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2011年6月 5日 (日)

渡辺賞 菊池寛が「権威ある賞になれば」と期待をこめた、画期的な文学賞の誕生。

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 ちょっと大きく出ます。これまで一年くらいかけて「直木賞のライバル」を取り上げてきました。じつは理由があります。どうしても、この賞に光を当てたかったからなんです。

 直木賞と芥川賞ができる、わずか10年ほど前でした。「日本で唯一の文学賞」と称された賞がありました。渡辺賞といいます。

 いま、この賞を知っている人はほとんどいません。よね? と言いますか、過去も含めて渡辺賞を正確に語ってくれた人は、あまりいません。

「もちろん芥川賞の前に文学賞が全くなかったわけではない。余り人に知られていないが、大正15年に創設され、文芸家協会が年一回、優秀新人に授賞した渡辺賞などがあり、(引用者中略)これは函館の実業家渡辺安治の意志によって基金が文芸家協会に贈られたもので、昭和5年には功労賞に切りかえられてしまったが、選考母体が文芸家協会だけに既に実力充分の見きわめをつけた無難な選考がおこなわれていて、芥川賞のような全くの無名の新人に与えられることもある、という冒険もないが、また失敗もないという賞で、結局長つづきしなかったものと思われる。」(昭和43年/1968年10月・神奈川県立図書館刊『日本の文学賞』 小田切進「日本の文学賞について」より)

 代表として小田切進さんの文章を引用させてもらいました。

 小田切さんは、瀬沼茂樹さんらとともに、不毛といわれた文学賞史研究の世界に、とくに積極的に分け入ってくれた先達です。そのキモさはハンパなく、ワタクシも尊敬しています。でも残念なことに、上記の渡辺賞の説明はちょっと間違っています。

【渡辺賞受賞者・候補者一覧】

 一、二の評論家が間違っているだけなら、まだ我慢もできよう、ってもんです。この賞の主催者は文藝家協会っていうんですが、その後身である日本文芸家協会ですら、公式(?)資料で次のように紹介しちゃっているのですからもう。呆然とします。

「劇作家協会と小説家協会が合併して文芸家協会になったのは大正十五年一月七日のことであった。(引用者中略)この年の十一月八日、北海道函館の実業家渡辺安治の遺志によって一万円の金が寄付され、文学賞として利用してほしいという申し出が文芸家協会にあった。(四、五年の間、利息六百円を毎年送金するという方法であった)協会はこれを受諾して「渡辺賞」を設定し、受賞資格者は会員に限らず、投票選考の上、前年度の優秀な新進作家に贈るということにした。」(昭和54年/1979年4月・日本文芸家協会刊『日本文芸家協会五十年史』「第一部 戦前篇」より 執筆担当:巌谷大四 太字・下線は引用者によるもの)

 ぬ、ぬおう。どうして、ことごとく渡辺賞に無関心な人ばかりなのだ。涙が出てくるぞ。

 そもそも、当時の函館には渡辺安治なる実業家は存在しないのです。さらには、「遺志によって」お金が寄付された、なんて事実もありませんでした。

 以下、渡辺賞の創設経緯を、なるべく正しく伝えるよう努力します。

 まずは時代を明治5年/1872年まで、さかのぼらせてください。

 舞台は北海道函館です。越後国中蒲原郡鳥屋野村で生まれた20歳そこそこの青年が、その年の7月、函館にやってきました。名を渡辺長蔵といいます。

 『北海道人名辞典』(大正3年/1914年11月・北海道人名辞典編纂事務所刊)によりますと、長蔵さんの生まれは嘉永3年/1850年11月。函館に渡ってきた理由は不明ですが、とりあえず、天秤を肩にかついで油売りを始めたそうです。

「初め天秤を肩にして油売をなし孜々として零砕の資を貯ひ稍々資本成るに及んで雑貨米穀商を営み苦闘多年の後金貸業を営み富百万を積み函館屈指の富豪となるに至れり」(『北海道人名辞典』より)

 働いて働いて働いた末に運をつかみ、商売を拡大して大金持ちになりました。やったね、長蔵。

 彼には、少なくとも3人の子供がいたようです。娘(明治21年/1888年生まれ)、息子(明治24年/1891年生まれ)、息子(明治26年/1893年生まれ)。長蔵さんは大正3年/1914年2月に病没しまして、長男の長一郎が家を継ぎます。家督相続を機に、泰邦と改名しました。

 この泰邦さんは、早稲田実業学校から早稲田大学政治経済学科に進んだ渡辺家期待の星。在学中は文学にかぶれ、同人誌に参加し、将来は文壇に打って出ようとの夢を描いていたと言います。

「然し卒業後に於て氏は考慮之れ久しうしたが、暮夜ひそかに、自らの将来を考へた時、自分は文壇人として果して立つべきか、将た又実業界に雄飛すべきか、或は又官界に進出すべきか先づ自らの素質を顧みた、その結果長髪蒼白の文学青年に対しては好意を持つ事が出来なかった。豪毅である処の性格から観て将来の大政治家たらんとした。」(昭和11年/1936年2月・函館名士録発行所刊『函館名士録』より)

