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2012年6月 3日 (日)

中村正軌(第84回 昭和55年/1980年下半期受賞) 小説執筆は趣味のひとつと固く決めているので、直木賞ごときでは動じない。

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中村正軌。『元首の謀叛』(昭和55年/1980年7月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。同作でのデビューから半年。52歳。

 せつなくなります。名前の〈ノリ〉の漢字がパソコンで呼び出しづらい(䡄=車偏に几。当ブログでは「軌」の字で代用)ゆえではありません。すでに直木賞作『元首の謀叛』は入手難ですが、この先も、新刊書店に並べられる期待はほとんど持てないからです。

 なにしろこの作、東西ドイツがまだ分かれていた時代に書かれた国際政治モノ。「二つのドイツが一緒になるなんて、まあ当分、無理だよね」っていう状況下だからこそ、逆にリアリティあふれる小説として受け入れられた感があります。

 さらに、原稿用紙1200枚のボリューム満点な長篇。文庫化にあたって上下巻に分けられたのも当然の処置でした。しかし、あなた。さくっとお手軽な薄ーい本ならいざ知らず、こんな長大な二分冊が復刊されたりするんでしょうか。格別「名作」扱いされているわけでもないし。

 そして愕然とすることに、作者の中村正軌さんが寡作中の寡作ときています。ここ十数年、小説の発表はなく、新作の刊行も期待薄です。今じゃ「誰それ?」の領域に入ってしまいました。

 「忘れられた直木賞作家、直木賞受賞作」への道まっしぐらです。止めようがありません。こういう作家の旧作を、復活させてくれるほど出版界の懐が深ければいいんですけど……。

 と愚痴っていても仕方ありませんね。こんな事態を引き起こしたのも、中村さんの強い信念といいますか、確固たる人生観のなせるわざです。その意味で、そんじょそこらの直木賞受賞者とは一線を画す中村さんらしい状況、と見ることもできましょう。

 ごぞんじのとおり、中村さんは受賞時、職業作家ではありませんでした。サラリーマン生活が充実していたさなかでもあり、作家になるつもりはなかったそうです。

「東京駅の前の本社から横須賀線で横浜の家に帰ることになりますと、坐りながらも会社のことを考えてるわけですね。それに気づいて、電車の中では、会社とは関係のない本を読もうと決めたんです。(引用者中略)眼鏡屋に行ったら、老眼のなり初めだから、電車の中で細かい字を読まないほうがいい、と忠告されましてね。仕方がない、会社とは関係のないテーマをきめて、電車の中で考えてたらどうだろう、ついでにそれを書きとめとけばいいじゃないかと思いたったんです。(引用者中略)ですから、本にして出版しようという気はなかったんです。」(『週刊文春』昭和56年/1981年2月5日号「イーデス・ハンソン対談 処女作が直木賞!「フォーサイスを越える」と称された“大型新人”は日航の部長さん」より)

 また、首尾よくデビューできたからといって、日本航空調達部長のポストを手放す気もありませんでした。

ハンソン (引用者中略)これからは文章の注文も殺到するでしょうし、お仕事と両方、大変ですね。

中村 ただ、私は日本航空という会社が好きですし、いまの仕事に生き甲斐を感じてますから、両立しなくなって、手抜きせざるをえなくなったら、はっきりさせます。すべきだと思ってます。」(同)

 当時の中村さんは、直木賞受賞者として多くの記事に取り上げられました。その多くで「二足のワラジ」なる言葉が多用されました。頻出しました。ぜんぶ同じ記者が書いているんじゃないの、と思えるぐらいに。

 と言いますのも、中村さんがインタビューなどで執筆時間のことをきっちり説明する様を表現するのに、「飛行機の運航ダイヤ並に秩序正しく正確」といった比喩が、いくつもの記事で使われているんですもん。いかにもうまいこと言った感のある表現は、ひとりが使うならいいですが、こうも各媒体で軒並み使われると、こっちが恥ずかしくなってきます。

 で、安易なテンプレでお茶を濁すマスコミに対し、デキる男・中村さんは憤然とこう言い放つわけです。

「サラリーマンと作家の二足のワラジ――といわれますが、ぼくはそうは思わない。会社に迷惑をかけない、一時間の余暇の使い方ですから。ですから“二足のワラジ”というのはあたりません。」(『週刊ポスト』昭和56年/1981年2月6日号「新・ライフスタイル研究 もう一人の日航作家中村正軌氏の『二足のワラジ』」より)

 しっかりと人生を見据えて50年生きてきた、ブレない男を前にすると、チャラチャラした直木賞はまるで形なしですね。「作家はねー、直木賞をとって2、3年が勝負だよー」なんちゅう誰それの声も、中村さんにはまるで効きません。

 いっときの騒ぎに乗じて浮かれたり、虚勢をはったりしない人でした。昭和63年/1988年3月、60歳の定年で日航を退社するまでの7年、中村さん、マジで小説執筆から一切遠ざかった、という。

