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2011年12月 4日 (日)

今東光(第36回 昭和31年/1956年下半期受賞) わざわざ直木賞の受賞など待たずとも、不死鳥は何度でもよみがえる。

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今東光。「お吟さま」(『淡交』昭和31年/1956年1月号~12月号)で初候補、そのまま受賞。処女創作集『痩せた花嫁』から31年。58歳。

 今東光さんの受賞は、そもそもが奇妙でした。少し調べると、奇妙につぐ奇妙のオンパレードで、もう頭が痛いです。

 さすが直木賞だ、常識では計れない奥深さ(底なしぶり?)をもっているぜ、といいますか。東光さんその人が、奇妙な人物だっただけなのかもしれませんけど。

 東光さんが直木賞を受賞したのは昭和32年/1957年1月。このことを紹介するとき、よく出てくる言葉があります。「奇跡のカムバック」ってやつです。

「一九三〇年東京浅草寺伝法院で得度し、天台宗延暦寺派の僧侶となって、一九三四年まで比叡山に入った。それより文壇から離れたが、一九五〇年に文壇との関係を復活させた。直木賞受賞は“奇跡のカムバック”といわれ、以後精力的な創作活動を続け、(引用者後略)(平成2年/1990年3月・教育社刊『芥川・直木賞受賞者総覧』「今東光」の項より ―編集委員会代表:溝川徳二)

 こういう紹介文にはよくありがちですが、奇跡のカムバックと言っていたのが「誰だったか」が書いてありません。残念です。

 もし、言った人間を特定できるのであれば、ワタクシはその人間に尋ねてみたい。文壇へのカムバックと言うけど、そこでいう「文壇」とは何を示しているのですか、と。

 そういう曖昧な定義で思いつきで、20年ぶりのカムバック、とか言う人がいるから、勘違いする人が出てくるのです。ワタクシもてっきり、今東光って人は昭和5年/1930年に仏門に入ってから、「お吟さま」を書くまで、ほとんど小説を発表していなかったと勘違いしてしまいましたよ。全然ちがうじゃないですか。

 『慧相 esou』っていう研究誌があります。長いこと今東光研究をしている漢幸雄さんと矢野隆司さん、お二人がつくった同人誌です。今東光に関する正確な書誌・年譜の制作をめざしながら、東光のあれこれを日々研究する二人の熱意と入れ込み方に圧倒されてしまいます。

 同人のひとり、矢野隆司さんは、『大阪近代文学事典』(平成17年/2005年5月・和泉書院刊)にある記述の誤りをバッタバッタと指摘しながら、直木賞受賞前のことをこう書きました。

「東光は、『事典』によると「これから〈昭和九年〉以後約二十年余りは(中略)数編の文学作品の発表はあったが、文壇からは遠ざかることになる」とされている。文壇から遠ざかったかどうかは別として、筆者および今東光研究家・漢幸雄の調査では一九三五(昭和一〇)年から一九五五(昭和三〇)年までの間に東光が発表した小説、随筆、評論はあわせて二五一篇(連載物は一篇と計算。対・鼎談七篇は除外)を数えている。」(『日本近代文学』74集[平成18年/2006年5月] 矢野隆司「研究ノート 今東光研究補遺」より)

 とくに戦後、出版界がにわかに賑わった昭和20年代前半には、かなり旺盛な創作活動をしていたように見えます。「文壇から遠ざかっていた」と表現するのも憚られるくらいです。

 ほら、『慧相』同人のもうおひとり、漢幸雄さんの調査結果を見てみてください。

「この時期(引用者注:昭和21年/1946年~昭和25年/1950年ごろ)の東光はそれでも小説を書き続けている。『日本文庫』に「悪童」を連載(昭和23[一九四八]年6月~、連載11回)、その原稿料でようやく一息つくことができたときよ夫人は述懐している。他にも創刊され続ける雑誌から入る原稿依頼に応えて、時代小説を中心に作品を発表し続けた。この時期の小説作品は、昭和21[一九四六]年が2作品、昭和22[一九四七]年が1作品、昭和23[一九四八]年が9作品、昭和24[一九四九]年が19作品《未確認ながら小説と思われるタイトルが他に11作品ある》、昭和25[一九五〇]年が10作品と、新進作家として書き続けていた時期に匹敵する作品数を生み出している。」(『慧相 esou』1巻1号[平成22年/2010年9月] 漢幸雄「今東光作品の系譜 その創作活動の軌跡〈連載第一回〉」より)

