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2011年9月 4日 (日)

高橋克彦(第106回 平成3年/1991年下半期受賞) 直木賞への期待感が徐々に薄れていった8年間。

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高橋克彦。『緋い記憶』(平成3年/1991年10月・文藝春秋刊)で初候補、そのまま受賞。『写楽殺人事件』での小説家デビューから8年。44歳。

 昭和58年/1983年の江戸川乱歩賞受賞。それから直木賞受賞まで、高橋克彦さんは8年かかりました。

 ありがたいことに高橋さんには、生い立ちから作家活動までを通して語った文献がすでに、数多く刊行されています。入手しやすいものとして、『小説家―乱歩賞受賞作家の小説入門』(平成3年/1991年6月・実業之日本社刊)や、『開封―高橋克彦』(平成12年/2000年12月・平凡社刊 道又力責任編集)などがあります。

 これらを読むだけで高橋さんがいかにして直木賞作家となったかの道筋が容易にたどれちゃうのです。うーむ、ありがたい。

 うちのブログで、それに付け加えるものは何もありません。ただ、これらの本はワタクシのような文学賞偏愛者向けにはつくられていないので(当たり前だっ!)、高橋さんの受賞した文学賞ごとに、その周辺事項をまとめさせてもらいます。

●江戸川乱歩賞(昭和58年/1983年)

 前年に『岩手日報』勤務の中津文彦さんが歴史ミステリー『黄金流砂』で乱歩賞を受賞。同紙で大きく取り上げられた記事を見た高橋さんは、刺激をうけて、乱歩賞に応募することを決意します。

 そして高橋さんのかの有名な(?)「乱歩賞・傾向と対策」が生まれたわけです。

「傾向と対策なんかを考えて小説を書くと、それは小説をばかにしているとかというふうに、文学をすごく重要なものと意識している人たちは思うかもしれません。ぼくは逆に、賞に応募する当然の常識といったらいいかもしれないけど、敬意を払うという意味では、その賞がどういう賞なのかということを熟知してから応募するのが本当だと思うんです。」(平成3年/1991年6月・実業之日本社/仕事発見シリーズ 高橋克彦・著『小説家』「II 江戸川乱歩賞をとる、と大宣言!!」より)

 じっさいに高橋さんが編み出した「傾向と対策」は、次のようなものでした。『開封―高橋克彦』から引用します。見やすいようにワタクシのほうで、項目ごとに改行を入れました。

「①自分が熟知する世界を描くこと(当然、浮世絵。誰もが知っている写楽を選んだ)。

②連続殺人とする。しかも様々な土地に事件を分散した方がいい(東京をメインに、秋田でも事件を起こすことにした。写楽と秋田蘭画の結び付きという大胆な仮説は、場所の設定から逆に生まれた)。

③時刻表や地図など、図版を使うことも効果的である(人物関係図を挿入し分かり易くした)。

④謎解きの興味とは別に、主人公の苦悩をじっくり描くのも重要だ(優秀な研究家だが善良過ぎる津田良平が、事件に翻弄される様は読者の共感を呼んだ)。

⑤最後に、応募原稿は奇麗に清書すること(清書に手間取り、郵送したのは締め切り当日)。」(平成12年/2000年12月・平凡社刊 道又力・責任編集『開封―高橋克彦』「全作品解説〈刊行年代順〉 写楽殺人事件」より ―原文は改行なし)

 応募時の題名「蝋画の獅子――写楽殺人事件」。第29回江戸川乱歩賞を受賞しまして、約27万部ほど売れたそうです。

 写楽といえば高橋、高橋といえば写楽、っていうくらい強烈な印象を残しました。むろん、そのイメージに縛られずに次々と素材を見つけ、あるいは温めていた物語を形にできる力があったから、いまの高橋さんがいます。しかしデビュー後まもなく、関口苑生さんはこう書きました。

「デビュー作がその作家の一生を決定づけてしまうことがある。その後、いくら書いてもデビュー作の印象が拭い切れないというやつだ。最近で言えば、この高橋克彦が典型的な例だろう。八三年度江戸川乱歩賞受賞作の「写楽殺人事件」の印象は、それこそ強烈を通り越して衝撃に近いものだったからだ。(引用者中略)しかしぼく個人は、彼が単にこれだけでは終らない作家であると信じている。」(『潮』昭和59年/1984年4月号「ニュー・ビッグ―日本をリードする二〇八人」より ―執筆担当:関口苑生)

 デビュー長編一作きりの新人に対して、関口さんの寄せるこの信頼感。ずば抜けています。

 それだけ『写楽』の出来が高かった、と。皮肉なものです。その出来栄えのよさと周囲の好評価ゆえに、高橋さん自身、少々窮屈さを感じていたみたいです。

「処女作品というヤツはいつまでも自分の人生についてまわるものらしい。一年目は当り前だと思っていたが、発表して三年目になると言うのに、相変わらず写楽に関するインタヴューやエッセイの依頼が多い。(引用者中略)まだ三年目だから、それでも笑っていられる。これが十年、あるいは二十年続けば笑うどころか小説を書いている意味がない。どんなに苦しみ、頭を使っても、その何十年かは無駄な時間だったと言うことになるからだ。(引用者中略)

