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2011年10月の5件の記事

2011年10月30日 (日)

杉本苑子(第48回 昭和37年/1962年下半期受賞) 直木賞をとったあの娘にも、とらなかったあの娘にも、ともに幸あれ。

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杉本苑子。『孤愁の岸』(昭和37年/1962年10月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「申楽新記」での懸賞佳作から11年。37歳。

 20代なかば。作家になろうと志したひとりの女性がいました。杉本苑子さんです。志願して吉川英治さんの弟子になり、ひたすら習作をつづけました。

 商業誌デビューを果たしたのは35歳。昭和36年/1961年のことです。吉川さんに師事して8年半ほどかかりました。

 作家になると決めてから勤めていた仕事をやめ、ただただ、小説の勉強に励んだんだそうです。8年半。8年半ですよ。

 杉本さんは昭和27年/1952年、弟子になりたいと吉川さん宛てに手紙でお願いをして、青梅吉野村の吉川邸をおとずれました。そこで、吉川さんにこう尋ねられたことが、彼女の運命を決めたのでした。

「これまで僕も、何人か面倒を見てあげた人がある。みな男の人だったが、家庭をかかえているせいもあり、その誰もが辛抱を切らして、僕の許しを待たずに原稿を売った。たったコーヒー一杯の値段でですよ。……僕は君に、十年間の勉強を要求する。その間、懸賞小説の応募はもとより、出版社、同人雑誌、すべてに近づかず、ひたすら勉強しぬくこと。――君にその辛抱ができますか」(『文芸朝日』昭和37年/1962年11月号 杉本苑子「恩師・吉川先生」より)

 このときのセリフは、ほかの文献にもいろいろ登場するんですが、だいたい同じ意味です。10年間辛抱して勉強すること。師の許しが出るまでは出版社にも同人誌にも文章を発表しないこと。……この約束を呑んで、杉本さんは吉川門下生になりました。

 ってことで、昭和27年/1952年、杉本さんが第42回『サンデー毎日』大衆文芸に「燐の譜」で入選して、作家になる決心をしてから、昭和36年/1961年までのあいだ、杉本さんの年譜は空白です。

昭和二十七年(一九五二)

(引用者中略)この年から昭和三十五年までの期間、歴史小説の習作を書いて吉川氏の推敲を仰いだり、吉川邸の書庫の整理や年表の作成などに従事した。

昭和三十六年(一九六一)

 二月、「柿の木の下」(吉川氏の紹介により、師事後、はじめて商業雑誌に発表した作品)を、「別冊週刊朝日」に発表。」(平成10年/1998年11月・中央公論社刊『杉本苑子全集 第二十二巻』 磯貝勝太郎編「杉本苑子年譜」より)

 この空白の8年半があるからこそ、杉本さんの直木賞受賞は余計、爽快なのです。

「その十年に、習作は六十編以上も書いた。」(『週刊女性』昭和37年/1962年11月21日号「恩師・吉川英治の10年間の温情にこたえて 新進女流作家杉本苑子が『孤愁の岸』を書くまで」より)

 すでにこの姿勢だけで、杉本さんに感服ですもんね。尊敬します。

 8年半。いろいろな思いが去来したことでしょう。苦しいこともつらいこともあったでしょう。直木賞受賞当時、週刊誌や月刊誌で取り上げられた杉本さんの記事には、そこらあたりのことに少しだけ触れられていたりします。

「――十年のあいだには苦しいこともずいぶんあった。苦しみと不安の連続だったと言ってよいかもしれない。女の二十四、五から三十四、五……結婚の問題ももちろんあったし、一年々々老いてゆく両親をかかえて、生活の不安におののいた日々もある。そのたびに(こんなことをしていて大丈夫だろうか。果して私には、才能があるのだろうか?)

