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2012年4月 1日 (日)

渡辺喜恵子(第41回 昭和34年/1959年上半期受賞) 直木賞をとったら華やかに活躍しなきゃいけない、とは誰も期待せず、本人も意識しないで書き続けた栄光。

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渡辺喜恵子。『馬淵川』(昭和34年/1959年5月・光風社刊)で初候補、そのまま受賞。『いのちのあとさき』でのデビューから17年。45歳。

 昭和34年/1959年上半期の直木賞は、女性2人が受賞しました。同時受賞者がともに女性、っていうのは初めてでした。

 時にマスコミこぞって「文壇才女時代」なる言葉に囚われていた頃です。当然、才女だ才女だと煽り立てようとしました。

「芥川賞は斯波(引用者注:斯波四郎と決定した。(引用者中略)別室では直木賞作家が誕生している。渡辺喜恵子の「馬淵川」と平岩弓枝の「鏨(たがね)師」。両女流作家の登場である。

 新聞・テレビの記者は、発表をきくと同時に、深夜を八方にとんだ。三人の受賞者を追いもとめながら。

 だれかがいっていた、今年の文学も、また才女時代と新聞記者作家がまだつづくのか、と。

(引用者中略)

 直木賞受賞の二人の女流作家の方が、話題となるのではないかとみる人もいる。直木賞の歴史を考えてみても、一度に二人の女性が受賞した記録はないし、衰えかかった才女時代という看板をたて直すにはまたとない好機だからだ。」(『週刊文春』昭和34年/1959年8月3日号「文壇のニューフェース 25年目の芥川賞・直木賞」より)

 意味不明です。「衰えかかった才女時代という看板をたて直す」って、いったい誰視点なんでしょうか。

 しかしです。せっかく誰かが目論んだ「才女時代のたて直し」も、残念なことに予想どおりにはいきませんでした。平岩さんはいいとして、一方が渡辺喜恵子さんですよ。45歳。地味。謙虚。コツコツ型。ゆっくりじっくり書く自分のペースを崩す気はまったくなし。……才女と呼ぶにこれほど似合わない作家がいたのか!っつうぐらいでして。

 賞さわぎの慌ただしさを経ても、渡辺さんは、自分の書きたいように書く、っていう考えを守りました。「直木賞受賞、即、流行作家」みたいな世間のイメージにさらされてしまって、困惑すらしています。まじめな人です。

「賞をもらったからといって、何も昨日に変って突然偉くなったわけでもないのに、まして金持ちになったというわけでもないのに、時どき変なことをきかれて私は困ってしまう。

 印税がたくさん入ったでしょうと電話をかけてよこす人があるかと思うと、あなた気をつけなさい、税務署が来るわよなどと、親切におどかしてくれる人もいる。(引用者中略)いくら税務署だって、書きもしない、受けもしない稿料にまで税金をかけるわけはないのだから、相手はあんまり書けそうもない私をからかっているのだと思った。」(『朝日新聞』昭和34年/1959年9月6日 渡辺喜恵子「直木賞・それから 訪問客」より)

 「あんまり書けそうもない」ことは、渡辺さん自身、十分わかっていました。選考委員たちに、

「「あとは書けまい」という声も委員中にはだいぶ出た」(『オール讀物』昭和34年/1959年10月号 吉川英治選評より)

 だの、

「大佛氏は「この作家は『馬淵川』一篇より書けないかも知れないが、それでもよいではないか。この一作だけに賞を贈りたい」といった。」(同 川口松太郎選評より)

 だの、

「将来も職業作家として立って行ける人を選ぶ、という直木賞の条件に、こんどは頑迷なほどわたしはこだわって、渡辺喜恵子氏の「馬淵川」に初めから終いまで反対をした」(同 村上元三選評より)

 だのと書かれますが、無理やり直木賞を押しつけられたかっこうの渡辺さんは、困惑したでしょう。

 家では商業写真家の木下利秀さんと二人暮らし。あくせく原稿を売り歩く必要はなく、目立たないように慎ましく生きていくことを信条としているかのような様子。小説も、ゆっくりと書くのを好む人です。

「小説の場合、私は好んで長い作品を書きたがる。一気に書くより、ゆっくり書く方が性に合っているようだ。短篇小説の場合も長篇小説の場合も、とりかかるときの作者の心構えにそう変りはないと思うのだが、なぜか私は長篇の題材を選んでしまう。」(昭和56年/1981年12月・女子栄養大学出版部刊 渡辺喜恵子・著『北国食べもの風土記』「はじめに」より)

 また、渡辺さんはことさら大きなことを言って衆目を集める、みたいな人でもありません。きっと渡辺喜恵子さんと聞いて日本人の九割以上が「謙虚」を連想するほどです(……いや、連想してほしい)。

