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2012年3月25日 (日)

小池真理子(第114回 平成7年/1995年下半期受賞) 話題先行の〈きわもの〉のイメージを背負いながら、売れない小説を書きつづけた10年が、ドラマをドラマたらしめる。

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小池真理子。『恋』(平成7年/1995年10月・早川書房/ハヤカワ・ミステリワールド)で初候補、そのまま受賞。『第三水曜日の情事』『あなたから逃れられない』での小説家デビューから10年半。43歳。

 今年の芸術選奨[文学部門]は小池真理子さんですかあ。すっかり大御所の格ですね。よかったよかった。

 それで今日の主役は小池さんなわけですけど、今から16年前、直木賞をとったときに小池さんはこう言われました。「もはや〈知的悪女〉を持ち出す必要がなくなった」と。

「知り合いの編集者に「実は小説が書きたいんです」と申し出たが、「小説など書かずに、結婚した方がいいよ」とにべもなく言われたのは、七八年の初エッセー集『知的悪女のすすめ』がベストセラーになった時だった。「でも、そのころの私は、そう言われても当然だった」と振り返る。小説に専念したのが八四年。そんなマスコミタレント的イメージとの戦いだったという。しかし今、この人を語るのに「知的悪女」を出す必要はもうないだろう。」(『読売新聞』平成8年/1996年1月12日「顔」より ―署名:文化部石田汗太)

 まったくです。もう必要はないでしょう。

 ただ、小池さんの直木賞までの道のりに、〈知的悪女〉の件が重要な役割を果たしたのは事実です。うちのブログは直木賞関連オンリーです。おさらいしないわけにはいきません。

 昭和53年/1978年10月、小池さん25歳のとき、山手書房から『知的悪女のすすめ――翔びたいあなたへ』が出版されました。これが大層売れまして、同シリーズのエッセイを続々と刊行、講演会に呼ばれるは、テレビのコメンテーターの仕事が舞い込むはで「人気エッセイスト」の座をつかみました。

 ただ、先の引用文にもあったように、小池さんにとっては「マスコミタレント的イメージとの戦い」でした。数々のエッセイやインタビューなどで明かされているとおりです。いや。シリーズ3冊目の段階ですでに、自分の考えと、世間の受け取られ方とにギャップを感じていました。

「私が今まで書いたり語ったりしてきた“知的悪女”という一つの女の像が、果たして私の思っていた通りの形で読者に伝わっていたかというと疑問である。

(引用者中略)

 私の“知的悪女”はマスコミの男どもの手を経てかなり勝手に解釈され、ファッション化された。あるときはセックスのことのみ強調して語られ、またあるときは、不倫の恋のすすめがメインテーマであると言わんばかりに、不自然に本そのものが歪曲化された。」(昭和54年/1979年3月・山手書房刊 小池真理子・著『素肌でシェリー酒を――新・知的悪女のすすめ』より ―引用文は昭和57年/1982年4月・角川書店/角川文庫より)

 なにしろ〈知的悪女の小池真理子〉の印象は鮮烈でした。何かにつけ知的悪女、知的悪女と言われる日々を送ります。

 若いネエチャンが威勢のいいこと言ってるぞ、と世のオジサンたちの好奇の目にさらされ、もてあそばれる構図ですね。もちろん、小池さんの虚像を楽しんだのはオジサンだけではありません。あとに続く若いネエチャンからも、違ったかたちで標的にされたのでした。

「最近、小池さんと同じ名前のコピーライターの林真理子さんが、小池さんとは逆の〈結婚願望〉をテーマにした著作を次々発表してマスコミをにぎわしています。

 〈やっぱり女はカワイくて愛される方が幸せだ……〉

 として、時代の保守化の波にのってベストセラーを出している姿をみるとき、益々小池さんの存在の重さを感ぜずにはいられません。

 会田雄次氏や渡部昇一氏のような男性天敵のみならず、同性天敵とも闘っていかねばならぬからです。」(昭和58年/1983年9月・角川書店/角川文庫 小池真理子・著『結婚アウトサイダーのすすめ』所収 ばばこういち「解説」より)

