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2011年6月の5件の記事

2011年6月26日 (日)

芦原すなお(第105回 平成3年/1991年上半期受賞) これ一作だけで、あとは書かなくてもいい、とまで言わしめた。

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芦原すなお。『青春デンデケデケデケ』(平成3年/1991年1月・河出書房新社刊)で初候補、そのまま受賞。『スサノオ自伝』でのデビューから4年。41歳。

 昭和54年/1979年のことです。30歳の男が、ある文芸誌の新人賞を受賞しました。村上春樹「風の歌を聴け」。

 かつて彼と同じ大学、同じクラスに通っていた男がいました。同じく30歳付近。何か小説でも書きたいなあと思い始めていたころだそうです。村上春樹の受賞を知り、その作品を読んで、大きな衝撃を受けた、とのちになって語っています。

 芦原すなおさんです。

「幼い頃から、自分には何かが創れる筈だ、という気持は、ずっと抱き続けてきた。そして、三十になるあたりから、ようやく文章の面白さというようなことも解りかけてきた。小説も、むしろ以前よりも読んで面白く感じるようになってきた。自分でも書いてみたくなってきた。(引用者中略)

 そんなある日、新聞で、大学時代同じクラスだった村上春樹君が『群像』の新人賞をとったという記事を読んだ。びっくりした。そして、その作品を読み、出来ばえのあざやかで見事なのにまたびっくりした。我をかえりみて、こりゃいかん、と思った。ぼくは一体何をやってんだろう!?

 本腰を入れて小説を書き始めたのは、それからしばらくしてからのことである。」(『オール讀物』平成3年/1991年9月号 芦原すなお「遊びをせむとや、たわぶれせむとや」より)

 漠然と小説を書きたいなあと思っている。そのタイミングで、知り合いが新人賞をとったりして、しかもすげえ高い評価を受けて、一気に有力新人扱いされる。俄然、みずからのやる気も湧く。……みたいな経験をされた方は、芦原さん以外にもたぶんたくさんいることでしょう。

 妄想のなかでふくらむ「おのれの壮大なデビュー作」。そこで芦原さんが偉かったのは、900枚あまりの長篇を5年をかけてきちんと書き切ったことでした。この難関を乗り越えたことが、のちに第二作へとつながっていきます。

 苦しいとき、目標があいまいなとき、やめずに続けることの、ああ何と難しくて尊いことよ。

「この作品が仕上げられないようなら、本当に自分に愛想が尽きてしまうだろう、というような一種の意地というか、張りつめた気持もあった。

(引用者中略)真剣に打ち込んで書いた最初の作品は、かくして思いがけぬ長編となった。自分の中にこれほどの根気があったのを知って、本当に嬉しかった。

 それから原稿を、以前アルバイトをした時に知り合った編集者に読んでもらった。彼が「よし、本にしよう」と言ってくれたときは飛び上がりそうになった。そして半年後、『スサノオ自伝』は集英社から刊行された。あの時の感激は生涯忘れられないだろう。」(同)

 モッてるよなあ、芦原さん。知り合いに編集者がいて、その編集者に「本にしよう」と言ってもらえる星のめぐり合わせ。『スサノオ自伝』は出版されました。……ただ、せっかく大手の版元から出してもらっても、「売れる」領域まで行くかは別問題です。芦原さんのデビュー作はさほど話題になることもなく、無名の新人が一冊ぽっきり変わった小説を出した、ってところで終わってしまいました。

 そうして書かれた二作目の小説。こちらも前作同様、当てもなく書きはじめ、二年をかけて800枚弱。かなりの長さです。

 これをまた出版社に持ち込んだのかどうか、そこら辺はわかりませんが、一作目のときと違う気持ちが、芦原さんの頭にはあったようです。いわく、「できるだけ多くの人に読んでもらいたい」。ずいぶん『スサノオ自伝』は売れなかったのかな、と思わされちゃいます。

「書いたものはぜひ世に出したい。そして、できるだけ多くの人に読んでもらいたい。ではどうやって出せばいいのかと、あれこれ考えて、結局、河出書房新社の「文藝賞」に応募することにしました。」(平成7年/1995年4月・作品社刊 芦原すなお・著『私家版青春デンデケデケデケ』「あとがき」より)

