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2011年12月18日 (日)

安藤鶴夫(第50回 昭和38年/1963年下半期受賞) 仲のよくなかった三人の男。一人は受賞できて二人はとれなかったけど。みんな直木賞史に名を残しました。

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安藤鶴夫。『巷談本牧亭』(昭和38年/1963年7月・桃源社刊)で初候補、そのまま受賞。作家デビュー作「佳楽」から17年。55歳。

 みなさん、あれですか。成り上がり者、お嫌いですか。文学賞をとった途端に、周囲に対する態度を変えて、偉ぶるような人間はお嫌いですか。

 そんな人間のことを克明に描いているのが須貝正義さん『私説安藤鶴夫伝』(平成6年/1994年5月・論創社刊)の「第15章 直木賞作家」です。

 昭和39年/1964年2月27日、安藤鶴夫さんの直木賞受賞を祝う会が、東京ヒルトン・ホテルで盛大に開かれました。出席した人たちのなかから何人かの証言を、須貝さんがまとめてくれています。

「槌田満文談。

(引用者中略)それが、べら棒に盛大な、受付が長蛇の列で、誰かがいったけど、告別式だって。(引用者中略)世話人の顔触れみても、安藤さん、あの頃からはっきり河岸を変える気持ちがあったんじゃないか。直木賞あたりから、昔みたいな謙虚さはなくなって、はっきり変ったと僕には思えるんだが。(引用者中略)

 大木豊談。

『舟木一夫や木場の材木屋さんなんかが出入りするようになってから、昔の安藤鶴夫はどっかへ行っちゃったな。それはなぜかっていうと、名誉欲ですね。なんか褒美を貰いたかった人なんだな。あんなに貰いたくねぇっていってた人が――。ヒルトンで、須貝さん酔っ払っていったこと、あれは、須貝さんばかしじゃなくて、僕らもそう思ってたのよ。(引用者中略)

 土岐雄三談。

(引用者中略)ま、あんな莫迦げた騒ぎをするってのは、誰の趣味なのか。金屏風の前なんて。口の悪いのは、入口は葬式で、中は結婚式だって。僕は、なぜそんなに奴が飛び上がるほど嬉しいのか、判んなかったんですよ。そしたら、作家と書かれたことが凄く嬉しいんだってね。まあ、オリジナルなものを出すのが作家だとすれば、そういうことかも知れないけど、あの祝賀会の莫迦げた盛大さは、本当の江戸ッ子なら、とてもじゃないけど、こっぱずかしくて出来ないね。』

 榎本滋民談。

(引用者中略)要するに、地方議員が国会議員になって、これから国会議員としての世界を持たなくちゃいけないのに、地方議員時代のわれわれとは、違和感があるじゃない? それを、いちばん濃厚に持ってたのが、あなた(引用者注:須貝)なんだな。つまり、大台に乗ったことは結構だけど、大台に乗ってすうっと向こうへ行っちゃった。それで、乗っちゃったことを怒ろうとすると、あいつは僻んでんだてことになるから、プライドにかけても普段は念頭にのぼせまいとする。それが大酔すると、ばァッ噴き出したんだろうと、あの当時、了解がいったわけ。(引用者中略)

 以上の談話は、安藤鶴夫歿後数年経ってからのものだから、語る人の立場も、従って言葉のニュアンスも、当時とは大分違っていることを考えなければならないだろう。」(『私説安藤鶴夫伝』より)

 でも、まあ、みなさん嫌いなんですね。直木賞をとって豹変しちゃった人を見るのは。

 にしても、「本当の江戸ッ子」っていう言いぐさに、ぐふっと笑ってしまいました。ずいぶん面白い言い方をする人がいるものです。……だって、直木賞が権威主義というなら、江戸っ子はこういうものだ、と決めつける姿勢も、同じくらい、くだらなくて馬鹿バカしい分類行為だと思いますもん。江戸っ子江戸っ子とデカい口たたくやつほど無粋になっていく、つうハナシで。

 ハナシが逸れました。ともかくも、安藤さんは若いころから小説家を志望してきた方でした。演芸評論なんちゅう、権威や高尚芸術からほど遠いと見られていた分野で、ぐいぐいのし上がっていったわけですが、その一方で、小説家になるための鍛錬や努力や、ひと付き合いを怠らなかった、その帰結が直木賞ですから。本来、喜んであげるにふさわしい受賞だったと思います。

