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2012年8月 5日 (日)

百目鬼恭三郎(朝日新聞学芸記者) 「直木賞」ネタをうまく活用した、あざやかな文章芸でブイブイ言わす。

百目鬼恭三郎(どうめき・きょうざぶろう)

  • 大正15年/1926年2月8日生まれ、平成3年/1991年3月31日没(65歳)。
  • 昭和26年/1951年(25歳)東京大学文学部卒。翌昭和27年/1952年に朝日新聞に入社。
  • 昭和48年/1973年(47歳)2月から昭和50年/1975年3月まで『朝日新聞』に「作家WHO'S WHO」連載(「子不語」名義)。
  • 昭和59年/1984年(58歳)朝日新聞を退社。

 80年弱、直木賞は常に新聞とともにあり続けました。言い換えると、新聞記者とともにあり続けました。

 「(裏)人物事典」でも、当然、何人かの新聞記者を取り上げないと済まされないわけですが、何のかんの言って、先陣を切るのはこの方。『朝日』の百目鬼さんです。

 なぜ彼がトップバッターなのか。先日、うちのブログで名前を間違って書いてしまったお詫び、のつもりではありません。百目鬼さんの徹底した文学賞嫌い、裏を返せば文学賞好きの精神ゆえです。

 というか、百目鬼さんは、すごくまっとうな文学賞観をお持ちでした。

「簡単に要約すると、文学賞は世間で思うほど、公正でも適正でもなく、従って社会的にはたいそうに思う性質のものではない。が、作家個人にとっては有益である、ということになろうか。つまり、文学賞は、その性質上、社会的な事件たり得ず、個人的な事件であるということで、昔からそうだったし、いまでも多くの文学賞はそうである。ただ芥川賞と直木賞だけが社会的な事件になってしまっているので、騒がれ、かつ批判されるということなのだ。」(『朝日ジャーナル』昭和53年/1978年3月24日号 百目鬼恭三郎「文学賞の存在理由」より)

 まっとうですね。ワタクシも、そう思います。

 ただ、百目鬼さんは偉かった。社会的な事件たり得ないからといって文学賞(直木賞も含め)に無関心を決め込むことなく、何だかんだと意見を吐き、罵声を浴びせ、数多くの発言をのこしてくれたのです。こういう人のことを、ワタクシは「文学賞好き」と呼びます。

 たとえば、直木賞が受賞作なしになったとき、そこから大衆文学全体を語ろうとする人がいます。さらなる勇者になると、文学全体にまで思考を広げようとすらします。たかが直木賞の動向を出発点に、です。百目鬼さんも例にもれず、その勇者のひとりでした。

第六十六回直木賞は、前回にひき続き該当作なしと決った。直木賞が二回連続して見送りになったことは、過去にも三回あるけれど、大衆文学の不振の現状をよくあらわすものとして、看過できまい。

(引用者中略)現代の読者の好みにあった新しい小説の型と文体がみつからないまま、あい変らず古い小説の型をくりかえしている一方では、それをなんとか打開しようとして新奇を追いかけている、というのがいまの大衆文学界の現状であるようだ。」(『朝日新聞』昭和47年/1972年1月24日夕刊 「直木賞の連続見送り 大衆文学の混迷浮彫り」より ―署名:(目))

 ……で、そこから百目鬼さんお得意の、「大衆文学に新しさをもたらしてきたのは、ずっと純文学作家」ちゅう論を展開し、「いまの純文学そのものが、大衆文学に負けずおとらず混迷を続けている」と結んでいます。

 素晴らしいですね。直木賞のことを語っているように見せかけて、「直木賞の候補作いずれも、現代の読者の感覚とずれている」みたいに、受賞作なしと論理的につながりのない、ご自分の見解をさしはさんでくるところなんぞ。見事です。

 ほかにも、以前うちのブログでいくつか引用しました。井上ひさしさんの受賞を「画期的な事件」と表現したり(平成24年/2012年6月10日エントリー)、山田正紀『火神を盗め』を「まさしく劇画さながら」「やはり文学の壁はくずせなかった」と大仰に解説してみせたり(平成21年/2009年1月25日エントリー)。

 舌鋒するどく語っている爽快さにあいまって、相当な思い込みで断言ちゃっている滑稽さ、なるほど、百目鬼さんが人気のあったのもうなずけます。

 と、揶揄ばっかりしていてもくだらないので、ワタクシが百目鬼さんを好きなところを取り上げます。

 さっきもチラッと言いました。直木賞をとれなかったら「文学の壁をくずせなかった」といい、直木賞をとったらとったで文句を言う。つまり、「直木賞」の名を借り物に、けっきょく自分の批評眼にひっぱり込んで物を言っているところです。

