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2011年11月の4件の記事

2011年11月27日 (日)

原尞(第102回 平成1年/1989年下半期受賞) 直木賞と無縁であることが似合う作家・作品に、直木賞が授けられてしまった奇跡。

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原尞。『私が殺した少女』(平成1年/1989年10月・早川書房刊)で初候補、そのまま受賞。『そして夜は甦る』でのデビューから1年9か月。43歳。

 繰り返しますが、ワタクシは直木賞のファンです。と同時に、原尞作品のファンでもあります。

 直木賞は、虚飾と卑俗に満ちあふれた世界です。小説の中身を語らず、ただ「直木賞作家」と言うだけで、ああでもない、こうでもない、としたり顔でものを述べたりすることが、平気で行われる世界です。当ブログもそのうちのひとつとして。

 原さんの小説は、そういったものに背を向けています。いや、原小説側から見れば、おのれの世界こそ正常であって、背を向けているのは、「賞」ってだけで騒いだり本を買ったりするような人たちのほうだ、ってことかもしれません。

 まったく異質な二つの世界。直木賞と、原尞の小説。これが平成2年/1990年に接触しました。しかも、原さんが直木賞を受賞してしまった。これはもう奇跡です。正直、いまもって信じられません。

 ひとつに、この奇跡を演出してくれたのは、新潮社の山本周五郎賞でした。山周賞よ、ありがとう。心からお礼申し上げます。

「私は最初の原稿もミステリ関係の種々の賞に応募する気はまったくありませんでしたし、その他のどのような賞にも無縁だろうと思っていました。万一何かの対象になったとしても、「読者が読んでくれるという賞以外に賞はない」と応えて直木賞を辞退された山本周五郎さん――私は彼の愛読者で、ほぼ全作品を読んでおりますが――その周五郎さんに倣って、いかなる賞もご遠慮するつもりでした。だから、昨年の五月に第一作(引用者注:『そして夜は甦る』)が山本周五郎賞の候補になったと聞かされたときは、最大の味方が敵方にまわったような気分でした。賞は遠慮したいが、周五郎さんの名前のついたものを断わるわけにはいかない。「候補にしてよろしいか」という問い合わせに「どうぞ」と答えてしまいました。幸い落選したので、大事には至りませんでしたが、こんどは『私が殺した少女』が直木賞の候補になるとおっしゃる。あっちは承諾してこっちは承諾しないというわけにはいかないし、どうせ落選するに違いないと決めて、また「どうぞ」と答えてしまいました。」(平成7年/1995年6月・早川書房刊 原尞・著『ミステリオーソ』所収「受賞のことば」より)

 山本周五郎賞は、原さんがデビューするほんの1年前につくられたばかりでした。果たして、この賞のできるのが少し遅れていたら……。最初の文学賞候補が直木賞のほうだったら、きっと原さんはサクッと辞退したに違いありません。あぶないところでした。

 ……と言っても、原さんの場合はアレです。発せられた言葉を全面的に信頼するわけにはいきませんけども。原さんが口にする、新作の刊行に関する目標、には毎度毎度、裏切られているわけですし。

 言葉そのまんまを受け取るわけにはいかない、ってハナシで言いますと、たとえば原さんが直木賞授賞式のスピーチで語った、有名なセリフがあります。

「私自身は受賞によって特に変化することはないと思っています。直木賞に恥じない作家になりたいと言うべきところでしょうが、むしろ直木賞のほうが恥ずかしくなるような作家にならなければと思っております。」(同)

 これにしても、うわあ、原さんカッコいい、などとウットリして目を潤ませていると痛い目に遭います。

「――受賞後のインタビューで原さんは「賞の方が恥ずかしくなるような作家になりたい」という発言がありましたが……。

原 いや、あれは多少面白いスピーチがあった方がいいと思って言っただけです。(笑い)」
(『西日本新聞』平成2年/1990年4月3日「九州の文字を語る・芥川賞、直木賞作家座談会(1) 賞の意味」より ―出席者:大城立裕・高樹のぶ子・村田喜代子・白石一郎・杉本章子・原尞・光岡明[紙上参加]、司会:山下国誥・西日本新聞社文化部長)

 と、きれいにスカされてしまうわけですし。

 さすが原さん、しっぽをつかませませんよねえ。こう言えばああ言う、のへらず口、冴えてますよねえ。

 ええ。そんな原さんが、世間一般がかもし出す「直木賞」なる虚像に、いやがおうでも巻き込まれたのですよ。いったい、どんな感想をもち、どんな発言をしてくれるか。ワクワクしないはずがありません。ワタクシは直木賞ファンであって、つまり裏返しでアンチ直木賞でもあります。原さんの直木賞に関する一言ひとことがズシンと胸にひびきます。そして拍手喝采してしまうのです。

 授賞式スピーチに関しては、こんな感想を残してくれています。

「四十才を過ぎて新人賞をもらってもあまり喜んでいられないし、それ以上に、賞などに関係なく読んでくださった読者に対しても、ハードボイルドの“看板”からしても、ごく平静に反応することに決めていた。(引用者注:授賞式での)挨拶はかなり“辛口”で、賞を金科玉条のように思っている人の神経を逆撫でするようなものになった。」(前掲『ミステリオーソ』所収「大竹九段に会う」より)

