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2012年1月 1日 (日)

青島幸男(第85回 昭和56年/1981年上半期受賞) 直木賞47年目にしてはじめて話題性だけで売れた記念碑的受賞作。

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青島幸男。『人間万事塞翁が丙午』(昭和56年/1981年4月・新潮社刊)で初候補、そのまま受賞。同書第一章での小説家デビューから1年半。48歳。

 いつもどおり日曜日なのでエントリーをアップします。

 ただ、今日は1月1日です。誰かそれにふさわしい直木賞受賞者はいないものかと考えました。……残念ながら名案が思いつきません。で、とりあえず「一番」に縁のある人を思い浮かべることにしまして、直木賞受賞者を名前の五十音順で並べると一番最初に登場する作家、青島幸男さんにご登場いただくことにしました。……ううむ。われながら強引な展開だな。

 青島さんについては、4年ほど前に『ちょっとまった!青島だァ』(平成18年/2006年12月・岩波書店/双書時代のカルテ)を取り上げたことがありました。この本は、青島さんが人生を振り返って語り下ろしたもので、奇しくも死の直前に発売されました。当然、直木賞受賞前後のことにも触れられています。

 しかし、注意しなきゃいけません。青島さんの回想は、そのまま受け取るわけにはいかないように書かれているんですもん。なにせご自分でこう言ってしまっています。

「自画自賛してなにが悪いの、オレに言わせリャ、自画自賛できない奴は、生涯、自分に満足のいく人生なんて歩めないと思うね。オレは、自画自賛大好き。自画自賛大いにけっこうじゃないの。自分で作って自分でほめてるのが一番いいんだよ。誰に迷惑をかけるわけじゃなし、大いに自画自賛すべきだね。」(同書「むすびに代えて 軽さの研究」より)

 つまり語られている内容の多くは、自分を褒める視点で限定されている可能性が高いわけです。

 たとえば、青島さんが直木賞をとるために、小説を書こうと思い立つ場面。

「いろんな番組を干されて、食い扶持をまるっきり断たれたことがある。オレにとっちゃ実にしんどい時代だ。オレに残された道は、直木賞をとる、これしかないって思い定めたわけだ。

 まずは、出版社の人にきてもらって聞いてみようってわけで、開口一番、「直木賞ってさ、一年に何回あるの、それとも何年かに一回?」。編集者は、きょとんとしてたね。」(同書「第3章 一つ山越しゃ……」より)

 急速な展開だなあ。これだと、青島さんが自力で編集者にわたりをつけて直木賞狙いに行ったかのように読めちゃいます。

 このあたり、当時の資料を読むと、どうもずいぶん違うのですよ。青島さんは『小説新潮』っていう、直木賞をとれる可能性のある媒体に処女作を発表することができました。なぜか。ひとりの小説家のおかげ、らしいです。

「そもそもこの話は、一昨年(引用者注:昭和54年/1979年)の秋、あるテレビ局の番組で井上ひさしさんにお目にかかった時から始った。番組が終って一緒に出演していた放送作家の友人三人と、帰りに一杯やろうということになり、新宿まで出た。(引用者中略)その時のことだ。私が「井上さんは実にいい仕事をしている、羨ましい」と言うと、「あんただって書けるんだ。書きなさいよ、書かなきゃダメだ。いい編集者を紹介しますよ」と、井上さんがけしかける。

 酒の上の冗談と思ってると、翌日の午後、S社のS氏から、井上さんに聞いたのだが、小説を書きたい御意志がおありのようで、一度お目にかかりたい、と電話が入った。早速S氏にあっていろんな話をし、さて本格的に原稿紙のマスを埋めることになった。」(『小説新潮』昭和56年/1981年10月号 青島幸男「ハラハラドキドキ記――直木賞受賞まで――」より)