 なんと絶妙なチョイスだ!と感心しないわけにはいきません。「文藝賞」を選択するなんて。

 もしも、あの「青春デンデケデケデケ」が、一作目と同様に唐突にどこかの出版社から出された無冠の小説だったら。または、エンタメがこぞって寄せられるような新人賞での受賞作だったら。……こんな仮定をすることに何の意味もない、と正論を述べたいところではありますが、いやそんな正論を阻むくらい、「青春デンデケデケデケ」の受け入れられ方は、絶妙なのでした。

 「文藝賞」のネームバリューに、ノスタルジック性満載の青春小説、が掛け合わさって、この小説は発表当初から一気に世の中に広まったのでした。

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2011年6月19日 (日)

司馬遼太郎(第42回 昭和34年/1959年下半期受賞) 吉川英治がどこまで本気で授賞に反対したのかは、もはや藪の中。

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司馬遼太郎。『梟の城』(昭和34年/1959年9月・講談社刊)で初候補、そのまま受賞。「ペルシャの幻術師」でのデビューから3年半。36歳。

 いきなりの巨人です。巨人ってことはつまり、有象無象の周囲の人たちが、ありとあらゆる観点から調べ尽くし、評し尽くし、取り上げてきた作家だということです。

 生前から本を出せばたちまち売れるベストセラー作家。周辺の人たちを愛し愛され、死んでのちもその名は忘れられることもなく、さらに新たなファン層を獲得しつづけ、いまだ関連書籍もひっきりなしに市場に現れる大にぎわい。

 直木賞作家の鑑です。もとい。大衆作家の鑑です。

 そんな司馬さんが直木賞をとるまでのなかで、今日は二つの時期に絞って、ハナシを進めたいと思います。

■『近代説話』創刊準備(昭和31年/1956年)

 司馬さんのデビューは「ペルシャの幻術師」で講談倶楽部賞受賞、ってことになっています。昭和31年/1956年2月のことでした。

 ではそもそも、なぜ産経新聞記者の福田定一が講談倶楽部賞に小説を応募したのか。と言いますと、当人から他人まで含めてじつに、諸説が入り乱れています。少しまとめておきましょう。いや、逆にかき混ぜちゃうことになるかも。

 彼の応募までの出来事として、以下のような事柄があったと言われています。

  • 福田(司馬)と成田有恒(寺内大吉)が大阪で飲んだときに、同人誌設立のハナシが持ち上がった。
  • 福田は、同人誌のような文学亡者たちの集まりには興味がなかった。
  • 成田は、福田に小説を書かせるために、何種類かの懸賞小説の応募要項を送ってやった。
  • そのうち一番締め切りの早かった講談倶楽部賞向けに、福田は二晩かけて短篇を書いた。

 まずはご本人の弁です。

「小説を書けと勧めてくれたのは成田有恒君でした。(引用者中略)大阪へやってきた彼と一杯飲みまして、こんなにおもしろい人間はないとおもいました。「あんた小説書けや」といわれた。「しかし同人雑誌はいやだし……」というと、「世の中には懸賞小説というものがあるじゃないか」といってくれたのが小説を書くキッカケといえばそうですね。

 親切な人で、彼は東京に帰ると、さっそくあらゆる懸賞小説の応募規定を切り抜いて送ってくれたんです。そのなかで一番締切りの早いのが「講談倶楽部賞」で、二晩で「ペルシャの幻術師」を書きました。」(昭和49年/1974年4月・文藝春秋刊『司馬遼太郎全集32』「年譜」より)

 次に、磯貝勝太郎さんにお出で願います。司馬さんのデビュー前後の逸話にもお詳しい方です。司馬さん本人の述懐にもまして、具体性に富んでいます。東京にいたユーモア作家クラブ所属の作家、大平陽介なる新たな登場人物まで出てきて、興味ぶかいことこのうえありません。

(引用者注:「ペルシャの幻術師」を)書きあげたときの心境は、自作ながらおもしろい、とおもう一方で、落選は一〇〇だと覚悟は決めており、自信と不安があいなかばするという複雑な気持ちであった。書き終えて、原稿を大平陽介に送り、読んだ上で、講談社へ転送してほしい、と依頼した。