 そうです。小池さんより数年遅れて現れた〈若いネエチャンエッセイスト〉希望の星、林真理子さんからの突き上げでした。

「こういう女の下半身打ち明け話っぽいものが本になりはじめたのは、いったいいつ頃からだっただろうか。

 私が思うに、小池真理子さんの「知的悪女のすすめ」なんかが先鞭をつけたと思う。(引用者中略)最初にあの本を読んだ時、

「へえー、こんな卒論のできそこないみたいなものが本になるわけ――」

 と当時の私はかなりふんがいしたものである。彼女の美人ぶるのと、悪女ぶるのも、私には気にいらなかった。(引用者中略)

 成功した有名女性の悪口をいうのは、彼女(引用者注:成蹊大出身の、林の友人)と私の共通の趣味なので、それから二時間以上も電話でエンエンと彼女の悪口をいってしまったのだ。

「だいたいねぇー、自分にちょっとバカな男が何人か寄ってくるからって、それにどうのこうの意味をもたせたり、カッコつけんの間違ってるわよ」

「それにさ、女同士でやるようなナイショ話を、本にするって根性セコイわね」

「よくいたじゃん、小学校の時、みなの話を聞くだけ聞いて、あとでひとりで先生にいいつけに行くコ」

「いた、いた、そういうコにかぎってわりと可愛いから、先生にかわいがられたりして」

「あらっ、小池真理子って可愛い?」

「よくいるタイプ、タイプ、赤坂のスナックなんかで塩コンブをつまんでほこりかぶってる……」

「あなたのほうがゼーンゼンいい女よん」

「ま、ありがと。色気だったらマリコ(私の方の真理子)の方があるわね」

 小池さん、ごめんなさい。市井の女たちというのは、こんなひどいことばっかりいってるものなんです。

 しかし、あのテの本を書く女性たちが、女たちから嫌われているのは事実ですね。」(昭和57年/1982年11月・主婦の友社刊 林真理子・著『ルンルンを買っておうちに帰ろう』「打ち明け話はもう古いつうもの」より ―引用文は昭和60年/1985年11月・角川書店/角川文庫より)

 なある。小池さんを目のカタキにしていたのは、良識派を気取る旧世代のおじさんおばさんだけじゃなかったのですなあ。林さん言う「女たち」も、また嫌っていたと。

 でもまあ、林さんも「ごめんなさい」とフォローを打っているわけで、心底嫌っているっていうより、〈知的悪女の小池真理子〉像を題材にして茶々入れて、面白がっていたのかもしれません。

 直木賞受賞後の対談では、即行、詫びを入れちゃっていますし。

 (引用者中略)私、小池さんに謝らなきゃ。十四年前の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』で、失礼なこと書いちゃって……。

小池 ハハハ。いいですよ、そんなこと。(引用者中略)

 私もそうですけど、小池さんも『知的悪女のすすめ』みたいな、小説以外のもので一世を風靡しちゃうと、作家デビューしづらいところ、ありますよね。その後、小説書いても「お前なんか作家ヅラするな!」って。

小池 お互い最初、「きわもの」って感じで受け取られましたよね。でも、林さんの『ルンルン~』は、若い女のコの視点で素直に書いた本だから、あまりたたかれなかったでしょ?

 そんなことないですよー。「こんな下品な女、許せない」とか。

小池 ほんとに? 私も新宿のゴールデン街に行けなかった。「石投げて追い返してやる」とか言われてたらしいです。」(『週刊朝日』平成8年/1996年10月25日号 林真理子「マリコの言わせてゴメン! ゲスト・作家小池真理子」より)

 なごやかで微笑ましいですね。〈知的悪女〉からの数年、小池さんは相当、精神的に苦しい思いをしたはずですけど、笑って話せてくれて、ホッとするヒトコマです。

 〈きわもの〉エッセイストから小説家への転身。林さんの場合はすでにそのとき、直木賞騒ぎの渦中にいましたので、賑やか通しの転身でした。対して小池さんは状況が違っていました。スポットライトを浴びる舞台から、あえてひっそりした世界にもぐり込んだ、といったふうに思える転身でした。

