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2011年10月30日 (日)

杉本苑子(第48回 昭和37年/1962年下半期受賞) 直木賞をとったあの娘にも、とらなかったあの娘にも、ともに幸あれ。

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杉本苑子。『孤愁の岸』(昭和37年/1962年10月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「申楽新記」での懸賞佳作から11年。37歳。

 20代なかば。作家になろうと志したひとりの女性がいました。杉本苑子さんです。志願して吉川英治さんの弟子になり、ひたすら習作をつづけました。

 商業誌デビューを果たしたのは35歳。昭和36年/1961年のことです。吉川さんに師事して8年半ほどかかりました。

 作家になると決めてから勤めていた仕事をやめ、ただただ、小説の勉強に励んだんだそうです。8年半。8年半ですよ。

 杉本さんは昭和27年/1952年、弟子になりたいと吉川さん宛てに手紙でお願いをして、青梅吉野村の吉川邸をおとずれました。そこで、吉川さんにこう尋ねられたことが、彼女の運命を決めたのでした。

「これまで僕も、何人か面倒を見てあげた人がある。みな男の人だったが、家庭をかかえているせいもあり、その誰もが辛抱を切らして、僕の許しを待たずに原稿を売った。たったコーヒー一杯の値段でですよ。……僕は君に、十年間の勉強を要求する。その間、懸賞小説の応募はもとより、出版社、同人雑誌、すべてに近づかず、ひたすら勉強しぬくこと。――君にその辛抱ができますか」(『文芸朝日』昭和37年/1962年11月号 杉本苑子「恩師・吉川先生」より)

 このときのセリフは、ほかの文献にもいろいろ登場するんですが、だいたい同じ意味です。10年間辛抱して勉強すること。師の許しが出るまでは出版社にも同人誌にも文章を発表しないこと。……この約束を呑んで、杉本さんは吉川門下生になりました。

 ってことで、昭和27年/1952年、杉本さんが第42回『サンデー毎日』大衆文芸に「燐の譜」で入選して、作家になる決心をしてから、昭和36年/1961年までのあいだ、杉本さんの年譜は空白です。

昭和二十七年(一九五二)

(引用者中略)この年から昭和三十五年までの期間、歴史小説の習作を書いて吉川氏の推敲を仰いだり、吉川邸の書庫の整理や年表の作成などに従事した。

昭和三十六年(一九六一)

 二月、「柿の木の下」(吉川氏の紹介により、師事後、はじめて商業雑誌に発表した作品)を、「別冊週刊朝日」に発表。」(平成10年/1998年11月・中央公論社刊『杉本苑子全集 第二十二巻』 磯貝勝太郎編「杉本苑子年譜」より)

 この空白の8年半があるからこそ、杉本さんの直木賞受賞は余計、爽快なのです。

「その十年に、習作は六十編以上も書いた。」(『週刊女性』昭和37年/1962年11月21日号「恩師・吉川英治の10年間の温情にこたえて 新進女流作家杉本苑子が『孤愁の岸』を書くまで」より)

 すでにこの姿勢だけで、杉本さんに感服ですもんね。尊敬します。

 8年半。いろいろな思いが去来したことでしょう。苦しいこともつらいこともあったでしょう。直木賞受賞当時、週刊誌や月刊誌で取り上げられた杉本さんの記事には、そこらあたりのことに少しだけ触れられていたりします。

「――十年のあいだには苦しいこともずいぶんあった。苦しみと不安の連続だったと言ってよいかもしれない。女の二十四、五から三十四、五……結婚の問題ももちろんあったし、一年々々老いてゆく両親をかかえて、生活の不安におののいた日々もある。そのたびに(こんなことをしていて大丈夫だろうか。果して私には、才能があるのだろうか?)

 ひとつの道にこころざす人の誰もが、かならず逢着するであろう疑問に、私も何度かぶつかった。まじめに根気よく勉強する……言うまでもなくそれが根本だが、それだけでは駄目なのだということも、おぼろげながらわかって来ていた。

 泣いて、私は“自分自身への疑い”を、先生に訴えたことがある。

「ばかだな、君は……」

と、しかし先生には、その時ひどく叱られてしまった。

「僕が信じられないのか。――人の一生の問題だ。君に見込みがなければ、とうの昔やめさせているよ。結婚したまえと注告しているよ。……なるほど、まだまだ君は未熟だ。だが未成熟ながら性根はある。性根さえあれば、かならずどうにかなるものなのだ。僕を信じ、そして自分自身にももっと自信を持つことだよ」

 申しわけなかった。私はお詫びした。が、根深い自信喪失は一朝一夕に解消するものではなかった。ただ、先生のお言葉によって、一種、さわやかな“落ちつき”は得た。」(『婦人公論』昭和38年/1963年1月号 杉本苑子「私は吉川英治のただ一人の女弟子」より)