 逆撫で大歓迎です。賞信者たちの頬をばんばん叩いちゃってください。……しかし、ほんとに、原さんのスピーチを聴いて(あるいは読んで)、神経を逆撫でされた人などいるんでしょうか。あなたの神経がどっちなのかは、原さんの『ミステリオーソ』を読んでみれば判別できます。ぜひどうぞお試しください。

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2011年11月20日 (日)

三好京三(第76回 昭和51年/1976年下半期受賞) あることないこと小説に書いて、あることないこと書き立てられて……。「直木賞作家」の鑑です。

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三好京三。『子育てごっこ』(昭和51年/1976年11月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「聖職」でのデビューから18年。45歳。

 今日のエントリーは長くなりそうです。心してかかります。

 なにせ、直木賞を代表する作家であり、受賞作なのですよ。さまざまな観点において。すでに没後4年もたってしまいましたが、遅ればせながら取り上げさせてもらいます。直木賞オタク冥利に尽きます。

 さまざまな観点、と言いました。三好京三さんと受賞作『子育てごっこ』。直木賞にまつわる数多くのテーマが、凝縮されて詰まっています。

 純文学と大衆文学との区別。純文学への憧れ。東京と地方との温度差。権威欲。名誉欲。週刊誌を中心とした、あることないことのゴシップ。そこから生まれた印象が独り歩きしての、文学とは何の関係もない批判や批評の雨あられ。……

 とくにゴシップについては、直木賞界広しといえども京三関連の右に出るものはいない、っていうぐらいで。いやあ強烈でした。いまだ京三さんに対する悪い印象は、根づよいものがあります。血のつながっていない娘に手をつけたエロ爺い。ゴシップを境に文壇から脱落した哀れな一発屋。教育評論家として偉そうな口を叩いておきながら一皮むけば権威主義の俗物。などなど。

 そのほとんどが、20数年前のある一時期、ワイドショーと週刊誌がまきちらしたイメージから来ています。ゴシップ、楽しいですよね。偏った報道、真偽不明なハナシだけを信じて、一人の人間を悪しざまに罵倒する。心おどりますよね。

 わかります。わかるんですが、ワタクシはそれだけでは満足できません。直木賞に関することを、狭くて一方的な視点で終わらせるのはもったいない。もっと数多くの資料から眺めてみたいんです。

 ってことでまとめてみました。三好京三さんの人生を変えた小説『子育てごっこ』と、そのモデル、千尋さんのことを。

 一連のハナシは37年前の出来事から始まります。三好京三こと本名・佐々木久雄さんの勤める岩手県の分校に、きだみのるとその娘が訪れた日からです。

■昭和49年/1974年 【京三(43歳)・千尋(11歳)】

 ・6月14日 きだみのる(79歳)と千尋が岩手県衣川小学校大森分校を訪れる。

  ――京三、千尋に授業を受けさせ、児童として編入させる準備をする。

  ――昭和50年/1975年5月まで一緒に生活する。

「わたしは言ってみた。

「ミミさん(引用者注:千尋のこと)を、この分校に留学させませんか」

 このとき、入学といわず、留学と言ったのは、フランス好みのきだみのるへの迎合である。

「そうしようか」

 きだみのるは、思いがけずこだわりなくこたえた。(引用者中略)

 京子は教材室に蒲団を敷いてきだみのるとミミの寝室とした。きだみのるがその部屋に立ったあと、それまで漫画本を読んでいたミミは、

「ね、留学の話、ほんとうなの」

 と訊きながら、わたしの首に手を巻いた。

「ほんとうさ」

「ね、あたし、入ってあげてもいい」

「何?」

「田舎の分校だけど、入ってあげてもいいわ」

 わたしは毒気を抜かれ、ミミの腕をほどきながら、

「おじいちゃん(引用者注:きだみのるのこと)次第だよ」

 とこたえた。」(平成13年/2001年7月・本の森刊 三好京三・著『分校ものがたり――山の子どもたちと14年』「十七、学区への移住者たち」より)

 ・7月 千尋、正式に大森分校児童(小学5年生)となる。

■昭和50年/1975年 【京三(44歳)・千尋(12歳)】

 ・3月20日 京三、きだみのるをモデルにした小説「兎」(〈森笙太〉名義)を第3回小説新潮新人賞に応募。最終候補に残るが落選。

  ――応募総数は、「小説新潮サロン」昭和49年/1974年1月号~12月号に入選および佳作となり、新人賞応募資格を得た人たちから寄せられた22篇。選考委員は藤原審爾源氏鶏太曾野綾子の3名。

「山の分校の教師をしていたそのようなわたしのところに、放浪作家に伴われた一一歳の少女がやってきた。(引用者中略)翌年、この放浪作家をモデルにした小説を書き、ある雑誌の懸賞に応募した。それが最終候補に残り、わたしはやっと作家になれそうであった。

 しかし落選である。」(『悠』平成12年/2000年9月号 三好京三「娘・師匠との出会い」より)

 ・5月 千尋、東京の実母に引き取られる。

 ・6月 京三、懸賞応募のために小説「子育てごっこ」を書き上げる。

(引用者注:「兎」について『小説新潮』に)各審査員の作品評が掲載されている。藤原審爾さん、源氏鶏太さん、曾野綾子さんのものである。中で曾野さんの評に衝撃を受けた。(引用者中略)