「ペルシャの幻術師」は、「講談倶楽部賞」に応募するため書いたのである。懸賞小説を書いてみる気持ちになったのは、寺内大吉がすすめたからだ。(引用者中略)

 一九五三年(昭和二十八年)ごろのある夜、大阪の桜橋の交叉点に立って、司馬遼太郎と赤信号を待つあいだに、寺内が、

「同人雑誌をやろうか」

 と、はなしをもちかけると、

「世にいう同人雑誌なら、いややなあ」

 といって、乗り気がない態度をしめしたという。(引用者中略)

 数日後、寺内から封書がとどいたので、開けてみると、同人雑誌が嫌いならば、世の中には懸賞小説というものもあるから、入選して、名を売っておいたほうがいい、という趣旨の手紙と、各雑誌の懸賞広告が入っていた。その懸賞広告のなかで、もっとも締め切りの早いのが『講談倶楽部』だった。送り手の温かい心にこたえるために、二晩で書きあげたのである。」(平成13年/2001年2月・日本放送出版協会刊 磯貝勝太郎・著『司馬遼太郎の風音』「第I部 司馬遼太郎という物語」より)

 磯貝さんの司馬エピソードは、具体味に厚くて面白くて、また参考になります。でも、うーん、引用した箇所は、ずいぶん無理のあるストーリー展開じゃありませんこと? 昭和28年/1953年ごろの会話から数日で、最も締切りの早いのが昭和31年/1956年度の講談倶楽部賞、ってどういうことですの?

 もうひとつ、『新聞記者司馬遼太郎』からも文章を拝借しましょう。ここでは、「ペルシャの幻術師」も講談倶楽部賞応募も、同人誌発刊の案が前提として生まれたものだった、ってハナシになっています。

「「同人雑誌をやろう」と言い出した寺内大吉は、後には引かない。(引用者中略)ついに司馬も折れて、お互いの周辺にいる連中を集めようということになり、同人誌刊行会結成の初会合を開いた。昭和三十一年二月である。(引用者中略)

 同人にも一つの基準をつくった。ただの文学の愛好者の集まりではなく、あくまでプロをめざすという目的をはっきりさせるため、無名でも懸賞小説に入選していれば参加を認めよう、ということにした。

 ところが、自分(引用者注:司馬のこと)には入選歴がない。そのため急ぎ応募したのが講談倶楽部賞だったのである。これで同人の資格を得たのだから、受賞の喜びもわかろうというものだ。」(平成12年/2000年2月・産経新聞ニュースサービス刊、扶桑社発売『新聞記者司馬遼太郎』「第5章 作家への助走」より)

 なるほど。そうだったんだ。

 ……ところがです。このあたりの経緯を、したり顔で紹介するワタクシのような人間の頬を張り倒す人たちがいます。それはだれか。『近代説話』同人のみなさんです。

 ん? 『近代説話』同人って……。つまり、当の登場人物のみなさん、こぞって回想を自分なりに面白おかしく改変して語るクセをお持ちなのです。さすが「説話」を誌名に選ぶ人たちなだけのことはありますなあ。

 たとえば、寺内大吉さん。本名・成田有恒さん。これまで引用してきた司馬デビューの経緯を根底からくつがえすようなことおっしゃっていますよ、よくお聞きください。

「東京で私が盛んに懸賞小説をやっているのに刺激されてか、福田定一(司馬遼太郎)がこつこつ懸賞のための小説を書いていた。「ペルシャの幻術師」という大変風変わりな作品を送ってきた。私は一読して、これはイケルと信じた。すぐに講談倶楽部賞の募集規定を貼りつけて原稿を送り返した。司馬遼太郎というペンネームでそのまま「講談倶楽部」へ投じた。」(平成16年/2004年9月・大正大学出版会刊 寺内大吉・永井路子・著『史脈瑞應 「近代説話」からの遍路』「第1章 寺内大吉の生い立ちから「近代説話」まで」より)

 ええっ!? 言うに事欠いて、司馬さんのほうが寺内さんの応募活動に刺激を受けて、みずから小説を書きだした、ですと? あなたがこの世界に誘い込んだんじゃなかったんですか。

