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2012年7月 8日 (日)

木村さく(「新喜楽」女将) ほかの並み居るライバル料亭をおさえて、文春幹部の心をつかんだ、デキる経営者。

木村さく(きむら・さく)

  • 明治17年/1884年8月生まれ、昭和56年/1981年2月25日没(96歳)。
  • 明治29年/1896年頃(12歳)赤坂の料亭「兵庫屋」に下働きとして出る。
  • 大正6年/1917年(32歳)築地の料亭「新喜楽」を、先代女将の子供から譲り受け二代目女将に。
  • 昭和25年/1950年頃(65歳)「新喜楽」が直木賞・芥川賞選考会場のひとつとして使われるようになる。
  • 昭和36年/1961年(76歳)より直木賞・芥川賞選考会はすべて「新喜楽」で行われるようになる。

 7月、あらたな直木賞候補作が発表されました。そんな大事な週なのに、文学や小説とまるで縁のない人物、きっと直木賞好きですら首をかしげる人物を、いま、あえて取り上げようという。

 ええ、この偏屈さこそ、「直木賞のすべて」ブログの特徴だと自負しています。そうさ、胸を張っていこうぜ。

 木村さくさん。東京築地の料亭「新喜楽」で60年以上にわたって女将を務めました。彼女がいなかったら、直木賞・芥川賞の歴史は変わっていたかもしれない、……かどうかは知りませんが、両賞がつつがなく運営されることに尽力した、裏方中の裏方であることは確かです。

 まずは、賞の運営事務と、選考委員と、両方を経験した永井龍男さんの言葉を紹介しておきましょう。

「戦前戦中の銓衡会場は、芝公園の浪花家とか赤坂山王の星ヶ岡茶寮とかを、交互に使った。前後三回に及ぶことも珍しくはなかったので、気分を変えるためにもそれが必要だったが、戦後は築地の新喜楽ときまって、今日まで動いたことは一度もないだろう。

 大柄で、貫禄たっぷりな女将さんが、玄関内にどっしり座を構えてわれわれを迎える。

(引用者中略)新橋駅からぶらぶら銀座通りを歩き、昭和通りを突切って築地川添いに真直ぐ数分、左へ曲るとその角が新喜楽である。せいぜい二十分ほどの道々、あれにするかこれにするか絶えず考えていることもあるが、いつに変らぬこの女将の顔に逢うと、あの作品にするかと踏ん切りのつくような日もあった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第三章」より)

 ここに登場する「大柄で、貫禄たっぷりな女将さん」。名前を木村さくさんといいます。

 「新喜楽」は戦前、直木賞が創設された昭和10年/1935年に、すでにありました。それどころか、『文藝春秋』誌ができるずっとずっと前、明治のころから、築地で営業していました。それなのに、戦前は選考会場に使われたことはなかったようです。

 戦後になってなぜ急に、使われるようになったのでしょうか。

 その疑問を解いてくれる文献に、ワタクシ、まだめぐり合っておらず、以下推測になっちゃうんですが。まずひとつ、運営事務の労を減らしたい、っていう主催者側の事情はあったと思います。主催者……要するに文藝春秋幹部クラスの思惑です。

 そりゃそうです。毎回毎回、イチから選考会場を選定して、予約の段取りをとって、一度で決まらない場合は二回目の会場、その次の三回目の会場とスケジュールを組み直して、それを直木賞と芥川賞の二つ分こなして……なんてことをやるより、毎期につき選考会は一回、直木賞・芥川賞とも同じ日に、しかもずっと定まった場所で行う、と決めちゃうほうが効率的ですもん。

 永井さんは「戦後は新喜楽ときまって、動いたことはないだろう」と言っていましたが、そんなことはありません。戦後もしばらくは、直木賞と芥川賞とで別々の日に選考会が開かれ、そのたびに会場もちがっていました。「錦水」「岡田」「なだ万」「加寿於」「金田中」などの店名が、選考会の開かれた場所として記録にのこっています。

 それが、両賞同日の開催となった第30回(昭和28年/1953年下半期)を過ぎて、1年ほどたった第33回(昭和30年/1955年上半期)からは、新喜楽で両賞の同時選考を行う回数が増えていきます。

 なんといっても当時の文藝春秋新社社長、日本文学振興会理事長だった佐佐木茂索は、戦後まもないころから、「新喜楽後援会」に参加していたほどです。銀座を愛し、料亭文化を愛し、さらにはきっと女将の人柄を愛したゆえの、新喜楽への肩入れだった、と見たいところです。