「小説とはこのように芝居がかったものだったでしょうか」

 というものだ。これを読み、恥ずかしくてたまらなかった。小説を面白く仕立てようとするあまり、リアリティーに欠ける筋立てを作り続けた、そのあたりのところがすっかり見透かされている。(引用者中略)

 ――よし、芝居がからずに、ありのままを書こう――

 題材はわが生活、そしてきだみのる親子である。私小説じみたものになるから、これは中間小説雑誌ではなくて、純文学雑誌向きだった。それであらためて「文学界」や「群像」などを読み、純文学の作風に触れた。

 そして書き始めたのが小説「子育てごっこ」である。」(平成15年/2003年9月・洋々社刊 三好京三・著『なにがなんでも作家になりたい!』「18「子育てごっこ」執筆」より)

 ・7月25日 きだみのる、胆道結石と老衰により東京にて死去(80歳)。

 ・8月 千尋、夏休みを利用して京三夫婦の家で生活。

 ・10月15日 京三、小説「子育てごっこ」により第41回文學界新人賞を受賞、『文學界』12月号に掲載。

  ――応募総数1,274篇。選考委員は石原慎太郎開高健坂上弘丸山健二森内俊雄の5名。

「書きあげて不安であった。自虐的に血を流しすぎたような、あるいはモデルを告発しすぎたような気がした。教師として不適格な自分がもろにあらわれてしまった、とも思った。」(『週刊文春』昭和54年/1979年10月4日号「マイ・ベストワン」 三好京三「「子育てごっこ」―《わが記念碑》」より)

 ・10月末 京三、千尋の実母から千尋を引き取ってほしいと依頼されるが断る。

 ・12月末 千尋、一人で突然京三夫婦の家を訪れる。翌昭和51年/1976年1月4日まで夫婦と生活。この間、親子になる約束をする。

「十二月末の冬休みが始まった日、千鶴(引用者注:千尋のこと)が突然現われた。古戸のバス停から、六キロの道を歩いてやって来たのだという。いじらしい。京子と共に実の親子ででもあるかのように迎え腹いっぱいごちそうして、その夜はもと通りに川の字になり、夜遅くまで語り合った。(引用者中略)

 千鶴はいま一緒に暮らしている母親が自分を姉たちとひどく差別し、疎まれて生活していることをさりげなく告げた。(引用者中略)

 東京の学校の短い冬休みはすぐに終わり、一月四日の日曜日、千鶴はいつも疲れ果てた顔をしているらしい実母のところへ帰って行った。

 しかしわたしたちはそのとき、すでに千鶴と親子になる約束を交わしていた。千鶴のほとんど生れ変わったと言っていいほどにもかいがいしい働きぶりと、何よりも、大森をこの上なくいい所と思いこんでいるその気持が嬉しかった。」(前掲『分校ものがたり』「二十、さよなら分校」より)

■昭和51年/1976年 【京三(45歳)・千尋(13歳)】

 ・3月3日 京三夫婦と千尋の間に養子縁組が成立。

  ――京三は妻との間で、千尋には手を出さないこととの約束を交わした。

「「うちの主人は、そんなこと(引用者注:いやらしいイタズラ)をする人じゃない、千尋を預かったときに、そういうことはしない、という約束になっています」」(昭和61年/1986年5月・データハウス刊 花柳幻舟・著『文化人エンマ帖 オッサン何するねん!』「“子育てごっこ”の後始末」より)

「「ひとつの布団に3人で朝まで寝たこともあります。私は主人が千尋に手を出そうものなら“おやめなさい!”と言うつもりでしたから、目を光らせていました。」」(『女性自身』昭和61年/1986年3月25日号 広瀬千尋「衝撃の告白 心の傷をしるした高校時代の日記を発見!」より)

 ・3月27日 京三、東京に千尋を迎えに行き、同居を始める。

 ・3月31日 京三、14年間勤めた大森分校を離れ、真城小学校に転任。

 ・4月 千尋、前沢中学校に入学。また、この年、初潮を迎える。

(引用者注:『子育てごっこ』の)八九ページに『(略)思いがけず濃厚な媚の表情を見せたりすることが多く(略)「いやね、にやけてみつめないで」(略)』と書いてあるように、非常にを感じる印象が強いんですが、先生自体、その危険はなかったんですか? 久雄先生、教育者の顔になる。「マセッコみたいなこというわりには、あどけないんですよ。女としては娘です」。生理はいつあったんです? 「それが遅かったので助かりました。昨年(引用者注:昭和51年/1976年)でした」」(『週刊サンケイ』昭和52年/1977年2月10日号「密着ルポ 直木賞受賞作「子育てごっこ」」より 太字下線部は原文傍点)

  ――京三の教育方針は、暴力を辞さないスパルタ。その反面、千尋が中学生のころは親子三人で一緒に風呂に入るなどしていた。

「「久雄先生は「この子は本気でぶっ殺すぐらいのつもりでやらないと、直らない」と、家庭では教師の体面を捨てて真っ裸で千尋ちゃんと朝から晩までスパルタ教育をする。(引用者中略)京子先生は千尋ちゃんを当然かばう。情も移る。