 さらに。

「昭和三十年(一九五五)の冬、私は司馬遼太郎と夜の道頓堀を歩いていた。(引用者中略)

 「同人誌をやろうや」司馬が言い出した

 「うん、やろうか」(引用者中略)

 話はすらすらとまとまった。お互いの周囲にいる若手の文筆家を糾合することになった。」(同 太字・下線は引用者によるもの)

 ムチャクチャですがな。うおう。いったい、だれの言葉を信用したらいいっていうんだあ。

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第5期のテーマは、ほんと今さらですが「直木賞受賞作家」。ただし、初候補で受賞した人に限ります。

 1年に一つずつテーマを定め、1週間に一回アップ。このルールをみずからに課して、直木賞専門ブログも5年目に入りました。

 だけどさあ。直木賞専門だとか威張っておきながら、読み返しても、ちっとも直木賞のことがわかりやすく書いていないんだよなあ。……と深く反省しまして、第5期は、基本中の基本テーマを取り上げようと決意しました。

 直木賞受賞作家のことです。

 たとえば1万人の小説ファンに向かって、「直木賞」と言葉を発してみたまえよ。9,900人以上はまっさきに受賞作家のことを連想するでしょうがに。それが、直木賞のことが出てくる毛色の変わった本だの、絶版で入手の難しい候補作のことだの、文学史にくすりとも登場しない小説に描かれた直木賞像だの、受賞作リスト以外まず注目されない文学賞のことだの、そんなのばっかり書いて、何が「直木賞専門ブログ」だ、ふざけるな。……ごもっともです。

 これからは1週に1作家ずつ、受賞作家のことをご紹介していきます。とくに受賞前後のころのハナシが中心となるでしょう。ただ、だらだらやっていても面白くありません。ひとつシバりを設けます。

 初の候補作でバキューンと受賞を射止めた作家、限定でいきます。

 直木賞は今年平成23年/2011年1月に決まった第144回(平成22年/2010年・下半期)までで、171名の受賞作家を輩出してきました。そのなかで、初候補でいきなり受賞したのは65名います。38%です。意外と多いとみるか。やはり直木賞、初候補には厳しい数字だとみるか。

 ちなみに芥川賞は、全受賞作家149名のうち、初候補での受賞は76名。51%。新人向けの芥川賞、中堅向けの直木賞、の姿がこんな数字からも見て取れますなあ。

 とか、いかんいかん。すぐに直木賞と芥川賞を比較したがる悪いクセだ。

 65名、全員イケるかどうかはわかりませんが、5年目にしてようやく直木賞研究サイトの管理人っぽいこと、やっていきます。ただ、おそらく今までどおり、脇道に逸れたり、文章があっちゃこっちゃ飛びまくったりすることでしょう。

 きちんと着地できたらおなぐさみ。まず一週目は、日本人なら誰でも知っている(?)偉大なる作家の、直木賞受賞近辺のことから……

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2011年6月12日 (日)

芥川龍之介賞 時代時代で「直木賞との境界がなくなった」と、いろんな人に突っ込んでもらうために存在する賞。

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【芥川龍之介賞受賞者・候補者一覧】

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2011年6月 5日 (日)

渡辺賞 菊池寛が「権威ある賞になれば」と期待をこめた、画期的な文学賞の誕生。

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 ちょっと大きく出ます。これまで一年くらいかけて「直木賞のライバル」を取り上げてきました。じつは理由があります。どうしても、この賞に光を当てたかったからなんです。

 直木賞と芥川賞ができる、わずか10年ほど前でした。「日本で唯一の文学賞」と称された賞がありました。渡辺賞といいます。

 いま、この賞を知っている人はほとんどいません。よね? と言いますか、過去も含めて渡辺賞を正確に語ってくれた人は、あまりいません。

「もちろん芥川賞の前に文学賞が全くなかったわけではない。余り人に知られていないが、大正15年に創設され、文芸家協会が年一回、優秀新人に授賞した渡辺賞などがあり、(引用者中略)これは函館の実業家渡辺安治の意志によって基金が文芸家協会に贈られたもので、昭和5年には功労賞に切りかえられてしまったが、選考母体が文芸家協会だけに既に実力充分の見きわめをつけた無難な選考がおこなわれていて、芥川賞のような全くの無名の新人に与えられることもある、という冒険もないが、また失敗もないという賞で、結局長つづきしなかったものと思われる。」(昭和43年/1968年10月・神奈川県立図書館刊『日本の文学賞』 小田切進「日本の文学賞について」より)