 安藤さんは『巷談本牧亭』の前から、芸人や芸事かいわいのおハナシをよく書いていました。「小説のようであり、読み物のようなもの」と受け取られていたようです。と言うと安藤さん、お得意の不機嫌ヅラになるでしょうけども。

 現に昭和38年/1963年下半期も、文春社員たちが行う下読み・予選候補選出の段階では、『巷談本牧亭』はその対象に含まれていなかったのだそうです。

 しかし、ひとりこの作に目をつけてくれた恩人がいました。文藝春秋新社、車谷弘さんです。

「車谷弘談。

『直木賞の時、社の何人かが下読みするんだけど、予選委員会に“巷談本牧亭”が入ってなかった。僕は、安藤君から貰って読んで、長編小説書ける才能あるんで驚いたんだ。構想ちゃんと出来てるんで。「これ、いいから入れといたら」って担当の尾関君に渡した。』」(前掲『私説安藤鶴夫伝』より)

 さすが慧眼、車谷さんだ。今東光さん復活の折りにも一枚噛んでいた人ですが、やはりこういう人物が、直木賞・芥川賞の歴史を動かしてきたんですねえ。

 そもそもです。どうして車谷さんのもとに安藤さんから『巷談本牧亭』が送られてきていたのでしょうか。ひもといてみますと、これもまた車谷さんの慧眼のなせるわざだったんですね。二人がはじめて出会ったのは、さかのぼること17年前。まだ車谷さんが『オール讀物』の編集長をしていて、安藤さんが東京新聞の演芸記者だったころでした。

 安藤さんの文章を読んで、この人なら小説が書ける!と見込んで、車谷さんのほうから訪ねていったのだとか何とか。

「いきなり、だしぬけに、

「どうです?」

 と私は云った。

「小説を書いてみませんか」

「小説?」

 安藤鶴夫は眼をパチパチさせて、

「小説を私にですか」

「えゝ、何でも結構です。四、五十枚の短篇小説を書いて下さい」

 東京新聞社に、演芸記者の安藤鶴夫を訪ねて、初対面の私がこうきり出したものだから、彼は鳩が豆鉄砲をくらったように、眼をまるくして、びっくりしていた。」(昭和51年/1976年10月・角川書店刊 車谷弘・著『わが俳句交遊記』「桑名の宿」より)

 『巷談本牧亭』に至るずーっと前から、車谷さんの慧眼は光っていたわけですね。

 こうして『オール讀物』昭和22年/1947年1月号に安藤さんの「佳楽」が載りました。

 まもなく車谷さんのもとに、川口松太郎さんから速達が届きます。安藤鶴夫のような人を、どうか大切に育ててやってほしい、という「佳楽」を読んだ感想でした。車谷さんは早速、そのことを安藤さんに伝えます。きっと喜ぶだろうと思ったからです。

 しかし、安藤さんはそれ以来、車谷さんと会っても小説のハナシを避けるようになってしまったのでした。

 ああ。安藤さんがそのころ、小説に色気を出して、もっと『オール讀物』誌上に顔を出していたら。ずっと早くに直木賞が取り沙汰されたりしていたかもしれません。小沢昭一さんや大西信行さんの危惧した事態が訪れていたかもしれません。

 川口松太郎さんといえば、劇壇の先輩であり流行作家、また直木賞選考委員を務めることになる人です。川口さんの激励を、なぜ安藤さんはそのまま受け取らなかったのでしょうか。昭和27年/1952年、新しい家を建てるとき、住宅公庫の申し込みの保証人にまでなってくれた恩義ある川口さんと、安藤さんのあいだに何があったのでしょうか。

 ……っていうことは、車谷さんの「桑名の宿」後段で明らかにされます。

 「佳楽」を発表したとき、安藤さんのもとにも川口さんから手紙が来たのだそうです。いわく、君の小説は久保田万太郎の模倣だ、君は君自身の小説を書かなければいけない、と。それで安藤さんは、小説を書こうとするとどうしても万太郎の影響から抜け出せないことに苦み、車谷編集長と会うのが辛くなってしまったのだとか。

 川口さんは、第50回(昭和38年/1963年下半期)の直木賞でも、当然選考委員をしていました。目をかけ、小説家として期待していた安藤さんの小説、そりゃあ人間関係からしてイの一番に推したんだろう。……と思うとさにあらず。出ました。自分に親しい候補者ほど厳しく採点する、っていう川口さんのクセがこの回でも発揮されまして、それほど『巷談本牧亭』は推さなかったみたいです。

