河内仙介(第11回 昭和15年/1940年上半期受賞) 「直木賞をとったのに消えていった作家」第一号。……でもそれって、直木賞のせいなの?
河内仙介。「軍事郵便」(『大衆文藝』昭和15年/1940年3月号)で初候補、そのまま受賞。同作でのデビューから4ヶ月。41歳。
あ。「河内仙介なんて知らない名前だな」と、さっさと帰ろうとしたあなた。直木賞にご興味があるのですよね? ならば、ぜひ、この名を脳髄に叩き込んでからお帰りください。
「直木賞をとっても消えていく作家はたくさんいる」。そんな文章、読んだことありませんか。たいてい、文学賞なぞ屁の役にも立たないもの、っていう文脈のなかで語られるフレーズです。
このフレーズは、時代時代に応じて語り継がれてきました。今なら、「直木賞をとっても、死後忘れられて、本が刊行されなくなる人も多い」みたいな意味合いが含まれるのでしょう。永遠に読み継がれる作家を選び出せないなんて、直木賞はマユツバだ。……ええ、そのとおり。
では、受賞者のなかにまだ生存者の多かった時代はどうでしょう。「直木賞をとっても、引きつづいて作品を発表できず、次第に名前を見かけなくなった」程度の意味だったでしょうか。
そうなると、芥川賞のほうはいざ知らず、直木賞では該当する人が案外少ないことに気づかされます。とくに戦前は、最後の2人(森荘已池さんと岡田誠三さんですね)と、戦争で若くして亡くなった神崎武雄さんを除けば、おおむね、小説を書き続けた人ばかりでした。
いや。いやいや。それじゃ面白くない! と、直木賞がいかに無価値かを強調したい人がいたとして、そんな人を満足させてくれる直木賞作家が、じつはいました。
戦後、昭和30年代に直木賞と芥川賞は、一気に多くの人に知られるようになりました。その段階で正々堂々と「忘れられた直木賞作家」として名指しすることのできた、ほぼ唯一の作家。それが河内仙介さんなのでした。
「そのころの(引用者注:昭和15年/1940年前後)入賞者のことで思いだされるのは、(芥川賞ではなく直木賞だが)高木卓が辞退した第十一回に、〈小指〉の堤千代とともに入賞した〈軍事郵便〉の河内仙介の悲劇である。(引用者中略)生来酒好きの仙介は、五百円の賞金をもらうと酒ばかり飲んでいて、新聞雑誌の依頼原稿も書けず、名声だけがカラ廻りして、生活は悲惨を極めてきた。質草もなくなって、やむなく直木賞の時計を持ってゆくと、質屋の主人は時計のうらに、「第十一回直木賞・河内仙介」とほられた文字を見て、「惜しいもんだ、この文字がなけりゃ、もっと高く預るんですが」といったそうだ。」(昭和54年/1979年8月・日本ジャーナリスト専門学院出版部刊『芥川賞の研究――芥川賞のウラオモテ』所収 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」より ―初出『小説新潮』昭和39年/1964年1~2月号)
まず、この文章を書いている方の名前にご注目ください。橋爪健さんですって。ああ、まさに。『文藝春秋』と菊池寛に反旗をひるがえし、アンチ文春の急先鋒となった橋爪さんだもの。どうしたって、悲惨な直木賞作家の姿を、描かないわけにはいかなかったでしょう。
直木賞作家が不遇に陥るのって、どうやら面白い話題らしいです。……らしいですと言いますか、ワタクシだって『芥川賞の研究』を取り上げたエントリーでは、河内さんネタに食いついちゃいましたし。ワタクシが河内さんに興味を持ったのも、その点からだったりします。
(↓過去、当ブログで河内仙介を取り上げた主なエントリー
など)
直木・芥川賞が第100回を迎えたときの『文學界』「コントロールタワー」でも、まるまる橋爪さんのエピソードと解釈を借用していました。
「やむを得ないことだが、時には才能を押し潰してしまうこともないわけではない。「軍事郵便」の河内仙介なんかも賞金を呑み潰しておしまいだ。賞が重くて書けなかったんだね。」(『文學界』平成1年/1989年3月号「コントロールタワー」より)
そうでしょう。直木賞に関心のない方は、「昭和15年/1940年に受賞」「昭和18年/1943年ごろから作品発表が途絶える」「戦後も、ほとんど発表せずじまい」「昭和29年/1954年死去」っていう事実をつなぎ合わせて、「賞が重くて書けなかった」と結論づけてしまえるので、気が楽です。