 ちなみに「S社のS氏」とは、「新潮社の佐々木伸雄」さんらしいです。

 そうです。ひとりの小説家、井上ひさしさん。第67回(昭和47年/1972年上半期)の直木賞受賞者です。第88回(昭和57年/1982年下半期)から選考委員を務めることになるので、青島さんと『小説新潮』をつないだころは、その直前ぐらいの時期でした。

 この仲介について、井上さん側からのコメントっていうのも残っています。

「僕はただ編集者を紹介しただけですよ。実によく書けていていい仕事だと思いますよ。こういうと青島さんには悪いが、すでに芸能界では忘れられかけている人ですよ。それだけに危機感があって必死になったんじゃないでしょうか」(『週刊ポスト』昭和55年/1980年2月8日号「狙いは参院選か、それとも直木賞か 青島幸男氏“初体験小説”の評判」より)

 へえ。ろくに選挙活動しなくても票を集めることのできていた人に対して、「忘れられかけている人」ですか。なかなか手厳しいですなあ。

 危機感があって必死、という文が出てきました。たしかに青島さん側に危機感があったのかもしれません。そしてそれ以上に、新潮社や『小説新潮』のほうの事情が事情でした。まさに当時、『小説新潮』は「危機感があって必死」だったのです。

 なにしろ、中間小説がにわかに短い天下を謳歌した時代は、すでにこのころ終わりかけていました。新潮社の社史『新潮社一〇〇年』ですら、そのことを認めているくらいです。

「「小説新潮」の発行部数は、八〇年代に入って減り始め、八五年以降は、一年に一万部くらいずつ減るようになった。(引用者中略)八九年の発行部数は、大体九万前後である。因みに採算分岐点は一五万とされている。」(平成17年/2005年11月・新潮社刊『新潮社一〇〇年』 高井有一「百年を越えて 中間小説からエンターテインメントへ 小説新潮」より)

 凋落。斜陽。この状況を前に同誌のとった戦略のひとつが、青島さんのような、専業作家でない人に小説を書かせる方向だったんですね。

向田邦子は、テレビ脚本家として脂の乗り切った時期に小説に筆を染め、成功した。その再現をねらって、編集部は、ほかの脚本家たちに次々と、小説を書いてみないか、と声をかけた。しかし、脚本と小説の間には、描写方法一つを取ってみても基本的な違いがあり、早坂暁、山田太一、隆慶一郎くらいを除いては、うまく行かなかった。またこのころ、青島幸男、中山千夏山口洋子ら“異業種”の人々が小説に参入する傾向が目立ってきた。こうした現象は、部数減を何とか食い止めようとした編集部が、他分野に新しい鉱脈を求めた結果でもあった。」(同)

 青島さんの小説デビュー作「人間万事塞翁が丙午」は、両者の危機感が合致して生まれました。青島さんは次の一手を模索している、『小説新潮』は新しい書き手を探している、昭和55年/1980年に。

 まあ、それはいいとしましょう。しかし、疑問に思います。どうしてそこに「直木賞」がひっぱり出されてきたんでしょうか。

 その答えを導き出すためには、さらに2つの要素を組み合わせなければならないようです。

          ○

 一つ目。青島さん自身の長年の夢が、「直木賞受賞」だったこと。

 直木賞ファンとしては嬉しいハナシです。青島さんは学生時代から文学青年で、小説の習作も書いていたらしいんですけど、そういう人が「直木賞」を目標にしてくれていた、っていうんですから。

「「小説家になるのが夢だった」という念願の直木賞=第八十五回=を、受賞したのが、昭和五十六年(一九八一年)。

 この直木賞にまつわる青島のパフォーマンスについては、実に多くのテレビ人たちが競って証言している。

 テレビで「おとなの漫画」の台本を書いているとき「オレはいまこういうのを書いているけど、いずれは直木賞をとって、参議院議員になって、末は文部大臣になるんだ」と、作家の景山民夫に語っているのを始め(「太陽」一九九四年四月号)別の作家に言わせると「芥川賞をとって、三波春夫みたいな衣装で歌舞伎座でおひろめをやる」と語っていたのを耳にしたという証言まで、実に多くの人が青島のこの直木賞に賭ける決意を耳にしている。」(平成7年/1995年・本の森出版センター刊 緒方郁彦・著『オレが都知事だぁ~!』より)

