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2012年8月の4件の記事

2012年8月26日 (日)

山本容朗(文芸評論家) 1970年代、批判を受けつつ、それでも直木賞の予想や下馬評記事を書きつづけた。

山本容朗(やまもと・ようろう)

  • 昭和5年/1930年4月20日生まれ(現在82歳)。
  • 昭和29年/1954年(23歳)國學院大學文学部国文科卒。前年秋ごろから編集業を始め、角川書店入社。
  • 昭和38年/1963年(33歳)『週刊朝日』ゴシップページ「カクテル・パーティ」を、十返肇の代理で執筆。
  • 昭和40年/1965年(34歳)角川書店退社。文筆業に就く。
  • 昭和45年/1970年(39歳)ごろから約10年間、『報知新聞』で直木賞・芥川賞の予想を担当。

 山本容朗さんのことを「文芸評論家」などと呼ぶのは、背中がこそばゆくて仕方ないのです。ワタクシにとっての容朗さんは、そんなジャンルの人ではありません。

 はっきり言いましょう。容朗さんにいちばんピッタリくる肩書きは「文壇ゴシップライター」だと思います。そして、70年代から80年代には、直木賞・芥川賞を語らせるならこの人、っていうぐらいの圧倒的な地位を築き上げました。

「この十年来、いつの間にか私は芥川・直木賞の前になると、この賞の予想をすることになってしまった。不断から小説は、わりと愉しみとして読んでいるが、「オール讀物」で『雨やどり』を読んだ時「今度の(引用者注:第72回 昭和49年/1974年下半期)直木賞はこれで決まり」と、確信した。毎回、文藝春秋からくるアンケートにはもちろん、「雨やどり」と書いたし、予想もその通り書いた。」(昭和57年/1982年9月・文化出版局刊 山本容朗・著『作家の人名簿』所収「半村良」より)

 編集者時代からの人脈を生かして、作家たちの裏バナシを蒐集。フリーとなってからも、酒飲み仲間を中心に、広い交友関係を保つ。文壇内の話題、といえば当然「文学賞」のことは外せず、直木賞・芥川賞の選考会が近づいてくれば、誰が受賞しそうかの下馬評を聞き集め、メディアを通じて発表し、当日には会場の新喜楽まで足を運んで結果を見届ける。……

 直木賞史において、直木賞騒ぎを焚き付けてきた、この人の偉業を忘れるわけにはいかんのです。

 まずは「予想」。1970年代から10年ほど『報知新聞』の予想記事を担当して、直木賞予想文化の発展に尽力してくれました。

「昔、僕は報知新聞で10年くらい芥川賞と直木賞の予想をやってたんだよ。競馬みたいに本命、対抗、穴と並べてね。一部で神聖な文学を競馬みたいにやりおって、と文句がきたけど(笑)。けっこう当たったよ。」(『自由時間』平成8年/1996年7月4日号「直木賞は職業作家としてやっていくための免許状だ。」より ―取材・文:岡崎武志)

 印をつけるだけでなく、予想インタビューなんかも。

第八十二回、私は、候補作を新聞発表で見た時何故か体の力が抜けて淋しい気分になった。それでも、この十年間ほど、この二つの文学賞(引用者注:直木賞と芥川賞)の予想をすることが年の初めの仕事の一つになってしまったので、候補作品を読んだ。そして、ごらんになった方もいると思うけれど、『報知新聞』(一月十四日)にしゃべった。(引用者中略)

『報知新聞』は、私へのインタビューに、

「花も実もある……とはいかぬ」

 と、まことに言いえて妙のタイトルをつけていた。「直木賞は、芸能畑の人たちが進出してきて、話題性、つまり花はあるけれど、実がない。一方、芥川賞。こちらは、花がないし、小ツブだが、実があり」といったようなことをしゃべった。」(昭和55年/1980年11月・潮出版社刊 山本容朗・著『新宿交遊学』所収「芥川賞・直木賞受賞作家点描」より ―初出『週刊小説』昭和55年/1980年2月22日号)

 あるいは、昭和50年/1975年ごろから『週刊読書人』の「文壇レポート」欄で、「芥川・直木賞の季節になると、いつも私の感想をふくめて、下馬評を紹介している」そうです。目にした方はぜひ容朗さんの予想屋ぶりに注目してみてください。