じっさい、河内仙介さんの昭和15年/1940年~昭和29年/1954年までは、どんなだったのか。ほんとに橋爪健さん一人の証言(というより、おそらく伝聞情報)だけを信用すべきなのか、どうなのだか。……
おそらく、「直木賞の重圧に負けて書けなくなった作家」が一人でもいたほうが面白いです。直木賞を馬鹿にする人にとっても、都合がいいでしょう。河内さんが戦後、ほとんど商業誌に登場しなくなったのは事実ですし。でも、橋爪さんが語るハナシとは全然ちがう解釈も可能なのだ、ってことは書いておきたいと思います。
まず、前提として忘れてはいけないことがあります。河内仙介さんは「軍事郵便」を発表するまで、芽の出ない純文学志望作家でした。
おそらく、地味で古くさくて独りよがりの作品ばかり書いていたんでしょう。そもそも作家としての才能があったのかどうかもわかりません。40歳までそうやって歩んできましたし、死ぬまで純文学への執着は抜け切れませんでした。
里見〈弓享〉(漢字一文字。以下同)さんに「文学」っていう小説があります。最近、『木魂/毛小棒大―里見〈弓享〉短篇選集』(平成23年/2011年2月・中央公論新社/中公文庫 小谷野敦・編)に収められたので、手軽に読めるようになりました。河内仙介こと本名・塩野房次郎をモデルにした小説で、芽の出ない、才能もなさそうな、作家志望の中年男が描かれています。
小谷野さんの解説を引きますと、
「この短篇の主人公のモデルになっているのは、この短篇発表後すぐに直木賞を受賞した河内仙介(一八九四―一九五四)、本名・塩野房次郎で、受賞作は初めて商業誌に発表した「軍事郵便」で、それも師事していた長谷川伸に文章を直してもらい、当人としてもまったく思いがけない受賞だった。(引用者中略)だが才能はやはりなかったようで、その後も作家としてやっていくことはほとんどできず、その後神奈川県片瀬で軍需工場の宿舎の舎監をしており、敗戦後里見は久米正雄に世話を頼んでいるが、とうとうものにはならなかった。」(同書「解説 色気の作家・里見〈弓享〉」より)
じつは、賞の重みもクソもなくて、河内さんははなから、商業誌に次々と作品を発表できるような資質の持ち主ではなかったのではないか。そう思わされます。
河内仙介さんは直木賞受賞後、数々の雑誌に小説を発表しはじめました。それら短篇を集めた単行本も、『遺書』(昭和16年/1941年)、『ヴヰクトリヤ号』(昭和17年/1942年)、『わが姉の記』(昭和17年/1942年)と出しています。河内さん、頑張ったよね!
で、昭和18年/1943年、急に筆を折って、藤沢片瀬の東京螺子に入社、軍需工場の舎監に身を転じるわけです。
その現場に居合わせた息子の塩野周策さんの解釈を、ご紹介しておきます。
「(引用者注:昭和)十八年後半頃からの戦争の苛烈さから、各誌も厳しい統制をうけ創作活動も極度に狭められ、作家も報道班員に、あるいは軍需工場に徴用されるに至るや、父はさっさと頭を丸め、なかば筆を折った形で、作家仲間や私たち家族の反対を振り切り、藤沢片瀬の東京螺子という軍需工場の舎監として、自ら徴用の形で入社してしまった。」(『別冊文藝春秋』90号[昭和39年/1964年12月] 塩野周策「わが父を語る 不遇な直木賞作家――終生 文学の鬼であった河内仙介――」より)
『日本近代文学大事典』(昭和52年/1977年11月・講談社刊)で「河内仙介」の項を担当した山敷和男さんは「『わが姉の記』(昭和一八・一〇(原文ママ) 泰光堂)が反戦小説とみなされ、執筆が不自由となる。」としています。
ごちゃごちゃと大衆向けの読物を書いて糊口をしのぐのを潔しとせず、大衆誌からの執筆依頼を振りはらって、物書き業から一時しりぞいたとは、なんと気骨ある文学中年であることか!……とは、誰も言ってくれないのが、河内さんの憐れなところかもしれません。
○
それで、先に文章を引用した小谷野敦さんは、ネット上で「里見〈弓享〉・詳細年譜」を公表してくれています。それによりますと、昭和20年/1945年12月3日の項に、
「河内が来て、これからは大衆ものでないのをやりたいと言う。」
とあります。
せっかく直木賞をもらって、大衆小説なら書いてもいいよ、と言ってもらえたのに、純文学の世界に逆戻りです。自ら狭い穴、狭い穴に入り込もうとします。
