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2012年8月19日 (日)

武蔵野次郎(大衆文芸評論家) 直木賞のことを温かい目で見守ってくれた、大衆文学研究界の良心。

武蔵野次郎(むさしの・じろう)

  • 大正10年/1921年3月14日生まれ、平成9年/1997年7月9日没(76歳)。
  • 昭和18年/1943年(22歳)早稲田大学法学部を繰り上げ卒業。軍隊に入隊。
  • 昭和25年/1950年(29歳)主婦の友社に入社し、編集者として勤務(昭和36年/1961年まで)。
  • 昭和35年/1960年(39歳)より『代表作時代小説』(日本文芸家協会・編)の編纂委員に加わる。

 〈大衆文学研究〉の巨人はたくさんいます。それら何人かは、今後このブログで取り上げる予定ですが、まずはこの方。武蔵野次郎さん。ひと呼んで「空気のような男」。

 ……と、誰が呼んだかは詳細不明です。しかし、あなた。武蔵野さんって、ご存じですか。昭和20年代後半から大衆文壇に関わりを持ち、以来ン十年。

 時代小説を語らせたらこの人、と思われた時期もありました。いや、現代小説だってドンと来い、と胸を叩きます。推理小説も大好きで、いっときは日本推理作家協会賞の予選委員をやっていました。SF小説が来ても、臆せずバンバン語っちゃいます。この定見なき幅広さこそ武蔵野さんの身上です。

 いや。武蔵野さんの特徴といえば、やっぱりコレでしょう。ともかく褒めること。

 大量の小説を読み、大量の原稿依頼をこなし、さらさらと流れるような筆致で、カドの立たない、そよ風のごとき作家評・小説評を延々と書きつづけました。大衆文学研究界の良心、と言ってもいいような人でした。

「月に百数十冊の単行本と月刊週刊雑誌を、「どんなつまらないのでも最後まで」読破し、あえて駄(だ)作という評は発しない。」(『読売新聞』昭和56年/1981年2月20日夕刊 「顔 武蔵野次郎 着流し“活人筆法”」より ―署名:(広))

 大衆文芸の魅力を伝えようと、昔の作品から新刊の紹介文まで、さまざまな媒体に書きに書きまくりました。

 武蔵野さん自身、大衆文芸全般を語るに、こんな表現を使ったことがあります。

「現在の中間小説〈戦前からの一般的通念としての大衆文芸〉というものが、(引用者中略)娯楽物の通弊として、ほとんどが読み捨て、つまり消耗品としての運命に残念ながら置かれているというあたりも否めないところだろう。」(昭和55年/1980年8月・角川書店刊 武蔵野次郎・著『流行作家・その創造の世界』「あとがき」より)

 そう。大衆文芸はたいがい読み捨てられます。さらっと読んでさらっと終わり。後に残りません。

 まさに。武蔵野さん自身の仕事の数々も、そんな大衆文芸の運命を地で行っているという! 敬服してしまいます。あまりに大衆文芸が好きすぎて、あえて自分がそうなることを厭わなかったのでしょう。すげえ人だ。

 で、大衆文芸を長いこと見続けた方でした。つまり直木賞の歴史の多くに寄り添って、同時代人として生きた、ってことでもあります。

 こういう方の語る直木賞は、まじに貴重なわけですが、そこはそれ武蔵野さんです、期待を裏切りません。まったくもって平穏で波風の立たない、ちょっと角度をズラせばクソ面白くない、と受け取られかねないギリギリの直木賞観を、淡々と書きつづってくれるのです。

第九十回〈昭和五十八年下期〉直木賞は、神吉拓郎の『私生活』(文藝春秋刊)と、高橋治の『秘伝』(講談社刊)の二篇同時受賞となり、その受賞パーティーも華々しく行われ、この文学賞に関する話題はますます盛んになった観がある。近年は二者受賞というケースがよく見られるが、それだけ実力派の新人作家が輩出しているということでもあろうか。今回の前の例では、第八十七回〈昭和五十七年上期〉の直木賞が、深田祐介(受賞作『炎熱商人』)と村松友視(同『時代屋の女房』)の二人、第八十六回〈昭和五十六年下期〉直木賞が、つかこうへい(同『蒲田行進曲』)と光岡明(同『機雷』)の二人が受賞しているという具合に、この例は多くなっている。