 処女出版の『いのちのあとさき』の頃から、そうでした。クソまじめで面白みのない謙虚な文章。これぞ渡辺喜恵子その人です。

「これは、私が始めて世に出す、まづしい作品集であります。志した文学の道ははるかに遠く、至りつくといふことの難しさを識りました。唯この作品集を世に出す所以は、私の文学修業の一つの標識ともなればといふ望みからであります。」(昭和17年/1942年9月・国文社刊 渡辺喜恵子・著『いのちのあとさき』「あとがき」より)

 あるいは、直木賞受賞後のインタビューでも。

「私は苦節10年といわれていますが、この年になりますと、この10年間は尊いものです。若い方たちのものおじのなさはうらやましいですが、私にはもう自分の限界もわかっていますし、いくじもなくなりますね」(『週刊読売』昭和34年/1959年9月20日号「書斎訪問」より)

 まあ、こういうこと言いながら、実は創作意欲旺盛で年に何冊も出したり、次々と連載小説に手を染めたりしたら、イヤな人です。渡辺さんは正真正銘、地道な人でした。受賞しても、同人誌が主な活動舞台だった頃と、ほとんど変わらない書きぶりを貫きました。

 そんなふうに作家生活を送りましたので、小川和佑さんのように、こんな感想を持った方もいたことでしょう。

「より文学性の強い渡辺の作風は、マス・コミの中間小説の作風には向いていない。むしろ、長い時間をかけて自己の文学を育てていくタイプの渡辺には、受賞の騒音の去った後こそ、本来の仕事に還れるのであろう。(引用者中略)その文学の本質からいえば、直木賞作家というタイトルが今となってはあらずもがなではあるまいか。(『国文学解釈と鑑賞』昭和52年/1977年6月臨時増刊号『直木賞事典』「選評と受賞作家の運命」より ―執筆担当:小川和佑 太字下線は引用者によるもの)

 ええ。あらずもがな、でしょうね。

 ただ、直木賞をとった人が一生「直木賞作家」と言われ続けるのは、強固な砦です。それを突き崩すのは困難なことです。ワタクシは渡辺さんを一人の直木賞受賞者として認識しています。それがそんなにイケないことですか?

 受賞当時から、渡辺さんが獅子奮迅の大活躍をするだろうとは、まわりの人も期待していませんでしたし、本人も意識しませんでした。次第に知る人も少なくなり、その作品は忘れ去られ、光の当てられる機会が稀な作家となっていきました。そして、「華やかさのない直木賞受賞者」っていう、栄光ある地位を築いたのです。

「直木賞作家のその後としては地味で、華やかに取り沙汰されることはなかったが、着実な歩みで自己の文学世界を熟成していった。」(平成18年/2006年1月・日本図書センター刊『日本女性文学大事典』より 執筆担当:林正子)

 一種の栄光ですよね、これは。

          ○

 旺文社文庫『馬淵川』(昭和51年/1976年3月)の巻末に、やや詳しめの「年譜」があります。気になるところをつまみ食いしながら、直木賞受賞までの道のりをたどってみます。

 秋田県で育った渡辺さん(当時は旧姓の栗生沢[くりうざわ])が上京したのは、能代高等女学校を卒業した昭和6年/1931年。17歳。叔父の家に寄宿し、花嫁修業に入ります。

 一時、文化学院で学んでいたらしいですが、

「が、文化学院の雰囲気は良妻賢母を叩きこまれた彼女にとって、ガマンのならぬものであったらしく、健康上の理由も手伝って、たちまち退学してしまう。」(『週刊女性自身』昭和34年/1959年8月7日号「女二人が占めた直木賞 27才のお嬢さん作家と苦節10年のエプロン作家」より)

 2年後、画学生の渡辺茂と婚約。昭和10年/1935年に結婚のため、広島に移りました。しかし翌年ごろから夫・茂さんが胸を病んでしまい、療養しながら四国、尾道、東京と転々。昭和14年/1939年に茂さんと死別します。

 ひとりになった渡辺さんは大平火災保険に1年勤め、昭和16年/1941年に友人とタイプ印刷の事務所を開きました。これは1年ほどで閉鎖したのですが、このころ「仕事のかたわら同人誌をつくる」とあり、小説を書き始めたようです。

「九人兄妹の二番目なんですが、私のほかに文学の趣味のあるものはいないんです。私も、いつ小説をどうやって書き出したのか、はっきり覚えてません。はたちで結婚したが、やがて夫に死にわかれました。そんなことが動機になっているのかも知れません。」(前掲『週刊文春』記事より)

 タイプ印刷事務所で知り合ったのか、同人誌が目に止められたのか、経緯はわからないんですが、知人の出版社社員にすすめられ、『いのちのあとさき』を刊行することに。しかし、ここでも渡辺さん、はたはた困惑させられる羽目になります。

「別に小説家になるつもりもなく、ただ好きで書いていたのが、知人の出版社員にすすめられたのだそうだ。「当時はしろうとの作品がかなりもてはやされていたせいでしょうね。出版社のかたから『早く堤千代さんくらいになって下さいよ』なんていわれて面くらいました」という。」(『朝日新聞』昭和34年/1959年7月23日「人 直木賞を受賞した渡辺喜恵子」より)