「初めて長編小説を書き出したのは、一九八四年ころ。集英社の担当編集者だったN氏に励まされ、書き直しを命ぜられたのもたった一度で済んだ。それが翌八五年に刊行された『あなたから逃れられない』というミステリ長編である。“悪名高き”エッセイを出してから七年後。二度目のデビューは、初めのデビューと違って静かなスタートを切った。騒々しいことが苦手な私にとって、これはとても嬉しいことだった。」(平成3年/1991年1月・角川書店/角川文庫 小池真理子・著『猫を抱いて長電話』所収「二度目のデビュー?」より ―初出『別冊小説宝石』平成1年/1989年9月)

 ううむ。初めのデビューのときは、よほど嬉しくない騒々しさだったのだな、と思うことしきり。

          ○

 小池真理子と直木賞、とくれば、誰しも(?)「藤田宜永」という言葉を思い浮かべるでしょう。小池さんが小説家としての一歩を踏み出そうとしていたこのとき、それは直木賞に至るスタートだったと同時に、「直木賞史上初の夫婦同時候補」への出発点でもありました。

 藤田さんと出会った時期が、ちょうどこのころ、昭和58年/1983年だったからです。

「藤田さんは早稲田大学中退後、文学や映画で心酔したフランスで七年間暮らす。しかし、「やっぱり小説を書きたい。自分が小説で勝負する土俵は日本しかない」と思い至り、一九八〇年に帰国。

 その三年後、出版社のパーティーで小池さんと同席した。小池さんは七八年に出した初のエッセー集「知的悪女のすすめ」で一躍マスコミの寵児(ちょうじ)に。だが「何か違う。私が本当にやりたいのはテレビ出演ではなく小説」と悩んでいたころだった。

 「互いに小説への思いが強く、同志的なところがあったせいか」、三か月後に一緒に暮らし始める。ともに三十代。「二十代のころなら『何、この生意気男』『そっちこそ』と思ったでしょう。いい時期に出会えました」
(『読売新聞』平成8年/1996年12月23日「私のパートナー 作家・藤田宜永さん VS作家・小池真理子さん」より ―インタビュー:猪熊律子)

 お互いに作家。と言うよりかは、お互いに「作家を志す物書きの端くれ」でした。

 小池さんはこれまで書いてきたようなものを捨てて、自分の書きたい小説で勝負しようと決意していました。まだ当時、小池さんはエッセイを出し続けていましたが、すでにその文章を読んで、あ、彼女、書くものが変わったな、と気づいた人もいたそうです。

「「いとしき男たちよ」という文庫本だった。読んでいくうちに、小池真理子は変ったな、と思った。「キツーイ一言」とか「くたばれ!! 軽薄美男子」とか相変らずの小見出しがついていたが、読後感はいささか甘いのである。とくに最後の「解説」である。藤田宜永という男性が書いていた。のっけから、

「僕のアイカタ、真理子です、よろしく」

 とある。なんじゃい、これは。(引用者中略)それはそれとして、小池真理子が変った理由が私には分かったのである。行間に、きちんと真綿が敷きつめられてある。こんな彼女に変身させてしまった野郎は、などと声を荒ららげても仕方あるまい。男を見る目が変ってきたのは事実である。男のだらしなさに対する見方にも余裕が出来てきた。」(昭和62年/1987年1月・角川書店/角川文庫 小池真理子・著『二人で夜どおしおしゃべり』所収 江森陽弘「解説」より)

 二人の関係は、収入の面でも賞レースの面でも、常に小池さん一歩リード、っていうかたちで進んでいきます。共に処女作を出して、どちらかが書評に載ってはライバル心に火をつけられたり、どちらかの作品が褒められてれば嫉妬心を抱いたり……。そんな関係が10年つづく、という。

「お互いに物書き同士が一緒になったことを、たぶん死ぬまで後悔しないんじゃないかと思っています。それでも、腹が立つことはしょっちゅうあります。

 本が同時に出ることって、たまにあるでしょう。そうすると、書評はどっちが多いとか、この編集者と評論家はあなたのほうについているなんて、両方で票を取り合う。いまでは慣れっこになってしまって、ゲーム感覚で楽しんでいますね。」(『鳩よ!』平成8年/1996年10月号「ロング・インタビュー小池真理子」より ―インタビュー・構成・文:結城信孝)