 それと、容朗さんは結果が出た後のフォローも綿密です。

 自分は、誰のどの作品をとると思っていたか、なあんてことも付け加えながら記事を書いたりします。本来は、その作品が実際に受賞したあとだと、いかにもみずからの慧眼ぶりを自慢しているかのようで、ちょっとイヤミです。

 しかし我らが容朗さんは、そんなことは気にしません。直木賞大好き精神が、他人にどう思われるかなどという心配を上まわって、どんどん直木賞バナシを繰り出してくれます。嬉しいぞ。

「『斬』の連載は昭和四十六年の二月号から一年間だった。私は当時、吉岡(引用者注:吉岡達夫)とよく会う機会があって、一、二回を読んだ時、彼に「ツナさん(引用者注:綱淵謙錠はこれで直木賞をとれるでしょう」と言ったことがあった。」(前掲『作家の人名簿』所収「綱淵謙錠」より)

「五月中旬になると、文藝春秋のなかの日本文学振興会から「芥川賞・直木賞」のアンケートの封書がとどく。選考会は七月のはずだ。直木賞には迷うことなく、この向田(引用者注:向田邦子さんの「あ・うん」に一票を投じた。」(同書所収「向田邦子」より)

「今回(引用者注:第80回の直木賞は、虫明亜呂無『シャガールの馬』と、宮尾登美子が、巷の噂で、有力だった。私は、その有力説に少し水をさし、有明夏夫が面白かったと、書いた。だが、これとて確信はないとつづけた。

 受賞前に、下馬評を書くことについて批判的な声もないではないが、私は、これも仕事のひとつだと心得ている。

 有明夏夫の下馬評は、上々のものではなかった。私は、聞かれると個人的な趣味だけれどと、前置きして、『大浪花諸人往来』をあげていた。だが、否定する声の方が多かった。」(『文壇百話 続・ここだけの話』「芥川・直木賞」より)

 そうですか。昭和54年/1979年の段階で、賞のまえに予想や下馬評なんぞを書いて、「なーに、文学賞をネタにして〈評論家〉ヅラしてるあのオジサン、気持ちわるーい」と白い眼で見られていたのですね、容朗さん。同情申し上げます。しかし、そんな良識派の視線を気にしつつ、直木賞スポークスマンの姿を守りつづけた、あなたの姿に、ワタクシは感動すら覚えてしまうのです。

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2012年8月19日 (日)

武蔵野次郎(大衆文芸評論家) 直木賞のことを温かい目で見守ってくれた、大衆文学研究界の良心。

武蔵野次郎(むさしの・じろう)

  • 大正10年/1921年3月14日生まれ、平成9年/1997年7月9日没(76歳)。
  • 昭和18年/1943年(22歳)早稲田大学法学部を繰り上げ卒業。軍隊に入隊。
  • 昭和25年/1950年(29歳)主婦の友社に入社し、編集者として勤務(昭和36年/1961年まで)。
  • 昭和35年/1960年(39歳)より『代表作時代小説』(日本文芸家協会・編)の編纂委員に加わる。

 〈大衆文学研究〉の巨人はたくさんいます。それら何人かは、今後このブログで取り上げる予定ですが、まずはこの方。武蔵野次郎さん。ひと呼んで「空気のような男」。

 ……と、誰が呼んだかは詳細不明です。しかし、あなた。武蔵野さんって、ご存じですか。昭和20年代後半から大衆文壇に関わりを持ち、以来ン十年。

 時代小説を語らせたらこの人、と思われた時期もありました。いや、現代小説だってドンと来い、と胸を叩きます。推理小説も大好きで、いっときは日本推理作家協会賞の予選委員をやっていました。SF小説が来ても、臆せずバンバン語っちゃいます。この定見なき幅広さこそ武蔵野さんの身上です。

 いや。武蔵野さんの特徴といえば、やっぱりコレでしょう。ともかく褒めること。

 大量の小説を読み、大量の原稿依頼をこなし、さらさらと流れるような筆致で、カドの立たない、そよ風のごとき作家評・小説評を延々と書きつづけました。大衆文学研究界の良心、と言ってもいいような人でした。

「月に百数十冊の単行本と月刊週刊雑誌を、「どんなつまらないのでも最後まで」読破し、あえて駄(だ)作という評は発しない。」(『読売新聞』昭和56年/1981年2月20日夕刊 「顔 武蔵野次郎 着流し“活人筆法”」より ―署名:(広))