 直木賞の受賞作家は、受賞後は中間小説(大衆文芸)の分野において専門作家として、旺盛な創作活動を行うというのが、従来のパターンとなっているだけに、二人の同時受賞者を選出できたほうが、中間小説界にとっては歓迎されることかも知れない。」(平成1年/1989年9月・PHP研究所/PHP文庫 武蔵野次郎・著『わが思い出のヒーローたち 大衆文芸の昭和史』「第三章 芝居と映画と小説と…」より)

 ううむ。肯定的な面のみを見ようとする姿勢が、まざまざ感じられる老練の文章ではないですか。……ええと、だれですか、そこでアクビをしている人は。

 とにもかくにも、健全と言いましょうか、平和的と言いましょうか。酸いも甘いもかみ分けた好々爺から、日なたの縁側でお話を聞いている感じ。

「従来の文壇における評価では、SFは食わずぎらいの傾向にあり、多分に偏見視されていたということも否定できない。現にこのことは、これまでもたびたび直木賞の候補にあがったSF作品に対する権威ある選考委員連の選後評に徴してみても、容易に分かることであった。SF作家とその作品では、直木賞を受賞するという例はなかったことも事実である〈SF作家では始めて半村良第七十二回(昭49下)直木賞を短篇「雨やどり」で受賞したが、受賞作は現代風俗小説として優れた短篇であり、SFではなかった〉。しかし、そういた片寄った文壇的風潮も、近ごろでは大分変化してきているというのも事実だから、SFが文学賞の対象になって広く話題をよぶことも十分に期待できるのではなかろうか。」(前掲『流行作家・その創造の世界』「第二部 作品論 3 SF」より)

 どうですか。どこかで聞いたことがあると思わずにはいられない王道な説を、きちんと語ってくれる、この親切心。文壇=権威ある選考委員たち=直木賞、という枠組みを下敷きにするなんざ、ある意味予定調和と言っていい、だれもが安心して親しめるストーリー展開ですものね。

 ワタクシはだいたい脇が甘いので、定説というか、基礎的な前提をすっ飛ばして、奇をてらった直木賞観に飛びつく傾向があります。その意味で、武蔵野さんのような人が、静かに穏やかに、どっしりと構えて、まっすぐと直木賞を語りつづけてくれた。そのことに畏敬の念をいだきます。

 武蔵野さんは、どんな作家に対しても、常にあたたかい。その考えを推し進めれば、「直木賞なんか、作家や作品の評価で決まらないこともあるわけだし、受賞しようがしまいが、関係ないじゃん」みたいな境地に行ってもおかしくありません。しかし武蔵野さんは違う。直木賞のようなバカにされがちな文学賞すら、持ち上げてくれるのです。

五木寛之第五十六回〈昭和四十一年下期〉直木賞を『蒼ざめた馬を見よ』をもって受賞したとき、この第五十六回の候補作に陳舜臣早乙女貢の作品もノミネートされていた。錚々たる候補者の新人(当時の)作家連がそろっていたことにも思い出深いものがある。(引用者中略)

 第五十六回直木賞受賞は逃がしたけれども、それから四回のち(ということは二年のちのこと)の第六十回〈昭和四十三年下期〉直木賞を、陳舜臣(受賞作『青玉獅子香炉』)と早乙女貢(受賞作『僑人の檻』)の両氏がそろって受賞していることも喜ばしいことであった。一、二度受賞のチャンスを逸しても、それに少しもめげずに精進努力をつみ重ねることが、新人作家にとって何よりも大切なことを、陳・早乙女両氏の受賞は物語っている。」(前掲『わが思い出のヒーローたち』「第四章 人と人との出合いの妙」より)

 ここで、第56回で候補になっていた田中阿里子河村健太郎はその後……などとイヤミを吐いたりしないところが、ムサ爺の素晴らしさです。

 何度も候補になったあとに受賞した人をみて、「少しもめげずに精進努力をつみ重ねることが大切」などという、ナニゲない、毒にも薬にもならないような教訓を導きだすところ。ほんともう、ワタクシ、脱帽します。

          ○

 前節で何度か引用しました『わが思い出のヒーローたち』は、昭和60年/1985年3月・六興出版刊『かつてヒーローがいた』の改題版です。志村有弘さんはこう指摘します。

「『わが思い出のヒーローたち』は、随所に武蔵野自身のことも記されていて、武蔵野の道程を知るうえで貴重である。」(平成22年/2010年3月・勉誠出版刊『福岡県文学事典』「第三部 福岡の作家」より ―執筆担当:志村有弘)