 いやあ、惚れるなあ、吉川英治さんの言葉。さすがだ。厳しさと温かさを併せ持つ人格者、吉川さんだ。「性根さえあれば、かならずどうかになるものだ」。はい。ワタクシもその言葉を信じて、生きていきたいと思います。

 ……って、そんなことはどうでもいいのです。杉本さんは、「随筆」を書くのって自分自身がナマのまま出てしまうから嫌いだわ、と公言するほどの方でして、じつは8年半の弟子時代の苦しみについて、それほど詳細に語ってはくれていません。数か月後のエッセイでは、

「不安、瞋恚、焦燥……たたかいの苦しさに比して、たのしむことの余りにも少ないおとなの世界―― その入口に立ち、小説づくりという、血みどろな作業の中に身を置いてから、しんじつ、私の“苦闘”ははじまったのだ。むろんそれは、心理的な意味でのものだけれど、いままだ活字にして、そんな自分の内部の、自分ひとりの遍歴など、人目にさらす気に私はなれない。作家は作品によって、しんそこのものを語るのが本来なのだし、心ある読者は、それをこそ望んでいると私は信じるからだ。」(『マドモアゼル』昭和38年/1963年4月号 杉本苑子「わが華やかなりし苦闘時代」より)

 と述べています。直木賞受賞にともなって、私生活だの、心情・感情だのを根ほり葉ほり知りたがるジャーナリズム攻勢をどっと受け、辟易している様子がうかがえますね。ほんと、「心ない読者」ですみません……。

 空白の8年半。杉本さんがどんな思いで、何をしながら日々を送っていたのか。まあ永久に明らかになる日はこないのかもしれません。

 たとえば、昭和34年/1959年。吉川さんに師事して7年目です。『オール讀物』が主催する懸賞「第15回オール新人杯」の、第1次予選通過リストのなかに「「福女一代」杉本苑子(東京)」(『オール讀物』昭和34年/1959年11月号)とあるんですが、これは同姓同名の別人の応募作なのか、どうなのか、とか。

 別人なら別人でいいんです。もし杉本さんご本人ならば、吉川英治さんの許可を得ての応募だったのか、とか。気になってしかたありません。……って、あ、「心ない」ですか。

          ○

 「杉本苑子さんは8年半、いっさい懸賞小説への応募もしなかったのか」問題は、さておくとしまして。

 直木賞を受賞した前後の各種文献を見てみますと、ああ、杉本さんのときもまた、おなじみの光景が展開されたのだなあ、と思わされます。

 あれです。ジャーナリズムの得意技です。ひとりの人間を紹介するに当たっては、正確さを度返ししてでも、物語を構築して記事に仕立てあげちゃう、っていう。

 杉本さんの場合は、こんな「物語」を押し付けられました。

 ……弟子をとらないことで知られる吉川英治の、ただひとりの愛弟子。

 ……あるいは、恋も結婚も投げすてて、ただ小説への道に突き進んだ若き女性。

「故吉川英治氏に、たったひとりの愛弟子があった。このほど『孤愁の岸』(講談社刊)を出版した杉本苑子さん(36歳)である。」

「思いかえしてみれば、楽しかったというものの、通常の女のしあわせを捨てた九年である。「杉本さん。恋したことがあるのかね」30歳のおてんばを案じ顔にいってもくださった。その先生はいまはない。」

「恋も知らずに文学ひとすじにすごしてきた日々 さびしいときひとり つづみをたたく私」(前掲『女性自身』「新進女流作家杉本苑子が『孤愁の岸』を書くまで」より)

 こらこら。「恋も知らず」とか勝手なこと書きなさんな。と、ついツッコミたくもなりますよね。

 ご本人は別のエッセイでこんな文章を書いています。

「そんな私でも、異性との恋愛めいた思い出は、いくつかある。」(昭和54年/1979年7月・読売新聞社刊 杉本苑子・著『片方の耳飾り』所収「初恋」より ―初出『美しい女性』昭和38年/1963年5月)

 ええ、まあ、そりゃそうでしょう。

 あるいは、「吉川英治ただひとりの愛弟子」に対する、杉本さんご本人の抗議訂正文。

「どうも私のことを、吉川先生の、

「ただ一人の愛弟子」

 と思っておられる方が多いようである。

 たしかに、ごろごろとたくさんあるよりは、「ただ一つ」だったり、「ただ一人」だったりしたほうが、物にしろ人にしろ、稀少価値みたいな感じがして、ジャーナリスチックな効果はあるようだ。