 大衆文芸の魅力を伝えようと、昔の作品から新刊の紹介文まで、さまざまな媒体に書きに書きまくりました。

 武蔵野さん自身、大衆文芸全般を語るに、こんな表現を使ったことがあります。

「現在の中間小説〈戦前からの一般的通念としての大衆文芸〉というものが、(引用者中略)娯楽物の通弊として、ほとんどが読み捨て、つまり消耗品としての運命に残念ながら置かれているというあたりも否めないところだろう。」(昭和55年/1980年8月・角川書店刊 武蔵野次郎・著『流行作家・その創造の世界』「あとがき」より)

 そう。大衆文芸はたいがい読み捨てられます。さらっと読んでさらっと終わり。後に残りません。

 まさに。武蔵野さん自身の仕事の数々も、そんな大衆文芸の運命を地で行っているという! 敬服してしまいます。あまりに大衆文芸が好きすぎて、あえて自分がそうなることを厭わなかったのでしょう。すげえ人だ。

 で、大衆文芸を長いこと見続けた方でした。つまり直木賞の歴史の多くに寄り添って、同時代人として生きた、ってことでもあります。

 こういう方の語る直木賞は、まじに貴重なわけですが、そこはそれ武蔵野さんです、期待を裏切りません。まったくもって平穏で波風の立たない、ちょっと角度をズラせばクソ面白くない、と受け取られかねないギリギリの直木賞観を、淡々と書きつづってくれるのです。

第九十回〈昭和五十八年下期〉直木賞は、神吉拓郎の『私生活』(文藝春秋刊)と、高橋治の『秘伝』(講談社刊)の二篇同時受賞となり、その受賞パーティーも華々しく行われ、この文学賞に関する話題はますます盛んになった観がある。近年は二者受賞というケースがよく見られるが、それだけ実力派の新人作家が輩出しているということでもあろうか。今回の前の例では、第八十七回〈昭和五十七年上期〉の直木賞が、深田祐介(受賞作『炎熱商人』)と村松友視(同『時代屋の女房』)の二人、第八十六回〈昭和五十六年下期〉直木賞が、つかこうへい(同『蒲田行進曲』)と光岡明(同『機雷』)の二人が受賞しているという具合に、この例は多くなっている。

 直木賞の受賞作家は、受賞後は中間小説(大衆文芸)の分野において専門作家として、旺盛な創作活動を行うというのが、従来のパターンとなっているだけに、二人の同時受賞者を選出できたほうが、中間小説界にとっては歓迎されることかも知れない。」(平成1年/1989年9月・PHP研究所/PHP文庫 武蔵野次郎・著『わが思い出のヒーローたち 大衆文芸の昭和史』「第三章 芝居と映画と小説と…」より)

 ううむ。肯定的な面のみを見ようとする姿勢が、まざまざ感じられる老練の文章ではないですか。……ええと、だれですか、そこでアクビをしている人は。

 とにもかくにも、健全と言いましょうか、平和的と言いましょうか。酸いも甘いもかみ分けた好々爺から、日なたの縁側でお話を聞いている感じ。

「従来の文壇における評価では、SFは食わずぎらいの傾向にあり、多分に偏見視されていたということも否定できない。現にこのことは、これまでもたびたび直木賞の候補にあがったSF作品に対する権威ある選考委員連の選後評に徴してみても、容易に分かることであった。SF作家とその作品では、直木賞を受賞するという例はなかったことも事実である〈SF作家では始めて半村良第七十二回(昭49下)直木賞を短篇「雨やどり」で受賞したが、受賞作は現代風俗小説として優れた短篇であり、SFではなかった〉。しかし、そういた片寄った文壇的風潮も、近ごろでは大分変化してきているというのも事実だから、SFが文学賞の対象になって広く話題をよぶことも十分に期待できるのではなかろうか。」(前掲『流行作家・その創造の世界』「第二部 作品論 3 SF」より)

 どうですか。どこかで聞いたことがあると思わずにはいられない王道な説を、きちんと語ってくれる、この親切心。文壇=権威ある選考委員たち=直木賞、という枠組みを下敷きにするなんざ、ある意味予定調和と言っていい、だれもが安心して親しめるストーリー展開ですものね。

 ワタクシはだいたい脇が甘いので、定説というか、基礎的な前提をすっ飛ばして、奇をてらった直木賞観に飛びつく傾向があります。その意味で、武蔵野さんのような人が、静かに穏やかに、どっしりと構えて、まっすぐと直木賞を語りつづけてくれた。そのことに畏敬の念をいだきます。