 そういえば、川口さんも東京生まれの東京育ちな人でした。表立っては褒めないがウラで助力を惜しまない、そんな川口さんみたいなやり口を、土岐雄三さんならば、本当の江戸っ子と呼ぶんですかねえ。

          ○

 せっかく江戸っ子東京っ子の話題になったので、第50回直木賞における影の主役(?)についても紹介したいと思います。その方もバリバリの東京人なんです。

 第50回の受賞者は安藤鶴夫さんと和田芳恵さんでした。しかも舞台は直木賞です。と来れば、思い出さないわけにはいかない人物がひとりいます。影の主役こと、正岡容さんです。

加藤(引用者注:加藤武) 正岡さん、安藤鶴夫さんとはどうだったの?

小沢(引用者注:小沢昭一) まあ、第三者的にいえば一種のライバルかな。

坪内(引用者注:坪内祐三) 二人の間にいた久保田万太郎さんとはうまくなかったようですね。

小沢 正岡さんは久保田さんのこと好きなんだけど、正岡さんは浪花節をやるでしょ。久保田さんは浪花節嫌いだから、ちょっと顰蹙してるところがあった。

(引用者中略)

小沢 久保田先生は正岡先生を文壇人としてはあまり認めていないよ。落語の評論にしても安藤さんのほうをかわいがっていたし。

加藤 そお。ま、安鶴は一所懸命久保万をヨイショもしてたしね(笑)。正岡さんはそういうことをしない、いえば潔癖な人だったとオレは思うんだ。」(『彷書月刊』平成16年/2004年12月号「特集 容いるる 生誕百年正岡容」 小沢昭一、加藤武「対談 飲んで歌って 泣いて笑って」より ―司会:坪内祐三、聞き手:田村治芳、構成:皆川秀)

 安藤さんと正岡さんの因縁は、大村彦次郎『文壇挽歌物語』にも取り上げられているし、正岡さんのほうが安藤さんを嫌っていたエピソードはいろんな文献で確かめられます。

「後年、(引用者注:正岡は)落語評論にかけては安藤鶴夫さんと二大評論家みたいなことになりまして、お互いに意識し、まわりも、またそのことを意識するという状態でした。後に安鶴さんが『講談(引用ママ)本牧亭』で直木賞をとっちゃったときは(昭和三十八年)、もう正岡さんは五年前に亡くなっていたのですが、大西と二人で「よかったねえ、先生、生きていたらまた酒飲んで荒れて、俺たちどうしていいかわからなかったよねえ」と、手をとり合いました。酒を飲まないときは猫のようにおとなしいんですが、飲んだら虎、狼なんです。感情的な制御は一切きかない。そういうことから、文壇からは嫌われていましたね。」(平成16年/2004年1月・晶文社刊 小沢昭一・著『小沢昭一百景 随筆随談選集3 慕いつづけたひとの名は』 小沢昭一、坪内祐三「巻末対談 三人の師匠」より)

 このハナシが数段厚みを増すのは、正岡容さんが昔、小島政二郎さんに師事して小説を書き、直木賞の候補になったことがある、と言われているからなんです。

 片や、受賞はならずに文壇的にはずっと不遇。対するライバルは直木賞を受賞してニコニコ顔。この対比に、はたから見る人間はジーンとしびれてしまう、っていう寸法です。

 いや。このしびれは、第50回のもうひとりの受賞者が和田芳恵さんだったことにより、ぐぐっと強烈さを増しました。

「秋永(引用者注:秋永芳郎)さんは、「日の出」に小説を書いていたが、文学青年らしい情熱を持っていた。私たち編集部の仲間が、同人雑誌「山」をはじめるとき、秋永さんも、経堂鬼一のペンネームで参加した。

 昭和十六年の四月に「山」は創刊されたが、同人は、秋永さんのほかに、正岡容さんも高山延男のペンネームで加った。このふたりは、職業作家で、このころ「報知新聞」の社会部にかかわっていた三島正六さんは、同じ社の文化部に籍を置く中山勝次さんを誘ってきた。津山三郎さんと丸野克郎(本名は勝)さんと私は新潮社の社員であった。

 「山」の二号が出て、三号がでないうちに、同人雑誌の統合がおこり「山」は解消した。表紙は田代光さんが描いてくれた。(正岡容さんが、昭和十六年の「日の出」六月号に発表した『置土産』は、直木賞の候補作品になったが、これは「山」の三号にのせようと書いた原稿に手を加えたものであった。(引用者中略))」(昭和42年/1967年7月・新潮社刊 和田芳恵・著『ひとつの文壇史』より)