 ひとつの道にこころざす人の誰もが、かならず逢着するであろう疑問に、私も何度かぶつかった。まじめに根気よく勉強する……言うまでもなくそれが根本だが、それだけでは駄目なのだということも、おぼろげながらわかって来ていた。

 泣いて、私は“自分自身への疑い”を、先生に訴えたことがある。

「ばかだな、君は……」

と、しかし先生には、その時ひどく叱られてしまった。

「僕が信じられないのか。――人の一生の問題だ。君に見込みがなければ、とうの昔やめさせているよ。結婚したまえと注告しているよ。……なるほど、まだまだ君は未熟だ。だが未成熟ながら性根はある。性根さえあれば、かならずどうにかなるものなのだ。僕を信じ、そして自分自身にももっと自信を持つことだよ」

 申しわけなかった。私はお詫びした。が、根深い自信喪失は一朝一夕に解消するものではなかった。ただ、先生のお言葉によって、一種、さわやかな“落ちつき”は得た。」(『婦人公論』昭和38年/1963年1月号 杉本苑子「私は吉川英治のただ一人の女弟子」より)

 いやあ、惚れるなあ、吉川英治さんの言葉。さすがだ。厳しさと温かさを併せ持つ人格者、吉川さんだ。「性根さえあれば、かならずどうかになるものだ」。はい。ワタクシもその言葉を信じて、生きていきたいと思います。

 ……って、そんなことはどうでもいいのです。杉本さんは、「随筆」を書くのって自分自身がナマのまま出てしまうから嫌いだわ、と公言するほどの方でして、じつは8年半の弟子時代の苦しみについて、それほど詳細に語ってはくれていません。数か月後のエッセイでは、

「不安、瞋恚、焦燥……たたかいの苦しさに比して、たのしむことの余りにも少ないおとなの世界―― その入口に立ち、小説づくりという、血みどろな作業の中に身を置いてから、しんじつ、私の“苦闘”ははじまったのだ。むろんそれは、心理的な意味でのものだけれど、いままだ活字にして、そんな自分の内部の、自分ひとりの遍歴など、人目にさらす気に私はなれない。作家は作品によって、しんそこのものを語るのが本来なのだし、心ある読者は、それをこそ望んでいると私は信じるからだ。」(『マドモアゼル』昭和38年/1963年4月号 杉本苑子「わが華やかなりし苦闘時代」より)

 と述べています。直木賞受賞にともなって、私生活だの、心情・感情だのを根ほり葉ほり知りたがるジャーナリズム攻勢をどっと受け、辟易している様子がうかがえますね。ほんと、「心ない読者」ですみません……。

 空白の8年半。杉本さんがどんな思いで、何をしながら日々を送っていたのか。まあ永久に明らかになる日はこないのかもしれません。

 たとえば、昭和34年/1959年。吉川さんに師事して7年目です。『オール讀物』が主催する懸賞「第15回オール新人杯」の、第1次予選通過リストのなかに「「福女一代」杉本苑子(東京)」(『オール讀物』昭和34年/1959年11月号)とあるんですが、これは同姓同名の別人の応募作なのか、どうなのか、とか。

 別人なら別人でいいんです。もし杉本さんご本人ならば、吉川英治さんの許可を得ての応募だったのか、とか。気になってしかたありません。……って、あ、「心ない」ですか。

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2011年10月23日 (日)

志茂田景樹(第83回 昭和55年/1980年上半期受賞) 直木賞作家が毎日テレビに出ている、なんて、まあ異次元な出来事ですわね奥さん。

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志茂田景樹。『黄色い牙』(昭和55年/1980年4月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「やっとこ探偵」でのデビューから4年。40歳。

 1990年代の直木賞は、ある意味、志茂田景樹の時代だった。……と言ってしまいましょう。

 ほぼ100%テレビのおかげです。小説になど大して興味のない大半の日本人が、直木賞作家と言われて誰を連想するか、となったとき志茂田景樹さんを思い浮かべてしまう、という異常な事態がまき起こりました。

 平成6年/1994年9月、岳真也さんが三田誠広笹倉明との鼎談のなかで、カゲキ旋風の一端を語ってくれています。

(引用者中略) 昨日も酒を飲んでて、店のバーテンに「直木賞と芥川賞とどう違うんですか」とか、素朴な質問を受けたもの。笹倉が以前に、雑誌の同じ目次に載るのは嫌だと言ってた作家がいるよね。テレビで唄ったり踊ったり……半裸になったりしてる人。実は彼も直木賞を取っている。それで、そのタレント作家がテレビなんかでやたらに言うだろ、自分は直木賞作家だってね。

