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2012年2月の4件の記事

2012年2月26日 (日)

山田詠美(第97回 昭和62年/1987年上半期受賞) あれだけ直木賞騒ぎで迷惑な思いをした人が、それでも文学賞を擁護してくれるのですよ。嬉しいなあ。

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山田詠美。『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』(昭和62年/1987年5月・角川書店刊)で初候補、そのまま受賞。「ベッドタイムアイズ」でのデビューから2年。28歳。

 いまだによく耳にする直木賞・芥川賞の感想をご紹介します。

 ――最近の直木賞・芥川賞は若い女の子ばっかりにとらせて単なる話題作りのイベントに堕した。

 推測ですが、こう語ってしまう人の80%は、第130回芥川賞(平成15年/2003年下半期)のことを強烈に記憶しているのだろうと思います。そういう方には、「直木賞ってほとんど若い女の子は取ってませんよ」と諭してあげるのが効果的です。

 ただ、19%の人は、それでは治癒しません。1980年代、林真理子さんや山田詠美さんが受賞した頃の、特異な直木賞の現象を、本気で「最近」と感じてしまっている方だからです。「30年以上も前のことを、“最近”で片づけるのは感心しませんね」と、根気づよく、時の流れというものを説明してみてあげてください。

 残りの1%の人は……。誰かの言っている言葉を、ただ繰り返してみたいだけなのでしょうか。「直木賞・芥川賞を貶めるのってカッチョいい!」みたいな価値観に捕われて悦に入っているのかもしれません。相手にしないほうが賢明です。

 しかし、ああ。文学賞そのものを馬鹿にする風潮はやむ気配がありませんぜ、ご同輩。悲しいですね。

 そんな悲しむワタクシたちを喜ばせてくれる人がいます。

 「世間の空気」ってやつに敢然と立ち向かう女。山田詠美さんです。

「選考委員って決して楽な仕事じゃない。最近ようやく選考の醍醐味というかおもしろさもわかってきたけれど、時間もかかるし、割に合わない仕事だと思うことも多いです。読むのは本当に真剣だし、フェアであることを自分に課せられますしね。コネとか画策とか何もなくて、いいものだけをちゃんと選びたくてやってますから。だから、選考委員なんて偉そうだとか、文学賞選考について文句を言う人たちに対して頭にくる。」(平成19年/2007年7月・文藝春秋刊 河野多惠子・山田詠美・著『文学問答』所収「文壇とは何か?」より ―初出『文學界』平成14年/2002年11月号)

 いいですねえ。山田さんは、文学賞とそれにまつわる海千山千の経験をいっぱい積んできました。その人が、いま文学賞の側に立って、文学賞をネタにした妄想だらけの遊び方にビシッと喝を入れてくれる、という。

 しかも一、二度、さらっと嫌味っぽく言っておしまいではありません。ひんぱんに文学賞の大切さを語ってくれています。まったく稀有な存在です。

 たとえば、景山民夫さんと直木賞をからめて、こんなことも書いてくれていました。景山さんが受賞したとき、

「私は確か、お祝いの言葉の代わりにこんなことを言った筈だ。

「私たちが直木賞作家だなんて笑っちゃうと思わない?」

 今でも笑っちゃう。ただし、直木賞そのものを、ではない。賞をいただくのは楽しくて素敵なことだと思う。笑ってしまうのは、これを権威と思うある種の人々が大勢存在するということだ。誉めたたえるにしても、揶揄するにしても、だ。権威が小説を書くのに役立ったことはない。私は、直木賞受賞者に、もし特権があるとすれば、そのことを知ることが出来る、それに尽きると思う(もちろん、本が売れる、とか、仕事が選べる、とか物理的に便利なことは、いくつかあるが)。それなのに、それに気付かない奴らが、どれ程いることか。賞は、有効活用すべきであるが、それは創作時においては、まったく無効であるという事実を、実は作家の内でも知ろうとしない人は多い。」(平成11年/1999年8月・新潮社刊 山田詠美・著『エイミー・ショウズ』所収「Did You See That Moon? 景山民夫『普通の生活』」より ―初出『普通の生活』平成6年/1994年6月・朝日文芸文庫)