“お前がベトベト甘えさすからおれの教育の障害になっている。厳しくやるのがこの子には必要なんだッ。ただベトベトするだけなら動物じゃないかッ、おれは動物と結婚してんじゃないッおれに合わないようなら二人で出て行けッ”――。

「どっちも必死だったんです。疲れましたったねえと……」京子先生柔和な顔が正直に曇る。」(前掲『週刊サンケイ』「密着ルポ 直木賞受賞作「子育てごっこ」」より)

 ・11月 京三、小説集『子育てごっこ』(文藝春秋刊)出版。

  ――文學界新人賞を受賞した「子育てごっこ」と続編「申し子」(『文學界』昭和51年/1976年5月号)を合せて加筆修正した「子育てごっこ」、および「親もどき〈小説・きだみのる〉」(『別冊文藝春秋』137号[昭和51年/1976年9月])を収める。

■昭和52年/1977年 【京三(46歳)・千尋(14歳)】

 ・1月18日 京三、『子育てごっこ』により第76回直木賞を受賞。

  ――以下引用は、受賞後のインタビュー記事。これ以後も、千尋本人は小説のモデルにされることを嫌がっていた、と各種記事に書かれる。

「受賞作では妻のことや少女のことをあしざまに書いている。「別に悪いとも思ってはいません。事実なんだから仕方がないんだという気持ちです」。モデルの少女は拾い読みして、いまは養父となった三好さんに〈これはうそ。こんなことはなかったわ〉という。そんな時、いまは「それは小説だからね」と答えることにした。(引用者中略)成長する少女と、父となった自分との果てしなく続くであろう確執ほど、教育者として「手のひら」で確かめなければならない問題はないはずだ。」(『読売新聞』昭和52年/1977年1月20日「人間登場 「子育てごっこ」で第76回直木賞を受ける三好京三さん」より 署名:田中信明記者)

 ・2月7日 京三、直木賞授賞式のために上京。式には千尋も出席。

  ――以下は、2回前の直木賞受賞者、佐木隆三の文。

「五十二年二月に、東京のホテルで授賞式があり、わたし(引用者注:佐木隆三)も出席したので、三好さんと顔を合わせています。

 パーティーが終わり、選考委員の水上勉先生が、受賞者の労をねぎらうため、銀座へくり出すという。「お前もつきあえ」と言われ、わたしもお供をして、何軒かハシゴをしました。しかし、途中で、三好さんは帰ったんですね。

「女房と子どもが、宿で待っていますので……」

 ハシゴ酒の最中に、こういう理由で抜けるのは、なかなか出来ません。家族のことが、よほど気になったのでしょう。

「娘さんが来てたなア」

 ポツリと水上先生がつぶやき、それから先は、話題になりませんでした。作中人物の「吏華」が中学生になり、可憐なセーラー服姿で、パーティー会場に居たのですから、強烈な印象でしたが、それだけに沈黙したのだと思います。」(『サンデー毎日』昭和61年/1986年4月20日号 佐木隆三「佐木流事件記者 三好京三、「子育てごっこ」受難の春」より)

 ・10月ごろ 京三、性不能者になり以後、夫婦の交渉が途絶える。

(引用者注:京三の妻いわく)「夫は、五十二年十月以降から性不能者です。(引用者略)(前掲『オッサン何するねん!』より)

■昭和53年/1978年 【京三(47歳)・千尋(15歳)】

 ・4月 京三、27年余の教師生活を退き、専業の作家・教育評論家となる。

  ――千尋の中学時代の成績はトップクラスだったという。

「最近のことだが、中学三年になる娘の千尋に、夜な夜な求愛の電話をかけてくるのがいるんですよ。塾で会った相手らしいんですけど、いまは入試を控えた忙しい時でしょ。それなのに、よくもヌケヌケと求愛の電話をしてくるんだから、腹立たしいんです。」(『現代』昭和54年/1979年4月号「公憤義憤オレは怒ったぞ!全員集合」 三好京三「娘への求愛電話」より)

■昭和54年/1979年 【京三(48歳)・千尋(16歳)】

 ・4月 千尋、岩手県立一関高校(訂正→)一関第一高等学校に合格し入学。

「娘は今、高校一年生である。その高校は、今、よほど値打ちはさがっているが、昔の岩手の名門校で、わたしの母校だ。(引用者注:養子にしてから)四年たった今でも、さすがわが娘、よくぞ我が母校に入ってくれたと浮かれているが、」(『婦人公論』昭和55年/1980年5月号 三好京三「“子育てごっこ”以後のとまどい」より)

■昭和55年/1980年 【京三(49歳)・千尋(17歳)】

 ・12月13日 京三と千尋、交換日記を始める。

  ――のちに刊行された千尋の手記『過去へのレクイエム』では、この年の11月、親しくしている男友達がいることを、京三に責められたのを機に自殺未遂をはかったことになっている。

「「わたしにできることは……」

 と考えた。わたし(引用者注:京三)は元国語教師で、現在は小説書きである。わたしにできることは、やはり娘の作文を手直しすることぐらいのようだ。よし、交換日記をやろう、と決めた。娘に持ちかけると、「いいわね」という。うてばひびくというやつで、この辺が娘のいいところだ。」(昭和57年/1982年12月・講談社刊 三好京三・佐々木千尋・著『三好京三の娘と私』 三好京三「プロローグ」より)

