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2012年3月 4日 (日)

佐藤雅美(第110回 平成5年/1993年下半期受賞) 歴史経済ものから時代小説へ。小説ジャンルを変えてでも、食い扶持を稼がなきゃいけないお父さん。

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佐藤雅美。『恵比寿屋喜兵衛手控え』(平成5年/1993年10月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。『大君の通貨』でのデビューから9年半。52歳。

 佐藤雅美さんといえば、もはや押しも押されぬ人気時代作家、と言っちゃっていいでしょう。直木賞をとってから、もうじき20年目を迎えます。

 しかし彼の人となりを知ろうと思うと、なかなか苦労します。いちばんの理由は、いまだエッセイ集が一冊も刊行されていないからです。

 処女作『大君の通貨』は、昭和59年/1984年、講談社から書き下ろしで出版されました。43歳のときでした。それまでどこで何をしていたのか。……『大君の通貨』から『恵比寿屋喜兵衛手控え』まで10年弱。その間、どんな思いで小説を書いていたのか。

 エッセイ集がひとつでも出ていれば、そんなあれこれもサクッとわかったかもしれません。でも、そうは行きません。「地味な直木賞作家」ファンでもある直木賞オタクは、雑誌記事を一つひとつ当たる、っていう苦労を強いられることになるわけです。毎度のごとく。

 そこで今日は、佐藤さんの直木賞受賞までの日々を、いくつかのエッセイなどから構成してみます。題すれば、「佐藤雅美、ギャンブルと酒と一念発起の半生」といったところでしょうか……。

 そもそも30代後半まで、佐藤さんは作家になろうと思っていませんでした。大学浪人時代、まだそのころは佐藤さんも、漠然と作家稼業に憧れを抱いていましたが、大阪中之島の図書館で行われた今東光の講演を聴いたとき、その思いを捨てたと言います。

「今東光先生は一座を睥睨し、人を食ったような嗄れ声でまずこうおっしゃられた。

「ここに来ている者は、みんな小説家になろうと思ってるだろう」

 小説家は居職で、気苦労のない職業と聞いていた。漠然と、なれればいいなあと憧れていた。言い当てられて一瞬ひるんだ。そこへすかさず、

「小説などというものは特別の才能をもった者しか書けねえ。だいそれた考えは今日を限りに捨てることだ」

 目から鱗が落ちる思いがするというのはそのことだった。

 以来、小説作者になろうなどという志をかなぐり捨て、そのための修行などといったことももちろんしたことがなく、ただ楽をしよう楽をしようと安き低きについて世渡りしてきた。」(『オール讀物』平成6年/1994年3月号 佐藤雅美「父の奇病」より)

 昭和30年代なかば、1960年ごろのことだと思われます。

 早稲田大学に入ったあとは、授業に出るより雀荘に通う毎日。麻雀で生活費を稼ぐまでにのめり込んで、その当時の将来の夢は「麻雀屋のオヤジになること」でした。

伊集院(引用者注:伊集院静 学費もそれ(引用者注:麻雀)で稼いでたんですか。

佐藤 学費と生活費、アパート代が六、七千円だったと思いますから一万いくらか送ってもらってましたかね。麻雀は月、大体十万ぐらい。

伊集院 十万! それじゃ小説の世界に入るのは遅くなるはずだ(笑)。

(引用者中略)

伊集院 その頃、小説を書こうという気持ちはなかったんですか。

佐藤 全然っ。その頃の夢は麻雀屋の親父になることでした(笑)。」(『現代』平成6年/1994年4月号 伊集院静×佐藤雅美「競輪場は直木賞への近道だった!? だからバクチはやめられない」より)

 卒業する頃には、通っていた飲み屋の看板娘だったという女性と結婚。その後、二児をもうけます。

 一度はサラリーマンになろうと就職します。しかし入社研修がバカらしくなって三日で退社。やっぱり宮勤めは性に合わないと、学生時代に鍛えた麻雀で稼ごうとしますが、どの雀荘でもプロはお断りと出入り禁止を食らう始末。しばらくは、妻に食わせてもらう生活を送りました。

