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2012年9月の5件の記事

2012年9月30日 (日)

溝川徳二(『芥川・直木賞名鑑』編者) 直木賞は文芸の世界のためだけのものではない。みんなのものだ。

溝川徳二(みぞかわ・とくじ)

  • 昭和11年/1936年生まれ(現在75-76歳)。
  • 昭和34年/1959年頃(23歳)早稲田大学卒。貿易商社に入社。2年後、出版社に転職。
  • 昭和44年/1969年頃(32歳)グロリア日本支社に入社。4年後、百科事典編集次長となる。
  • 平成2年/1990年(53歳)編集委員会代表として『芥川賞・直木賞―受賞者総覧―』(教育社刊)を刊行(平成4年/1992年に改訂二版)。
  • 平成12年/2000年(63歳)編者兼発行人として『芥川・直木賞名鑑』(名鑑社刊)を刊行(上記の新装改訂版)。

 もう5年も前になりますか。うちのブログで「直木賞関連の書籍」を紹介していたことがあって、教育社の『芥川賞・直木賞―受賞者総覧―』、および名鑑社の『芥川・直木賞名鑑』を取り上げました。書名は違えど中身はほぼ一緒、後者は前者の「2000年度新装版」です。

 なあるへそ、平成2年/1990年に初版を出して、平成12年/2000年に新装版。10年ごとに新たな受賞者プロフィールを追加して改訂していこうって寸法か。……とワクワクして平成22年/2010年を迎えたものの、何の音沙汰もなく、期待を外されてガックリきたんですよね。なあんてハナシはおいときまして、今日はこの本の編者、溝川徳二さんのことです。

 いや、ワタクシもこの方のことは、ほとんど存じ上げません。ご存命かどうかも知りません。直木賞に関する文献のなかにも、まず登場することのない方です。

 20代のときからン十年間、編集・出版稼業に勤しみ、多くの人脈を得て、そのひとつの仕事として本書に関わっただけなのかもしれませんし、フツーの編集者がもっている芥川賞・直木賞への興味から、とくに抜きん出ている空気も感じません。

 それでも気になるのです。溝川さん。ノーベル賞受賞者、文化勲章受章者、といった名鑑のひとつに、「芥川賞・直木賞受賞者」の本を加えてくれた壮挙。というか暴挙。直木賞(裏)人物事典として、見逃すわけにはいかない人です。

 で、溝川さん自身のプロフィールは、ほとんど公表されていないのですが、出身地は明確です。鹿児島県出水市です。それが縁で、『出水文化』という地域誌の会員に昭和58年/1983年の第52号から加わりました。出水文化の会の理事長、宮路道雄さんから強く勧められ、同誌の第61号(昭和60年/1985年10月)から第67号(昭和62年/1987年10月)まで、断続的に4回にわたり、「離郷三十年―私が出会った人々―」と題するエッセイを発表しています。

「「それは君の貴重な財産だよ」と私がいろいろな人に会った話をするとこうおだててくれる人もある。(引用者中略)人間三十年も都会でフラフラしていると私ならずともいろいろな人に出会うことになるだろう。少し私が違う点は私の職業が出版の編集とささやかな経営をやってきた関係で普通の人よりは少し多目に多様な人間に出会ったかも知れない。(引用者中略)ここまで深く接した人だけでなく、路上ですれ違った人、講演を聴いた壇上の人までをも含めて印象に残る人を取り上げてみたい。」(「離郷三十年(上)」より)

 そう、これはタイトルのとおり、溝川さんが東京に出てきた出会った(あるいはチラッと見た)有名無名の人びとのことを、断片的に綴ったもの。具体的な年月や社名などを省いて書かれているところも多く、溝川さんのプロフィールをつくるまでの役割は果たし得ないエッセイですが、ある程度の来歴はそこで知ることができます。

 触れられている人物の名前をざっと挙げてみます。おおよそ登場順です。谷川健一、相沢治夫、長谷川龍生、正宗白鳥、三島由紀夫、湯川秀樹、芦田均、四方諒二、田代格、中西悟堂、川端康成大佛次郎井伏鱒二、本田正次、荒垣秀雄、ネール、ロバート・ケネディ、茅誠司、黒川利雄、ファーズ博士、坂西志保、坪井忠二、中曽根康弘、岩松睦夫、竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎、守随憲治、藤岡謙二郎、ターナー・キャトリッジ、武田泰淳、橋川文三、小谷澄之、林髞(木々高太郎)、内藤濯、布川角左衛門、山本達郎、平塚益徳、吉川幸次郎、中野好夫、大塚久雄、森恭三、古橋廣之進、白井義男、荻村伊智朗、小野喬、小野清子、春日野親方(元横綱栃錦)、土光敏夫、淀川長治、高木東六、木村健二郎、宗像英二、中村仁一、安田元久、佐藤巌、和歌森太郎、尾鍋輝彦……。