 そうすると、この賞にとってはすごい宣伝になるんだけど、よくない宣伝にもなるわけ。つまり、あのタレントが取った賞であるから、「ああ、そういう賞であるのか」という認識で、「それ、文学の賞なんですか」ってね。文学のことわからない人には見当もつかないから、直木賞というのはタレントの賞のように思われてしまっているところがある。

 なにもボカして言うことないか。志茂田景樹だよね。飲み屋の話題では、志茂田景樹シンドロームみたいのがけっこうすごい。つまり、文学とか小説の話をすると、村上春樹の話と同じくらいに志茂田さんの話が出てくる。あの人はすごく宣伝してくれたね、直木賞のこと。」(『W大学文芸科創作教室番外篇 大鼎談』「番外その1 作家生活!」より)

 ああいうのを「宣伝」と言うのかわかりませんけど、志茂田さんの過剰なテレビ出演が、少なくとも「直木賞作家」のイメージダウンに多く寄与してくれたとは思います。テレビで志茂田さんを知り、当時、数多く出版されていた志茂田さんの口述筆記による小説に、つい手を出してしまった人もいるでしょう。それらの小説によって、さらに「直木賞作家」のイメージダウンが増幅されたかもわかりません。

 身を張って、直木賞そのもののくだらなさを世間に広めてくれました。なかなかできることではありません。志茂田さんの営みは貴重なものでした。

 テレビにがんがん出演している時代、平成5年/1993年には『カゲキちゃんの秘密』(麻布十番カゲキ探偵団・著、実業之日本社刊)なる本も出ました。彼の小説の魅力をさぐる!……みたいな作家ファンブックにありがちな内容は、ほとんど書かれていません。カゲキの生い立ち、カゲキのファッション、カゲキの芸能活動、カゲキの生きざま、そういうハナシで埋めつくされています。

 この本によると、志茂田さんがテレビに数多く出はじめたのは平成1年/1989年ぐらいなのだそうです。フジ「おはようナイスデイ」、読売「2時のワイドショー」などのコメンテーターとして招かれ、平成2年/1990年には「EXテレビ」準レギュラー、平成3年/1991年フジ「ヤマタノオロチ」、「元気が出るテレビ」ホモシリーズ、そして平成4年/1992年「笑っていいとも!!」レギュラー。

 志茂田さんの当時のトレードマークでもあった(?)「口述筆記」もまた、やはりテレビに出始めたころ、取り入れられたスタイルでした。

「現在はカゲキちゃんが吹き込んだテープを、テープ起こし&ワープロ専門の女性に頼んで仕上げてもらい、編集者に直接届けてもらっています。もちろん直木賞受賞前もその後もしばらくは他の小説家となんの変わりもなく原稿用紙に作家らしく執筆をしてらっしゃいました。ところが89年ぐらいから小説以外のジャンルでも忙しくなってきたカゲキちゃんは、ある日締切りを目の前にしてギブアップしてしまったのデス!! 200冊達成を前にした壁だったのかな。そのとき10社ぐらいの依頼を受けていたんだけど、書けない理由を涙をそそるような文章で、各社に謝罪のFAXを送ったんだって。さあどうしよう、と困った10人の担当者は共同会議。ある一人が「テープに吹き込んでみては」と発言。それが今やカゲキちゃんの仕事のスタイルとして確立しちゃったってわけ。」(『カゲキちゃんの秘密』「書かない小説家の謎~テープ吹き込み式は、早い~」より)

 ふーむ。完全に堕落しきった小説家の姿、って感じですねえ。笹倉明さんが同じ直木賞作家として毛嫌いするのは無理ありません。

 テレビに出て有名になる。パーティーに出ればチヤホヤされる。夜の酒場で無尽蔵に遊び呆ける。それと引き換えに、小説は口述で仕上げる。のちに志茂田さんは、こんな回想をするに至ります。

「あい変らず、テープ吹きこみという形式の原稿執筆に追われていました。しかし、吹きこんでいるときの苦痛度は、さらに高くなっていました。

 それでも、戦争シミュレーションもののシリーズは、ほどほどにヒットを続けていましたし、こんなんでいいのかな、と読者をあざむいているようなうしろめたさと、たかをくくる気持ちとが、かわるがわるによぎりました。