「私(引用者注:千尋)は、ミッション系の大学か、哲学を専攻しようと思う。というのは、近ごろ、どうも自分が信じられず、ひどいときには、「死にたい、私なんか存在価値がない」などと、限りなく気分が滅入ることがしばしばあるからなのだ。」(前掲『三好京三の娘と私』「第一部 高校三年受験時代」より)

■昭和56年/1981年 【京三(50歳)・千尋(18歳)】

 ・2月 京三、『娘はばたけ』(文藝春秋刊)出版。

  ――「子育てごっこ」続編の位置づけの小説(初出『河北新報』昭和53年/1978年8月24日~昭和54年/1979年4月13日)。娘の中学時代を題材にしたもの。

「わたしには、少年時代からずっと、自分の小説で人を傷つけてきた、という反省があった。売れもしない小説で人を傷つけるもないものだが、モデルはすべて独断的、かつピカレスクな視点で切りきざまれるのである。(引用者中略)親になることをあきらめていた男の、突如親になったさもしいほどの喜びを、節度なく書いてしまったという感想もある。そういう意味では、この小説はわが私小説でもあるのだ。」(昭和56年/1981年2月・文藝春秋刊 三好京三・著『娘はばたけ』「あとがき「子育てごっこの続編」」より)

 ・3月ごろ 千尋、京三の妻とことごとく対立するようになる。

「私がいちばん心配したのは、高校二年生の三月ころから、母親に対して反抗的になっていったことです。ことごとく母親と対立するんです。」(『婦人倶楽部』昭和59年/1984年2月号 三好京三・京子夫妻「わが家の体験的教育論 娘を下宿させてみて初めてわかった子どもの心情」より)

 ・このころ 京三の妻、ノイローゼで入院。

「更年期障害がひどくなり自律神経も乱れていたから、その治療、検査のためだった。

 母は退院しても家には帰らず、一ヶ月間、家を出たままだった。」(昭和61年/1986年6月・オーク出版刊 広瀬千尋・著『過去へのレクイエム』より)

 ・7月1日 千尋、自宅を離れ下宿生活を始める。

  ――千尋は高校2年ごろからしきりに、下宿生活がしたいと京三夫婦にせがんでいたという。

「子どもより親が大事であり、親より子どもが大事である。それの均衡をとりかね、わが家は険悪なムードとなったことがある。この本の中では、娘が下宿した時期である。それは娘が思春期、反抗期を迎えたからそうなったのかも知れないし、家内が更年期を迎えたからそうなったのかも知れない。いやいや、何よりもわたしに指導性が欠けていたのである。」(前掲『三好京三の娘と私』 三好京三「エピローグ」より)

■昭和57年/1982年 【京三(51歳)・千尋(19歳)】

 ・ 千尋、同い年の男性と彼の部屋で初体験。

「初めてキスをした。

相手は、我が高校きっての不良。(引用者中略)

冬。雪が降っていたかどうかは思い出せない。

心も、身体も冷えていた。

彼の家で、私は、彼に抱かれようと思った。」(前掲『過去へのレクイエム』より)

  ――ただし、初体験はそれより半年後、19歳の夏とする文献もある。

「初体験は、意外と遅くて19のときなんです。外人が特に好きってわけじゃないんで、相手は日本人ですよ、同い年の。(引用者中略)私も19歳の夏に彼の部屋でシタのね。やっぱり、こわかった。気持ちよくなかったし、罪悪感だけが残りましたよ。」(『週刊宝石』昭和62年/1987年9月11日号「穂積由香里と佐々木千尋がプッツン激論! あの事件で騒がれた異色の2人がいま語る男、親、非行……」より)

 ・4月 千尋、大学受験に失敗し、浪人生となる。上京して都内の予備校に通う。

  ――京三夫婦、東京市ヶ谷に3000万円のマンションの一室を購入し、千尋を住まわせる。

 ・11月 京三、千尋、共著で『三好京三の娘と私』(講談社刊)出版。

  ――千尋の高校3年生時代を中心とした京三と千尋の交換日記形式の書(初出『お母さんの勉強室』昭和56年/1981年4月号~昭和57年/1982年3月号、『螢雪時代』昭和56年/1981年4月号~昭和57年/1982年3月号、『出会い』昭和57年/1982年4月号~9月号)

■昭和58年/1983年 【京三(52歳)・千尋(20歳)】

 ・4月 千尋、東京女子大学英文学科に合格し入学(以後2年間留年)。

 ……と、ここまでで一区切り。大衆から暴力的な好奇の視線を浴びる一歩手前です。さあ、ここからです。深呼吸しましょう。「直木賞作家」の肩書きの威力がフルに活用されてしまう、異常なステップに突入します。

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2011年11月13日 (日)

戸川幸夫(第32回 昭和29年/1954年下半期受賞) 日々精進する勉強集団、新鷹会。ゴシップネタを生み出す集団、新鷹会。

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戸川幸夫。「高安犬物語」(『大衆文藝』昭和29年/1954年12月号)で初候補、そのまま受賞。作家デビュー作。42歳。