 代表として小田切進さんの文章を引用させてもらいました。

 小田切さんは、瀬沼茂樹さんらとともに、不毛といわれた文学賞史研究の世界に、とくに積極的に分け入ってくれた先達です。そのキモさはハンパなく、ワタクシも尊敬しています。でも残念なことに、上記の渡辺賞の説明はちょっと間違っています。

【渡辺賞受賞者・候補者一覧】

 一、二の評論家が間違っているだけなら、まだ我慢もできよう、ってもんです。この賞の主催者は文藝家協会っていうんですが、その後身である日本文芸家協会ですら、公式(?)資料で次のように紹介しちゃっているのですからもう。呆然とします。

「劇作家協会と小説家協会が合併して文芸家協会になったのは大正十五年一月七日のことであった。(引用者中略)この年の十一月八日、北海道函館の実業家渡辺安治の遺志によって一万円の金が寄付され、文学賞として利用してほしいという申し出が文芸家協会にあった。(四、五年の間、利息六百円を毎年送金するという方法であった)協会はこれを受諾して「渡辺賞」を設定し、受賞資格者は会員に限らず、投票選考の上、前年度の優秀な新進作家に贈るということにした。」(昭和54年/1979年4月・日本文芸家協会刊『日本文芸家協会五十年史』「第一部 戦前篇」より 執筆担当:巌谷大四 太字・下線は引用者によるもの)

 ぬ、ぬおう。どうして、ことごとく渡辺賞に無関心な人ばかりなのだ。涙が出てくるぞ。

 そもそも、当時の函館には渡辺安治なる実業家は存在しないのです。さらには、「遺志によって」お金が寄付された、なんて事実もありませんでした。

 以下、渡辺賞の創設経緯を、なるべく正しく伝えるよう努力します。

 まずは時代を明治5年/1872年まで、さかのぼらせてください。

 舞台は北海道函館です。越後国中蒲原郡鳥屋野村で生まれた20歳そこそこの青年が、その年の7月、函館にやってきました。名を渡辺長蔵といいます。

 『北海道人名辞典』(大正3年/1914年11月・北海道人名辞典編纂事務所刊)によりますと、長蔵さんの生まれは嘉永3年/1850年11月。函館に渡ってきた理由は不明ですが、とりあえず、天秤を肩にかついで油売りを始めたそうです。

「初め天秤を肩にして油売をなし孜々として零砕の資を貯ひ稍々資本成るに及んで雑貨米穀商を営み苦闘多年の後金貸業を営み富百万を積み函館屈指の富豪となるに至れり」(『北海道人名辞典』より)

 働いて働いて働いた末に運をつかみ、商売を拡大して大金持ちになりました。やったね、長蔵。

 彼には、少なくとも3人の子供がいたようです。娘(明治21年/1888年生まれ)、息子(明治24年/1891年生まれ)、息子(明治26年/1893年生まれ)。長蔵さんは大正3年/1914年2月に病没しまして、長男の長一郎が家を継ぎます。家督相続を機に、泰邦と改名しました。

 この泰邦さんは、早稲田実業学校から早稲田大学政治経済学科に進んだ渡辺家期待の星。在学中は文学にかぶれ、同人誌に参加し、将来は文壇に打って出ようとの夢を描いていたと言います。

「然し卒業後に於て氏は考慮之れ久しうしたが、暮夜ひそかに、自らの将来を考へた時、自分は文壇人として果して立つべきか、将た又実業界に雄飛すべきか、或は又官界に進出すべきか先づ自らの素質を顧みた、その結果長髪蒼白の文学青年に対しては好意を持つ事が出来なかった。豪毅である処の性格から観て将来の大政治家たらんとした。」(昭和11年/1936年2月・函館名士録発行所刊『函館名士録』より)