 人脈というか、雑人脈みたいな装いです。

 残念ながら、溝川さんのエッセイでは、直木賞のことはあまり語られません。しかしトップバッターとして谷川健一さんとの交流が書かれています。はっきり言って、直木賞を語る溝川さんの姿を垣間見ることができるのは、この部分だけです。ほんのわずかです。でも、ワタクシは満足です。

「病床で書いた「最後の攘夷党」という谷川氏の処女作はその年の直木賞有力候補となり黒岩重吾立原正秋の三人で競った。選考委員の大佛次郎、海音寺潮五郎の二人は谷川氏の作品を激賞したが、芥川賞と違って安定感と手堅さを重視する直木賞では「もう一作見てから」と見送られた。大佛と海音寺はわざわざ谷川氏に書簡を送って励ましている。氏はこの書簡を大切に保存していると私に話した。

 この年の受賞は黒岩重吾で立原正秋も数年後に受賞、二人とも全集を持つ作家に成長した。」(「離郷三十年(上)」より)

 どうです、この事実関係のムチャクチャさ。谷川健一さんが直木賞候補になった第55回(昭和41年/1966年・上半期)、受賞したのは立原正秋さんです。黒岩重吾なんて名前、いったいどこから出てきたのでしょう。謎です。

 ただ、こんなところからも、細かな事実に頓着しないで、記憶と思い出を大事にする人間・溝川徳二がまざまざ魅力をもって、眼前に現われるようではありませんか……。

 谷川さんと直木賞バナシ、もう少し続きがあります。

「谷川氏はその後小説を書かなかった。もし書いていれば直木賞作家谷川健一は間違いなく誕生していたろう。「小説を書いてくれた方がよかった。原稿料もこちらが高いでしょうから」と夫人は今でも冗談をいうそうだ。かの司馬遼太郎を直木賞で見出し将来性を感じたという名伯楽の海音寺が明治四年、久留米藩の反政府事件にテーマした谷川の「最好(原文ママ)の攘夷党」に大きな可能性を感じていたとすれば谷川氏が小説を中断したのは惜しまれる。本人も若干の未練があるのかこの時の話を時々するし、最近は何本かの民俗学に取材したユニークな作品を発表している。」(同)

 おお、評者としての海音寺さんを相当高く買っているのですね。そうですか。海音寺さんが強力に推した野村尚吾さんとか、海音寺さんが頑として認めなかった池波正太郎さんらに聞かせてあげたいです。

 と、イジ悪いようなことを書いたのは他でもありません。たかだかひとりの選考委員の、直木賞における賛成や反対などの価値を、あまり買い被りすぎないほうがいいんじゃないか、ってことです。自戒をこめて。

 まあ、それでも溝川さんが本業としてではなく、手すさびで書いた文章の間違い・勘違いを、キャッキャ、キャッキャと喜んで取り上げるなんて、peleboも大人げないよな、とは思います。なので、溝川さんが編者のお仕事で関わった『芥川・直木賞名鑑』のなかで、ワタクシの好きなところを挙げておきます。

 巻頭に「芥川賞・直木賞テーマ別解説」っていうページを設けて、両賞の楽しみ方にはいろいろな視点があるのだ、ってことを表明してくれている点です。そのページで紹介されている切り口は以下のようなもの。

 「受賞辞退」「選考場所と授賞会場」「医師の受賞」「受賞者と趣味」「二足のわらじ」「受賞逃し」「候補から超人気・実力作家へ」「夫婦作家」「兄弟受賞」「ポルノ作家も元候補」「異色候補(1)~(3)」「両賞ともに候補」「超有名候補作品」「候補者の選考委員」「選考委員最長記録」……。

 ね。日本の文学とか小説の歴史とは、ほぼ関係のない切り口。「直木賞・芥川賞」っつう枠組みを外したら何の意味ももたない種々の小ネタを、堂々と「解説」と銘打って構成しちゃっています。ワタクシのような、その後を追いかける者の目から見ますと、この名鑑の白眉だと思います。

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2012年9月23日 (日)

高橋一清(日本文学振興会理事) 直木賞は勝手に決まるのではなく、舵取りしている裏方がいるわけです。

高橋一清(たかはし・かずきよ)

  • 昭和19年/1944年8月5日生まれ(現在68歳)。
  • 昭和42年/1967年(22歳)早稲田大学第一文学部卒。文藝春秋入社。『文學界』+『別冊文藝春秋』編集部に配属。以後、各誌編集部を経る。
  • 平成2年/1990年(45歳)出版部長、『別冊文藝春秋』編集長に就く。平成6年/1994年には文春文庫部長に。
  • 平成8年/1996年(51歳)文藝振興部長に就任し、日本文学振興会事務局担当。平成9年/1997年に同振興会理事となる。
  • 平成17年/2005年(60歳)文藝春秋退社。松江観光協会の観光文化プロデューサーになる。