 そうです。貴重です。武蔵野さんと直木賞との関わりも、ふんだんに収められています。

 たとえば、先に五木寛之さん受賞の第56回(昭和41年/1966年下半期)の部分を紹介しました。そこには、こんなエピソードが差し挟まれています。

「このこと(引用者注:第56回直木賞)については記憶に今もって鮮明なものがあるというのも、当時から早くもテレビの報道には活発なものがあり、各候補者の家には、それぞれテレビ報道陣が派遣されており、受賞、非受賞を問わずにそれだけの用意がなされていたのである。

 そこで候補者の一人にあげられていた早乙女貢より依頼があって、早乙女氏のお宅にきて待っていてくれないかということであったが、そういう晴れがましい(テレビに顔が出るような)場所に並ぶことは、あまり好きではないので、そのさいの早乙女氏のお宅は訪問しなかったのである。」(同)

 常人の感覚であれば、「受賞するか落選するかの瞬間をカメラに収めようだなんて悪趣味だな」とか、「たかが直木賞のことで、大のオトナたちがよってたかって候補者の家に押し寄せる。キショい」とか、そう付け加えたくなるでしょうが、ムサ爺は、そんな野暮なことは申しません。

「近ごろの直木賞・芥川賞に対する社会的関心は、ますます大きなものになっており、テレビによる報道などの昔はなかった速報性もあって、この文学賞に対する一般の関心は大きなものになっている。」(同)

 と、サラーッと流して澄ましているのです。ゴタゴタした周辺事項を含めての直木賞を、あたたかく見守ってくれる包容力、っつうんですか。

 あるいは、すべて世の中のことは自分ひとりがどんな意見を発したって、何も変わりゃしないんだから、あるがままを見て生きていくほかない、みたいな達観なのかもしれません。

 古く武蔵野さんが直木賞受賞を見届けた作家に、伊藤桂一さんがいます。尾崎秀樹さんの紹介で出会ったのが昭和34年/1959年か昭和35年/1960年ごろ。その一、二年後に、伊藤さんは直木賞を受賞しました。第46回(昭和36年/1961年下半期)のことでした。

 武蔵野さんの伊藤桂一観(というか直木賞受賞者としての伊藤桂一観)も、またまた、ドギモを抜くような結果論に包まれています。

「伊藤作品の初期を代表する兵隊小説の数篇は、何度も芥川賞の候補作に挙げられていたという実績を重ねていたのだが、芥川賞のほうではなくて直木賞を受賞するにいたった経緯にも興味をひくものがある。というのもそれ以後の伊藤桂一の作家活動を眺めてみても、前記のとおりに、その創作の幅も広く、いかにも直木賞作家にふさわしい観があるからである。」(同書「第二章 絢爛たる物語の魅力」より)

 えっ、芥川賞受賞者だって創作の幅が広い人たくさんいるじゃん、などというツッコミは無用です。武蔵野さんは、そんな無粋なことを言って、世間一般に流布する直木賞や芥川賞のイメージを壊すようなことはしません。いちいち尖った異論を吐かないところが、武蔵野さんの安定感を生み出しています。

 そんな武蔵野さんが、直木賞にどんなことを期待していたか。80年代初頭のころの対談で、直木賞に注文をつけている箇所があります。拝聴いたしましょう。

武蔵野 中間小説のほうでは何と言っても直木賞をみんな目指している。が、今の選者では時代物の作家はますます出にくくなる。伝奇物の人も直木賞もらえなくなったですよね。ぼくらの希望としては有明夏夫とか、時代物じゃないけど今度直木賞もらった志茂田景樹とか、ああいういわゆるフィクション作品の得意な作家がもっとたくさん出てくるといいと思う。津本陽も賞もらった以後のほうがはるかにいい。」(『サンデー毎日』昭和56年/1981年1月25日号 武蔵野次郎、小川和佑「文芸対談 日本の文学'81年の行方は?」より)

 「ぼくら」って、誰と誰と誰のことなんだ!と興味がわいてくるところではありますが、それとはそれとして。

 「出る」という表現が、「受賞者が出る」ってことなのか、「世に出る」って意味なのか、ちょっと判じづらい発言ではありますが、どうやら後者の意識が強いように思えます。80年代になってもなお、まだまだ「直木賞受賞=世に出る」といった枠組みで話をする武蔵野さんみたいな人がいたのだなあ、と。

 ほんとに興味ぶかくて、印象ぶかくて、そして感慨ぶかいものがあります。

 ……と、武蔵野さんの姿勢をよく表わす、こんな武蔵野ブシを借用して、当エントリーを締めさせてもらいたいと思います。

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