 で、函館区会議員になったのをスタートに、函館が区から市に変わってからも市会議員に立候補して当選。それだけではあきたらず、欧米・支那・蒙古・印度などをめぐる視察旅行に出かけて、昭和5年/1930年には衆議院議員に当選。国政で活躍することになります。

 さて、泰邦さんの姉弟はどうしていたでしょう。姉のカツと弟の長太郎は、それぞれ分家しました。カツは安榮という名の男と結婚しまして、函館の地で、父の事業を受け継いで金銭貸付業を営みます。明治43年/1910年ごろには長男を授かり、お金をがっぽり儲けながら順調に生活を送っていました。

 順調かと思われました。

 大正14年/1925年のことです。カツと安榮の長男は15歳となり、旧制函館中学に通っていました。11月5日。その長男が自殺してしまうのです。

 11月7日号と8日号(7日夕刊)、『函館毎日新聞』に下記のような黒枠つきの死亡広告が載りました。

「長男安治儀 急病にて五日午後四時三十分死去仕候間此段生前辱知諸君に謹告仕候

 追而葬儀は来る八日午前十時自宅出棺元町別病院に於て執行仕候贈花等は乍勝手御辞退申上候

大正十四年十一月六日 函館市青柳町五〇

 父 丁(引用者注:原文は「□」の内に「丁」) 渡邊安榮

      外親戚一同」(『函館毎日新聞』大正14年/1925年11月7日号より)

 安治君です。渡辺安治君です。実業家ではありません。中学生です。

 函館に住む裕福な家庭の中学生が、いったいなぜ、何を思って死んだのでしょうか。周囲のだれにもわかりませんでした。

 しかし、「自殺の原因がわからなかった」ことが幸いしました。いや、幸いなどと言ってはいけませんね。ごめんなさい。ただ、安治君、あなたのおかげなのです。あなたが「謎」のまま亡くなったおかげで、日本の文学賞史に、大きな変革がもたらされたのですよ。ほんと、何がどう転ぶかわかりません。

 と言いますのも。遺された両親、カツさんと安榮さん。息子がなぜ死を選んだのかわからず苦しんだ末に、こう考えるようになったからです。……そうだ。息子は文藝が好きだったな。しかも死んだときの枕元には『文藝春秋』が読み捨ててあったじゃないか。そうだ息子の死を弔うに、何か文学に関係することで役立ちたい。……と。

若き霊の記念に

文藝賞金一万円

謎の自殺を遂げた少年の

母親から文藝家協会へ

十八日午後四時、北海道函館市青柳町五〇渡邊かつ子(四〇)と名乗る婦人が麹町の文藝春秋社に突然菊池寛氏を訪れ文芸家協会に対し金一万円の寄付を申し込み三ヶ年後には右現金全部を引渡しそれまでは毎年利子六百円づつを協会あてに支払ふ事を約束して引取つた

(引用者中略)同女が菊池氏に語るところによれば渡邊家は函館でも知られた資産家であるが昨年十一月十五日(原文ママ)当時函館中学三年に通学して秀才といはれてゐた子息の安次(原文ママ)君(一五)が全く理由のわからない不思議な自殺を遂げたその枕邊に「文藝春秋」のその月号が読み捨てられてあり日頃文学を好んでた関係から何かこの邊からの思想上の理由があったのではないかと推察されるので「親心として伜の冥福を祈るために何か文藝的な社会的の貢献をしたいと思ふので希望としてはこの金には愚息の名を冠し渡邊安次文藝賞金といふやうなものにしていたゞきたい」との事だった、菊池氏はもちろん『御意思に副ふ』旨を答へた」(『東京日日新聞』大正15年/1926年10月20日より)

 大正15年/1926年10月。日本の文学賞がこれまでと違った一歩を踏み出した瞬間でした。

 一人の人間の死と、遺された人間。その状況から、故人を記念するために基金を設けて文学賞金にする、っていう発想が生じました。美術界には「樗牛賞」がありましたが、亡き人を偲ぶ文学賞制度は、それまで日本の文学界には導入されたことがありませんでした。

 それが大正15年/1926年についに誕生します。そして、新しい文学賞の創設に立ち会ったのが、誰あろう、菊池寛さんだった。つうのがまた重要なわけです。

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