 いま、直木賞裏方話の第一人者といえば、この方でしょう。松江の観光文化プロデューサーっていう重要なお役目もさることながら、文春退社後の高橋一清さんの働きぶりに、ワタクシはぜひ、「直木賞大使」の肩書きも差し上げたいくらいです。

 『あなたも作家になれる』(平成20年/2008年6月・KKベストセラーズ刊)なんちゅうキワモノめいた著書を出したときには、直木賞に関するエピソードを差し挟んであったものの、一発屋で終わるかと不安がありました。ところが、『編集者魂』(平成20年/2008年12月・青志社刊)、『作家魂に触れた』(平成24年/2012年6月・青志社刊)と、たてつづけの作家交流記。もとい。直木賞裏バナシ。

 シビれました。拍手喝采ものです。直木賞まわりよりも芥川賞関連のことに割かれている量のほうが多いのは悲しいですが、その悲哀感を蹴散らしてくれる高橋さんの語りに、どれだけ直木賞ファンが喜んだことか。おそらく。

 かつて高橋さんは日本文学振興会の事務局で働いていました。第115回(平成8年/1996年上半期)から第124回(平成12年/2000年下半期)までは、振興会を代表して、直木賞の(ついでに芥川賞も)受賞者に、電話で受賞を報せる役目にあったそうです。

 直木賞史からいえば、そんなに長期間ではありません。ただ、直木賞の裏方として、ここまでのぼり詰めるまで大変だったことでしょう。組織人として調和を乱さず、かといって迎合主義に陥らず、サラリーマンとして出世する影には、並々ならぬ努力があったことでしょう。

 たとえば、落選してグズる作家をなだめすかす努力とか。

「一人だけが美味しい酒を飲む。他の候補者たちは落胆するばかり。それが嫌さに、一度落ちると、再びは候補になることを拒否する作家もいた。

「そうは言わずに、もう一度、もう一度だけやりましょう。ここまで来たんですから」

 毎回、説得を続け、最後には私は声が出なくなった。風邪を引いていたので、筆談で説得したのだ。そうして、また候補を承諾してもらい、四回目でやっと受賞に至らせたこともある。」(『あなたも作家になれる』「第一章 芥川賞と直木賞で作家デビュー」より)

 先に紹介したように、高橋さんの『編集者魂』や『作家魂に触れた』は、さまざまな作家に気に入られ、有能であった高橋さん自身の働きを、感じさせずにはいられない本になっています。有能というのは、つまり策士であった、ってことです。

 意地悪くいえば「計算高い」と表現したくなりますが、作家にいいものを書かせる→それをできるだけ多くの読者に読ませる→そのおかげで作家がもっといいものを書ける、みたいな循環を常に意識して、事に当たっていた人でした。

 直木賞・芥川賞授賞式について、高橋さんのこんな言葉があります。

「授賞式の夜、私の心中は複雑であった。苦労をともにした人が、檀上で脚光を浴びている。それを遠くから眺めながら、良かった、と思う一面、これでひとつが終わった、という感じになる。

 編集者は無名を有名にするのが仕事である。世に受け容れられ、それまで誰も知らなかった者が、多くの人の知る者となった時、仕事の大半が終わる。」(『編集者魂』「「芥川賞・直木賞」物語」より)

 高橋さんの場合、「有名になった」とたやすく判断できる恰好の行事が、自分の勤める会社で行われていたことは、幸運だったと思います。たとえば講談社の文芸編集者が、自分の担当する作家が吉川新人賞をとったのを見て「終わった」と感じるのか、それとも「次は直木賞を」と考えるのか、ワタクシにはわかりませんが、少なくとも「有名」の証しである報道の量は段違いです。そんな華やかな受賞光景に、半年に一度、間近に接していた高橋さんの脳内に、「やっぱり直木賞と芥川賞は、話題になってナンボだよね!」という感覚が焼き付けられていったのは、当然のことでしょう。

 まさに。いさぎよい直木賞観だと思います。

「世の中に暗く、心を寒くする事件、出来事が多くなり、新聞も週刊誌もテレビも、明るいニュースを求めている。そのような時、新しい作家の誕生は絶好の話題である。また、話題性に富む受賞も続き、ニュースの扱いも大きく、そしてセンセーショナルなものとなっていく。そうなるような仕掛けを目立たないように画策するのが、事務局長としての私の仕事のひとつでもあった。」(前掲『あなたも作家になれる』より)

 目立たないように仕掛けを画策。……運営の担当者だった人が臆面もなくこういう発言をするようになった、ってところにワタクシは直木賞の成長を見てしまいます。うんうん、そうだよね。高橋さんはもうその任にはありませんけど、いまも、その直木賞観は多かれ少なかれ、振興会のなかに息づいていることでしょう。