 この文章が書かれたのは20年弱前ですけど、山田さんの指摘は、たぶんいまでも有効です。そしてワタクシは、いつまで経っても続いている、世の文学賞叩きに、笑っちゃっています。

 笑っちゃいませんか。いつの時代でも、けっきょく同じような騒ぎになっちゃう面白さ、と言いますか。

 ただし、「賞にまつわるお約束の騒動」はおおむね芥川賞が担ってきました。その点、直木賞ファンとしては少し寂しくも思います。

 そのなかで、1980年代は特異でした。山田詠美さんと、先輩・林真理子さんが、直木賞の場に騒ぎを持ち込んでくれたのです。ほんとうに感謝せざるを得ません。

 文芸記者以外のマスコミ陣を、数多く直木賞のほうに引き連れてきてくれました。ほんと、マスコミの人たちって面白いですからね。『朝日新聞』編集委員の黛哲郎さんは、山田さんの直木賞会見の様子を、「テレビの芸能番組の方がふさわしい扱い」と形容したりしました。

「文学賞がマスコミの脚光を浴びるようになって久しい。とりわけ芥川賞・直木賞はテレビの芸能番組の方がふさわしい扱いで、今回直木賞を受賞した山田詠美さんなどは、タレントなみの騒がれ方。受賞決定の記者会見の席では「これが文学賞だろうか!」といぶかる文芸記者もいた。

 いまやそういう時代なのだ、ともいえようが、それで済ましていられるか。」
(『朝日新聞』昭和62年/1987年8月16日「わたしの言い分 文学賞の変質と今の文学 安岡章太郎さん」より ―聞き手:黛哲郎編集委員)

 嬉しいなあ。何が嬉しいといって、記者会見でいぶかった文芸記者たちに負けず劣らず、黛さん自身が、直木賞と芥川賞を前にして、ムズムズしちゃっているからです。だって「それで済ましていられるか」ですもん。そんな言葉は、文学賞になにがしかの幻想を抱いていないと、まず出てきません。

 なぜか直木賞のことを、日本文学の行く末を支配するほどの強力な審判機構だと見なす幻想。楽しいですね。そういう馬鹿バカしい幻想、ワタクシ、嫌いじゃないです。

 で、そういう幻想が広がっていきますと、山田さんの直木賞受賞を紹介するに当たって、こういう文章を書いてしまう事態になります。

「直木賞という由緒ある文学賞が山田詠美のような大胆な小説家に授与されたことに対して、もちろん少なからぬ反対者が出てきたのも事実である。例えば、芥川賞受賞者の安岡章太郎は、これを文学界の堕落と商業化と非難した。」(平成19年/2007年3月・鼎書房刊 原善・編『現代女性作家読本9 山田詠美』所収 楊偉「山田詠美の文学世界」より)

 え。ほんと?

 安岡さんがどんな非難をしたかは知らないですけど(ちなみに先の『朝日新聞』インタビューでは安岡さんはそんな非難はしていません)、山田さんが大胆な作家だからといって、由緒ある直木賞だからといって、その授賞に反対した人なんて本当にいたんですか。少なくとも、当時の新聞紙や週刊誌を見るかぎり、みんな面白がっているように読めますけども。

 失礼。「面白がっている」は適切ではなかったかもしれません。言い換えます。「山田詠美という特異なキャラクターを使って、直木賞をもてあそんでいる」人たちが、たくさんいたと思います。

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2012年2月19日 (日)

熊谷達也(第131回 平成16年/2004年上半期受賞) 史上初の看板を背負わされてもマイナー感を失わない。よっ!筋金入りのあまのじゃく!