 ともに小説修業をし合った仲間。その後、和田さんと正岡さんは長い断絶を迎えます。しかし、

「正岡さんの晩年、東宝の名人会で偶然にあった。これは長い断絶ののちであったが、死んだとき知らせる僅かな人のなかに私が加えられていたことを知って、正岡さんは孤独だったんだなあと通夜の席でひとり暗然とした思いになった。」(『大衆文学研究』21号[昭和42年/1967年12月] 和田芳恵「孤独な人」より)

 仮に正岡さんが昭和39年/1964年まで生きていても、安藤さん受賞に対する怒りや嫉みが、和田さん受賞への喜びで帳消しになっていたことを願わずにはいられません。

 ……と、直木賞をめぐる三人のあれこれに、今ここで水を差すのも野暮なのですが。

 正岡容の年譜には、和田さんの『ひとつの文壇史』が出た昭和42年/1967年以降、「置土産」で直木賞候補になったことが付け加えられました。いまではポプラ社の百年文庫『秋』にも収められて、手軽に読むことができるようになりました。慶賀の至りです。

 しかしワタクシは不安で震えています。「置土産」が直木賞の候補になった、って言いますけど、それって和田芳恵さんの20数年を経た記憶による、たった一人の文章しか典拠がないんじゃないですか? ひょっとして、和田さんが当時、選考委員のひとり小島政二郎さんあたりから聞いた、選考会にはかる前の予選候補リストのなかに「置土産」が入っていた、みたいな伝聞がもとになっているんじゃないですか?

 もしそうなら、恐ろしいハナシです。一人の人間が記憶を頼りに発した言葉を、みんながみんな信用しているんですもの。じゅうぶん世間に流布したあと、じつは違っていたんだよゴメンね、そんな展開にならないことを祈ります。祈ります、っていうかそういうのを確定させるのが、うちのサイトの役目なのかもしれませんね、すみません。

          ○

 ところで。安藤鶴夫・和田芳恵コンビに正岡容。これだけでも直木賞オタクにはおなかいっぱいです。でも聞くところによりますと、安藤、正岡のほかにもうひとり、「三羽烏」と呼ばれた人がいたんですって?

「戦後のひところ、安藤鶴夫・正岡容・玉川一郎は、「寄席演芸の三羽烏」と呼ばれたことがある。その筆により、声によって、芸界をリードした点、互いにヒケを取らなかったからだ。」(平成15年/2003年8月・うなぎ書房刊 小島貞二・著『戦中・戦後の演芸視 こんな落語家がいた』より)

 おお。玉川一郎さん。忘れちゃいけませんね、直木賞の話題であるなら、なおさら。

 でまた、こちらは正真正銘の直木賞候補作家、玉川一郎さんもまた、安藤さんをクソミソにケナして嫌悪していた、つうのですからややこしい(わかりやすい?)ハナシです。

「三人はあまり仲がよくなかった。(引用者中略)

 玉川一郎は安藤鶴夫を徹底的にきらって、なにか用事があって外出する場合、絶対四谷では降りなかった。安藤家が四谷にあったからだ。

 真相はよくわからないが、推測するところ古典派と新作派の意見の対立ではなかろうか。アンツルは「落語は古典に限る」の主流派、玉川は「新作こそ落語」という改革派。自民党と共産党ほどの違いだ。」(同)

 玉川さんがはじめて直木賞の候補に挙げられたのは、公式資料では、第12回(昭和15年/1940年下半期)です。正岡容さんの「置土産」よりも前です。さらに、戦後にも1回昭和25年/1950年に候補になっています。

「昭和二十年ごろの雑誌の目次を見ると、さかんに玉川一郎が仕事をしていたのがわかる。礫々会のほか、長谷川伸一門の新鷹会にも加わっていたし、長谷川邸の集りの写真に必ず玉川一郎の顔がある。

 あとになってわかったのだが、昭和二十年代の直木賞の候補の中に、玉川一郎の名がずいぶん数多く見られる。二度や三度ではなく、候補になった数から言えば、西の長谷川幸延と双璧と言えるだろう。どちらも礫々会の会員であり、新鷹会にも加わっていた。