 だいじょうぶ。受賞というニュースで小説を買うような人たちは、『あなたも作家になれる』なんか読まないでしょうし、このブログも読みはしないでしょうから。まだしばらく、目立たない仕掛けは有効かと思います。

 仕掛けの例として、高橋さんのお仕事の一端を、少しだけ引用しておきます。

「「予選通過作」が、数にして、芥川賞なら六、七作、直木賞なら七、八作。このとき、私たちはある仕掛けをしていく。

 私は、できるだけ違う彩りをもった作品を選び、豊かな候補作群の中から選ばれるようにしていった。(引用者中略)

 「この次の回には、もう少し違う傾向のものを入れていこう」と、作品を選ぶ段階から、読者や選考委員の声を意識した絞り込みを、ほとんど自然の摂理に従うようにしていくことになる。こうした外からの声の取り込みを怠ると、たとえば三、四人くらいの狭い人間関係の中での葛藤を描いた小説が受賞した場合、次は二人で葛藤するような作品が受賞し、その次は一人で葛藤する、ほとんど精神病理学のテキストのような小説が受賞するといった、ある傾向に拍車がかかったような文学の流れが誕生してしまうのだ。(引用者中略)

 つまり、その受賞作とそれへの評価は、次の芥川賞・直木賞の選び方に影響を与える。」(前掲『あなたも作家になれる』より)

 表に出ている選考委員のために、いろいろ考えて候補作品を選ぶ文春編集者たちあってこその、直木賞なわけですね。

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2012年9月16日 (日)

保昌正夫(文芸評論家) 芥川賞を通じてしか直木賞を見ることができない、なかばまっとうな文学賞観を示す。

保昌正夫(ほしょう・まさお)

  • 大正14年/1925年3月26日生まれ、平成14年/2002年11月20日没(77歳)。
  • 昭和24年/1949年(24歳)早稲田大学文学部卒。
  • 昭和24年/1949年(24歳)早稲田大学高等学院に助手として勤める。のち教諭(昭和43年/1968年まで)。
  • 昭和37年/1962年(37歳)日本近代文学館設立発起人に加わる。以後、評議員、理事、常務理事。
  • 昭和41年/1966年(41歳)初の著書『横光利一』刊行。

 Yahoo!百科事典というコンテンツのおかげで、へえ、保昌正夫さんが直木賞の歴史をまとめてくれているんだあ、と知りました。もちろん短い文量です。正確さに疑問符をつけたいところもあります。だけど、そこはそれ、彼もまた、直木賞をまとめるにあたって同賞の無定見ぶりに四苦八苦した口なんだろうな、と共感を抱かされます。

 で、保昌さんを拙ブログで取り上げるのは、このことばかりが理由ではありません。昭和43年/1968年に保昌さんが、日本の文学賞について短い連載を受け持って、その当時の文学賞史の姿を、まざまざワタクシたちに見せつけてくれたからです。

 『國文学 解釈と教材の研究』の昭和43年/1968年1月号から4回にわたって掲載された「文学賞物語」です。

 第一回「文学賞の数と質」(1月号)、第二回「選考委員の問題」(2月号)、第三回「受賞者よりも……」(3月号)、第四回「芥川賞と直木賞のあいだ」(5月号)。

 都合4回のうち、いちおう話は文学賞全般におよんでいるんですが、言及量の飛び抜けて多いのが芥川賞のことです。圧倒的です。悲しいです。せつないです。保昌さんに殺意すら覚えます。ウソです。

 っていうことで、21世紀を生きる我ら直木賞研究者たちが、20世紀の遺物を目にして必ずや憤怒せずにはいられない、文学賞に関する文献、その代表的な一発を放ったのが、誰あろう保昌正夫さんなのでした。

「文学賞はおおむね作品に授賞することを趣旨とするが、このところは作品が挙げられておりながら、その作よりも作者への授賞かといった感じが伴う場合が少なくない。一種の年期賞・努力賞のようなものもあってわるいわけではないが、どこか合点がいかない印象がのこることもある。文学賞検討がある程度心がけられてしかるべきかといった思いもする。文学賞の在りかたについてはこれまでにもいくつかの検討があって、それぞれに教えられるところもある。そこでそれらをも含めて各種文学賞に関してこれまでのところをふりかえり、いくぶんの意見をも添えようというのが、この小連載のおおよその見当である。」(「文学賞物語(1) 文学賞の数と質」より)

 その心構えに問題はまったくありません。いいでしょう。ガンガンやってください。

 しかしあなた、どんな文学賞話が飛び出すかとワクワクして第二回目を読んだ直木賞愛好家はドギモを抜かれます。出てくるサンプルは、芥川賞オンパレード。あ、この人、直木賞のことなど端から捨てているんだな、とバレバレだからです。