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熊谷達也。『邂逅の森』(平成16年/2004年1月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「ウエンカムイの爪」でのデビューから7年。46歳。

 ちょっと今日は愚痴でも聞いてくださいよ。

 「今日は」じゃなくて「今日も」でしょ? だなんて、また人聞きの悪い。いやまあ、直木賞オタクは基本、虐げられた世界にいるので、自然とヒガミっぽくなるんですけども。

 平成20年/2008年3月16日。熊谷達也さんの名前が、珍しく各新聞の紙面にいっせいに登場しました。見出しだけ抜き書きしてみます。こんな感じです。

「直木賞作家・熊谷さんが無断使用 集英社 抗議受け連載中止」(『東京新聞』)

「長倉さんの表現を直木賞作家が盗用 小説の連載中止」(『北海道新聞』)

 その他、朝日も読売も毎日も産経もすべて同日、このニュースを取り上げました。全紙そろって本文では「直木賞作家の熊谷達也さん」と表現していました。

 『東京新聞』はさらに念が入っています。

「熊谷さんは仙台市在住。「邂逅(かいこう)の森」で、〇四年に直木賞を受賞した。」(『東京新聞』平成20年/2008年3月16日より)

 何なんですかあなたたちは。ひどすぎますよ。よってたかって、直木賞だけのイメージダウンを図っている気がして。

 ……これって被害妄想ですか。そうですか。ならば言い換えます。熊谷達也さんがこれほどニュースに取り上げられるなんて久しぶりのことです。その絶好の機会に、ほとんど無視される山本周五郎賞が可哀そうですよ。山周賞は直木賞と同じくらい、いやそれ以上にイイ仕事しているのです。もっと宣伝してあげてください。

 はい。周知のとおり、熊谷達也さんの『邂逅の森』は、山周賞と直木賞の二つの賞をとった稀有な作品です。それでなお「直木賞作家」と片っぽしか言わないのは、どうなんだ、ってハナシです。

 山周賞は今年で25周年、31人の受賞者を出してきました。かなり似通った作品を対象にしているため、山周賞と直木賞はしばしば、比較して語られたりします。しかし、中で一例しかない『邂逅の森』は例外扱いされて、たいてい無視されてしまう、という不遇な運命を背負ってきました。

 たとえば「直木賞はシリアス系で、山周賞はファンタジー系」のくくりとか。「山周賞は、直木賞より数年前に新進作家を見出していて先見性がある」とか。「直木賞は山周賞と違って、その作家の書いた傑作を落選させておいて、次の小粒な候補作のときに、ようやく受賞させる」とか。すべて熊谷達也さんの場合には当てはまりません。そのためか、あまり言及されることがありません。

 そのなかで『読売新聞』は平成19年/2007年、「『邂逅の森』に見る山周賞と直木賞の関係」といったあたりに切り込んでくれました。文学賞ファンとして拍手を送りたいと思います。

「興味深いのは、国民文学賞的位置にある直木賞と(引用者注:山周賞と)の距離がこの10年近づいていること。(引用者中略)山周賞後に直木賞を取った作家は近年を中心に8人に上る。第5回の船戸与一氏は直木賞まで8年かかったが、第10回以降は山周賞から1、2年内に直木賞を取る傾向が顕著。第17回の熊谷達也氏は『邂逅の森』で初めて直木賞を同一作受賞した。」(『読売新聞』平成19年/2007年6月5日「三島&山周賞20年・下 優れた先見性 直木賞と蜜月」より)

 そうです。同じ作家を、同じ作品で評価することができました。しかも、読書子から絶大なる(?)信頼を得ている、アノ山周賞と肩を並べたのです。直木賞、えらいぞ、見直した。……みたいな絶賛の声が挙がってもよさそうなものですが、あまり聞いたことはありません。

 ここでワタクシは思うのです。ああ。「史上初の直木賞・山周賞ダブル受賞」が、仮に熊谷さんでなかったとしたら。伊坂幸太郎さんとかだったら、どうだったんだろう。宮部みゆきさんや森見登美彦さんや道尾秀介さんだったら、もっと盛り上がっていたのではないだろうか、と。