「終戦後、あまり時日を経過してなかったと思うが、ある財界人につれられて、そこに出掛けたところ、その財界人が「われわれ二十数人が、新喜楽後援会というものをつくって、この家の再建を援助している」と、一種の自慢のように語ったことである。そして、職業柄そのメンバーを知った時、驚いたのである。その顔触れというのは、東京急行会長の五島慶太老にはじまって、ニッポン放送会長・元通産大臣稲垣平太郎、日興証券会長遠山元一、山一証券会長小池厚之助、元男爵大倉喜七郎、朝日麦酒社長山本為三郎、松竹会長大谷竹次郎、興国人絹パルプ社長金井滋直、前大和証券会長渡辺安太郎、帝国ホテル会長金井寛人、文芸春秋社長佐々木茂索等々、文字通り一流人ばかりであったからだ。」(『財界』昭和30年/1955年1月新春特集号 尾鷲節太「新興行師物語 徳をもつ日本一の女将 木村さく」より)

 うわあ、「一流人」を語るにあたって、これだけ肩書きを羅列されると、思わず嘔吐感がこみ上げてきますが、我慢して先に進みましょう。

 「新喜楽」と他の料亭とは、何がちがうのか。いろいろあるようなんですが、ひとつ、そこかしこの文章で触れられているのが、「客からの信用」です。たとえば『日本女性人名辞典』(平成10年/1998年10月・日本図書センター刊〔普及版〕)では、木村さくさんを紹介するに、

「新喜楽で行う極秘裏の話は一切外に漏れないという信用から、多くの政財界人に利用された。」

 との見解を採用していますし、『週刊読売』の記事でも、その点が大きくピックアップされています。

「新橋が(引用者注:赤坂などの)他の料亭地域と大きく異なっていたのは、口の堅さだった。赤坂の話はどんな極秘裏の話もいつか世間に流れてしまう。しかし、新橋ではどんなことがあっても、高い塀のなかの出来事は、一切外に漏れない、という信用だった。

 「新喜楽」はその頂点にあった。それが、秘密の多い政界人を安心させた。(引用者中略)主人となったさくさんは、その初日から、すべての客を玄関で平伏して迎えた。謀議はさくさんの目の前で開始され、さくさんの案内する密室で深まった。」(『週刊読売』昭和56年/1981年3月15日号「日本の政界文化界トップに密室を提供して60年 「新喜楽」女将木村さくさん(96)の通夜の客」より)

 ダダもれ文化の華やかな現代日本には、とうてい相容れない舞台ですよなあ。

 しかしそんな舞台を目の前にして、1960年当時の日本文学振興会は、「ここだ。直木賞・芥川賞の選考会場にぴったりな場所は、ここだったんだ!」と喜び勇んで涙を流しました。以後、直木賞と芥川賞の選考会はすべて「新喜楽」で行われ、高い塀のなかで決定してきたわけです。

 そうです。候補作が発表されただけで、ワーキャー騒がれる。受賞が決まったら決まったで輪をかけて、みんな盛り上がり狂う。だけど、じっさいその途中の、決定過程は、絶対外に洩れない鉄壁の密室で行われる、という。このギャップ。

 かように緩急、濃淡、陰影のくっきりしているところが、直木賞・芥川賞の魅力を、よりいっそう高めていることは否めません(……いや、否めるか)。

          ○

 木村さくさんは、文学とも、文学賞とも、そんなに関わりのない人です。それでも、彼女と「新喜楽」の歴史、といいますか歴史の語られ方を追ってみると、直木賞オタクの心をくすぐるような、楽しい宝石が埋まっています。

 つまり、アレです。「世間に流布している物語って、いったいどこまでホントで、どこからが脚色で、どれが勘違いなんだろ」ってハナシです。

 さくさんは、明治17年/1884年、本所菊川町に生まれました。父・留吉はメリンス染物工場を経営し、裕福な生活を送っていたそうです。

 しかし、さくさんが小学校を卒業する頃までには家業が傾き、五人姉妹の長女だったさくさんは、赤坂の「兵庫屋」(「兵庫家」とも)に奉公に出されます。7年の年期を終えたのち、築地の「新喜楽」に移りました。

「木村さくは、ここに移ってからも持前の頭の良さと、負けじ魂を発揮、先代女将から格別愛され、認められたらしい。その証拠に、ここでも七年の年期奉公を無事つとめ、女将から新喜楽の「喜」をもらい、これを自分の名前に足して「喜さく」という小いさな待合を築地本願寺わきに開業したからである。(引用者中略)センサク好きな綾部(引用者注:綾部健太郎)大人は「この当時のパトロンは、郷誠之助男爵だという話を聞いていたが……」と、軽くあしらっているが、七十の坂に達した今日の容貌から見て、三十前の彼女が相当の美人であったことは容易に想像される。」(前掲「新興行師物語 徳をもつ日本一の女将 木村さく」より)

 ってことで、さくさん自分の店「喜さく」を持ったのが28歳のときといいます。大正が始まったころでしょうか。

 ここから大正6年/1917年7月に、さくさんが二代目女将として「新喜楽」を開くまで、5~6年かかります。じっさい、その経緯が判然としないというか、口伝に次ぐ口伝でふくらんでいっているというか、各種文献さまざまなことを伝えていて、いやあ、面白いんです。