 でも、ざんねんながら私の場合は、「ただ一人の」しかも「愛弟子」などではない。先生には、ずいぶん叱られた。

「なんでまあ、こんな書き方をするんだろうねえ」

 習作原稿の稚拙さに癇癪を起こされ、

「年寄りに、あまり腹を立てさせるなよキミ、身体にさわるからな」

 きめつけられるような「不肖の弟子」だったのだ。

「ただ一人」でもない。たしかに吉川先生の晩年に師事したのは、私一人だけだが、もっとお若いころには幾人か、門下生をお持ちになったことがあったのだ。」(同書「変身以前」より ―初出『小説club』昭和48年/1973年11月号)

 「抗議訂正文」と言っちゃいましたが、なんのなんの。杉本さんが強い調子で抗議などするはずありません。ジャーナリスチックな修飾であることを理解し、そのうえで間違いを正して、誰の顔にも泥を塗らないように配慮されています。

 この師にしてこの弟子あり、と言いますか。杉本さんの人柄がしのばれます。

 おっと。「人柄がしのばれる」なんて言ったら、杉本さん、嫌がるかもしれませんな。随筆集のあとがきでは、まず決まって、自分は随筆など書きたくないのだ、苦手なのだ、と吐露しちゃう方ですもんね。

 小説が取り上げられるならともかく、自分自身にスポットライトが当たるのは、おイヤなことでしょう。なにしろ、理想の死に方について、

「葬式は無用。墓もいらない。じつを言えば涙や哀悼の言葉も辞退したい。

「あの人、いつのまにかいなくなってしまったなあ」

 それでよい。そういう消え方が理想なのだが、うまくゆくかどうか……。」(平成4年/1992年8月・光風社出版刊 杉本苑子・著『霧の窓』所収「あの人、いつのまにかいなくなってしまったなあ」より ―初出『アサヒグラフ』昭和63年/1988年10月7日号)

 と書くぐらいの方です。

 でも、運命は無情です。直木賞をとってしまわれましたことが運のツキです。直木賞作家ならばどんな方でも「いつのまにかいなくなってしまった」で済ませたくない人間が、ここにいます。理想の消え方はあきらめてもらうしかありません。

          ○

 杉本苑子さんといえば、同世代で親交の厚い(厚かった)人たちに、伊藤桂一さん、尾崎秀樹さん、津村節子さんなどがいます。いや、永井路子さんを忘れちゃなりますまい。永井さんとは直木賞をとる前から、公私ともども、長い道のりを共に歩いてきました。

 それはそれとしまして、最後に、せっかくですのでうちのブログでは別の作家名も挙げておきたいと思います。いまひとり、杉本さんと同列に名を刻んでおきたい作家。

 来水明子さんです。

 お互い親交はなかったかもしれません。あったかもしれません。わかりませんが、杉本さんが処女作品集『船と将軍』を発表したころ、まだ直木賞受賞前の昭和36年/1961年に、杉本・来水の両新人をペアとして見立てた評論家がいました。進藤純孝さんです。ありがとう、進藤さん。

「杉本苑子さんが最初の作品集『船と将軍』(雪華社)を出したのは、昨年の七月である。ちょうど来水明子さんが、処女長編『背教者』を発表したのと同じ月で、昔を舞台の小説を書くかなり力量のある女流新人が、二人そろって登場してきた華やかさに、私は目をみはった。

(引用者中略)

 あるいは、両人とも、並べられることを迷惑に思うかも知れないが、私としては、それぞれに才質の異った両新人が、競うようにして成長し、歴史小説の領域に新鮮な息吹きをもたらしてくれることを望む。競うということは、たまたま時を同じくして登場してきたものの宿命の如きものである。」(『新刊ニュース』昭和37年/1962年11月15日号 進藤純孝「人物記〈異色異彩〉8 杉本苑子―吉川英治の愛弟子―」より)

 片や、吉川英治の門下生。表舞台に顔を出すことを嫌い、第48回(昭和37年/1962年下半期)直木賞候補。そして受賞。杉本苑子。

 片や、山本周五郎の門下生。家にこもって歴史小説を書くことに生きがいを見出し、佐藤明子から来水明子に改名後、第46回第47回第49回と直木賞候補。受賞せず。来水明子。

 杉本さんもあまり、ジャーナリズムがお好きでないようですが、来水さんも、時流とか流行りとか、チャラチャラした世界がお嫌いだったようです。

 杉本さんは言いました。「「あの人、いつのまにかいなくなってしまったなあ」、そんな死に方が望みだ」と。そのかわり、杉本さんの小説は、たくさん残りました。未来永劫かどうかは知りませんが、数多くの著作物、全集、多くの人の手に渡り、今後もひろまっていくことでしょう。

 でも果たして杉本さん、来水明子さんのような生き方をしたかったのかなあ。どうなんでしょう。

 「いつのまにかいなくなってしまった」来水さん。そんな彼女の小説も、杉本さんと同じくらい、……とまでは言いませんけど、もうちょっと残っていってくれると嬉しいのですけど。

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