東京螺子での舎監生活を題材に、純文芸のつもりで書いた長篇が『風冴ゆる』でした。鎌倉の里見さんの家に、何度か原稿をみにもらいに行ったらしいですが、書き下ろし長篇を、ただこつこつと書く河内家(塩野家ですな)が窮乏しないはずがありません。昭和22年/1947年11月にようやく、暁書房から刊行が決まったものの、
「持ち込みという形だったので、足許をつけこまれたかして、新円切り換え以来、現金の金繰りが悪いとかいうような理由で、印税は分割で五千円ばかり貰えただけで、残額に相当する分は三百冊の本で渡して貰い、それを父と私とで何回にもわけてルックにつめこみ、しかるべきルートである神田の小取次店や、東京、藤沢の小売店に委託販売に廻って歩いた。」(前掲 塩野周策「不遇な直木賞作家」より)
周策さんの述懐によれば、その後も、純文芸の中篇ものばかり書いては、各社の文芸誌に送っていたそうです。しかし結果は、直木賞をもらう前の、芽の出ない時代と同じ。とりあげられることはありませんでした。
その後、あまりの貧乏さに、妻から息子からやいのやいの攻撃されるものだから、河内さん、また大衆誌などに原稿を売り歩くようになったのだとか。しかし、文学をやろうやろうとする気持ちが強すぎたか、とうてい戦後の大衆誌のニーズに合うわけがなく、ボツばっかりだったと言います。
息子の周策さんは、家計を助ける意味からも大学を中退。河内さんのツテで六興出版に入社します。そう、かの中間小説誌『小説公園』の編集者となったのです。
「父はしばしば私を介し、社へ原稿を持ちこんだ。相も変らず観念の裸おどりと言おうか、くだくだとテンポものろい内容で、枚数も全然、雑誌の性質を考慮に入れない百何十枚というものばかりだった。かつての礫々会の仲間だった石井英之助社長も吉川晋編集長も、苦労して読んでくれるが、「もうダメだな。完全にバスに乗り遅れたよ、オヤジさんは」と言われる始末だった。」(前掲「不遇な直木賞作家」より)
自分の盲信する「文学」みたいなものにとらわれて、とうてい、読めたものになっていない。……まさに里見〈弓享〉さんが描いた「文学」の主人公の姿が、そのまま、昭和20年代中盤の河内仙介さんの姿のようです。
なので、どうも橋爪健さんの描く河内仙介像は、違和感を覚えさせるんですよね。酒ばかり飲んで、直木賞作家の名声に耐え切れず、小説が書けない、とか。
「落魄の河内仙介をなんとかカムバックさせてやろうと、(引用者注:友人の長谷川幸延は)自宅に一室を与え、夜具、着物、下着から机、原稿紙、万年筆まであてがってやった。仙介は涙を流して机にかじりついていたが、荒廃しきった筆はなんとしても動かない。やっと二、三十枚のものができたというので、幸延が読んでみると、「紅蓮の炎めらめらと」というような文句が随所に出てくる始末で、ついに一作もものにならず、昭和二十九年胃カイヨウで、妻子だけにみとられて無惨に消えていった。」(前掲 橋爪健「芥川賞 文壇残酷物語」より)
「紅蓮の炎めらめらと」ふうの文章が何度も出てくる河内仙介さんの小説は、すでに昭和16年/1941年に書かれているんですよ。「燃える睡蓮」(『新青年』昭和16年/1941年10月号)っていうやつ。
それに、「妻子だけにみとられ」るのが無惨かどうかは知りませんが、死にぎわ、北條秀司の妻と、娘・美智留が駆けつけたことも、付け加えておかねば事実に反します。青年時代からの親友、北條秀司さんも、大阪出張から帰京後、すぐに河内さんの霊前にやってきていますし。
「直木賞をとったのに、晩年、全然小説を発表できなくなって、おお悲惨」と、ケタケタ笑う人の気持ちはわかります。でも、一応、そんな河内仙介さんの姿……売れずとも、才能がなかろうとも、時代遅れになろうとも、書くことをやめなかった河内さんの生き方を「うらやましい」と言う人もいるのですから、ワタクシはぜひ、そっちの見方に乗っかりたい。
「はっきり言って、私の父は鬼だった。鬼に父は少年時代からとり憑かれていた。長じてこの鬼は、妻子を貧苦のどん底へ何度も巻き込んで省みなかった。(引用者中略)しかし、歳月の流れの中で、私の父への思いは、さまざまに移り変わっていった。父が他界したときの五十六歳を十年も上回った齢になった今の私は、鬼で生涯を閉じた父を、つくづく羨ましく思うようになった。」(『松柏』98号[平成6年/1994年3月] 塩野周策「原稿用紙と遊ぶ」より)