「文学賞選考委員の選任にあたってはそれ相当の配慮が要請される。その要は権威を保ち、かつ公平を期する構成に帰着しよう。現在の芥川賞選考委員の構成にもそのさまざまな配慮のほどがうかがわれる。しかもなおこの顔ぶれは芥川賞選考委員としてだけ文学賞の選考にたずさわっている人びとではない。この種の問題がここに一つ出てくるかと思われる。戦後、漸次文学賞の数がいやましにふえたことで兼任選考委員もまたすこぶる多いのである。権威保持に走って、その結果、公平路線の混乱は果たしてもたらされなかっただろうか。」(「文学賞物語(2) 選考委員の問題」より)

 この先、えんえんと芥川賞のハナシばっかりしています。さすが保昌さんのことだけはあって、芥川賞委員だった横光利一のことを持ち出してきて、どうのこうのと解説してくれます。直木賞ファン、おいてけぼりです。

 そのうえ、最後のほうでチラッと直木賞に触れる文章が、こんなかたちで書かれてしまっては、直木賞ファンが怒り出すのも無理ないでしょう。

「文芸春秋主催の文学賞の一つに文学界新人賞がある。(引用者中略)これらの作家・作品(引用者注:文學界新人賞をとった作家・作品)は芥川賞、ないしは直木賞を受けるか、あるいは有力候補に推されるかしている。つまり文学界新人賞は結果として芥川賞・直木賞の第一次審査の場としてあった形である。」(同)

 そこまで何ひとつ直木賞に筆を費やしてこなかった保昌さんが、唐突に直木賞を出してきています。直木賞だけの性質や歴史を、何ら考慮に入れずに「芥川賞・直木賞」と併記するこのやり方。当時、夜道を歩く保昌さんの背中を、街じゅうの直木賞ファンがナイフを手に狙っていた、というウワサもうなずけるものがあります。

 全国の直木賞ファンから脅迫状の類いがわんさか届いたはずの保昌さん、連載第三回になっても筋を曲げませんでした。文学賞に落選した候補作家の逸話を、さまざま紹介してくれているんですが、高見順の『文学随感』所載の「文学賞小論」で半分くらいの原稿を稼ぎ、そのあとも芥川賞の話題に終始。この号が発売されたあと、「ちょっとは徳川夢声宇井無愁長谷川幸延とかのエピソードを挿し込め!」っていうプラカードを手にもった群集が、保昌家のまわりを取り囲んだとか、取り囲まなかったとか。

 おそらく保昌さんも、世間の声に抗えなくなって妥協点を探し(……つうのはワタクシの妄想ですよ)、連載最終回で「芥川賞と直木賞のあいだ」を取り上げるに至りました。

 冒頭で、大佛次郎さんが井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』を推奨した理由、つまり直木賞は、いわゆる大衆文学を対象にするのではなく、伝記や報道記事などからも採り入れたい、と書いた文章を引用しています。

 それなのに、けっきょく視点の重きは、芥川賞の側に置かれたままです。

「直木賞受賞者一覧で昭和十年代(自第一回至十九回)の受賞者・受賞作を見わたした場合には芥川賞へ振り替わって行きそうなものはほとんど見あたらないが、いっぽう芥川賞一覧でその時期(自昭和十年至十九年)をみると、直木賞であってもよかったような作品もまじっていないではない」「「純文学」、「大衆文学」の別が相当きびしかったかのようである、その当時ではあったが、二、三十年もたってみると、それもずいぶんあいまいな感じである。しかも、「純文学」の、新人賞の受賞作について、この感じがつきまとうというところになおのことの問題がある。」(「文学賞物語(4) 芥川賞と直木賞のあいだ」より)

 そうですか? 「直木賞であってもよかったような」とか、直木賞をずいぶん舐め切っていませんか。じっさい、直木賞は戦前から舐められていたのは事実ですけども。

 まあ、保昌さんも文学賞の話題なんて、文芸の本筋から外れた余興だし、この連載にしてもあまり乗り気でなかったのかもしれません。ああ、文芸に専心する人が語る直木賞は、こうも情けなくて面白みがなく、悲惨な境遇におかれるものなのか、と気づかされる好連載だったと思います。

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2012年9月 9日 (日)

植田康夫(『週刊読書人』編集者) 直木賞・芥川賞とひと口に言っても、本の売れ方、全然違うんですよね。

植田康夫(うえだ・やすお)