 武蔵野さんは、どんな作家に対しても、常にあたたかい。その考えを推し進めれば、「直木賞なんか、作家や作品の評価で決まらないこともあるわけだし、受賞しようがしまいが、関係ないじゃん」みたいな境地に行ってもおかしくありません。しかし武蔵野さんは違う。直木賞のようなバカにされがちな文学賞すら、持ち上げてくれるのです。

五木寛之第五十六回〈昭和四十一年下期〉直木賞を『蒼ざめた馬を見よ』をもって受賞したとき、この第五十六回の候補作に陳舜臣早乙女貢の作品もノミネートされていた。錚々たる候補者の新人(当時の)作家連がそろっていたことにも思い出深いものがある。(引用者中略)

 第五十六回直木賞受賞は逃がしたけれども、それから四回のち(ということは二年のちのこと)の第六十回〈昭和四十三年下期〉直木賞を、陳舜臣(受賞作『青玉獅子香炉』)と早乙女貢(受賞作『僑人の檻』)の両氏がそろって受賞していることも喜ばしいことであった。一、二度受賞のチャンスを逸しても、それに少しもめげずに精進努力をつみ重ねることが、新人作家にとって何よりも大切なことを、陳・早乙女両氏の受賞は物語っている。」(前掲『わが思い出のヒーローたち』「第四章 人と人との出合いの妙」より)

 ここで、第56回で候補になっていた田中阿里子河村健太郎はその後……などとイヤミを吐いたりしないところが、ムサ爺の素晴らしさです。

 何度も候補になったあとに受賞した人をみて、「少しもめげずに精進努力をつみ重ねることが大切」などという、ナニゲない、毒にも薬にもならないような教訓を導きだすところ。ほんともう、ワタクシ、脱帽します。

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2012年8月12日 (日)

江戸川乱歩(第一次『大衆文藝』同人、『宝石』編集責任) 直木賞とは何の縁もなさそうに見えて、いや、しっかり足跡を遺す、さすが大乱歩。

江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)

  • 明治27年/1894年10月21日生まれ、昭和40年/1965年7月28日没(70歳)。
  • 大正12年/1923年(28歳)『新青年』掲載の「二銭銅貨」で作家デビュー。
  • 大正14年/1925年(30歳)大衆作家で結成された「二十一日会」に加わる。
  • 昭和22年/1947年(52歳)探偵作家クラブ(現・日本推理作家協会)発足、初代会長となる。
  • 昭和32年/1957年(62歳)『宝石』編集(昭和35年/1960年頃まで)に携わり、私財を投じて立て直しをはかる。

 人は誰でも一度は夢想したことがあると思います。もし若き日の江戸川乱歩が社交的でひと付き合いがよく出たがりだったら、彼の名が直木賞選考委員のなかに加わっていたのではないか、と。

 ……まあ、そんな夢想をするのは廃人寸前の重度な病気だから、早く目を覚まして将来を大事にしたほうがいいですよ。……ええ、そんなこと、言われなくてもわかっていますよ、放っといてください。

 で、江戸川乱歩さんです。大正14年/1925年、鼻息あらい白井喬二が音頭をとって大衆作家による「二十一日会」が発足しようというとき、小酒井不木さんを通じて入会を打診されたものの、ふん、探偵小説は大衆文芸なんぞの一分野じゃないぞ、と仲間に加わるのを躊躇した、あの乱歩さんです。

 小酒井さんから話がきたときに、同人となる予定として乱歩さんに伝えられたメンツは、九人でした。平山蘆江、本山荻舟、白井喬二、国枝史郎、矢田挿雲、長谷川伸、土師清二、直木三十三(のち三十五)、池内祥三……。どこからどう見ても、通俗講談上がりの(おっと失礼)時代作家陣で、そこに小酒井さんが入ってくれるにしても、えー、こんな連中と仲間と思われちゃうのー、いやだなー、と乱歩さん、ややヒいてしまいます。

「私は当時、探偵小説が大衆小説の一部分の如く取扱われることに疑問を持っていた。英米では、探偵小説は広く大衆に理解されているが、日本では、純探偵小説の愛好家というものは、純文学の読者よりももっと少ないように思われた。(引用者中略)もともと純探偵小説は、学問と芸術の混血児の如きもので、純文学でもなければ所謂大衆文学でもない、一種特別の小説形式であり、少なくとも日本ではごく少数の人々にしかわからないのだという一種の勿体付けをして、その稀少性を却って喜んでいたのである。