 阿刀田高さんについて、とか。

「阿刀田高が『ナポレオン狂』という短編集で直木賞を受賞したとき、私はおどろいた。かつて星新一は何度か直木賞の候補にあげられながらついに受賞しなかった。その星と似たジャンルの阿刀田が受賞したからにはその作品は星よりすぐれていなければならないわけだ。が、私にはどうもそうは思えなかったのである。」(昭和55年/1980年11月・ダイヤモンド社刊 風・著『風の書評』所収「阿刀田高『食べられた男』」より)

 別に「星よりすぐれていなければならない」理由なんて、ないでしょうに。でも、そういうことにしておけば、自分の語りたい内容が読み手に伝わると思って、わざわざ大袈裟に書いてみる。

 向田邦子『思い出トランプ』がよく売れている現象を「不可解だ」と断ずる文章も、似た手法です。

「向田は、死ぬちょっと前から人気が出たシナリオ・ライターだったし、台湾の航空機事故で死んだということも、さらに人気を高める要因になっているにちがいない。それに、『思い出トランプ』のほうは、直木賞の受賞作三編を収録しているということもある。

 が、それにしても、これは短編集である。短編集が売れないというのは通り相場のはずだし、しかも、ここに収められている十三の短編はいずれもごく短かい、ショート・ショートに毛の生えたようなもので、どうしても読まなければ損をするといったほどの作品ではない。」(昭和58年/1983年2月・ダイヤモンド社刊 百目鬼恭三郎・著『続 風の書評』所収「江本孟紀『プロ野球を10倍楽しく見る方法』向田邦子『思い出トランプ』『父の詫び状』」より)

 「向田の短編は、とりたてて、すぐれちゃいない」とすぐに言いたい気持ちをぐっとおさえて、直木賞がどうの、短編集がどうの、航空機事故がどうの、と憎まれ口で周囲をかためていく。

 こういうふうに「直木賞」のことを活用して、使いこなせるようになりたいよなあ、と惚れ惚れします。見習いたいところです。

          ○

 ええと、ほんとうに見習うかどうかは別としまして。百目鬼さんもまた「昔の直木賞は○○だったけど、最近の直木賞は……」論を好んで使用した一人でした。

 昭和50年代、百目鬼さんは新聞に、雑誌に、多くの直木賞評を書きました。第89回(昭和58年/1983年上半期)胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』が受賞し、城山三郎さんが委員を辞任したことに際しては、こう語っています。

「劇画風の物語や実際にあった話を書くには、年季は不要で、ズブの素人でもすぐ書けるから、素人の作品が横行する。その中で、有名人、タレントの作品となると、内容とは無関係に結構売れるということから、出版社が競って彼らに小説を書かせるようになり、話題性をねらって、文学賞の候補にあげられる、という現象がめだつようになってきた。

 (引用者中略)こういう有名人素人作家の候補作をふるい落とすのには、人間が描けているかどうかという物差しは、結構役に立ってきたといえる。人間が描けているかどうかということを、玄人の筆か素人の手か、という風に翻訳し直して使えば、玄人の文学賞である直木賞を選考する物差しとしては、まだまだ有効なのである。

 しかし、一昨年、青島(引用者注:青島幸男氏が受賞したあたりで、ついにこの物差しも、素人の作品を排除する機能を失いはじめたようである。

 (引用者中略)直木賞は選考の基準を喪失して、いわばアノミー(無規範)状態になってしまっているから、今後も作品以外の要素によって受賞するケースが多くなろう。これからは、直木賞をとる捷径は有名人になることだ、と観念すべきである。」(百目鬼恭三郎・著『新聞を疑え』所収「たった一人の世論」より)

 たしかに「人間が描けているかどうか」は、直木賞選考委員がいつの間にやら手にした便利なツール、使い勝手のよい尺度だと思います。でも、その尺度が確固たるものとして直木賞で有効だった時代なんて、ほんとにあるんですか?