  • 昭和14年/1939年8月26日生まれ(現在73歳)。
  • 昭和37年/1962年(22歳)上智大学文学部新聞学科卒。読書人に入社し、『週刊読書人』編集部在籍。
  • 昭和43年/1968年(29歳)初の著書『現代マスコミ・スター――時代に挑戦する6人の男』を刊行。
  • 平成1年/1989年(49歳)読書人を退社、上智大学文学部新聞学科の助教授となる(平成3年/1991年~平成20年/2008年まで教授)

 もしかして、出版研究の世界からなら、植田康夫さんじゃなくて、お仲間の塩澤実信さんや清田義昭さんのほうが、ここで取り上げるにふさわしい人物かもしれません。ただ、植田さんも相当、直木賞との関わりが深かった方です。そして直木賞の盛り上げに一役買ってくれました。

 と言いますのも。

 植田さんはこれまで、数々の著書を世に問い、大学教授だの、学会会長だの、お偉い地位を築くまでになりましたが、若き時分は一介の書評紙編集者。単なる本好きの裏方に徹することに飽き足らず、ぐいぐい前に出ていく行動派の植田さんが、まず最初に上梓した本は、6人の人物や時代風俗に取材したルポ物でした。

 『現代マスコミ・スター――時代に挑戦する6人の男』(昭和43年/1968年12月・文研出版刊)です。

「この本はあまりに巨大化したマスコミ機構のなかで、“一匹狼”として自己の最大限の力をふりしぼり、果敢なる挑戦をつづける六人の猛烈な男たちの人間ドラマを再現しながら、マスコミのヒーローと呼ばれる情報社会の演出者たちのシークレットな面を伝える一編の“インサイド・レポート”なのである。」(同書「プロローグ」より)

 その6人とは、いずみたく、五木寛之、永六輔、梶山季之、草柳大蔵、野坂昭如

 どうですか。直木賞受賞者が2人、候補者が1人含まれています。とくに受賞者の五木さんと野坂さんについては、表舞台への登場シーンにガッツリ直木賞が関与していたものですから、植田さん、おのずと直木賞に向き合わざるを得ませんでした。

 結果、この書の冒頭部、プロローグは野坂さんが直木賞を受賞する場面から書き起こされています。

「彼は、これまで黒メガネで、ヌーッとテレビのブラウン管に現われ、早口で、世のヒンシュクを買うような意見をぶちまけるマスコミ・タレントであった。そして、その反応を楽しみながら、「おれはプレイ・ボーイだ」などとうそぶき、適当にポーカー・フェイスを装っていた。そのポーズが良識家には、たまらない嫌悪を感じさせたことも事実である。

 そんな野坂が、直木賞という文壇における市民権を得たのだからおもしろい。」(同書「プロローグ」より)

 ええ、おもしろいといえば、当時の人が、イカガワシイ野坂なにがしが、権威の象徴たる直木賞をとるとは何とおもしろい、と感じていたこそがおもしろいのです。それはもう、コピーライター上がりのネエちゃんがついに直木賞をとった!とか、少女小説レーベルの書き手が続々と直木賞をとる世の中!とか、エロゲーライター&ラノベ作家が直木賞だってよ!とか、〈直木賞を何かエラいものと見なし、そこに至る登頂ルート〉を思い描いてしまう思考が、70年代にもしっかり存在していた、っていう時代の証言と受け取るべきでしょう。

 その意味で、植田さんがかつてやっていたライター仕事は、貴重なんだよなあ、と思わざるを得ません。とくに、直木賞にばかり目がいくワタクシのように者にとっては。

 植田さんの第二著書も、やはり直木賞に関連したものでした。『白夜の旅人 五木寛之』(昭和47年/1972年3月・大成出版社刊)です。

 これは『現代マスコミ・スター』のなかで取り上げた一人、五木寛之さんのことを集中して描いたもので、時も時、五木さんが昭和46年/1971年に「休筆宣言」をして話題になったことを受けて書籍化にいたったようです。植田さんの証言によれば、五木さんの休筆宣言は、文壇をにぎわせたこと三島由紀夫自決以来だった、とのことで。

「五木の“休筆宣言”ぐらい、最近の文壇をにぎわしたニュースも珍しい。大げさにいえば、一昨年の三島由紀夫の自決以来のことかもしれない。そのうえ、他の作家に与えた影響も大きかった。

 というのは、五木の“休筆宣言”以後、これにならう作家が続々とあらわれたからである。」(同書「プロローグ」より)

 五木さんの直木賞がいかにインパクトをもたらしたか、についての植田さんの同時代証言は、「第4章 華々しきデビュー」にまとめられています。いやあ、これほど受賞→即流行作家の事例を間ぢかに見ちゃうと、そりゃあ直木賞ってバカにできないんだな(そして、あの当時の直木賞は、よかったな)と思わされるのも、無理ないかもしれません。

「五木の受賞を発表した日、柴田錬三郎はマスコミ関係者に、「どうか、五木君の才能を食い荒さないでほしい」と頼んだくらいである。しかし、そうはいっても、本来人気作家の素質をもった五木を、マスコミが放っておくわけがない。(引用者中略)