 いや。著者の緒方郁彦さんに代わってひとつ訂正。『太陽』平成6年/1994年4月号「60年代が眩しいぜ 第四回青島幸男」(文・岩切徹)の記事には、青島さんが「いずれは直木賞をとって」みたいなハナシを景山民夫さんに語っていたとは書いてありません。念のため。

 ただ、青島さんが周囲の人たちに、「いずれは直木賞」と発言していたのは事実らしいです。

 しかし、上記の緒方さんの文章を注意ぶかく読んでみてください。「直木賞に賭ける決意」の例に、「芥川賞をとってうんぬん」の証言が加えられているじゃありませんか!

 ああ。青島さんが、長いことずっと「直木賞をとるのが夢」だった、っていうのは正確じゃないんですね。「芥川賞でも直木賞でも、どちらかをとりたい」と思っていたのだと。

 そうですか。芥川賞と直木賞の区別はナシですか。青島さん、あなたもフツーの感覚をおもちで。いくらかガッカリはしましたけど、まあ、そうでしょうね。

 そして、青島さんと直木賞との縁、二つ目に行きます。当時はまだ仲のよかった中山千夏さんが、小説を書き始めたことが挙げられます。

 もとい。言い足りませんでした。中山千夏さんが小説を書き始め、直木賞候補に挙がってキャーキャーピーピー騒がれたこと。

 じっさい、このころの青島さん直木賞関連の記事には、数多く、千夏さんの名前が登場します。

「一昨年と昨年は同じタレント出身の中山千夏氏が直木賞候補になって話題をまいた。

(引用者注:青島幸男いわく)「実をいうと、千夏ちゃんが候補になったことがショックで、自分は遅れるのではないかとあせり、その時点から小説書きに一生懸命になった。」」(『朝日新聞』昭和56年/1981年7月17日「初ものずくめの受賞 芥川賞・吉行さん 兄さんを追う 直木賞・青島さん 議員と両立で」より)

 というのが、青島さんの弁です。

 対する中山千夏さんは、こう発言しています。

「八〇年の選挙では、青島自身、革自連(引用者注:革新自由連合)を離れて無所属で立候補した。そのとき革自連から立って当選した中山千夏とは、日本テレビの「ワイドショー」以来の親しい友人であり、また中山千夏はこの時までに、連続三回直木賞にノミネートされていた。(引用者中略)

 直木賞に青島がノミネートされたことを知ったとき、中山千夏は「きっと受賞する」と断言したそうだ。理由をたずねると「青ちゃんという人は、そういう人なのよ」というのが回答として返ってきたという。」(『中央公論』昭和56年/1981年9月号「人物交差点」より 署名:(花))

 するどい!千夏さん鋭い。

 どうやら第85回の直木賞は、事前の評判では、神吉拓郎「ブラックバス」「二ノ橋 柳亭」が本命視されていました。

「この夜、清水さん(引用者注:候補者の一人、胡桃沢耕史のこと)は午後六時ごろから東京・新宿二丁目の小さなバーのカウンターで、結果の通知を待っていた。(引用者中略)

「そうですか。神吉さんね。本命は神吉さんですか。ぼくは神吉さんの候補作を二つとも読みましたけど、ちょっと軽い気がしました。直木賞としては目方が足りないっていうのかな。これ、悪口じゃありませんよ。」」(『週刊読売』昭和56年/1981年8月2日号「直木賞の「光と影」 落選に泣いた――胡桃沢耕史の新宿の夜」より)

 別の予想記事でも、

「本来スポーツ紙であるH紙は競馬、競輪の予想のみならず文学賞の予想までやるらしい。それには本命がK氏、対抗がM氏、そして私(引用者注:青島幸男)は穴となっている。」(前掲「ハラハラドキドキ記」より)