(引用者中略)

 探偵小説は特殊の文学ジャンルであって、その高さに於て純文学と同位のものもあれば、その面白さに於て大衆文学と同位のものもあり、一概に大衆文芸と極めてしまうことは出来ないという考えを持っていた。まして、大衆文学のほんの片隅の座席を与えられる如きは、最も快しとしないところであった。」(平成18年/2006年1月・光文社/光文社文庫 江戸川乱歩・著『江戸川乱歩全集28巻 探偵小説四十年(上)』「大正十四年」より ―定本『探偵小説四十年』昭和36年/1961年7月・桃源社刊)

 日本の探偵小説はまだ産声を上げたばかりでしたが、大衆文芸のほうだって似たようなもので、軽蔑や誤解を解消しようと、直木さんや白井さんたちが立ち上がろうとしていました。もしも、そこで乱歩さんが本気で握手をし、彼らとともに大衆文芸運動の急先鋒となっていたのなら……。『文藝春秋』の「大衆文芸」枠にももっとたくさん登場したかもしれません。昭和9年/1934年の段階で、「直木三十五と交誼あり、かつ文藝春秋社と関係深き」人リストのなかに、乱歩さんが入っていたとしても、おかしくなかったわけです。

 なにせ乱歩さんは、大正末期からずーっと、探偵小説作家の第一人者と見られていました。じっさい、文春が「権威ある賞」をつくるにあたって、探偵文壇から選考委員を誰かひとり、と考えた場合、乱歩さんを省いて他はいなかったでしょうし。

 直木賞は戦前、20回のうち、たったひとりしか探偵小説家に授賞しませんでした。むろんそれは乱歩さんだけの責任じゃありません。というか、仮にたくさんの作家が直木賞を受賞したとして、だから何なんだ、とも思います。ただ、「探偵文壇から直木賞受賞者は一人だけ」の状況が長らく続いた現実は、多少なりとも、乱歩さんに関係していたんじゃないかな、と。

 その唯一の受賞者、木々高太郎さんが直木賞に選ばれたとき、乱歩さんはどうしたか。純粋に喜んでいます。

「昭和八年頃から日本の探偵小説界に一つの新らしい機運が動きはじめていた。そして、それが九年、十年、十一年と加速度に醞醸されて行って、昭和十二年度には最高潮に達し、翌十三年頃からはやや下降沈滞の趣きを見せているように感じられる。(引用者中略)

 探偵小説界内部に盛り上った力は、遂に文壇全体の認める所となり、広くジャーナリズムの受け入れる所となり、(引用者中略)これら出来事のうちで、最も世間に印象を与え、探偵小説界新人の擡頭を確認せしめ、形としてこの隆盛期の頂点を示したものは、昭和十二年二月、木々高太郎君の直木賞受賞であった。(引用者中略)

 私は当時執筆をつづけていた「探偵春秋」の「蔵の中」という随筆の中に「燃え出でた焔」と「直木賞」の二小文を書いて、ささやかな祝意を表したのであるが、その小文の中に「僕は昨年の初め讀賣文芸欄に探偵文壇の新たなる情熱という一文を書いて、焔は建物の中に燃えている、ただそれが外へ吹き出すまでに至っていないばかりだと云ったが、一年の後、その焔の一つが外へ吹き出したのである」と、私の予測の的中を喜ぶ言葉を書き加えないではいられなかった。」(平成17年/2005年2月・光文社/光文社文庫 江戸川乱歩・著『江戸川乱歩全集25巻 鬼の言葉』所収「探偵小説十五年」より ―初出『江戸川乱歩選集』昭和13年/1938年9月~昭和14年/1939年8月・新潮社刊)

 探偵文壇の飛躍と、頼もしい後輩の登場を喜ぶ姿、ほほえましいですね。……と言いますか、乱歩さん。あなた自身が「外へ吹き出した焔のひとつ」に、あまり関与していないことが、ワタクシは寂しいです。

 探偵小説を一般文壇に認めさせる方法は、実作で頑張る以外にも、数々ありました。たとえば、そのひとつが「直木賞に推薦する」策です。いまでもそうらしいですが、直木賞は作家・評論家などに、推薦作品を乞うアンケートを発送しており、第1回第14回までは、誰がその回答を送り返してきたか、名簿が『文藝春秋』に掲載されています(『芥川賞全集』でも確認できます)。