 そんな状況で、平成8年/1996年1月を迎えます。

 夫・藤田宜永さんのほうは、前年10月ごろには次の直木賞で候補になりそうな感触をつかみ、いっぽう妻・小池真理子さんのほうは、自分の小説が直木賞なんて大きな賞の候補に取り上げられるとは想像もしていなかった平成7年/1995年下半期。

 「夫婦同時候補」というのは、たぶんに文藝春秋の仕掛けの匂いがぷんぷんしますね。けどまあ、それは置いておきましょう。小池さんにとっては一大事でした。

          ○

小池 だって、ゼロで始めたんですよ、二人で。ほんとに海のものとも山のものともつかない状態で二人同時にスタート切って小説書き出して。バーボン空けながら夜な夜な小説の話してきた相手がね、一緒にやってきたやつがくすんでるというのは見たくもないし、見せてもらいたくないし。もう夫とか妻とか男女の関係じゃないんですね。うーん、何と言うんでしょう。戦友とか親友とかなんかそういうニュアンスだから。」(『週刊文春』平成15年/2003年10月30日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」より)

 小池真理子さんというと、直木賞をとる前からずいぶん売れていた印象がありましたけど、ご本人いわく「知名度先行型の人間」で、じっさい『無伴奏』までの小説はすべて初版どまりだったんだそうです。二人でゼロから始めて、ひとつひとつ〈売れない〉小説を書き続けてきた、っていうのが、小池さんにとっての直木賞までの10年だったんでしょう。

 「戦友」つう単語には、なるほど、そういう思いがこもっているのか、と思わされます。

「一般読者のなかには、小池真理子はミステリに転向してからも本が売れ続けていると錯覚している人が多いが、現実はかなり違う。増刷がかかりはじめたのは『無伴奏』以降で、それまでは初版部数の八千から一万部の間を低迷。数字が大きく動きはじめたのは『恋』からで、過去の文庫本も軒並み部数を伸ばしている。(引用者注:以上、インタビューによる地の文)

(引用者中略)

最初から小説家でデビューしていて、売れないにせよ地味に自分の小説で勝負してきた人間だったら、一回は大きな壁にぶち当たっていたはずです。ところが、わたしの場合はエッセイだった。(引用者中略)いまは静かに自分の部屋で好きな世界を紡いでいる姿そのものが自分自身であり、それ以上ほしいものはありませんね。いまひとつ本が売れなくて悩んだ時期もありましたが、楽観的にやってこられたのは、昔の自分に戻るくらいなら、いまのほうが幸せだという意識が強かったからでしょう。」(前掲『鳩よ!』「ロング・インタビュー」より)

 どれだけ〈知的悪女〉時代は不幸な気分だったんだ!

 小池さんが多少苦しくても地道に書きつづけた背景として、〈知的悪女〉シリーズの影と、それから戦友・藤田宜永さんの存在を、どうしても重ねて見たくなるじゃないですか。とくにワタクシらのような第三者の立場の者は。

 この背景があって、第114回(平成7年/1995年下半期)の直木賞があるわけです。ううむ。お膳立てした日本文学振興会め、おぬし策士よのう。

 小池さんは藤田さんとは別の場所で、選考結果を待っていました。結果を報せる電話がかかってきまして、切ったあと、涙を流したのだそうです。

小池 受賞の発表のときは、旦那とは別々のところで電話を待っていたんです。で、電話が来たとき、「うちの藤田はどうなりました?」って先に聞いちゃったんですよ。そしたら、「残念ながら……」って言われて。(引用者中略)

 次の会場に行く間に一人取り残されて、実家にうちの両親と妹が待ってましたから、実家に電話して。そしたら、うちの旦那のことみんな気にしてるから、妹が、「彼、どうだったの?」と聞くから、「だめだった」と言った瞬間に、なぜかね、二人で電話口で大泣きしちゃって。」(前掲「阿川佐和子のこの人に会いたい」より)

 もうドラマチックすぎます。そりゃあ第114回が、未来に書かれるかもしれない直木賞史のなかで、大きな事件として取り上げられるのは、確定したようなものです。おめでとうございます(……ん?)。

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