 処女出版がもたらしたのは、困惑だけではありませんでした。新たな同人雑誌仲間との出会いもありました。妻木新平、辻村もと子が訪ねてきたそうで、それが縁で『文藝主潮』に入会。

 昭和19年/1944年3月から昭和20年/1945年9月まで、母の郷里である岩手県福岡町へ疎開。このときに、のちの『馬淵川』の原型となる伝説の2000枚原稿を書き上げた時期だったわけですね。

 再び上京後は、妻木新平のはからいで『日本青年文学者』編集のお手伝い。昭和22年/1947年には、『馬淵川』の一部である「末のまつやま」を発表し、第2回女流文学者賞の候補にもなりました。丸岡明の紹介で『三田文学』に参加しはじめたのは、昭和24年/1949年だったそうです。

 この年の暮に、商業写真家の木下利秀と再婚。35歳でした。

 小説執筆に関しては、もう渡辺さん、セミプロといっていい状況になっており、昭和25年/1950年には「紙が出まわりはじめて出版社が増え、この頃から原稿生活が軌道に乗るようになる。『明日』『女性改造』『新女苑』などに執筆」。何人かの直木賞受賞作家、候補作家を生んだ同人誌『下界』にも加わり、おそらくはその縁で光風社ともつながりができました。

 昭和30年/1955年から昭和32年/1957年にわたって『新文明』に「馬淵川」を連載。これをまとめて光風社から単行本として出版したのが昭和34年/1959年でした。直木賞を受賞しましたが、当時のマスコミで無理やり付けられたキーワードのうち、「才女」でも「苦節十年」でもなく、ただただやめずに淡々と書いてきた、って感じの人でした。

          ○

 そして、昭和34年/1959年以降も、ただただやめずに淡々と書きつづけた……と表現すると語弊がありますか、そうですか。東京に住みつづけながら故郷(北東北)への思いは衰えず、鷲尾三郎さんによると、「主人公は、その九〇%までが東北出身の女性」というかたちで小説を書きました。

 しかも、渡辺さんは直木賞受賞者のなかでは地味トップクラスですが、一千万円の大金を寄付して、新たな文学賞をつくってくれた、っていう意味で文学賞界においては、なかなかの恩人なのでした。

「渡辺の郷土に対する愛着もまた深い。地元紙の秋田魁新報社に一千万円を寄付し、「さきがけ文学賞」を作った(昭和五十九年度)が、毎年公募され、全国から六十編ほどが応募している。渡辺の意志は、東北を対象とした文学賞の基金にと申し入れたのを、同社が全国に拡大してしまったらしいが、自ら審査員を買って出、後輩の養成に尽力している。」(昭和63年/1988年12月・秋田文化出版社刊 鷲尾三郎・著『秋田を動かす25人』所収「渡辺喜恵子」より)

 そうですよね、東京なんぞの偏った出版事情によりその名が消え失せようとも、故郷に対する貢献、あるいは終生故郷を忘れなかった作家ですもの、秋田では、渡辺喜恵子さんの名前はしっかり語り継がれているんですよね。

 ……と思ったら、あれ。ほんの3年前に赤坂憲雄さんが、こんなこと書いているではありませんか。

「わたしはじつは、渡辺喜恵子という名前を知らなかった。「消えた直木賞作家」といった本のなかに、その名前があった。秋田県出身ではじめての、東北でただ一人の女性の、直木賞作家である、という。奇妙な、いくらか不純でもある関心をそそられた。」(『河北新報』平成20年/2008年11月9日「東北 知の鉱脈 赤坂憲雄が行く(20) 渡辺喜恵子(北秋田市)」より)

 おお。赤坂さんも「消えた直木賞作家」に関心をそそられますか。ワタクシもです。嬉しいですなあ。……ってことは措いときまして。問題は、この文章の後半部分です。

「第一の故郷ともいうべき秋田では、渡辺喜恵子の名前はなかば忘れられている気配があった。40代以上の人であれば、名前くらいは知っているかもしれないが、若い人たちは知らない、材木問屋の娘で、裕福な家に育ったこと、東京に出てしまったことなどが、郷土の作家というイメージを育ちにくくしている、そんな声を聞いた。」(同)

 えーっ。渡辺喜恵子を知らない秋田県人がいるの!? 「材木問屋の娘で裕福な家に育っ」ちゃうと駄目なんですか。呆然。

 ……ほんとに若い秋田県人が渡辺さんを忘れ去って安穏と暮らしているかどうかは、検証できていないので、突っ込まないことにしましょう。華やかさに欠け、直木賞受賞者のくせに文学味が強く、商業的にも旨みのない昔の作家。みんな忘れていくでしょう。

 しかしワタクシはなかば楽観視しているのです。日本中で絶対に渡辺さんの名前を忘れていない集団がいるはずですから。ええ、直木賞愛好グループなら、いくら若い人たちでも、渡辺さんを知らないわけありません。そして、今後も永く、彼女の名前や作品を語り継いでいくことでしょう。ですよね?

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