 ……などと、百目鬼さんの代名詞「重箱の隅つつき」を真似したくなるのを、ぐっとこらえまして(けっきょく書いちゃいましたが)、「文学賞などたいしたものではない」と主張する人が、昭和50年代の直木賞テレビ界まきこみ作戦を、どう見ていたかがうかがえるのは嬉しいことです。

「直木賞のほうは、このところ有名人の小説を候補作に並べる傾向があるようだ。(引用者中略)むろん、小説は、だれが書こうと勝手である。しかし、小説というものをよく知らないままに、編集者のおだてにのって、安手な小説観をたよりに書いた小説が、すぐれた作品であろうはずはない。そんなものが簡単に活字になり、文学賞の候補にまであげられるようになったのだから、小説もずいぶんなめられたものだ。こんどの有名人の候補作を読んだ限りでも、その感想は変わらなかった。」(『朝日新聞』昭和55年/1980年1月28日夕刊 百目鬼恭三郎「芥川・直木賞に気になる傾向 有名人を売り物の世相反映 小説本来の文章考える必要」より)

 社会的な事件でも何でもない直木賞・芥川賞のことを、百目鬼さんが、新聞七段も費やして、わざわざ記事に仕立て上げてしまっている、というこの奇妙さ。ああ。これぞ直木賞だ。直木賞の面白さだ。

 百目鬼さんは、『朝日新聞』にいたころは、何かと威勢がよかったのですが、昭和54年/1979年に退社して以降、徐々に彼の攻撃的な文章を見かけなくなっていきます。まあ、新聞記者(というか新聞社社員)もイヤイヤやっていたそうですから、おのれの好みに合った世界に集中して、ものを書くようになったとしても、不思議ではありません。

 没後まもなく刊行された『風の文庫談義』(平成3年/1991年5月・文藝春秋刊)を読んで、川村湊さんは、こう評しました。

「古典を相手にしているだけに、当たるを幸いバッタバッタと切り伏せるといった「風」の書評の昔日の面影はない。(引用者中略)「風」の文庫談義という題名に、ふと、古典の世界に、土足で踏み込んでゆくスタイルを思い浮かべてしまった者としては、やや肩すかしの感があったことも否定できない。「風」はもはや「凪」だったのである。」(『週刊読売』平成3年/1991年7月7日号 川村湊「最近読んだ本」より)

 直木賞なんかにも、基本、興味はなかったんでしょうね。それでも、『解体新著』のなかで、M・デュラスの『エミリー・L』を評するにあたって、冒頭に、

「こんどの芥川賞は二人のうち一人、直木賞は二人とも、女流が受賞したというので話題になっている。考えてみれば、日本の小説は、日常の生活とおなじ平面上にそれぞれの小世界を築きあげてみせる、というリアリズム文学を主流としているから、女流、殊に日常生活にとっぷりつかっている主婦にとってはなはだ書きやすい文学様式である。文壇の主力が女流によって占められる日が来ても、決しておかしくないはずだ。」(平成4年/1992年1月・文藝春秋刊 百目鬼恭三郎・著『解体新著』より ―初出『諸君!』平成1年/1989年3月号)

 と、本論のまくらに直木賞・芥川賞のことを触れてくれています。往年の百目鬼ブシの片鱗をみるようで、つい微笑んでしまいました。

 ところで、以下は蛇足。

 百目鬼さんは昭和59年/1984年3月末をもって、「半ば喧嘩のような形で」朝日新聞を辞めた、とする人がいるみたいです。でも、『新聞を疑え』(昭和59年/1984年11月・講談社刊)を読んでみたんですが、そう解釈できる記述を見つけることができませんでした。

 ワタクシ、百目鬼さんの文章に目くらましされちゃったんでしょうか。

(引用者注:企業と社員の間の)異和感に耐えきれなくなった人たちは、企業から飛び出さざるを得なくなる。朝日新聞でも、そういう理由で、定年前に飛び出していった有能な人はかなりいる。私でさえ、いつまで会社にしがみついているのだ、と不思議がられたことは一度や二度ではない。私が飛び出さずにいたのは、要するに、横着だったからにすぎない。飛び出せば、新しい境遇に順応するために、それ相当の努力をしなければならない。それが億劫だったのだ。」(『新聞を疑え』所収「飛ぶ鳥の記(上)内から見てきた朝日新聞」より)

 さらに、同書の「『風』とともに去った朝日新聞」では、「私が定年になる前後は」とか「私は、嘱託になったのを機に」などの文も見受けられます。

 55歳の定年まで無事、勤め上げたうえに、それから嘱託としてなお3年間勤めたわけで、退社のひきがねを引いた会社との決裂があったふうにも読めず、どこが「半ば喧嘩のよう」なのか、ワタクシにはわかりませんでした。

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