 適度にニヒルで男っぽい美男子である五木は、石原慎太郎と並んで、文壇ではもっとも鑑賞価値のある作家だが、それだけに、マスコミにとっては、もっとも話題にしやすい作家である。

 そもそも、作家をこのように一種のスター扱いする風潮は、昭和三十一年に芥川賞を受賞した石原慎太郎以来のことだが、あれから、ちょうど十年たった時点で、文壇はまた、一人のスターを生んだのである。」(同書より)

 ワタクシなんぞはどうしても、直木賞受賞者といっても、地味で光が当たらない、ワーキャー騒がれないような人物に興味が走ってしまいます。そのため、五木さんの受賞シーンには、あまり心ひかれず、このブログでも取り上げてきませんでした。

 植田さんは違います。ライター時代の植田さんは、とにかく五木寛之のオッカケでした(たぶん)。なぜ五木は人気があるのか、なぜ五木は売れるのか、と突っ込んでいきました。

 ご存じのとおり五木さんは、その後もベストセラーを何冊も生み出し続けながら、いまも現役、売れっ子作家の様相を呈したまま、厳然とそこに立っています。そうすると、ワタクシみたいな、表層に視線をとらわれる人間は、いまある五木さんからの類推で、直木賞受賞者・五木寛之のことを考えてしてしまいがちです。思い込みとかで。

 華やかに誕生して日の浅い作家にも目を配る、植田さんのような方がいてくれて、まったく助かります。

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2012年9月 2日 (日)

上林吾郎(『文學界』編集長→『オール讀物』編集長) 直木賞や芥川賞を狙える作家を発掘して育てるために、公募の新人賞を創設。

上林吾郎(かんばやし・ごろう)

  • 大正3年/1914年7月30日生まれ、平成13年/2001年6月21日没(86歳)。
  • 昭和14年/1939年(24歳)文藝春秋社入社。
  • 昭和21年/1946年(32歳)復員後、文藝春秋新社に復社。以後、『文學界』編集長(昭和24年/1949年)、『オール讀物』編集長(昭和25年/1950年~昭和28年/1953年)、『文藝春秋』編集長(昭和29年/1954年~昭和31年/1956年)を歴任。
  • 昭和34年/1959年(44歳)『週刊文春』創刊、初代編集長となる。
  • 昭和59年/1984年(69歳)文藝春秋社長に就任(昭和63年/1988年まで)。

 しばらく文春関係者をスルーしていたので、この辺でおひとり。上林吾郎さんです。

 戦前、文春にゴロゴロいた縁故入社のうちのひとり。戦後、立ち直る同社を支え、ついでに直木賞と芥川賞の盛り上がりを長きにわたって守りつづけ、ついには社長にまで上り詰めてしまった、そんなお方です。

 まあ、上林さんの場合も、直木賞よりは芥川賞関係のエピソードのほうが豊富だったりします。仕方がありません。まずは芥川賞系のおハナシから。

 上林さんの名前が、芥川賞史に登場するのは、第22回(昭和24年/1949年下半期)からとなります。流れ流れてきた井上靖さんの持ち込み原稿「猟銃」と「闘牛」を拾い上げて、『文學界』の誌面を提供し、芥川賞まで取らせてしまった人として、です。

 井上さんの「闘牛」は、昭和22年/1947年に鎌倉文庫『人間』の第1回新人小説賞に投じられて選外佳作となったもの。「猟銃」は翌昭和23年/1948年の第2回に応募したもので、こちらは落選しました。

 その後、井上さんは秋永芳郎さんの紹介で、『日本小説』編集者の和田芳恵さんと会い、「闘牛」を預けます。しかし『日本小説』がつぶれてしまったことでお蔵入り。いっぽう「猟銃」のほうは、井上さんの毎日新聞の同僚が佐藤春夫さんと面識があった関係で、佐藤さんのもとに渡ります。

 佐藤さん、大層気に入り、これを『苦楽』を出していた大佛次郎さんに托します。大佛さんは、『苦楽』向きじゃないなあと思って、また別の人の手に渡す……、とある意味、たらし回しの運命をたどって、上林さんのところにやってきたのでした。

「当時、文藝春秋新社の「文學界」編集長は上林吾郎であった。上林は復員以来、北鎌倉に住んでいたが、出社前によく鎌倉在住の作家回りをした。夏のある朝、いつものように大佛邸へ立ち寄ると、「猟銃」の原稿一篇を託された。」(平成10年/1998年12月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇栄華物語』より)

 それで、大村さんの文によると、上林さんはこれを読んで「たとえようのない酩酊感に浸った」と。まだ当時の『文學界』は、名目上、同人組織が残っていたので、同人の今日出海や亀井勝一郎、神西清にも読んでもらった上で、「猟銃」を昭和24年/1949年10月号にてお披露目、となったわけでした。