 昭和43年/1968年、27歳のときに講談社の『ヤングレディ』誌にフリーライターとして採用されます。ところが原稿の書き方も知らず、「まったくのド素人」だった、とはご本人の弁です。

「女性誌でなじみにくかったこともあって、ここも三ヵ月でリタイア。それから週刊ポストの創刊に記者として参画したり、いろいろな雑誌でお世話になりましたが、衝突することが終始で、ほとんど三ヵ月から半年でクビになりました(笑)」(『週刊文春』平成6年/1994年1月27日号「ぴーぷる」より)

 その後、『週刊サンケイ』誌でようやく、自分の居場所を見つけます。まわりの人たちが法律・経済の記事をやりたがらないのを見て、積極的にその方面の取材に邁進。アンカーマンとして活躍しはじめました。

 しかし、それだけでは食えない。っていうんで、地方の財界人の自伝を中心に、ゴーストライターの職にありついて、二足のわらじで生活費を捻出。二人の子供を育てました。

 いや。佐藤さんの気持ちのなかでは、「居場所を見つけた」感覚などなかったみたいです。

「二十七の半ばという歳でフリーライターという仕事をはじめた。週刊誌の特集記事の請負とゴースト(代筆)がおもな仕事だったが、それらの仕事は正業でないという意識がつねにつきまとっていた。

 正業とはなんであるか。サラリーマンとして勤めるか地道な商売である。」(『中央公論』平成6年/1994年6月号 佐藤雅美「墓石ブローカー」より)

 昭和48年/1973年ごろには一度、自ら商売を始めようと、韓国から墓石を輸入するブローカー業に手を染めました。しかし、オイルショック後の不景気の波をもろにかぶって、商売が立ち行かなくなり、再び週刊誌記者とゴーストライターの道に舞い戻り。

 地道に働いていればよかったんですが、佐藤さんのギャンブル好きは筋金入りだったみたいで、競輪場通いがやむことはありませんでした。

「神奈川には川崎、花月園(横浜市)、平塚、小田原と競輪場が四ヵ所もある。日本でいちばん競輪場の多い県で、東京を目指すはずが、川崎で途中下車したり、逆にふらっと小田原を目指したりする。はなはだしいときは小田原の先の伊東、あるいは東京を通り越して千葉、取手、大宮、前橋、小田急を逆行して京王閣(調布市)、立川などとそれはもうめまぐるしいくらい関東各地をうろうろした。」(『オール讀物』平成18年/2006年4月号 佐藤雅美「猛暑の城下町」より)

 これが30代半ば、昭和50年代ごろの佐藤さんの生活です。正直、すさんでいます。

          ○

 このころの佐藤さんは、夕方から朝まで(あるいは昼まで)毎日大酒を飲んでいたそうです。

「『週刊サンケイ』のアンカーをはじめ、経営・経済ものの覆面ライターをしていた昭和五十二、三年ごろ、佐藤雅美は毎日夕方になるのを待ちかねたように大酒を飲みはじめた。(引用者中略)

 ずるずる酒。

 本人自らがそう呼ぶ長っ尻型の酒豪なのである。

 朝まで。状況が許せば昼まで。さらに態勢を立て直して夕方・夜まで。」(『正論』平成6年/1994年4月号「ひと広場」より)

 このままじゃいけない。何とか自分を立て直さなきゃならん。男・佐藤雅美、37歳、ついに一念発起します。

「昭和五十四年の某月某日、彼は酒友三人と連れ立って馴染にしていた新宿二丁目のバーに出かけ、ママにこういった――。

「これから先、毎朝早起きして、やりたいことがあるんだ。だから当分こられない。それに応じて収入も減るはずだから、申し訳ないけど今までのお勘定、しばらくおいといて頂けないだろうか」」(同記事より)