 よ。待ってました。いぶし銀のシブーい大御所の登場です。

 まあ、たいていの大御所はシブーいものなんでしょうけども。

 毎日新聞記者であり、『毎日グラフ』編集次長だった戸川幸夫さんが、直木賞をとったのは昭和30年/1955年のことでした。第32回(昭和29年/1954年下半期)です。以前とりあげたことのある有馬頼義さんが受賞して、すぐ次の回でした。

 ちなみに戸川さんも、直木賞を受賞した直後の活躍は、有馬さんに負けず劣りません。受賞したその年から早くも、『オール讀物』や『別冊文藝春秋』をはじめ、数多くの雑誌に作品を発表しはじめました。

 この働きぶり。職業作家として申し分がありません。でも、戸川さんは直木賞を受けた当時は、まだ「小説家」ではありませんでした。なにしろ「高安犬物語」は、小説を書くぞと意識して書き上げた、実質はじめての作品だったんだそうで。

「高安犬物語は私が小説らしい小説を書いた第一作のものであった。

 実をいうと、私は当時、新聞記者をやっていて、ちょいちょい雑文めいたものは書いていたが本格的な小説は書いたことがなかった。

 ある時、作家になっていた友人が、私に「本格的に小説を勉強してみる気はないか」といった。」(昭和31年/1956年12月・大日本雄弁会講談社/ロマン・ブックス『直木賞作品集4』所収 戸川幸夫「あとがき」より)

 戸川さんを誘った「作家になっていた友人」とは誰か。それは俺だ、と村上元三さんは言っております。

 戦時中、村上さんは海軍報道部の指令で南洋におもむきました。その際、報道班員として働いていたのが毎日新聞の戸川幸夫さんだったのですね。それ以来、親しくなったのだとか。

「そのころ(引用者注:昭和29年/1954年)の戸川は、われわれの新鷹会に入ったばかりで、毎日新聞社に籍があり、日本で初めてではないか、と思う写真を主にした日刊紙の編集長になっていた。

 戸川とはそれまであまり深いつき合いではなかったが、新鷹会へ入ったのは、わたしの紹介で、最初に読んだのが「高安犬物語」であった。」平成7年/1995年3月・文藝春秋刊 村上元三・著『思い出の時代作家たち』「十六」より)

 ははあ。そうですか。

 ただし、戸川さんが新鷹会に入るに至った経緯については、

「朝日の社会部記者だった大庭鉄太郎のすすめで、昭和二十八年十二月に長谷川伸を中心とした新鷹会(二十六日会)の研究会に出席、」(昭和40年/1965年7月・冬樹社刊『戸川幸夫動物文学全集第1巻』 尾崎秀樹「解説」より)

 とする人もいたりして、やや混乱しているんですけども。

 ともかくも戸川さん、小説の勉強のために長谷川伸の門を叩いたと。やがて数か月後、ついに、不安と緊張の入り混じったアノ日を迎えることになるのでした。

 もはや伝説となっている、アノ日です。

「新鷹会へ入って会員と認められた新人は、先ず会の席上で自作を朗読する義務があった。朗読といっても、なにも節をつけて朗々と読む必要はないが、正面には長谷川伸先生がきちんと膝も崩さずに坐っている。」(前掲『思い出の時代作家たち』「十六」より)

 戸川さん、42歳にして生まれてはじめて、自分の書いた小説を人前で朗読する羽目になる図。しかも、戸川さん自身は、

「実をいうと私は長谷川先生の門に入れてもらったのは、作家になる希望からでなく、先生の訓話を聞くためだった」

 と言っているくらいでして。いかに冷や汗ものだったかがしのばれます。

 アノ日……つまり、この朗読が行われたのは、昭和29年/1954年10月15日、新鷹会の研究会の日だったそうです。村上さんも、上記の文章の先で書いています。直木賞受賞作にまつわる名場面の一コマと言っていいでしょう。

 今回は、記憶力に難のある村上元三さんではなく、同じ新鷹会の古参会員、棟田博さんの回想を引くことにします。ごめんね、元三さん。

「戸川君が「高安犬物語」を読んだのは、いま調べてみると昭和二十九年の十月の席上であった。戸川君は新鷹会に入ってから、まだ一ヵ年とちょっとくらいであったと記憶している。

 中央の机に原稿をひろげて、

「では、お願いします」

 といってから、

 ――チンは、高安犬としての純血を保っていた最後の犬だった、と私はいまも信じている……

 と、低い声で読みはじめた。

 私は、あまり上手とはいえない戸川君の朗読に耳を傾けながら、お庭の仙台萩の白い花が風に揺れているのを眼に映していた。(引用者中略)

「終り」と戸川君はいい、誰彼の批評を待つ表情で、ハンカチで額を拭いた。

 誰も発言をしなかった。そのかわりに全員の一斉の拍手が湧き起った。

 すでに二十年以上の昔になるが、そのときの情景を私はよく憶えている。聞いていたすべての人々を搏った清冽なあの感動は、そうたびたび味わえるものではない。

 事実、私の知るかぎりでは、朗読が終ったあと全員の拍手を浴びた作品は戸川君の「高安犬物語」のほかにはない。」(昭和51年/1976年8月・講談社刊『戸川幸夫動物文学全集第4巻』「月報4」所収 棟田博「清冽な感動」より)