(引用者注:高橋自身)「結局○○はあのデヴュー(原文ママ)作を乗越えることなく死んでしまったね」などとしたり顔で仲間と話したことが何度もある。その後の作者の人生など無視してだ。強烈なしっぺ返しをくらった気分でぼくは毎日を暮らしている。死ねば○○がぼくの名前になり、どこかで話されていくのだろう。それを思うと辛い。ゾッとする。

 いつまでも写楽が忘れられないでいることは有難いが、いつかは写楽が忘れられてしまうような、そんな作品を書きたいものだ。」(平成1年/1989年10月・中央公論社刊 高橋克彦・著『玉子魔人の日常』所収「処女作品」より)

 処女作『写楽殺人事件』。といいますか、「江戸川乱歩賞」なる文学賞が周囲に放つ魔法のパワーは、相当なものでした。デビューとともに背負ってしまった、文学賞がもたらすイメージ。それが少しずつ少しずつ削り取られていく……。高橋克彦さんの作家人生って、そういうふうに見えます。

          ○

●吉川英治文学新人賞(昭和61年/1986年)

 デビュー3年後のことです。「講談社出身作家に、やさしく温かな手を差し伸べてくれる文学賞」としておなじみ、吉川新人賞が高橋さんの『総門谷』に贈られました。

 これは、『写楽殺人事件』が書かれる前から、つまり「傾向と対策」なんて枠組みとは関係のない時代から、高橋さんがせっせと資料を集め構想を練っていた物語でした。乱歩賞の受賞者会見で「今後、ミステリーを書いていくつもりはない」と語ってしまった高橋さんの頭のなかには、『総門谷』のような伝奇SF調のものこそ、自分の力を発揮できるに違いない、との思いがあったんだそうで。

「SFの新聞連載をはじめる、と得意気に担当編集者に伝えたら、彼は仰天して思い直すように説得した。大事な時期にわざわざ遠回りなどするなと叱る。せっかくミステリー作家としてデビューしたのだし、浮世絵を素材とするミステリーならいくらでも書けるはずだと説いた。それはその通りかも知れなかったが、私は浮世絵が好きなだけに量産したくなかった。(引用者中略)かと言って他のミステリーとなれば自信がない。だからこそ早いうちにSF作家として認知される必要がある。私は編集者の忠告を遮って連載に突入した。」(平成7年/1995年4月・中央公論社刊 高橋克彦・著『三度目の正直玉子魔人』所収「思い出深い自作『総門谷』」より)

 連載媒体は河北新報。話が持ち込まれたのは、乱歩賞を受賞したあとでしたが、受賞作が発売される前のことでした。

 この段階で高橋さんが講談社の編集者の言いなりになって、しばらくミステリーで勝負しようとしていたら、どうなっていたんでしょう。わかりません。

 しかし、連載中、高橋さんは苦しかったことでしょう。デビューまもない新人、いろいろな仕事をして顔と名前を売らなければいけない時期に、はじめての新聞連載に手間取り、なかなか他媒体との約束が守れない。東京の人たちにとっては、地方紙での仕事はほとんど目に入らないので、ずいぶんと高橋さんは非難されたそうです。

「怠けている、とか、無責任だという非難が集中した。一作きりの作家だとの悪口も耳にした。悔しかったがそう見えたのも事実であろう。」(同)

 なぜ、高橋さんはそこまで自分を信じ切れたんでしょう。はっきり言ってうらやましい。

 しかもその我慢、というか新聞連載の挑戦をやり切った末に、しっかり結果がついてきました。

「連載の終了したのは一年後のこと。SFなんて、と渋っていた担当編集者は完成した作品を読むなり「書きたいって気持に溢れているよね」と涙を湛えながら褒めてくれた。そしてそれが運良く吉川英治文学新人賞に繋がった。あのときに我を通していなければ今の私はない。不本意に浮世絵をテーマとするミステリーを書き続け、今頃は飽きられて呻吟していたはずだ。」(同)

 デビュー3年後の『総門谷』は、明らかに「写楽の高橋」の皮を一枚はがすに十分な、インパクトある名作だと思います。

●日本推理作家協会賞(昭和62年/1987年)