「1981年に、東西ドイツの統一をテーマにした国際小説「元首の謀叛」で第84回直木賞を受けた後、筆をおいていた中村正軌(まさのり)さん(60)が、定年で3月かぎりで日本航空を辞め、作家として復帰することになった。

 その後、執筆しなかったのは「二君(にくん)に仕えず。二足のわらじは、納得できなかったから」と信念を初めてもらした。「日本航空で全力投球。人間、自分のベストを2分することはできない」とも。」(『朝日新聞』夕刊 昭和63年/1988年4月6日「人きのうきょう 中村正軌さん 日航を退職し作家復帰」より)

 じゃあ、定年退職してからは一気に作家業フル回転で、続々と新作を発表か……というとそうでもなく、その後の10年間で残した著作は4冊。あくせくしたところの見受けられない、悠然たる歩みでした。

 部長職にまで上り、養う子供もなく、まだ日航が安泰だったころの退社ですから、さぞかし幸せな定年後人生を送った(送っている)ことでしょう。

          ○

 さて、中村正軌さんといえば、ほぼ文壇とは無縁です。孤高の作家といっていいでしょう。

 突如生まれたビジネスマン作家。なのですが、直木賞なんちゅう騒ぎに巻き込まれたばっかりに、ひとりの作家と並べて語られることになりました。

 深田祐介さん。同じ日航の在職作家。同じ第84回直木賞の候補者。さらには、『元首の謀叛』誕生に協力した人でもありました。

(引用者注:『元首の謀叛』は)同じ“日航作家”のひとりの深田祐介氏によれば、もともとは三千枚の超大作だったのだそうだ。

「まったくの新人の三千枚の作品となると出版社としては大変な冒険になるので、千二百枚にへらしたんですよ。ぼくは三千枚ぜんぶ読ませてもらったけどあの三千枚のほうがおもしろかった。(引用者中略)

 私は今回で四回直木賞に落ちてショウキ(引用者注:中村正軌の社内でのあだ名)さんに完全に乗り越えられた感じですなァ。でも、自分が原稿を読み、出版に協力した作品が受賞したんですから、ショックも最小限ですみました」

 と、深田祐介氏。」(前掲『週刊ポスト』記事より)

 この1年半後に遅ればせながら深田さんも直木賞を受賞しました。そんな展開を知っているから、微笑ましく読めますが、もしも深田さんが数度の落選を経て結局受賞できなかったとしたら……。そんな想像をするだけで、直木賞オタクは、ヨダレが止まらなくなります。いや、失礼。せつなさで涙をこぼしてしまいます。

 なるほど、深田さんが日航本社の隣の部屋で働いていたのか、ってことは深田さんに文藝春秋を紹介してもらったんだろうな。と思うと、さにあらず。日航ともなると、いろんなところに手づるが伸びているらしく、『元首の謀叛』は別のルートで文春上層部に届けられたそうです。

「中村氏は、三千枚の原稿を八冊のバインダーに分けて綴じ込み、社内の知人に読んでもらった。

 加藤武彦・(引用者注:日本航空)広報課長も読んだ一人である。

「いやぁ、面白かった。私のようなシロウトにも、面白さはよく分かりました」

 と、加藤氏。

 久々に文学的興奮を覚えた加藤氏は、文芸春秋の田川博一常務にこの原稿を見せた。田川氏も「面白い」といい、田中健吾編集局長に原稿を回す。ドイツから帰国したばかりの田中氏は、真摯にこの原稿に感嘆したという。」(『週刊読売』昭和56年/1981年2月8日号「JAL“文学エリア”を翔ぶ」より)

 何といっても、ここで講談社や新潮社でなく、文藝春秋の手に落ちたところがポイントと言えるでしょう。まったく同じ作品でも、文春から出たか、他社から出たかで、直木賞の候補になる確率は5倍も10倍もちがってくると言われています(いや。いまワタクシが思い付いて、言いました)。

 もしも、他社刊行であったなら。日航の部長が書いた、翻訳小説を思わさせる長ったらしい小説として、その後文庫化されることもなく、知る人ぞ知る80年代の時代のアダ花となっていたかもしれません。え、そっちのほうが本作にはふさわしいって? いや、まあそれはそれとして。

 『元首の謀叛』は文春から刊行、直木賞候補作に選ばれました。同じく候補には、日本ノンフィクション賞新人賞をとってまもない西木正明さん、犯罪小説の雄・西村望さん、推理小説界の輝ける星・泡坂妻夫さん、候補常連バク進中の古川薫さん、などなどがいましたから、直木賞の話題もいろいろあったはずですが、深田祐介さんがいたおかげで、『元首の謀叛』は選考会前から話題の中心に引き上げられてしまいました。