 ただ、自分が納得するものを書けないでいる、というあせりに似た思いが、たえずぼくをしめつけていました。」(『男が家を出るとき帰るとき』「15 出版社を立ち上げてみたけれど」より)

 いまはそんな状況を脱して、自身の納得のいく活動をされているんでしょうから、いいでしょう。でも果たして、なぜ志茂田さんは多忙→量産→苦痛のドツボにはまってしまったのか。仕事の忙しさにかこつけて、外に女をつくり、家庭をかえりみずに、妻や子どもたちを泣かせてしまったのか。

 そこはそれ、「直木賞作家」なる超空疎なレッテルで売り出した志茂田さんだけのことはあります。ワタクシは、空疎な感じが大好物です。志茂田さんのドン底までの軌跡(と同時に華やかな舞台にひきよせられるまでの軌跡)を追うにあたって、やっぱり「直木賞」を軸にしたいと思うわけです。

 そもそも志茂田さんが職を転々としながら、貧乏生活のなかで小説を書き始めるにいたったとき。デビュー前です。彼の目の前には、すでに「直木賞」の影がちらついていました。奇遇といいますか。運命といいますか。

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2011年10月16日 (日)

有馬頼義(第31回 昭和29年/1954年上半期受賞) 「昔は直木賞をとっても注文ひとつ来なかった」伝説は、どこまでほんとうか?

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有馬頼義。『終身未決囚』(昭和29年/1954年5月・作品社刊)で初候補、そのまま受賞。『崩壊』でのデビューから17年。36歳。

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2011年10月 9日 (日)

乃南アサ(第115回 平成8年/1996年上半期受賞) 本命の「初候補」をおさえて無印の「初候補」が受賞。ほのぼの微笑む女がひとり。

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乃南アサ。『凍える牙』(平成8年/1996年4月・新潮社刊)で初候補、そのまま受賞。『幸福な朝食』でのデビューから8年。35歳。

 新潮社の名レーベル「新潮ミステリー倶楽部」。そこから直木賞を受賞したのは、ただ一作。乃南アサさんの『凍える牙』でした。

 『凍える牙』の受賞はとにかく意外と言われたそうです。裏を返せば、「直木賞通」を気取るワタクシたちのようなワケ知り顔連中の鼻を明かしちゃったわけでして。とびきり痛快な受賞だったんですね。

 ふふ。直木賞はこうでなくっちゃ。まわりの人間たちを混乱させてシッポをつかませない、ニクいやつ。

 じっさい、乃南さんが受賞した第115回(平成8年/1996年上半期)は、受賞結果もさることながら、周辺も大混乱の回なのでした。何と言っても、あの浅田次郎さん『蒼穹の昴』が候補に挙がっていたからです。

「今回の見どころは、落選した他の候補のラインアップにある。

 浅田次郎、鈴木光司篠田節子宮部みゆきという日本のエンタテイメント小説界を担っていくであろうそうそうたるメンバーで、かつ前年比大幅減収減益に喘ぐ文藝春秋が喉から手が出るほど欲しい、売れ筋の作家たちである。(引用者中略)下馬評でも、浅田が一歩リードしているものの、乃南はまったくノーマークとされていた。

(引用者中略)

(引用者注:浅田次郎『蒼穹の昴』は)実際に選考会の参考資料となる文春の社内投票ではダントツのトップで、「オール讀物」も、まるで受賞を見越したかのように、選考会直後の発売となる八月号で特別対談を組んでいた。それが蓋を開けてみれば、乃南の単独受賞、である。満を持して受賞の報告を待っていた浅田は、悔しさではなく怒りの表情をあらわにして、担当編集者と二人きりで夜の街に消えていったという。」(『噂の真相』平成8年/1996年9月号「文壇事情 誰も予想しなかった乃南アサの直木賞」より 署名:(Z))

 ん。「選考会の参考資料となる文春の社内投票」って何ですか? ほんとにそんなもん、あるんですか。まあ、『噂の真相』の記事ですからね、ハナシ1割で聞いておきましょう。