 はっきり言ってしまいます。山周賞も直木賞もけっこう注目される文学賞です。それがダブル。さぞかし文学賞らしい安っぽい騒ぎが沸き起こるかと思いきや、熊谷達也さんのような「売れない作家」の場合だと、まるで心を動かされる人が少ないのだな、ってことです。

 熊谷作品は、ともかく売れなかったみたいです。作者ご自身も語っています。

「――(引用者注:山周賞・直木賞をとる前の)ここ一、二年すこし気持ちが晴れない部分があったと聞きました。

熊谷 思ったように売れてくれなくてね。自分なりにある程度納得できるものは書いてはいるんですけど、売れない。今の時代で、こういう作品を書いていくことの意義、需要のなさは何故なのかなんて考えていました。(引用者中略)ちょっともどかしさがありました。だから二つ続けて大きな賞をいただいて、諦めずに書き続けてよかったなと思います。」(『小説すばる』平成16年/2004年10月号「ロング・インタビュー 『ウエンカムイの爪』から『邂逅の森』に至るまで全作品を語る!」より ―聞き手:池上冬樹)

 では、山周賞と直木賞をとった後はどうなったのか。熊谷作品の「売れない」傾向には変わりがなかったようです。

熊谷 (引用者中略)マイノリティーの世界は好きですね。まあ、だからあまり本が売れないのかなとも思いますが、でも、ほかの人が書けるようなものを私が書く必要もないですし、これからも自分にしか書けないものを書いていきたいですね。」(『産経新聞』平成18年/2006年2月1日「話の肖像画 自然と向き合う文学(8) 作家・熊谷達也さん」より ―聞き手:松本健吾)

 そんな「売れない」傾向の作品に賞を授けて、創作活動の後押しをしてあげたんですってよ。山周賞も直木賞も、ほんと素晴らしい事業ですわよねえ。

 ……みたいな意見が、ほとんどオモテに出てきません。文学賞全般のもっている負のオーラが強烈すぎるからでしょうか。それとも、熊谷達也さんが地味すぎたからでしょうか。んもう。せっかくのダブル受賞だったのだから、もっと盛り上がってほしかったのにー。

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2012年2月12日 (日)

江崎誠致(第37回 昭和32年/1957年上半期受賞) どうして直木賞で取り上げられたのか、不思議で意外な受賞者、って意味で、いかにも直木賞っぽい受賞。

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江崎誠致。『ルソンの谷間』(昭和32年/1957年3月・筑摩書房刊)で初候補、そのまま受賞。同書でのデビューから4ヶ月。35歳。

 直木賞は、どこか浮ついています。なぜでしょう。賞の持っている性格を飛び越えて、卑しく下品な騒がれ方を引き起こしちゃうからでしょうか。

 はい。そんな「浮ついたキャピキャピの直木賞」が大嫌いな方、お集まりください。おすすめしたい直木賞受賞者がいます。江崎誠致さんです。

 大衆文学史のなかでも、ほとんど注目されていません。さりとて、純文芸史に礎を築いたとも言いがたい。ひとり我が道を歩いた孤高の存在、江崎さん。こんな方が直木賞をとって、最後の最後まで職業作家として生きてくれたのですから、まじで感涙ものです。

 江崎さん自身、浮ついたものに背を向けた作家でした。以下のような直木賞観を語っているのですが、端々から江崎さんの性格がうかがい知れます。

「私は今日、人から〈臍曲り〉〈偏屈人〉と呼ばれていることを知っているが、これは作家稼業にはいってからのことである。私が私であることに変りはないのに、その私の受けとられ方が変った、ということを、私は直木賞受賞で感じた。

(引用者中略)

 こんなことがあった。文藝春秋社内にある日本文学振興会からの受賞通知に、何日か後に来社されたしと書いてあったので、私は久しぶりに背広を着て、銀座の文藝春秋社に出かけた。