 このとき、佐藤さんが選んだ道は、なにか自分の名前で本を一冊書くこと、でした。

佐藤 ゴーストライターのころ、三十代の一番頭のみずみずしい時に人のどうでもいいことを書いて過ごして。これも情けない話でね。毎年、五、六冊書いていましたね。

内館(引用者注:内館牧子) それも気持ちがすさみませんか。

佐藤 嫌になりましてね。

(引用者中略)

佐藤 その後、三十七歳で、一切こういう情けない仕事、ゴーストとか週刊誌の仕事とかやめよう、足を洗おうと。と言って、会社勤めも難しいですし、今さら経験がないのに雇ってもらえませんし、何か商売しなきゃいけないなと。やめて、商売する前に、せっかく十年活字の世界にいたんだから、一冊ぐらい自分で何でもいいから書いてと。」(『This is 読売』平成10年/1998年12月号「内館牧子の毒をひとつまみ 江戸の女はかかあ天下」より)

 「何でもいいから」。ここで佐藤さんが目をつけたのが、ご存じのとおり、歴史経済ものでした。

 なぜ歴史ものだったのでしょう。佐藤さんはこのように語っています。

佐藤 知識があって歴史小説を書いたわけではないんです。むしろ、私が知らない世界だから歴史を書こうとしたといっていいかもしれません。といいますのは、今の時代を書けば、小説の中に自分の姿が剥き出しになるような気がしたんです。それを避ける手段が、歴史を題材にすることだった。

――具体的な構想があって、歴史小説を書き始めたわけではないというわけですか?

佐藤 こんなことをいうとお叱りを受けそうですが、明治より以前の話なら何でもよかったといえるかもしれません。ただ、ひとつだけ最初に考えたことは、よく知られている歴史上の英雄は書くまい、ということでした。英雄伝は、すでに先輩方がたくさんお書きになられていますから、そこに割って入るのだけはやめようと思っていました。」(『The Bigman』平成4年/1992年11月号「著者インタビュー 自分には小説を書くための“特別な才能”なんてあるとは思っていなかったんです」より)

 37歳で書き始めて、実際に処女作『大君の通貨』が講談社から出るまで5年。2年間は他の仕事をまったくせずに、貯金を切り崩しながらの生活だったとか。おお、そう考えると、週刊誌記者時代に、けっこう稼いではいたんだろうなあ、と想像はできますね。

 ようやく書き上げた原稿でしたが、

「編集者の理屈はこうである。

「新人賞がいくつもある。小説を書きたいのなら、新人賞に応募してからにしなさい」

 言外には、いきなり単行本をだすなど厚かましいといっている。

 だから預けても読まない。半年ほど棚かなんかに置き晒しにし、いろいろ理由を付して突き返す。聞いていると、編集者はあてずっぽうをいっている。つまり読んでいない。そして適当に「人物が書けていない」とかなんとかひとしきり講釈をたれる。」(平成15年/2003年9月・メディアパル刊『そして、作家になった。――作家デビュー物語II』所収 佐藤雅美「長い遠回りの旅」より ――初出『新刊ニュース』平成13年/2001年3月号)

 出版社からはまるで相手にされませんでした。

 それを拾ったのが、講談社の中澤義彦さん。半年以上かけて相談し、何度も書き直した末に『大君の通貨――幕末「円ドル」戦争』は昭和59年/1984年9月、ようやく日の目を見ました。佐藤さん、43歳。

 運よく、これに新田次郎文学賞が与えられました。4万部くらい売れました。さあようやく作家として独り立ちできたか。……と思いきや、まだまだ佐藤さんの悪戦苦闘は続きます。 

          ○

 歴史経済ものは、貯金を減らしはしたものの、稼ぎを生んではくれませんでした。涙。

佐藤 歴史経済は別物だという扱いで、どこからも注文は来ないし。一年に一冊が限度なんです、相当調べなきゃならないから。それで本にしたって飯が食えないから、またほかで生活費稼ぎをしなきゃいけない。