 なにしろ、このころの芥川賞は、『文學界』掲載作だからといって候補になるような時代ではありませんでした。そこに10月号「猟銃」、12月号「闘牛」と間髪入れずに井上さんを採用し、芥川賞の予選を通過させてしまった上林吾郎さんの手腕なくして、戦後のニュースター(?)井上靖の登場はあり得なかった、と言えましょう。

 あるいは、もうひとり、文壇登場シーンに、よく上林さんの名前が出てくる作家がいます。松本清張さんです。

 これも清張文献にはいろいろ書かれている場面なので、とりあえず大村彦次郎さんの本から引用します。第25回(昭和26年/1951年上半期)の直木賞に「西郷札」が候補になった清張さんは、『オール讀物』編集部から他に原稿が書けたら見せてほしい、と連絡を受けます。

 ここがチャンスと清張さんは俄然奮起。昭和26年/1951年夏から昭和27年/1952年春にかけて「権妻」「行雲の涯て」「啾啾吟」を書いて提出します。……しかし、編集部から採用の報は届きませんでした。このときの『オール讀物』で編集長をしていたのが上林吾郎さんでした。

 「啾啾吟」はいきなり掲載されることなく、1年近くたって、なぜか第1回オール新人杯の最終候補作にされてしまいます。

(引用者注:昭和28年/1953年正月)小倉の自宅へ戻ると、「オール讀物」から電報が届いていた。編集長の上林名で今度、「オール讀物新人杯」(原文ママ)を新設するに当たり、松本の「啾啾吟」を最終候補作に繰り入れるが、異存はないか、という内容であった。勿論、当選の暁は、お受けする、と返電した。

 新人から送られてきた原稿は、たとえ出来がよくても、そのまま商業誌に掲載するのはネーム・ヴァリューに欠ける。いっそ新人賞のふるいにかけ、当選してから発表しても遅くはない、という考えが編集部側にはあった。」(同書より)

 ええ、そりゃそうでしょう。でも、この先どうなるかわからない新人賞創設の段階で、ほんとうにここまで考えたのかは不明です。

 いろいろあった挙句、清張さんは最終的に第28回(昭和27年/1952年下半期)芥川賞を受けました。オール新人杯の最終候補に入った直後の、昭和28年/1953年1月のことでした。上林さんが、この男使えると見込んで、バンバン『オール讀物』に登場させていたら、果たして清張さんの芥川賞受賞はなかったに違いないよなあ、と思わせてくれます。

 ……というか、松本清張の直木賞受賞、っていう至極自然な光景が見られることになっただけかもしれないですけど。

 それはそれとして、直木賞における「オール新人杯」(いまのオール讀物新人賞)の役割、ってやつは、以前ちらっと書いたことがありますが、そりゃもう革命的でした。新人賞ができる前までは、『オール讀物』から直木賞候補に選ばれるのは、たいてい中堅どころで、清張さんや柴田錬三郎さんが新人の割り込むスキもない、と嘆いたのも当然、といった状況でした。

 たとえば今日出海さんは第23回(昭和25年/1950年上半期)の直木賞受賞者です。受賞作「天皇の帽子」は『オール讀物』に載ったものです。今さんといえば、当時すでに新人と呼ぶのは憚られるほどの文壇人で、上林さんとのお付き合いのなかで、この作品は生まれたそうです。

上林 そのころ(引用者注:終戦後)は大仏邸の横におられたんでしょう。

 あの家は弟に売っちゃってたので、僕は弟の同居人だったんですよ。だから、ぼくがあの家で建てたのは書斎だけなんだけれども……。

上林 玄関を入った左のほうのところが、今さんの部屋でしたね。あそこで「天皇の帽子」というのができたんでしたね。

 書かせたのは君じゃないか。

上林 ぼくももう「オール」の編集長をしていたんですね。

 していましたよ。

上林 今さんは原稿を書かれると早かったですね。だけど、わりと面倒くさがりでしょう。全部読み返しをされないんで、スーッと書かれたのを、そのまま持って行ったんですよ。」(『新刊展望』昭和48年/1973年4月号 今日出海、上林吾郎「対談 池島信平氏を偲んで」より)

 昭和28年/1953年に新人杯ができてからは、それを受賞した新人が、続々と直木賞の場に送り込まれていくようになります。これにより、文藝春秋新社は、自社の雑誌から直木賞までのルートを築きあげることができたわけですから、新人杯の創設時に『オール讀物』を仕切っていた上林吾郎さんの功績を、無視することはできません。

 結果的に、そのあとにできた文學界新人賞も、芥川賞のほうで同じような役割を果たすことになるわけですし。

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