 何なんですか。全然、筆折ってないじゃないですか。

 いや、どうせそのころ、東光が書いていたのはイヤらしいカストリ雑誌ばかりで、そんなもの「文壇」とは呼べないのさ、ってことかもしれません。かの夏目漱石賞でおなじみ『小説と読物』までカストリ扱いされるのは、納得できませんが、まあいいでしょう。

 ともかく、今東光さんは長く文壇から離れていた、とおっしゃる。いったい、その「文壇」って何を指しているのだ、とイライラしてくるのです。

 たとえば昭和23年/1948年創刊の『歴史小説』って雑誌があります。東光さんはこの雑誌にも何篇か小説を書いていて、縁浅からぬ人物です。この雑誌のバックには「歴史文学会」っていう組織があるらしいんですが、その会の発起人は加藤武雄、邦枝完二、藤森成吉、中村白葉、木村毅、などなど。顧問には谷崎潤一郎を筆頭に、佐藤春夫、志賀直哉、武者小路実篤、折口信夫など、名前だけ借りたんだなってことがバレバレのお歴々を並べていまして、常任幹事5名のうちの一人が、そう、今東光さんなんです。

 文壇から離れているはずの人が、文壇人の頭数そろえたみたいな、こんな会の常任幹事、っていったい何なんですか。奇妙すぎて、ほんと頭が痛いです。

 少なくとも、昭和32年/1957年の直木賞受賞をもって「カムバック」と表現するのは、ずいぶん無理があるよなあ、と思います。ワタクシはやや非常識なので、昭和20年代前半の大衆雑誌にバリバリ書き出した段階が、カムバックじゃないの、と認定したいのですが、常識的な線でいえば、昭和28年/1953年『文藝春秋』2月号の「役僧」が、文壇カムバック作でしょう。

 常識的な雑誌(?)『週刊サンケイ』は、その見立てを採用しています。東光さん直木賞受賞から数か月後の「略歴」です。

「三十三歳で出家、戦後文芸春秋から「役僧」でカムバック「お吟さま」で第三十六回直木賞受賞」(『週刊サンケイ』昭和32年/1957年7月「阿部真之助対談 昨日・今日・明日」より)

 文壇から離れていた人がいきなり、悪縁ふかき『文藝春秋』誌で復活、っていうのも何だか不思議なカムバックではありますけども。

          ○

 直木賞受賞に先立つこと4年前、『文藝春秋』誌上で、東光さんは復活を果たしました。

 このあたりのハナシを、東光さん本人はこう語っています。

「当時の(引用者注:『文藝春秋』の)編集長の車谷(弘・現常務)さんが「最近の小説を見ると数は非常に多いけど、わたくしらが編集者を長くしていて、ああこれはいただけるという小説がなかなかありません。昔、あんた書いてたんだから、一つ書いてください」というので、書いたのが「役僧」という小説ですよ。そうしたら、亀井勝一郎なんかが、なんだかんだとイチャモンをつけたよ。ロクでもねえとか、知ったかぶりで書いているとか。なあに、てめえのほうが知ったかぶりで「美貌の皇后」なんて光明皇后のことを書いたって、あいつなんか、おれみたいに二十年も三十年も仏教の勉強しているわけじゃねえんだから。生意気こくな、この野郎! と思ってたね。」(昭和48年/1973年6月・徳間書店刊 今東光・著『毒舌文壇史』「ボロ寺の和尚を見放さなかった作家達」より)

 どうして長らく文春に小説を書いていなかった東光さんに、車谷弘さんがそんな依頼をしたのか。車谷さんの証言によると、きっかけは東光さん側からの或る依頼だったのだそうです。

「今さんから、

「沖縄を訪ねて、戦場の跡を弔いたいのだが、特派員という事にしてくれないか」

 と云ってきたのは、その(引用者注:昭和26年/1951年八尾の天台院の住職になった)翌年の秋だった。これをいちばん喜んだのは佐佐木茂索で、

「今もとうとう物を書く気になった」

 と云っていたが、私もまた、これが一つのきっかけになって、今さんの、文壇復帰の道がひらけたら、どんなにいいだろう、と思っていた。それで百方奔走したが、このときの今さんの沖縄渡航は、とうとう許可がおりなかった。私は失望落胆する今さんに、随筆、小説を書く事をすすめた。」(『文藝春秋』昭和52年/1977年11月号 車谷弘「噂の真偽」より)