 最も有名な伝承が、これでしょう。

「さくさんは、その女将(引用者注:初代の伊藤きん)に認められた。大正六年、風邪をこじらせて、ついに死の床に伏した女将は、さくさんを後継者に指名したのだ。」(前掲『週刊読売』記事より)

 ちなみに、今日いくつかの文を引用した『財界』誌の尾鷲節太さんによる記事も、この見立てを採用しています。それどころか、伊藤きんがさくさんを後継者に決めるまでの心の動きなんてものも、あたかも見てきたかのごとく、描写していたりして。尾鷲さんの記事の元ネタは、綾部健太郎が「女傑列伝」として書いた木村さく伝らしいんですが、ワタクシは未見です。

 でも、大正6年/1917年、伊藤きんさんは、すでに2年前に他界し、この世の人ではありませんでした。その事実を考えると、どうも伊藤きんから木村さくへの引き継ぎには、脚色の匂いがぷーんとにおってきます。

 初代女将から認められてはいたんでしょう。でも、ほんとうに直接使命されて二代目を継いだのでしょうか。疑問が残ります。

 当時の新聞は、ちがう見解を提示していました。

「築地の新喜楽は都一中の伊藤楳太郎夫妻が営業してゐたが先代の名物女将が死ぬ時お前達には迚も経営が難しからうから相当の買人があつたら譲渡すが可いとの遺言があつたとかで今度同じ築地で喜佐久と云ふ待合をやつてゐたものに七萬円で引渡したさうだ」(『東京朝日新聞』大正6年/1917年5月29日「青鉛筆」より)

 「都一中」とは別名「都太夫一中」ともいい、一中節三味線方の名跡だそうです。その十世が、伊藤きんの息子、伊藤楳太郎。きんが死んだ大正4年/1915年4月以降は2年ほど、楳太郎夫婦が「新喜楽」をやっていて、それを木村さくさんが買い取ったと伝えています。

 まあ新聞記事なんで、こっちも信用できないっちゃあ、信用できないんですけど。

 経営一族の交代を言い出したのが、伊藤きんなのか、伊藤楳太郎なのか、はたまた木村さくなのか、いろいろ考えられます。ただ、いずれにせよ、ここでさくさんが買い取っておいてくれなければ、「明治から続く伝統ある新喜楽」の権威性は途絶えていたでしょう。となれば、戦後の文春が、直木賞・芥川賞の唯一の会場を定めるさい、別の料亭を選んだかもわかりません。

 直木賞・芥川賞と、「新喜楽」。ともに、古くから続いている伝統と権威、「なんかスゴそう」といったイメージを身にまとって、両者その効果をお互いに享受しあいながら、ここまでやってきました。これからも、どちらかが先にくたばってしまわないように、手に手をとって、しぶとく歩んでいってください。

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直木賞(裏)人物事典」カテゴリの記事

コメント

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 職務経歴書 | 2012年7月 9日 (月) 11時36分

とても興味深い記事でした。
新●楽さんの話 いろいろあるようです。
たまたま 取材をしていて「ええ!!真実はこれっ!」という真実に
実は私も出合ってしまいました。

そこには知られたくないのか つまり利害関係があるような 何かがあるような臭いがします。

しかし それはそれで そのままにしておいた方が良いのでしょうね。

真実ばかりが皆さんが幸せになることではないこともあるのかな と。
大人の考えに至り そっと蓋をしました。

きっと この時代 皆 生きる為に一生懸命で ましてや女ひとりで
勝ちあがっていくには 虚偽も虚栄も全部力にして全力で生きて
真実を塗り替えていくくらいの勢いで駆け抜けて来たのでしょうね。

何が綺麗で何が汚い 何が白で何が黒いか
そんなことは立つ位置によって見え方は変わりますから。

はっきりさせたい職業病も抑えに押さえて
スル―させました。

ただ、
願わくば名を引き継ぐだけではなく 創始者である 伊藤き●さんの真心を引き継いで
頑張って頂きたいです。

同じく 芥川賞も直木賞も
各賞が生まれた頃のほんとうの文学のこころを思い出し
引き継がれてゆくことを望みたいです。

場所のエネルギーと
賞のエネルギーと
似るものでしょうか・・・。

どちらも軽やかなのは良いですが
軽いのはどうかと・・・。

言葉が過ぎました・・・。

と 文学とは程遠い頭の軽い私が言うのもおこがましいですが。

さて、この度の取材で どうしても解けない謎が
あなた様の記事ですっきりしました。

取材した真実は 捨てますがそれはそれ

謎解きキーワードを下さった貴方様に感謝です。 

投稿: カノン | 2012年8月24日 (金) 00時52分

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