ」(第91回)のほか、直木賞落選作のいくつかも担当していたはずですが、落ちたハナシは葬り去られる運命なので、詳細は不明です。

 で、ワタクシとしてはまず、最初の担当作(だったはず)の有明夏夫さんのことから始めたいところです。しかし残念、これも詳細は不明なのですよ。とにかく見城さんを取り巻く文献は、景気のいいハナシか、有名人との交流譚が多すぎるんですよねえ。有明さんのような地味な人は埋没してしまっています。泣く泣く今回は有明さんとお別れしまして、つかさんとのハナシを少しだけ。

 つかさんに『つかへい腹黒日記』っていう本があります。『夕刊フジ』に連載されていたうち、一部を収録したものですが、単行本では冒頭、えんえんと見城さんとのやりとりから始まります。『蒲田行進曲』という題名に関する丁丁発止の口論。芝居がかった虚実あいまいなとこが、この日記の真骨頂です。

「見城は(引用者中略)『蒲田行進曲』という題名のもつ運の強さを力説して、

「『銀ちゃんのこと』なんて地味な題名より、絶対に売れます!」

 とギョロ目をむいて、ぶ厚い唇からツバを飛ばして言った。

 さすがオレも芸術家らしく、このときばかりは札を数える手が止まった。

「バカヤロウ、売れる売れないは関係ないんだ。文学をやるんだ、オレは。いいか、オレは行動すると派手だから、題名は地味でいいんだ。四の五の言わずに言った通りにしろ!」

 と、本来のオレのアカデミックな生きざま、その高尚なる文学観を知らしめんものと怒鳴りつけた。が、見城はここぞとばかり、

「ケッ、なに言ってんの、売れなくて何の文学よ。アンタ、ほんとは金ほしいくせに、カッコつけんじゃないよ」

 と、オレに向かってくる。」(昭和57年/1982年8月・角川書店刊 つかこうへい・著『つかへい腹黒日記』より ―初出『夕刊フジ』昭和57年/1982年2月16日~3月10日「つかへい犯科帳番外篇」を改題加筆)

 「売れなくて何の文学よ」。見城さんのセリフがピリッと効いています。30年たった今読んでもまるで違和感がありません。見城さんのその後の一貫した姿勢のおかげです。

篠原(引用者注:篠原進) 文学を商品として戦略化したのが八文字屋なんです。その文脈に添って言えば、本は売れなければ意味がないし、どんなきれいごとを言っても売れないと意味がないと思うんです。

見城 そうです。文「学」なんてつけるからおかしいんです。」(平成20年/2008年12月・太田出版刊 見城徹・著『異端者の快楽』所収「幻冬舎は現代の八文字屋か」より ―初出『西鶴と浮世草子』1号[平成18年/2006年6月])

 おそらく、こういう思考の方にとっては、直木賞なんてものは実は大して意味のないものに違いありません。直木賞は、売れようが売れまいが、格別な痛手を被らずに粛々と続けられていくシロモノですからね。

 ある時期、見城さんが目をつけた新人作家が、何人か直木賞をとって売れる小説を書くようになった、というだけのことです。基本、見城さんの考える「売れる小説を生み出すための装置」の役目は、直木賞にはありません。

 少なくとも、直木賞は創設からン十年間は、なにがしかの権威は保っていたかもしれませんが、受賞作が売れる、なんて世界からはおよそ遠い世界にありました。おそらく見城さんが、直木賞を運営していたら、とっくに廃止していたかもしれない、っていうほどです。

 ホラーサスペンス大賞の短い命を見るにつけ。

「あの強気で知られる幻冬舎の見城徹社長が、壇上で肩を落としていた。

 「ピナ・バウシュがクラシックバレエの基礎を押さえた上で、まったく違うものを踊るように、やはり作家も、オーソドックスなものが書けてこそ、新しいものが書ける。そういう新人を育てる努力を怠っていたかもしれない」

 新潮社、テレビ朝日との共催で2000年にスタートした新人賞「ホラーサスペンス大賞」は、総額1300万円という当時最高クラスの賞金と、ライバル同士の出版社が垣根を越えて手を組むという話題性で注目されたが、わずか6年で幕を下ろした。見城社長の“敗戦の弁”は、その最後の授賞式でのものだ。

 「要は、ベストセラーを出せなかった」と担当編集者の一人。」
(『読売新聞』平成18年/2006年3月3日夕刊「金曜コラム 「受賞作なし」も勇気」より ―署名:石田汗太)

 直木賞といえば、蝸牛の歩みと言いますか、思われているほど大した即効力を持たない軟弱者と言いますか。飽きっぽくて、常に転がり続けていないと気が済まない見城さんに、ついていける脚力もありませんでした。

 短いお付き合いでした。直木賞の世界に現れたスーパー編集者、見城徹さんは、ほんの10数年で直木賞を引き離し、別のところに旅立っていくのでした。

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