 昭和27年/1952年秋に特派員の依頼があって、ポシャッて、随筆・小説を書くことをすすめて、その年12月発売の昭和28年/1953年1月号には随筆が、翌2月号には小説が載った。つうことは、ずいぶん物事がバタバタと動き、また東光さんも即座に反応したんだな、と思います。

 で、小説「役僧」を今東光さんの発表物と認識した文壇人は亀井勝一郎さんだけだったわけはありません。昭和28年/1953年暮、『創作代表選集12 昭和二十八年前期』(昭和28年/1953年12月・講談社刊)に「役僧」が収録される運びとなりました。

 ちなみに、この選集の編纂委員は全部で6人。井上友一郎、臼井吉見、佐藤春夫、椎名麟三、高山毅、永井龍男です。

 そう。永井龍男さんもそのひとりでした。東光さんの文壇カムバックを見届けたかっこうの永井さん、その彼が3年後に、東光直木賞受賞に際して大きな混乱を周囲にまき散らすことになってしまうのですから、もう。因果なものです。

          ○

 直木賞や芥川賞が好きな人たちっていうのは、基本、文壇政治とか噂バナシとか、誰と誰が仲良くて誰と誰がケンカした、みたいなことに興味津々な人たちです。

 今東光の小説が、ナント昭和32年/1957年にもなって直木賞の候補になった! と聞いただけで、目を光らせた人もきっといたことでしょう。東光といえば大正12年/1923年、『文藝春秋』の創刊同人のひとりだった、でも直木三十五が匿名で書いたゴシップ記事がきっかけで菊池寛とのあいだに表立ったケンカをはじめ、まもなく仲たがいした人間だ、その人間が30年もたって文藝春秋の直木賞をとる……!?

 この展開に興奮しない直木賞ファンがいるでしょうか。昭和32年/1957年当時も、おそらくいたはずです。

 さあ、選考委員たちは、東光と菊池寛との昔のいざこざをどう処理するつもりなんだ、どうなんだ。……とワクワクしている外野の野次馬の前に、東光受賞の報、そして永井龍男さんの選評が公けにされました。

「選考委員の一人永井龍男は実兄の臨終間近かに接し、七篇の候補作のうち四篇しか読めなかったという理由で、選考当夜は書面を提出して欠席した。ただし書面では東光の候補作「お吟さま」については読んではいないが、これだけは作品の価値いかんに拘らず、反対したい旨、要望した。永井の真意は直木賞を新鮮、溌溂なものにしたい、というものであったが、文壇の裏事情に通ずる永井のことだから、殊更反対するのには何か隠された理由があるのではないか、と逆に勘ぐられた。永井の旧師菊池寛と今東光の往年の確執は誰もが漠然とながら知るところだった。あとでこれを聞いた永井は言葉の不足からあらぬ誤解を招いたみずからの非を悔いた。」(平成13年/2001年5月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『文壇挽歌物語』「第二章」より)

 ってことで、永井さんが悔いている文章をご紹介します。

「今東光の場合は、いまに苦いものを残している。これは私の未熟からきている。(引用者中略)

 各人各説、選評でそれぞれに興味深いが、その中にあって私の委員会宛ての書簡だけが生硬未熟である。せめて加筆の上選評として再提出すべきであった。私の主張したかったのは、直木賞を新鮮にするために、出来るだけ新進気鋭の作家を選びたいということであったが、言葉が単純に過ぎ、主張に走りすぎて悔いを残す結果になった。木々高太郎の選評などに、その反響らしいものが見え、

「ところが、委員会で、私として驚いたことは、今東光に今さらやるのはをかしいといふ説が、まづ出たことである。今さらといふのは、もう文壇に出てゐる人であつて、直木賞を出したから注目を浴びるやうになるといふわけでもないし、それに委員の誰彼よりも年齢も上だし、文壇の先輩でもあるから――といふ理由は、私には首肯出来ない。

 よく聞いてみると、文壇の誰彼と喧嘩して、快く思つてゐない人が多いといふ。私にはそんなことも問題ではない」辺りがそれだろうと思うが、そこから入る同氏の大衆文学論は何のことか解読出来ない。余計な私の発言のために、同氏の選評の文章が混乱したとすれば気の毒である。(引用者中略)