 ええと、そんなことはイイのです。ここで面白いのは、浅田次郎さんも乃南さんと同じく、これがはじめての直木賞候補だった、って点です。その浅田さんが下馬評では受賞と目されていた、という。

 ふだん「直木賞は初候補だと不利なんだよね」と言いのけている人たちが、この回だけ宗旨替えしたんでしょうか。……で、けっきょく浅田さん、初候補で受賞を逃しちゃっているし。かと思えば乃南さんは、さらっと初候補で受賞しているし。

 そもそも「初候補が不利」なる説は、そんなに強固なものなのか、と疑いたくもなります。かようにもろくも崩れ去る程度のものなんだ、ってことでしょうか。

 乃南さんの『凍える牙』はノーマークだった。なぜか。……その理由に、もうひとつ付け加えておきたいと思います。文献には出てきませんが、おそらく前回第114回(平成7年/1995年・下半期)の結果が結果だったことが、大きかったのではないかな、と。推測ですが。

 前回の受賞作っていうのは、小池真理子『恋』と藤原伊織『テロリストのパラソル』。ハヤカワ・ミステリワールドの一冊と、江戸川乱歩賞受賞作。ともに「ミステリー」の装い満点でした。これで引き続いてまさか新潮ミステリー倶楽部が選ばれることはないでしょ。と、往年の直木賞ファンなら、そう予想してもおかしくありません。

 『噂の真相』ほど下品になり切れない多くのメディアでは、そんな事情はあまり伝えてくれませんでした。でもご安心ください。ただひとり、『噂の真相』と同じくらい下品な(……おっと、失礼)、同じくらい正直な渡辺淳一さんだけは違います。直木賞で二期連続ミステリーかよ!? の意外感を選評のかたちで伝えてくれました。拝聴しましょう。

「それにしても、いまは推理小説全盛。推理小説でなければ小説でないとでもいうように、直木賞候補作は圧倒的に推理小説が多い。このあたりは、書くほうの問題というより、書かせるほうの問題で、推理小説にさえすれば、単行本にしてもらい易い、という思惑があるのかもしれない。

 今回も、「蒼穹の昴」を除いた四作は、いずれも推理小説か推理仕立て。

 受賞となった、乃南アサ氏の「凍える牙」は、(引用者中略)これが推理小説だといわれると、おおいに疑問が生じてくる。結局、人間関係さえ書けていれば、いいではないかという意見が大勢を占めて受賞となったが、「新潮ミステリー倶楽部特別書き下ろし」と、堂々と書いてあるのだから、表示に難あり、ということになりかねない。」(『オール讀物』平成8年/1996年9月号 選評「推理ばやり」より)

 これぞ渡辺淳一だ、っていう教科書どおりの選評です。『凍える牙』の作品内容にケチをつけるより先に、推理小説の装いをしていることにケチをつけています。

 まあ、こういうオジサンが一人ぐらいいてくれると、直木賞のむちゃくちゃな感じが楽しめるので、ワタクシは好きです。みんながみんな、「ミステリーとして不出来でも、人間が描けていればいいじゃん」とか言ってミステリーファンを小馬鹿にしたのらりくらり選考をするより、ミステリーを旗印にする小説は全部落とす、みたいな姿勢のほうが楽しいじゃないですか。

 たかが直木賞ですし。

 で、乃南さんの受賞により、当然ながら、ミステリーが直木賞にぞくぞく進出してきたよ、って視点で語る記事がいくつか登場しました。これなんか、そうです。

「今期の直木賞受賞作が、まずまず順調に売れている。前回が小池真理子さんの「恋」(早川書房)と藤原伊織さんの「テロリストのパラソル」(講談社)の同時受賞、今回の受賞作も女性刑事を主人公にしたミステリー。「直木賞はミステリー全盛」とも言えそうだが、乃南アサさんの「凍える牙」は、現代ミステリーがいかに多様化しているかを感じさせる力作だ。」(『読売新聞』夕刊 平成8年/1996年8月24日「「凍える牙」乃南アサ著 多様化したミステリー」より)