 さらに追い打ちをかけて、その年、昭和61年/1988年暮れ、浮世絵ものミステリー『北斎殺人事件』を満を持して刊行。

 これもまた賞をとってしまうわけです。

 デカい賞ですよ。日本推理作家協会賞。

 そしてデカさの割に、受賞者の誇らしさの割に、一般的な反応が格段にニブい、ってことでも知られています。

 乱歩賞、吉川新人賞、推理作家協会賞、そしてのちに直木賞と、高橋さんはいくつも文学賞を受賞してきました。彼だからこそ書けたエッセイがあります。「親の責任」です。

「私はこれまでに(引用者注:直木賞をとるまでに)三つの賞をいただいている。映画やテレビ化の話があったのは最初の『写楽殺人事件』のときだけで(それも製作費がかかり過ぎるという理由で企画倒れとなった)他の二作については、まさにハナもひっかけられなかった。ことに推理作家協会賞を頂戴した『北斎殺人事件』はほとんど反響ゼロに等しい。」(平成4年/1992年12月・中央公論社刊 高橋克彦・著『またふたたびの玉子魔人』所収「親の責任」より)

 文学賞の知名度と、その質的な水準はさして関連がない、ってのは今さら言うまでもないことです。たとえば、推理作家協会賞と直木賞、どっちにより「権威」があるのか、使用する物差しによってはどちらが上とも言えますからねえ。

 高橋さんもきっぱり証言してくれています。推理作家協会賞のほうが、人によっては直木賞より何倍も重い意味を持つのだ、自分もそうだったのだ、と。

「こんなことを書けば、直木賞に対して失礼になるかも知れないが、少なくともミステリーを仕事としている作家にとっては、直木賞よりも何倍も重い意味を持つ賞である。候補に選ばれただけで体が震える。それほどの賞なのだ。」(同)

 直木賞の知名度の高さは、ほかの文学賞に比べて異常です。多くの人は、異常であることを知っています。著名な作家や評論家などが、過去、何十度も何百度もそのことを指摘する文章を書き、世間に発表してきました。これからも指摘され続けていくでしょう。

 ワタクシも心から願います。推理作家協会賞の水準と重みが、直木賞並みに広く知られて、毎年話題になってくれることを。しかしそんな時代はくるんでしょうか。直木賞の頑強な虚名ぶりの前に、いつも無力感をおぼえてしまいます。

 ええと、それはそれとしまして、高橋さんのハナシに戻します。反響ゼロの推理作家協会賞受賞。それでも高橋さんにとって、十分すぎるほどの栄誉でした。以降5年、平成4年/1992年に唐突に直木賞候補に選ばれる日が訪れても。

「こうして推理作家協会賞を頂戴した身としては、直木賞にそれほど執着がなかったと言いたいのである。それにミステリーやSFが直木賞とは無縁だということも承知していた。」(同)

          ○

●直木賞(平成4年/1992年)

 ってことでデビュー8年。もはや高橋さんにとって、直木賞なんて目標は霞んでしまっていて、とってもとらなくてもいい、程度の存在になっていました。『緋い記憶』が最終候補に残ったと聞かされたとき、数日間、真剣に候補辞退を検討した、つうぐらいですからね。

 しかし高橋さんがデビューした最初から、直木賞を意識していなかった、ってことではありません。なにしろ「自分はミステリーが書きたくて作家になったわけじゃない」と断言するほどの方ではありますし。かつては、純文学作家をめざし、またそれをあきらめた大学生のころでも、野坂昭如さんや井上ひさしさんのような小説を目標にしていた方ですし。おそらく、頭のなかには強烈に「直木賞」の影が差していたものと想像できます。

 高橋さん自身の述懐にも、こんな記述が出てきます。

「その当時(引用者注:乱歩賞を受賞したころ)より担当編集者の多くから「直木賞はあなたと無関係ですからね」と釘を刺されていた。なぜそんなことを言われたのか……よく覚えていないが、たぶん私から直木賞について云々することが多かったせいなのかも知れない。私が期待していることを知って、心優しき担当編集者諸氏は、傷が大きくならないうちに塞いでしまおうと考えたのだろう。」(前掲『またふたたびの玉子魔人』所収「その夜」より)

 ふふふ。よっぽど、編集者たちに直木賞のことを語り散らしていたんだな。このう。直木賞亡者め。

「当面の目標は直木賞である、と彼(引用者注:担当編集者)に口にした記憶もある。そういうことが頻繁だったために、多くの担当編集者諸氏がスクラムを組んで私に「直木賞とは無縁だ」と言い聞かせはじめたのである。実際、その通りだった。ここ五年ばかりは、直木賞のことなどまったく考えもしないで仕事を続けてきた。」(同)

 乱歩賞をとったころ、高橋さんは直木賞への夢を持っていました。そのあと徐々に、直木賞へのこだわりは減っていきました。そしてまた、『写楽』作家のイメージは薄れていきました。

 それもこれも、まわりの編集者がさまざまに助力してくれたから、高橋さん自身がしっかりと我を通し切ってきたから、なんでしょう。しかし、アレです。知名度は低いけど文壇内の評価は高い文学賞を、ひとつふたつと数年おきに与えられたことも、きっと大きかったよなあ。高橋さんの直木賞受賞までの8年は、文学賞ヌキでは語れないよなあ。

 ……って、それは文学賞偏愛者すぎる見方ですか、そうですか。

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