 ってことで、青島さんが他の候補を圧倒している状況ではなかったんですね。第三者の目から見ると。 

 そのなかで千夏さんの、「青島幸男はきっと受賞する」という予感が的中してしまいました。さすがです。予感の鋭さもさることながら、そもそも、青島さんが直木賞を受賞できたのは、確実にあなたがいたからです。千夏さんが「タレント作家」のレッテルのなかで直木賞候補に数度挙がっていたことが、青島さんの直木賞受賞への道を切り開きました。

 開拓者として、千夏さんを大いに称えたいと思います。

          ○

 残念なことに、青島さんは、小説の世界にあまり執着のない人でした。処女作で直木賞を受賞しましたが、その後、大した作品をのこすことなく、ふらりふらりと別の世界をさまよってしまいました。

 ただ、直木賞に大きなものを残してくれたことは確かです。

 昭和10年/1935年にスタートした直木賞。権威ある大衆文芸賞とさんざんオダてられながら、いかんせん新人賞にすぎず、爆発的なヒットにめぐまれることがありませんでした。47年目にして初めて、ミリオン(100万部)突破の受賞作品を誕生させたのです。それが『人間万事塞翁が丙午』でした。

 ちなみに直木賞47年目の昭和56年/1981年は、書籍全般の販売力に翳りがみえはじめていたころです。

「消費の冷え込みは、出版業界をも直撃している。上半期で、販売部数は書籍・雑誌ともに前年同期比を下回った(引用者中略)書籍・雑誌の部数が(引用者注:年度を通して)同時に減少したのは戦後はじめて、五年連続した一けた成長のあとだけに不気味な感じである。」(『朝日新聞』昭和56年/1981年12月21日 小林一博「'81年の出版界 書籍・雑誌が同時減少」より)

 こんななかで、よくまあ、地味な直木賞が売れたよな、と思います。

 はっきり言って「直木賞」の力じゃありません。「青島幸男」のタレント力、というか知名度の力でした。

「雑誌上位、業績不振といわれながら『窓ぎわのトットちゃん』は、出版史上前例のない四百万部を記録。なおベストセラーの上位をつづけている。ノンフィクションや実用書の時代到来、フィクションは落ち目という中で『人間万事塞翁が丙午』が百三万部。(引用者中略)タレント本は今年も人気だった。」(同)

 これ以降、青島さんの『人間万事塞翁が丙午』の売上を超える直木賞作は数作しかありません。平成18年/2006年7月段階の『ダカーポ』調べでも、歴代直木賞作の売上部数で、同作は第5位に入っているというくらいで。

 青島さんの小説は、山口百恵や黒柳徹子など他の芸能人のベストセラーと同じ性質の本でした。つまり、「自分の生い立ちを素材にしたもの」だったわけです。本人は創作だと言い張りますが、多分に私小説色の濃い題材であったことは疑いがありません。

 こういうものが、過去の直木賞の常識を突き破るような売上を残しちゃったことが運のツキです。「芸能人のプライバシーが垣間見える本だから売れた」っていう視点と、「直木賞だから売れた」っていう思い込みがゴッチャになってしまいました。「直木賞はね、私小説ふうのものが有利ですよ」などと、胡桃沢耕史さんの耳もとでささやく輩が出てきたのも、『人間万事~』の受賞があったからこそです。……ねえ。それまでの受賞傾向を見たら、別に、そんな有利不利はないっちゅうのに。

 直木賞が元気だった、今より権威があった、などと言われている時代ですら、このありさまです。タレントの力を借りなければ、直木賞作品がバカ売れすることなど、とうてい無理でした。昔の直木賞のことを過大評価してはいけないのではないか、と疑わせてくれる。それが青島幸男さんが直木賞にのこした最大の功績かもしれません。

 今年もいろいろ疑いつつ、直木賞のことを調べていきたいと思います。

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