「何の連絡もないので、来られないのかと思いました。」

 ちょっと嫌味な挨拶である。しかし、言われてみると、私はこのときまで、先方に対して、うんともすんとも言っていなかったのだ。(引用者中略)

 私にとってそれだけのことが変な奴だと思われたのは、受賞に対する私の反応が、他の人たちにくらべ、可愛げのないものだったということなのであろう。」(昭和58年/1983年8月・新潮社刊 江崎誠致・著『らんか帖―ヘソ曲りで生きよう』「嵐過の章」所収「賞」より)

 ふうむ。江崎さんはこのとき、文学賞側が知らず知らずのうちに発している「威張っているさま」を、ピーンと感じ取ったのかもしれません。きっとそれは江崎さんの好む世界ではありませんでした。

 直木賞をもてはやし騒ぎ立てる世界と、江崎さん。水が合わなすぎます。

「私が比較的碁に関する文章を書いていたころ、相対的に小説を書く枚数が少ないことに、こんな忠告をするジャーナリストがいた。

「碁ばかりやってると忘れられますよ。」

 面と向かって言う者もいたし、人づてにそんな言葉が語られているのを何度も耳にした。

(引用者中略)

「忘れられて結構ですよ。」

 すると、別の忠告が聞えてきた。

「そんな依怙地を言って、世間を狭くすることはないだろうに。」

 こうなると、私に返す言葉はない。安っぽく拡げるだけの間口の広さなど、求める気持はないのだから、私にとってこれは人間の言葉ではない。

 もっとも、梶山季之の原稿を、ヘリコプターで送って締切に間にあわせたなどという手柄話をしていた編集者の眼から見れば、無理もないことかとは思った。

 しかし、それが常識だろうと、こんな世間の眼とは、私は無縁の世界にいる。」(同書「爛柯の章」所収「世間の眼」より)

 ひゃあ。「人間の言葉ではない」っつう物言いが、ゾクッとしますよね。このブログなんか、人間の言葉ではない最たるものなんだろうなあ。ゾクゾク。

 人間・江崎誠致と、人間でない世間。この二つが接触するところにスリルを感じるのが、直木賞ウォッチの醍醐味でもありましょう。よーし、ついでに、もう一場面、そんなスリリングなハナシをかぶせてみます。

 江崎さんはかつて出版社に働いていたのですが、そのころ、小説原稿を持ち込んできた無名の男がいました。自信と押しの強さだけ一丁前だった〈早田〉っていう男で、江崎さんはドヤ街を歩いているとき、偶然、彼と遭遇してしまいます。

「私は彼が、その後新聞も雑誌も読まず、どうにか物書きになった私のことなど知らねばよいがと思わずにはいられなかった。(引用者中略)

 早田は私のことを知っていた。したがって私はあまり気のすすまない話に引きこまれる結果になった。(引用者中略)

「そらそうと、あんた賞とったね」

「ああ」

 私は彼をソバ屋へ誘ったことに後悔をおぼえ、めんどくさそうな返事をした。

「どうやってとった?」

 たしかに私は直木賞をもらったが、人に誇れるほどの作品とは考えていないので、いつまでもそのことに触れられるのがいやである。しかもそれを、どうやってとった? ときたから頭にきた。

「とったって、泥棒したわけじゃない」

「でも何か方法があるでしょう?」

「そんなものあるわけがないでしょう」

「そうかな」

 私はどなりだしたい気持をやっとのことで押えつけた。」(昭和37年/1962年5月・七曜社刊 江崎誠致・著『すっぽん同士』「珍文作家の夢」より)

 ああ。〈早田〉のことを笑えないのが、同じ「人間でない世間」にいる身として、胸の痛いところです。言うに事欠いて「どうやってとった?」とは。……早田さん、あなたを文学賞好き仲間に迎え入れたいと思います。