「どうせおれのはユーモア小説だから、直木賞には軽すぎるんだよ」

 ひがみっぽい言いかたではなく、からりとした口調で言って、玉川一郎は笑った。」(平成7年/1995年3月・文藝春秋刊 村上元三・著『思い出の時代作家たち』「十四」より)

 虎や狼にならないところが、玉川さんと正岡さんの違いでしょうか。

 しかし玉川さんも、手広い仕事で活躍していたとはいえ、ほんとうは小説で認められたい、と思っていたらしいです。

「玉川の本心は小説家として認められ、一本立ちすることだった。編集者から玉川の才気は小説よりも随筆や漫文のほうに向いているのではないか、小説を書くとなると、何やらカミシモを着て、畏まっているようだ、といわれると、情けなくてしょうがなかった。それに戦後のユーモア小説の分野は「三等重役」の源氏鶏太が登場して、世代の代替りがされていた。」(平成21年/2009年1月・筑摩書房/ちくま文庫 大村彦次郎・著『東京の文人たち』「秋深し水洗便所の音高く――玉川一郎」より)

 そりゃあ面白くないでしょう。安藤鶴夫なんて生意気なやつが、あとから小説書き出して、文壇に媚うって、サーッと直木賞とってチヤホヤされて。

 本牧亭の女主人、石井英子さんが自ら参加して、あとで後悔した、ってことで有名な「しのばず会」ってのがありました。

「桂三木助は一九六一年の一月に世を去るのだが、しばらくして安藤鶴夫の肝煎りで、「三木助をしのぶ会」というのを都内某所で開くべく、その旨記された通知が各位のところに舞いこんだ。三木助というひとも仲間うちでけっして評判がいいとは言えなかったが、安藤鶴夫が音頭をとっての「しのぶ会」であることに、あんつる嫌いの面面がこぞって反発した。むこうが「しのぶ会」ならこちらは「しのばず会」でいこうと、しのぶ会の開催される同日同時刻に、会名にちなみ不忍池にほど近い、ゆかりの本牧亭を会場にして、これまた各位に案内状を発送したのだ。」(平成20年/2008年12月・河出書房新社/KAWADE道の手帖『安藤鶴夫 アンツル先生の落語演芸指南』 矢野誠一「安藤鶴夫の毀誉褒貶」より)

 この「しのばず会」開催の中心メンバーが、玉川一郎さんだったっていうんですから。直木賞受賞作『巷談本牧亭』に登場するおかみさんを巻き込んでの、アンツルへのパンチ。玉川さん、大活躍です。

「安藤鶴夫さんは敵の多い方でしてね。作家の玉川一郎さんなんか第一声が悪口なんです。(引用者注:安藤の「桂三木助を偲ぶ会」に対して)アンチあんつる派の人が、

「きざったらしいことをするじゃないか。てめぇの名前を売ろうてぇ魂胆にちげぇねぇ。どうだい、こっちでも集まろうじゃないか」

と申し合わせをして、本牧亭の下の食堂「ほんもく」の二階座敷に同日同時刻に集まりましてね。反あんつるののろしをあげたんです。玉川さんのほか、演芸プロデューサーの出口一雄さん、先代の貞丈さん、都家かつ江さん、新聞記者の富田宏さん、それに文楽さんの総勢十人くらいでしたかしら。私も調子に乗って、

「小説の中で、さも親しい間柄のように“おひで”なんて書かれているのが嫌ですから、私も仲間に入れてください」

と言って、加わったんです。」(平成3年/1991年4月・駸々堂出版刊 石井英子・著『本牧亭の灯は消えず―席亭・石井英子一代記』より ―聞き手:荒木元)

 ははあ。玉川さんも「てめえの名前を売ろうてえ魂胆」がお嫌いなクチですか。そうですか。でしょうねえ。

 正岡容さんの再評価がさまざまな人の努力で進んで、「置土産」も容易に読めるようになったのですから、きっとそのうち、玉川一郎さんに光が当てられて、玉川さんの作品が復刻復刊される日もくるでしょう。きてほしい。

 安藤さんも、いっとき直木賞受賞で舞い上がってしまったようですが、自分の作品だけじゃなく、正岡さんや玉川さんの業績が後世の人間に掘り起こされることを願っているはずです。

「人生最高の生き甲斐は、人を発見することの感動、発見されることの喜び、これにつきると思う。」(『週刊文春』昭和39年/1964年2月3日号「芥川・直木賞50回目の栄光」より)

 これ、安藤鶴夫さんの言葉です。

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