 多様化多様化っておまえは尾崎秀樹か! とツッコんではいけません。『凍える牙』を読むまで現代ミステリーの多様性を感じられなかった人も、まあいるんでしょう。しかたのないことです。

 いや。「ミステリーの多様化」記事は、まだましだと思います。乃南アサさんの直木賞受賞を報じた記事で、いちばん多かった切り口は、じつはそれではありませんでした。

 第115回(平成8年/1996年上半期)。マスメディアの方々が最も注目したのは、乃南さんが女性だ、って点でした。

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2011年10月 2日 (日)

常盤新平(第96回 昭和61年/1986年下半期受賞) 苦しんで小説を書いたのに、直木賞をとったら何か裏があるんじゃないかと疑われる、ザ・「朴訥にして狡猾」。

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常盤新平。『遠いアメリカ』(昭和61年/1986年8月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。同連作「遠いアメリカ」での小説家デビューから1年半。55歳。

 常盤新平さんの人柄について語られたものを読んでいると、印象に残るこんな言葉が出てきます。

 「朴訥にして狡猾」。

 直木賞を受賞した『遠いアメリカ』でも、この表現が使われていましたね。

 主人公の重吉に対して、恋人の椙枝が言うセリフ。

「あなたって、気が弱そうで、人がよさそうに見えて、そのくせ、案外、図々しくて、狡いところもあるの。つまり、朴訥で狡猾」(昭和61年/1986年8月・講談社刊 常盤新平・著『遠いアメリカ』所収「アル・カポネの父たち」より)

 常盤さんが「朴訥で狡猾」と指摘されたのは、作り話ではないらしいです。この椙枝のモデルになった女性がおりまして、のち結婚し、しかしこの小説が書かれた頃にはすでに別居状態にあったんだそうですが、その女性から、はっきり言われたのだそうで。

「突然、ひどくいいにくそうに、声を落として「実は」と切り出したのは、このあとだった。

「井上ひさしさんと同じで、ぼくも別れたんですよ。それで決着がついた、というか、ふっきれて小説を書くことができたんです」

 地味で、おだやかなこの人を知る人にとって、およそ信じられない話である。(引用者中略)

「朴訥(ぼくとつ)にして狡猾(こうかつ)、別れた人に、そういわれました」」(『読売新聞』夕刊 昭和56年/1981年12月9日「人 常盤新平(翻訳家) 1 初小説、しんどさ身にしむ」より 署名:篠原大)

 どういうことなんでしょう。普段は気弱そうで、腰が低くて、お人好しのように振る舞っておきながら、じつは腹のなかは計算高くて、まわりの状況を自分の良いように仕立て上げていく。しかし、そんな態度は絶対に他人に悟られないよう気を配る人。……みたいなことでしょうか。

 その後、常盤さんは直木賞を受賞します。第三者からは、意外な受賞だなどと言われたりしたそうです。さらには「朴訥で狡猾」、と言いますか、常盤さんの計算高さが功を奏した結果なんじゃないのか、と指摘する人が現われたりもしました。

「選考前の文芸担当の編集者、記者達の下馬評では、常盤の名前は全くあがっていなかったという。(引用者中略)今回、初ノミネート、処女小説、しかも下馬評に全く上らなかった常盤の受賞には首を傾げる声は多い。

(引用者中略)

 池波正太郎には五十八年の月刊講談社文庫『IN・POCKET』の対談でも次のようなオマージュを捧げている。

「アメリカの映画とかジャズに関しては、池波先生のほうがわたしよりはるかに詳しいんじゃないかと思っているんですよ」

「先生を拝見していると、今、シティボーイという言葉がありますよね、それの原型のような感じがありますけど」

「ニューヨークに行かれても、先生はやはり慣れた感じで歩かれていると思いますよ」

 これだけたてつづけに持ち上げられたら、好感を持たない方がどうかしているだろう。“受賞のための大いなる布石”とは言わないが、人を持ち上げて取り入る才能が、後に効いたことは否定できないのではないか。