 それはさておいても。早田さんの質問は角度を変えると、なかなか頭を悩ませる問題を孕んでいます。「江崎さんのようなズブの新人作家の書き下ろしが、どうして直木賞をとったのか」。うーん。

 なぜこの設問が悩ましいのでしょうか。……それを語る前に、文壇や、ましてや賞などに何の興味もなかった江崎さんが、なぜ『ルソンの谷間』を書き、単行本になったのか、その辺をおさらいしておきます。

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2012年2月 5日 (日)

北原亞以子(第109回 平成5年/1993年上半期受賞) 直木賞をとる前にすでに、新人賞受賞にいたる長ーい努力と、そこからの長ーい苦節とを済ませてしまった人。

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北原亞以子。『恋忘れ草』(平成5年/1993年5月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「ママは知らなかったのよ」での商業誌デビューから24年。55歳。

 つい先日、アンケートを実施しました。「北原亞以子と直木賞、といわれて思い浮かべるキーワードとは?」。回答者のうち、9割以上の人が「鳴かず飛ばすの20年」と答えました。

 ……というのはもちろんウソです。ウソですが、ここ3年ほど直木賞検定では「鳴かず飛ばずの20年」に関する問題が出ています。避けて通れない話題であることは確かです。

 ……というのもウソですけど、直木賞作家がいかにして直木賞に到着したのかは、直木賞に興味をもつ者の定番テーマですよね。直木賞受賞者は数多くいますが、そのなかでも「苦節」の単語が似合う人。今日はそんな北原亞以子さんの、苦節についてのおハナシです。

 北原さんは小学生時代から詩を、中学生になってからは小説を書きはじめたそうです。高校では文学クラブに入部。小説家になることを夢みました。

「高校の頃から小説家を希望しながらも、卒業後は石油元売り会社に入社しOLをしながら習作を書き続けている。」(平成19年/2007年8月・暁印書館刊 中谷順子・著『房総を描いた作家たち(3)』「北原亞以子」より)

 20代は、どうやら定職のかたわら習作に明け暮れたみたいです。やがて20代後半。商業デザインスタジオに勤めはじめるのですが、そのころから、北原さんの執筆活動に動きが出てきます。いよいよ文章で身を立てようと本腰を入れたのでしょうか。

 28歳ごろの無名時代には『保険毎日新聞』にエッセイを連載しました。これらの一部は『お茶をのみながら』(平成13年/2001年10月・中央公論新社刊 北原亞以子・著)で読むことができます(ただし、講談社文庫版では、そこの部分がバッサリ削られています。ご注意を)。

 そうそう。28歳。この年、北原さんは幻の処女作を書いたのでした。その後、長きにわたる苦闘の数十年、北原さんの胸のなかに深い屈辱として残ることになる、幻の処女作を。

「第一作めは、確か二十八歳の時に、或る同人誌へ投稿した。高卒の私には同人誌へのつてがなく、二人の推薦者が必要というその同人誌にも、同人としての入会を許してもらえなかった。それでともかく会員となり、規定通りに同人諸兄の批評を乞うたのである。

 いまだに覚えている。戻ってきた原稿には、すさまじい批評が書かれていた。「これほどひどい作品はない、あなたに小説を書く資格はない」というのである。あまりの衝撃に会費を払うのを忘れ、催促されたのをきっかけに退会し、二年くらいたって別の同人誌に移った。」(『婦人公論』平成14年/2002年4月22日号 北原亞以子「「今」こそ飛躍の時 五十歳からでも人生は変えられる」より)

 なにい、オレの大事な、いたいけな亞以子さんに、そんな強烈パンチを浴びせた野郎は、いったいどこのどいつだ。と、北原親衛隊のみなさんは気になって夜も眠れないでしょう。ワタクシも気になります。