 そのなかには、『新青年』編集部の水谷準もいます、横溝正史もいます。あるいは作家陣では、大下宇陀児、小栗虫太郎、木々高太郎らもいます。彼らは、文春からの求めに応じて、きちんと直木賞に推薦したい作品を答えているのです。

 で、乱歩さんが、このアンケート送付先から洩れていた、なんてことがあり得るんでしょうか。普通に考えて、乱歩さんのもとにも、回答用紙は届いていたんじゃないんですか。でも乱歩さんは、回答しなかった。推薦回答者リストのなかに、「江戸川乱歩」の文字は一回も見出せません。

「私はここ三年ほど推理小説雑誌「宝石」の編集を引き受けているが、推理小説界を盛んにすることは、それ以前からもたえず心がけてはいた。日本探偵小説クラブを作ったのも、「江戸川乱歩賞」という生意気なものを設定したのも、現在「宝石」を編集しているのも、すべてそういう気持のあらわれである。戦前の私は人ぎらいで社交をしなかったので、なにもできなかったが、戦後は人づきあいがよくなり、いろいろ作家誘い出しにもつとめたのである。」(平成18年/2006年2月・光文社/光文社文庫 江戸川乱歩・著『江戸川乱歩全集29巻 探偵小説四十年(下)』「昭和三十二年以降」より 太字・下線は引用者による)

 乱歩さんが直木賞選考委員に選ばれなかったこと。乱歩さんが直接、いわゆる一般文壇のなかに探偵小説を拡大させようとしなかったこと。……その二つが、木々さんひとりしか受賞者にならず、木々さんひとりしか選考委員にならず、戦前から昭和30年代なかばまで、探偵小説・推理小説が直木賞に選ばれなかった遠因ではないか、とそう思わずにはいられません。

 ええと、だから探偵・推理文壇にとっては不幸だった、とか言いたいわけじゃないんですけどね。誤解なきよう。

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2012年8月 5日 (日)

百目鬼恭三郎(朝日新聞学芸記者) 「直木賞」ネタをうまく活用した、あざやかな文章芸でブイブイ言わす。

百目鬼恭三郎(どうめき・きょうざぶろう)

  • 大正15年/1926年2月8日生まれ、平成3年/1991年3月31日没(65歳)。
  • 昭和26年/1951年(25歳)東京大学文学部卒。翌昭和27年/1952年に朝日新聞に入社。
  • 昭和48年/1973年(47歳)2月から昭和50年/1975年3月まで『朝日新聞』に「作家WHO'S WHO」連載(「子不語」名義)。
  • 昭和59年/1984年(58歳)朝日新聞を退社。

 80年弱、直木賞は常に新聞とともにあり続けました。言い換えると、新聞記者とともにあり続けました。

 「(裏)人物事典」でも、当然、何人かの新聞記者を取り上げないと済まされないわけですが、何のかんの言って、先陣を切るのはこの方。『朝日』の百目鬼さんです。

 なぜ彼がトップバッターなのか。先日、うちのブログで名前を間違って書いてしまったお詫び、のつもりではありません。百目鬼さんの徹底した文学賞嫌い、裏を返せば文学賞好きの精神ゆえです。

 というか、百目鬼さんは、すごくまっとうな文学賞観をお持ちでした。

「簡単に要約すると、文学賞は世間で思うほど、公正でも適正でもなく、従って社会的にはたいそうに思う性質のものではない。が、作家個人にとっては有益である、ということになろうか。つまり、文学賞は、その性質上、社会的な事件たり得ず、個人的な事件であるということで、昔からそうだったし、いまでも多くの文学賞はそうである。ただ芥川賞と直木賞だけが社会的な事件になってしまっているので、騒がれ、かつ批判されるということなのだ。」(『朝日ジャーナル』昭和53年/1978年3月24日号 百目鬼恭三郎「文学賞の存在理由」より)

 まっとうですね。ワタクシも、そう思います。

 ただ、百目鬼さんは偉かった。社会的な事件たり得ないからといって文学賞(直木賞も含め)に無関心を決め込むことなく、何だかんだと意見を吐き、罵声を浴びせ、数多くの発言をのこしてくれたのです。こういう人のことを、ワタクシは「文学賞好き」と呼びます。