○
河内仙介さんには4人の子供がいました。しかし、長男・周造と長女・蓉子は、それぞれ大正11年/1922年と大正15年/1926年に、生後まもなく没。次女の房子は、立派に成人したものの、河内さんの死後半年ほどで、病気で亡くなりました。24歳だったそうです。
ってことで、ひとり残った次男の周策さん。結婚もして、河内さんに孫の顔を見せてあげることもでき、母(仙介の妻)のわささんとともに長いこと、存命でした。
周策さんは『小説公園』編集部ののち、報知新聞に定年まで勤めたようです。その間、父親ゆずりの「文学熱」を存分に発揮しちゃいまして、同人誌に小説とかを発表。編集者時代の付き合いから派生して、山本周五郎さんにも小説を読んでもらったりしたらしいですが、けっきょく小説家にはなり切れませんでした。
しかし、同人誌への思いは生涯捨て切れず、定年退職後に、昔の仲間たちと『葦』(復刊平成3年/1991年10月)を復活させました。その『葦』に周策さんは「わが父の記」(第16号~第26号)というのを連載していたりするのですが、ワタクシ、いまだ未見。いやあ、読んでみたいなあ。
じつは、1月は、うちのブログにひょっこり訪れてくれる人の数の多い時期です。十中八九、いまの直木賞にしか興味のない人だろうとは思います。思いますが、あえて河内仙介さんを取り上げたのには、理由があります。
だれかが何かの縁で、このエントリーを見てくれるかもしれない。そして「お。おれも河内仙介のこと知ってるよ。ほら、あそこに関連の文章が載ってたよ」などと、教えてくれる人が現れないとも限らないからです。河内仙介の情報、大募集! 明日から、知り合いと会ったときの挨拶は、ぜひ、「ねえ、河内仙介のこと、何か知ってる?」でお願いします。
……じっさいに河内仙介と会ったことのある、二人の人の文章で今日は締めます。二人とも、塩野周策さんの同人誌仲間ですので、その分、橋爪健さんのような辛辣な言葉はありません。「直木賞をとったのに消えた作家」のことを、人間として肯定的に見てくれる人も、世の中にはいるんですよ、ってことで。
まずは津田類さん。
「たしか二十四、五年の夏だったと思うが、戦前、『軍事郵便』という作品で直木賞を受賞した河内仙介氏が「君たちはいいなア。そうやって書くことがたのしくてしょうがないときがいちばんの花だよ。オマンマの種のために小説を書くってのは実に嫌なものだ。ちかごろやたらと筆が重くてねエ……」といったことがある。
(引用者中略)
河内氏は小説が好きで好きでたまらなかった。だから、戦後の価値観の急変について行けなかった。河内氏は、自分が探り出した小説の城を出ることを拒んだ。従って、マスコミから離れなければならなかったのである。」(『演劇界』昭和41年/1966年8月号 津田類「舞台裏この道一筋に ◆揚幕◆倉沢小三郎氏 檜舞台のなかの城郭」より)
つづきまして、人柄のよさは天下一品の、松永昭二さん。
「おいおい分かったことですが、先生(引用者注:河内仙介のこと)は若い頃から純文芸作家を志して、節を曲げてまで売れればどんな小説でも書くというような態度はとろうとされなかった方なんですね。
(引用者中略)
清廉という言葉がありますが、河内先生は正に清廉の人でした。私に清廉の尊さを感じさせてくださった方でした。物のない貧しい時代でしたが先生のお話を伺っていると、なぜか心が豊かになったのです。
「人間らしく生きるということは、金持ちになることとは違う」
河内先生は迷っていた私に、生きる道筋と勇気を与えてくださった人間作家でした。」(平成8年/1996年3月・日本教育新聞社出版局刊 松永昭二・著『子どもの情景――「心の教育」をすすめるクァルテット――』「第四楽章 自画像に代えて」「人間作家」より)
むむむ。河内仙介を表現するに「清廉」とは。ある意味、斬新。
仲間にデカい口たたくは、借金しまくってひんしゅくを買うはで、河内さんって徹頭徹尾、嫌われ者なんだとばかり思っていましたよ。世にひとりでも、生きる道筋と勇気を与えたなんて、やるじゃん、河内さん。
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