 ちなみにこの名場面については、戸川さん自身の目から振り返っている文章も残されています。以下、合わせて堪能しておきましょう。

 新鷹会に参加したばかりの戸川さんは、自分では書かず、ただ他の会員の発表を聴講して数か月を過ごしたと言います。しかし、昭和29年/1954年3月15日のことでした。長谷川伸さんの古稀の祝いの席で「新鷹会賞」の設定が発表されまして、会員は決められた月に作品を朗読しなくてはならない、と決まってしまうのです。

 さあ、のんきに構えてはいられなくなりました。20年ほど前の思い出をもとに、小説づくりに取り組みはじめます。米沢に取材に出かけたり、山形弁と米沢弁の使い分けを旧友に頼んで書き直してもらったり、耳ざわりになりそうな部分を推敲したり。

「さてこれでよしと思ったらとたんに“ハテこれが小説といえるじゃろか”とむやみに気になり出した。しかしもう研究会の前日になっていたからいまさら仕方がない。ズタズタに批判されることを覚悟して一同の前に座った時は頬がこわばってボーッとなった。これで四十二才新聞記者を十八年もしてきた男なんですよ。

 読み終って拍手を戴いた時は身体がガクガク震えた。」(『大衆文藝』昭和30年/1955年3月号 戸川幸夫「受賞呆然記」より)

 新鷹会といえば、真剣に小説づくりに邁進する「大衆文芸バカ」がひしめき合う場です。そこで、満場の拍手を浴びた稀有な作品。読み終えて、作者がガクガク身体を震わせた、息遣いと熱気。そんなものを想像しながら「高安犬物語」をいま、50ン年たってワタクシたちは読むことができるのですよ。幸せじゃないですか。

続きを読む "戸川幸夫(第32回 昭和29年/1954年下半期受賞) 日々精進する勉強集団、新鷹会。ゴシップネタを生み出す集団、新鷹会。"

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2011年11月 6日 (日)

伊集院静(第107回 平成4年/1992年上半期受賞) ほんのわずかな選評に傷つき、または勇気づけられ。……作家になるまでにいろいろあったうちの一ページ。

111106

伊集院静。『受け月』(平成4年/1992年5月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。「皐月」でのデビューから11年。42歳。

 平成23年/2011年11月6日、今日東京では雨が降りました。天よりのしらせと受け取りまして、雨が降ったらこの作家、今日は伊集院静さんについてのエントリーを書くことにしました。

 ……っていうのはウソなんですけどね。たまたまです。

「受賞から丸二日。(引用者中略)

「あの日(引用者注:直木賞受賞の決まった日)は朝からベタ曇りで、今にも降り出しそうだったんですよ。ぼくの人生の転機には必ず雨が降るんです。吉川英治文学新人賞の時も、それから女房が死んだときも、やっぱり雨でした」」(『週刊文春』平成4年/1992年7月30日号「新直木賞作家伊集院静氏 祇園に沈む」より)

 直木賞受賞からさかのぼること3年前。平成1年/1989年、伊集院さんは処女小説集『三年坂』を刊行しました。はじめて小説を書いた昭和53年/1978年ごろから、すでに10数年たっていました。

 その間、伊集院さんは何をし、どんな心境でいたのか。嬉しいかな、ここ最近、当時のことを舞台にした小説や随想が書籍化されています。『いねむり先生』(平成23年/2011年4月・集英社刊)や『なぎさホテル』(平成23年/2011年7月・小学館刊)などです。

 もちろん、これらの本には伊集院マジックがふんだんにまぶされています。なので、事実関係をそのまま信用するとイタい目にあうんでしょう。……というか、「事実関係? そんな確固としたものなど、この世にあると信じているのかね?」みたいな伊集院さんの声が、そこかしこから聞こえてきそうな本です。

 酔わされますよお。読まされますよお。一度は小説を書いてみたものの、理解者が少なくて、イジけてしまい、それでも少ない理解者に励まされながらまた小説を書くにいたるまでの心の動き。

 まあ、伊集院さん自身、次のように語るほどの方です。今後どれだけ、当時を回想した文章が発表されたとしても、おそらくはっきりとしたことはわからずじまいなのかもしれません。

「直木賞を受賞する前後から、新聞・雑誌等のインタビューを受けることが続いた。

 その折に決まって聞かれる質問があって、私の返答がいつも歯切れが悪くなってしまうものがあった。

「小説を書くことを何時頃から志されたのですか?」

 そう聞かれる度に、あの時だったか、いや違うな、たぶんあの時期だろうと考え込んでしまった。(引用者中略)

 二十歳の初めに書いた小説はたぶんひどい代物だったろう。その時どうして小説を書いたのかも憶えていない。」(『オール讀物』平成4年/1992年9月号 伊集院静「胡蝶蘭」より)

 伊集院さんは28歳(かそれより前)、昭和53年/1978年ごろに3つの小説を書いたのだそうです。

「『緑瞳の椅子』、『皐月』、『十七階段』。

 それぞれのタイトルである。

 私はこの小説と呼べるかどうかも怪しい、拙い作品を、みっつの小説新人賞の公募へ送った。『皐月』だけを、中間小説誌と呼ばれる「小説現代」(講談社)へ送り、残るふたつは純文学系の小説誌に送った。