 ちょうど子供が高校、大学にかかっちゃって。二人いて、一人は体育会で東京なのに寮に入れて仕送りしなければいけなくなった。あのころが一番ひどかった。」(前掲「内館牧子の毒をひとつまみ」より)

 『大君の通貨』を皮切りに、佐藤さんが発表した歴史経済ものは、『薩摩藩経済官僚――回天資金を作った幕末テクノクラート』(昭和61年/1986年8月・講談社刊)、『幕末住友役員会――生き残りに賭けた二人の企業戦略』(昭和62年/1987年8月・講談社刊)、『主殿の税――田沼意次の経済改革』(昭和63年/1988年7月・講談社刊)、『江戸の税と通貨――徳川幕府を支えた経済官僚』(平成1年/1989年2月・太陽企画出版刊)。まさに一年に一冊でした。印税は年に100万円~200万円ほど。食えません。

「食いつなぐのが大変だった。いよいよ食えなくなって、バブルの頃は、立体駐車場の機械の販売をやったりもしました。あの頃は、銀行がカネを貸したくて、こっちが何もしなくても、銀行マンが空き地を探してきては勝手に売り歩いてくれたので、結構儲かったんですが、ある日を境に、パタッと銀行が金を貸さなくなって、立体駐車場もダメになった。

 僕は、形式上は今(引用者注:平成6年/1994年)もその立体駐車場の販売会社の社員になっていて、そこからずっと給料をいただいて、今までなんとか食いつないできたわけです。」(『週刊現代』平成6年/1994年2月19日号「処女作は2年間棚ざらし…直木賞受賞でやっと食えるかなあ」より)

 さあて。食えないだ、貧乏だ、と言いつつ二人の子供を立派に成人させ、夫婦暮らしを破綻させることなく50歳まで生きてきた佐藤さんです。ようやく来ました。ようやく、ここで「直木賞」のハナシが登場します。

 歴史経済小説ではこれからもジリ貧の一方なのは目に見えていました。そこで佐藤さんが考えたのが、「直木賞の対象になるような小説を書く」ってことだったんですね。

(引用者注:歴史経済小説は)まだジャンルとして確立していないので、編集者も文壇もいわゆる文学としては見てくれないし、何冊書いても、時代小説の作家としては認めてもらえないようなところがあるんですよ。だから、原稿依頼もなかなかこない。それで、これじゃいけないというか、もっとあからさまにいってしまえば、『直木賞の対象になるような小説を書かなきゃいかんな』と思ったのがきっかけで、江戸時代のお裁きのこととか公事宿のことを、図書館に通って調べ始めたわけなんです。

 ところが、法制史関係の資料というのは実に難しくて、なかなか読み込めないんですね。それで、一回諦めて、岡っ引きを主人公にした『半次捕物控 影帳』を先に書いて、改めて資料を読み込んでから、『恵比寿屋――』を書いたわけです」(同記事より)

 やあやあ、まったくお疲れさまでした。

「直木賞をとったことで、これからは雑誌の連載の形でも仕事が入ってくると思うので、それが単行本、文庫本になっていけば、なんとか食えるかなと」(同記事より)

 受賞してから20年弱。佐藤さんの単行本や文庫本の刊行数はぐんぐん増えつづけています。こんな佐藤さんの歩みを追ってみますと、「今の時代、直木賞には何の意味もない」なんて言葉を、軽々しく口にしていいのかな、と迷いたくもなりますよね。

 そしてワタクシは、そろそろ佐藤さんの第一エッセイ集が刊行されてもいいのじゃないかな、とも期待しています。直木賞以後、佐藤さんが新たな苦難(?)にどのように立ち向かっていっているのか、知りたいですし。なぜ平成10年/1998年ごろから名前の読みを「まさみ」から「まさよし」に統一したのか、なども、そのエッセイ集では語られることでしょう(って、ホントか?)。

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