 たとえば、直木賞が受賞作なしになったとき、そこから大衆文学全体を語ろうとする人がいます。さらなる勇者になると、文学全体にまで思考を広げようとすらします。たかが直木賞の動向を出発点に、です。百目鬼さんも例にもれず、その勇者のひとりでした。

第六十六回直木賞は、前回にひき続き該当作なしと決った。直木賞が二回連続して見送りになったことは、過去にも三回あるけれど、大衆文学の不振の現状をよくあらわすものとして、看過できまい。

(引用者中略)現代の読者の好みにあった新しい小説の型と文体がみつからないまま、あい変らず古い小説の型をくりかえしている一方では、それをなんとか打開しようとして新奇を追いかけている、というのがいまの大衆文学界の現状であるようだ。」(『朝日新聞』昭和47年/1972年1月24日夕刊 「直木賞の連続見送り 大衆文学の混迷浮彫り」より ―署名:(目))

 ……で、そこから百目鬼さんお得意の、「大衆文学に新しさをもたらしてきたのは、ずっと純文学作家」ちゅう論を展開し、「いまの純文学そのものが、大衆文学に負けずおとらず混迷を続けている」と結んでいます。

 素晴らしいですね。直木賞のことを語っているように見せかけて、「直木賞の候補作いずれも、現代の読者の感覚とずれている」みたいに、受賞作なしと論理的につながりのない、ご自分の見解をさしはさんでくるところなんぞ。見事です。

 ほかにも、以前うちのブログでいくつか引用しました。井上ひさしさんの受賞を「画期的な事件」と表現したり(平成24年/2012年6月10日エントリー)、山田正紀『火神を盗め』を「まさしく劇画さながら」「やはり文学の壁はくずせなかった」と大仰に解説してみせたり(平成21年/2009年1月25日エントリー)。

 舌鋒するどく語っている爽快さにあいまって、相当な思い込みで断言ちゃっている滑稽さ、なるほど、百目鬼さんが人気のあったのもうなずけます。

 と、揶揄ばっかりしていてもくだらないので、ワタクシが百目鬼さんを好きなところを取り上げます。

 さっきもチラッと言いました。直木賞をとれなかったら「文学の壁をくずせなかった」といい、直木賞をとったらとったで文句を言う。つまり、「直木賞」の名を借り物に、けっきょく自分の批評眼にひっぱり込んで物を言っているところです。

 阿刀田高さんについて、とか。

「阿刀田高が『ナポレオン狂』という短編集で直木賞を受賞したとき、私はおどろいた。かつて星新一は何度か直木賞の候補にあげられながらついに受賞しなかった。その星と似たジャンルの阿刀田が受賞したからにはその作品は星よりすぐれていなければならないわけだ。が、私にはどうもそうは思えなかったのである。」(昭和55年/1980年11月・ダイヤモンド社刊 風・著『風の書評』所収「阿刀田高『食べられた男』」より)

 別に「星よりすぐれていなければならない」理由なんて、ないでしょうに。でも、そういうことにしておけば、自分の語りたい内容が読み手に伝わると思って、わざわざ大袈裟に書いてみる。

 向田邦子『思い出トランプ』がよく売れている現象を「不可解だ」と断ずる文章も、似た手法です。

「向田は、死ぬちょっと前から人気が出たシナリオ・ライターだったし、台湾の航空機事故で死んだということも、さらに人気を高める要因になっているにちがいない。それに、『思い出トランプ』のほうは、直木賞の受賞作三編を収録しているということもある。

 が、それにしても、これは短編集である。短編集が売れないというのは通り相場のはずだし、しかも、ここに収められている十三の短編はいずれもごく短かい、ショート・ショートに毛の生えたようなもので、どうしても読まなければ損をするといったほどの作品ではない。」(昭和58年/1983年2月・ダイヤモンド社刊 百目鬼恭三郎・著『続 風の書評』所収「江本孟紀『プロ野球を10倍楽しく見る方法』向田邦子『思い出トランプ』『父の詫び状』」より)

 「向田の短編は、とりたてて、すぐれちゃいない」とすぐに言いたい気持ちをぐっとおさえて、直木賞がどうの、短編集がどうの、航空機事故がどうの、と憎まれ口で周囲をかためていく。

 こういうふうに「直木賞」のことを活用して、使いこなせるようになりたいよなあ、と惚れ惚れします。見習いたいところです。

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