 北原さんを足蹴にした同人誌。それは『文藝首都』ではなかったか、っていう仮説を提示するにとどめておきます。

「北原は、もと「文芸首都」の会員であったが今度「文学草紙」(東京)よりの紹介によって当会の同人になり千葉市在住、現在「泉の光」(土師清二・青柳友子)で毎月エッセイを連載中である。」(『文学地帯』32号[昭和43年/1968年9月]「編集後記」より ―署名:関(関荘一郎) 太字下線は引用者による)

 という、北原さんを快く同人として迎え入れた『文学地帯』側の証言と、

「『文藝首都』は他の同人誌と違って、門戸を一般に広く開放していたので、所定の会費を納入すれば誰でも会員になれた。会員は作品を投稿することができる。集まった投稿作品は、同人の中から選ばれた編集委員が手分けして読み、二名の読み手の推挙があれば誌上に掲載される、というシステムになっていた。掲載に至らなかった投稿作品には、それを読んだ編集委員の評が付けられて返送された。」(平成18年/2006年10月・講談社刊 勝目梓・著『小説家』「模索」より)

 勝目梓さんの語る『文藝首都』における会員投稿の仕組み、をとりあえず引用しておきます。

 で、傷ついた北原さんが、どうにか紹介で『文学地帯』に入れてもらったと思ったら、まもなく、全国の同人誌作家によるコンテスト、第1回新潮新人賞をサクッと受賞しちゃったのですよ、もう。『新潮』に載った北原さんの「受賞の感想」を読んでみてください。「小説を書く資格はない」とまで罵倒された背景を知って読むと、ぐっと来ますよ。

「もう書くのなんかやめちまおうと思ったことがある。つくづく自分に愛想がつきていた。が、その時友人の一人がニヤリとして言った。

「情ない顔をするな。コケの一念てこともあるよ」

 それから丸二年。幸運にも賞をいただくことになり、本当にコケかと思われるほど目茶目茶に喜んでしまったが、日がたつにつれて不安にもなってきた。そこで、友人達の顔を思い浮かべては、こう言わせている。

「うろちょろするな。コケの一念で頑張れ!」」(『新潮』昭和44年/1969年5月号 北原亞以子「新潮新人賞 受賞の感想」より 下線部は原文では傍点)

 ちなみに、このとき『文学地帯』先輩同人の廣畠祐子さんは、こう書いています。

(引用者注:新潮新人賞の受賞は)迅速に舞い込んだ幸運のように見えるが、当然そこには北原さんのこれまでの長い地味な文学への努力が実を結んだのだと思われる。」(同号「北原亞以子さんのこと」より)

 はい。「これまでの長い地味な文学への努力」だそうです。

 まさにこの年は、北原さんの努力が一気に報われた感のある年でした。新潮新人賞と同じ時期、『文学地帯』に載せようと思って書いた時代小説「粉雪舞う」を小説現代新人賞に応募。こちらも、新潮新人賞から少し遅れて佳作に選ばれたのでした。

「当時の(引用者注:『小説現代』の)編集長だった三木章さんに聞いたところによると、笠原淳さんと私が受賞――と決まりかけたところで、有馬頼義先生が待ったをかけたのだという。

「しめた、二人だと思ったんですけどねえ」

 と三木さんは残念がってくれたが、「新潮」編集部の田辺孝治さんは「よかったあ」と私の落選を喜んだ。」(平成17年/2005年11月・講談社/講談社文庫 北原亞以子・著『お茶をのみながら』所収「ジャリの会」より ―初出『時代小説大全』平成7年/1995年春号)

 ぬぬ。よそでの落選を喜んじゃうとは、『新潮』の田辺さん、なかなかの正直者。

 それじゃあ『新潮』誌が育ててくれるかといえば、そうは行きませんでした。北原さん、31歳にして念願の小説家人生をスタート。しかし、そこからが苦難の道第二章でした。

 ってことで、「鳴かず飛ばずの20年」はここからです。新人賞をとるまでの段階で、すでに北原さんは、長くて地味な努力を経ていたわけでして。おお、さすが「苦節」の女だ。

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