 前述のように今回の直木賞は、まず、逢坂(引用者注:逢坂剛に決まり、常盤と早坂(引用者注:早坂暁で決選が行なわれた経緯がある。池波、山口(引用者注:山口瞳が常盤を強く推したことも伝えられている。選考委員といえども人の子だ。どちらか一人をめぐって迷う際に、かつて一緒に対談をしてしかも自分を持ち上げてくれた相手の方に、つい肩入れをしたくなるということはあるだろう。」(『噂の真相』昭和62年/1987年3月号「直木賞・常盤新平に囁かれた選考委員根回し成功の“風聞”」より レポーター:後藤幹直)

 文章の師とあおぐ何人かの先輩作家と対談して、心から褒めてまわったことが、直木賞を受賞すると、こう受け取られちゃうわけです。つらいですね。

 つらいと言うか、常盤さんだってもう、自分がそういうふうに見られる役回りなことは、じゅうぶん承知のうえでしょう。善人の皮をかぶった悪人、とでも言うのでしょうか。

 常盤さん自身は、こんな自己評価をしています。

「他人の文章を名文だとか悪文だとかいうのも簡単なことである。しかし、実は大変なことなのである。それは「悪人」か「善人」かのどちらかに決めつけるのと同じことではないか。

 すると、私は善人なのか悪人なのかということになるのであるが、私は自分を善人でもあり悪人でもあると思っている。いや善人でも悪人でもなく、ケチな男にすぎないのかもしれない。」(昭和58年/1983年3月・筑摩書房刊 常盤新平・著『グラスの中の街』所収「悪文と名文」より ―引用原文は昭和62年/1987年5月・文藝春秋/文春文庫)

 善人だとか悪人だとか、決めつけるようなことはしたくない、と。穏便なものに憧れる常盤さんらしい言葉ですなあ。

 じっさい彼のエッセイ集を読んでいると、自分はこれまで数多く人を傷つけてきた、もう人を傷つけたくない、みたいな文に、ちょくちょく出逢います。傷つける意図はなくても傷つけてしまった、だから相当に意識して平和で穏やかな自分でいるよう努力していきたい、といったふうにも読めます。

 そうそう。処女小説の「遠いアメリカ」も、そんな強い思いのもとに生まれてきた小説なのでした。

「私は佐々木さん(引用者注:新潮社の佐々木信雄)に電話をかけて、小説はどうやって書いたらいいんですかと訊いた。わらをもつかむ思いだった。

 佐々木さんは言った。自分の恥をさらしなさい。でも、他人を傷つけるようなことはいけないと思いますね。あなたは現実に人を傷つけているのだから。大体、以上のような意味のことを佐々木さんはおだやかな口調で言った。」(『オール讀物』昭和62年/1987年4月号 常盤新平「“晩稲ソルジャー”駆けつけの記」より)

 自分の青春時代のことを書くにあたって、当時の恋人でのち結婚する女性を描かないわけにはいかなかったでしょう。でも、その女性とは籍は入っているものの(昭和62年/1987年に正式離婚)、すでに常盤さんは新しい家庭をつくってしまっていました。この状況で常盤さんが小説を発表し出して、相手の女性が傷つかなかったかどうかは、まったくわかりません。ただ、受賞後のエッセイにこんな記述が出てきます。

「受話器を耳にあてると、おめでとうございますという、なじみのある声が聞こえてくる。田所省治さんの声だ。そのとき、私はどうしたのか、記憶にない。つぎの瞬間、万歳、万歳の声が聞こえていた。田所さんの声が聞こえなくなる。聞こえなくてもいい、ただ、有難うございますとなんども言い、頭を下げる。生涯最高の時。

(引用者中略)

 便所の前でシャツを着がえていると、福澤さん(引用者注:『NEXT』編集部の福澤晴夫)がやってきて、耳もとでささやく。

「椙枝さんには知らせました。よろこんでいましたよ、絶句しちゃって」

 涙がこぼれそうになる。彼女のために直木賞が欲しかった。また、支持してくれた編集者たちのためにも欲しかった。」(『文藝春秋』昭和62年/1987年4月号 常盤新平「この人の月間日記 感謝感激直木賞受賞日記」より)

 これだけでは、相手の女性の心情はとらえづらいものがあります。でも、人を傷つけたくないと願う常盤さんのためには、小説の題材にされて離婚されることになった女性が、どうか傷つかなかったことを祈るばかりです。

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