 その後今日出海の引合せで、今東光とは親しく口をきくようになったが、私の生硬な物言いなどには一切触れず、いつもにこやかに応対してもらった。さすがに鍛えられた人柄であった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊 永井龍男・著『回想の芥川・直木賞』「第三章」より ―初出『文學界』昭和53年/1978年1月号~12月号)

 選評で、授賞反対の旨を主張する。よくあるハナシです。しかし奇妙にも、永井さんのこのときの選評は、じわーっと波紋を広げる結果になってしまいました。

 ふふん、20年以上たって、そんな後悔の文章を書いたってもう遅いぜ、と言わんばかりに「東光の直木賞受賞を反対する意見のなかには、菊池寛との喧嘩別れが尾を引いていた」説は、どうやら根強く残ってしまったようです。

「東光の直木賞受賞は、すんなり決まったわけではなかった。選考委員会はかなりモメたようだ。(引用者中略)

 なにがそんなにモメたのか。そこには素人には窺い知れぬ文壇のウラ事情があった。芥川・直木賞のスポンサーは文芸春秋社であり、その創業社長は菊池寛である。(引用者中略)創刊から二年たって文芸春秋編集同人(十四人)の一人だった今東光が主宰者の菊池寛にタテをつく。東光の造反劇については前の章でくわしく述べたが、結果的には菊池寛とのケンカ別れで、東光は文壇追放みたいな格好となった。

 直木賞選考委員の永井龍男が、「今氏の場合だけは作品の価値いかんにかかわらず反対」と言っているのは、この辺のいきさつであろう。永井龍男は菊池寛の側近であり、親分の意を呈したというべきか。」(平成10年/1998年7月・日本図書刊行会刊 菊池達也・著『今東光物語』「第五章 休火山の爆発」より)

 噂は一度流れてしまうと、拭い去るのが大変なようですよ、永井さん。

 もっと言いましょう。永井さんの選評がもたらしたものは、菊池寛との喧嘩についての憶測、だけじゃありません。東光さんが受賞後に堰を切って大活躍したのを存分に見てから、「悔やんでいる」と書くのは、どういう料簡なんだ永井さんよ、って意見を引き起こすことにもなりました。

 先にご紹介した漢幸雄さんの指摘です。

 『回想の芥川・直木賞』における永井龍男の、東光に関する述懐を引いたあとで、

「東光が受賞を機に大きく活躍しなければ、後年になって永井がこの文章を書いたかどうかはわからないのではないか。ましてこの文章は東光の没後に書かれている。受賞した結果として東光の活躍の度合いが高かったために、受賞に反対したことが悔やまれると読むのは穿ちすぎだろうか。」(『慧相 esou』1巻2号[平成22年/2010年12月] 漢幸雄「今東光作品の系譜 その創作活動の軌跡〈連載第二回〉」より)

 たしかに。

 もしも東光さんが、直木賞を受賞しても作品をチョボチョボしか書かなかったとか、あるいはすぐに亡くなったりしていたら。永井龍男さんは自分の選評を「悔やんでいる」として口外してくれたのでしょうか。

 まあ永井さん。ご安心ください。生硬、いいじゃないですか。未来を見通せなかった未熟さ、いいじゃないですか。あなたが関わった12回分の直木賞選考会で、推した人も落とした人も、活躍した人も活躍できなかった人も、うちのサイトやブログでできるかぎりフォローしていきますので。

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コメント

peleboさんはすでにチェックしておられるかと思いますが、集英社の「日本文学全集59 今東光・今日出海集」(昭和47年刊行)の解説にて尾崎秀樹氏が「奇蹟のカムバック」という言葉を使ってますね。「お吟さま」以前の昭和26年頃からの執筆活動についても触れていますが、直木賞受賞後の旺盛な活動を指して「奇蹟のカムバック」としています。しっかし、第36回の選考は面白いですよね。今東光・穂積驚って、ベテラン二人が一発受賞の回。こんなのがたまにありますから、直木賞予想は本当に難しいです。

投稿: あらどん | 2011年12月 9日 (金) 02時54分

あらどんさん、

尾崎秀樹さんの文章をまったく考慮せずに書いてしまいました。
ツッコミ(というか補足)していただいて、ありがとうございます。

直木賞のおかげで「カムバック」と認識する人が多くなったのは確かでしょうから、
直木賞ファンとしては喜ばしいハナシです、ほんと。

投稿: P.L.B. | 2011年12月 9日 (金) 22時04分

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