 それまで私が読んでいた小説はどちらかというと、純文学系の作家のものが多かった。なぜ『皐月』だけを、そちらの系統の小説誌に送ったのか、今もはっきりとした理由はわからないが、選考委員の一人に結城昌治氏がいて、その人の作品が好きだったせいかもしれない。

 純文学系は二次予選も通過しなかったが、『皐月』の方は最終選考まで残った。」(『なぎさホテル』「第七章 最終選考」より)

 ちなみに「純文学系の小説誌」とは、『本の話』平成15年/2003年2月号のロングインタビューによると、『群像』と『文學界』だそうです。

 純文学誌だの中間小説誌だのと分け隔てをせず小説を応募する、っていうのはよくあるハナシですが、ここで伊集院さんが純文学に固執しないで『小説現代』にも応募してくれて、ほんと、よかった。のちの直木賞受賞は、確実にこのときの『小説現代』応募が大きな転機点となったのですから。

 「皐月」が最終選考に残ったのは、第32回小説現代新人賞です。『小説現代』昭和54年/1979年6月号に決定記事が載りました。選考委員は結城昌治をはじめ、池波正太郎山口瞳野坂昭如五木寛之の5名。最終候補作は7作で、受賞したのは白河暢子「ウィニング・ボール」と後藤翔如「名残七寸五分」の2作。さらに佳作として橋本克「新宿十年殺し」、阿井文瓶「しんなあとりっぷ」の2作が選ばれました。

 応募のさいは、「趙忠来」という本名(正確には改名前の旧名)名義だったそうですが、最終候補の段階では、筆名「伊集院静」。昭和54年/1979年春に選考会が行われます。しかし、まるで歯牙にもかけられず、って感じの扱いだったみたいで、受賞にはほど遠い評価を受けました。

 このことが伊集院さんに、かなりのショックと落胆と憤慨(?)を与えたっぽいです。

 いや、憤慨はウソです。

「新人賞の選考会では、選者の大半に私の作品は無視された。中には、新人がなぜこんな明治、大正時代の副読本のような小説を書くのだとこきおろした選者もいた。

 ただ結城昌治さんだけが、私はこんな作品が好きだ、と発言されていた。」(同『なぎさホテル』より)

 平成12年/2000年の宮崎緑との対談では、こんな表現もしています。

伊集院 父のことは、25歳ぐらいのときに一度書いて、だめだったんです。ある賞の最終選考に残ったんですが、選考委員から酷評を受けましてね。そのときは、自分の小説はだめだというのと、この人たちには私の書いたものはわからないんだという二つの思いがあって、それでしばらく書かなかったんです。」(『週刊読売』平成12年/2000年2月6日号「宮崎緑の斬り込みトーク 「「執筆」と「遊び」に専念 だから人づきあいは悪いです」伊集院静さん」より)

 あるいは、結城昌治さんが亡くなったことを知った直後のエッセイでは、

「結城さんは私が小説誌の新人賞に作品を提出した時、ただひとり誉めて下さった先輩である。二行、十六文字の寸評を切り抜き私は机の壁に数年貼っていた。結城さんはここ数年体調を崩されて、その御礼を申し上げる機会がなかった。」(平成12年/2000年3月・文藝春秋刊 伊集院静・著『可愛いピアス』所収「雪のむこうから」より)

 と、結城さんだけが褒めくれた記憶を語っています。

 よほど結城さんの作品が好きだったんでしょう。それで結城評のみが強く印象に残ったんでしょう。……と、これはワタクシの推測。

 参考までに、この回の選評から「皐月」に関する評を引用しておきます。

「伊集院静さんの「皐月」は、好感のもてる作品で、どこかに難点があるというようなものではないが、迫力なり主張なりが無い。これも懸賞小説としては無理がある。」(山口瞳「白河さんの才能」より)

「「皐月」は、アバズレとまったく逆の世界、古い古い中学校の副読本の文章であり内容であり、これはいかにも新人賞には無理。」(野坂昭如「化ける魅力」より)

(引用者注:「名残七寸五分」と「新宿十年殺し」以外の)五篇についていえば、たとえば白いカンバスへ白の絵具を塗りつけたような感じがした。

 白の上へ白を塗ったところで、白の色は生きてこない。

 生きてこないのが新鮮だというのなら、もう私には、

「どこがよいのか、わからない……」

 ことになってくる。

 そして、一人称の小説というものは、よほどの力量のある作者でないかぎり、その実力をたしかめることができない。新人のうちに一人称の小説ばかり書くのは楽だからだ。」(池波正太郎「感覚の問題」より)

「「皐月」は篤実な作だが、小説の色艶というものについて一考を促したい。」(結城昌治「「ウィニング・ボール」の才気」より)

「残念ながら「名残七寸五分」と「皐月」、「リオ・グランデを越えて」ははずすつもりで選考会に臨んだのである。」(五木寛之「新しい波の予感」より)

 以上5人の選評のなかで、結城さんの書いた「篤実な作」って短いフレーズに、「褒めてくれた」と感じてしまった伊集院さんのイジらしさ。……その伝でいけば山口瞳さんも、いちおう、ひとこと「好感のもてる作品」とフォローしてくれているのにな、などと思ってしまうのは、ワタクシが第三者だからなのでしょう、きっと。

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