「日本航空から広報室次長・深田祐介氏(四九)と、調達部長・中村正軌氏(五二)の二人が第八十四回直木賞の候補として名前があがったとき広報室の職員たちも加藤課長と同じように困惑の表情をみせた。「困った」というのは、選考の段階で最後にこの二人にしぼられ、いずれか一方が受賞し、他方が落ちるという状態を予測してのことであろう。」(『サンデー毎日』昭和56年/1981年1月25日号「直木賞有力候補二人を抱えた日本航空社内の「乱気流」」より ―署名:本誌・本村誉祠義)

 週刊誌の直木賞関連記事は、昔もいまも、たいていユーモア精神が満載です。茶目っけがあります。この『サンデー毎日』の記事も例に洩れません。第84回の「有力候補」が中村・深田の二人? それほんと? と疑念をもつ読者にむけて、記事の最後で、オチをつけてみせてくれるのです。

「最後に読者のためにつけ加えておこう。受賞をこの二人にしぼったのは、あくまでも同じ日航の社員であるためで、ふたをあけてみたら、深田、中村いずれの名前もなかった、ということも十分ありうるのです。」(同)

 どうです。候補作の内容や文学性やそういったものをもとに、「有力」判定しているわけじゃないんだよ、話題性があるから「有力候補二人」と呼んだんだよ、と開き直っています。「文学」とは関係のない、「文学賞」の報道姿勢として、何とすがすがしいことでしょうか。

 そのバカっぽさが、何とも味わい深いのです。ぜひ、もっとやってください。

          ○

 ええと、受賞前は中村さんは、深田さんとセットでとらえられていました。受賞が決まってからは、にわかにあと二人、作家が騒ぎに駆り出されました。吉村昭さんと津村節子さんです。

(引用者注:中村正軌は)旧制高校時代に文芸部に入って、その『赤絵』や『断層』という同人誌に寄稿していた。先輩に故・三島由紀夫氏がいて、同人の仲間に、吉村昭氏や津村節子さんがいる。

「学習院時代の中村さんは、たいへん行動力があって、アタマの切れる人で、シャープで、キチンとして、颯爽としていましたね。でも文学青年臭はまったくなかった。趣味で書いているのであって、何がなんでも小説家にという感じではなかったんですよ。意志が強くて、そもそものめりこまないオールマイティの人物でした。だから、その才能でお勤めでも成功されているでしょ」

 と、津村節子さん。(引用者中略)

 学習院同人誌の仲間だった作家の吉村昭氏は、

「当時の文芸部員は十七名くらい。そのうち三人(中村、津村、吉村)が一応ものになったのだから、かなりの確率」

 と喜ぶ(引用者後略)(前掲『週刊ポスト』記事より)

 津村さんの語る中村評。いくつかのインタビューなどで知ることのできる中村さんの人物像とぴったり重なるほど的確で、こわいくらいです。「アタマが切れる」「キチンとしている」「趣味で書いている」「意志が強い」「そもそものめりこまない」……。

 「何がなんでも小説家にという感じではなかった」というハナシは、そのとおりのようで、中村さんは昭和27年/1952年に学習院大学卒業と同時に、さっさと高島屋飯田に入社しました。一年違いますが、吉村昭さんが『私の文学漂流』で、

「昭和二十八年が明けると、文芸部の重だった者たちは落着かず、文芸部の部室にくることも稀になった。かれらは三月に卒業を控え、大半が就職先もきまっていて卒業にともなう雑用に時間を費していたのだ。」(平成4年/1992年11月・新潮社刊 吉村昭・著『私の文学漂流』「第三章 大学中退、結婚、放浪」より)

 と描いているような、文学にしがみつこうとする妄執のない一大学生だったのだろうと想像できます。

 当時の中村さんについては、吉村さんはこんな回想もしていました。

吉村 中村さんが直木賞をもらったときはびっくりしたよ。なにしろ文芸部にはいたが、地道に小説を書くなんてタイプじゃなかったものな。

中村 なにしろ文芸部のほかに、大学新聞の編集長、大学の放送局、自治会委員長を兼ねていたんだからね。

吉村 廊下で会っても「やァー」と言って行っちゃう。大学の名士だった。」(『週刊読売』平成3年/1991年3月31日号「さーくる同窓生 学習院大学文芸部 中村正軌さん津村節子さん吉村昭さん」より)

 いますよねえ、そういう人。精力的で信頼感があって、まわりの人から慕われて。組織のなかで生きていくのに向いたお人柄だったんでしょう。

 さらに言えば、自分を律する力に長けた人でもあったようです。『元首の謀叛』を完成させるにあたり、まずはじめに、きっちりと時間表やプロット割などをつくったうえで、その項目をひとつひとつこなしていくように原稿を書いた、と言いますからねえ。

 直木賞をとったあとも、中村さんはきっと、何ひとつ自分を律する癖を変えようとしませんでした。だからこその寡作、だからこその「誰それ?」、だからこその「忘れられた直木賞受賞者へまっしぐら」なんでしょう。ある意味、ほれぼれ。

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