 で、函館区会議員になったのをスタートに、函館が区から市に変わってからも市会議員に立候補して当選。それだけではあきたらず、欧米・支那・蒙古・印度などをめぐる視察旅行に出かけて、昭和5年/1930年には衆議院議員に当選。国政で活躍することになります。

 さて、泰邦さんの姉弟はどうしていたでしょう。姉のカツと弟の長太郎は、それぞれ分家しました。カツは安榮という名の男と結婚しまして、函館の地で、父の事業を受け継いで金銭貸付業を営みます。明治43年/1910年ごろには長男を授かり、お金をがっぽり儲けながら順調に生活を送っていました。

 順調かと思われました。

 大正14年/1925年のことです。カツと安榮の長男は15歳となり、旧制函館中学に通っていました。11月5日。その長男が自殺してしまうのです。

 11月7日号と8日号(7日夕刊)、『函館毎日新聞』に下記のような黒枠つきの死亡広告が載りました。

「長男安治儀 急病にて五日午後四時三十分死去仕候間此段生前辱知諸君に謹告仕候

 追而葬儀は来る八日午前十時自宅出棺元町別病院に於て執行仕候贈花等は乍勝手御辞退申上候

大正十四年十一月六日 函館市青柳町五〇

 父 丁(引用者注:原文は「□」の内に「丁」) 渡邊安榮

      外親戚一同」(『函館毎日新聞』大正14年/1925年11月7日号より)

 安治君です。渡辺安治君です。実業家ではありません。中学生です。

 函館に住む裕福な家庭の中学生が、いったいなぜ、何を思って死んだのでしょうか。周囲のだれにもわかりませんでした。

 しかし、「自殺の原因がわからなかった」ことが幸いしました。いや、幸いなどと言ってはいけませんね。ごめんなさい。ただ、安治君、あなたのおかげなのです。あなたが「謎」のまま亡くなったおかげで、日本の文学賞史に、大きな変革がもたらされたのですよ。ほんと、何がどう転ぶかわかりません。

 と言いますのも。遺された両親、カツさんと安榮さん。息子がなぜ死を選んだのかわからず苦しんだ末に、こう考えるようになったからです。……そうだ。息子は文藝が好きだったな。しかも死んだときの枕元には『文藝春秋』が読み捨ててあったじゃないか。そうだ息子の死を弔うに、何か文学に関係することで役立ちたい。……と。

若き霊の記念に

文藝賞金一万円

謎の自殺を遂げた少年の

母親から文藝家協会へ

十八日午後四時、北海道函館市青柳町五〇渡邊かつ子(四〇)と名乗る婦人が麹町の文藝春秋社に突然菊池寛氏を訪れ文芸家協会に対し金一万円の寄付を申し込み三ヶ年後には右現金全部を引渡しそれまでは毎年利子六百円づつを協会あてに支払ふ事を約束して引取つた

(引用者中略)同女が菊池氏に語るところによれば渡邊家は函館でも知られた資産家であるが昨年十一月十五日(原文ママ)当時函館中学三年に通学して秀才といはれてゐた子息の安次(原文ママ)君(一五)が全く理由のわからない不思議な自殺を遂げたその枕邊に「文藝春秋」のその月号が読み捨てられてあり日頃文学を好んでた関係から何かこの邊からの思想上の理由があったのではないかと推察されるので「親心として伜の冥福を祈るために何か文藝的な社会的の貢献をしたいと思ふので希望としてはこの金には愚息の名を冠し渡邊安次文藝賞金といふやうなものにしていたゞきたい」との事だった、菊池氏はもちろん『御意思に副ふ』旨を答へた」(『東京日日新聞』大正15年/1926年10月20日より)

 大正15年/1926年10月。日本の文学賞がこれまでと違った一歩を踏み出した瞬間でした。

 一人の人間の死と、遺された人間。その状況から、故人を記念するために基金を設けて文学賞金にする、っていう発想が生じました。美術界には「樗牛賞」がありましたが、亡き人を偲ぶ文学賞制度は、それまで日本の文学界には導入されたことがありませんでした。

 それが大正15年/1926年についに誕生します。そして、新しい文学賞の創設に立ち会ったのが、誰あろう、菊池寛さんだった。つうのがまた重要なわけです。

          ○

 先に引用した記事は『東京日日新聞』のものです。じつは、他の新聞を見るとちょっとニュアンスが違っていて、そこがひとつ、渡辺賞に謎を生み出しています。

 まず、当の菊池寛さんの文章を見てみましょう。渡辺賞についてこう書きました。

「函館市の某資産家の嫡子渡辺安治君が、一昨年末わづか十五歳の若さで突然自殺された。中学の優等生で、身体も丈夫で家庭も実父母揃つて円満なものであつた丈に、その死は今も尚ほ家族の間にも知己の間にも一つの謎として残つてゐるらしい。従つて肉親の人々が、いつが来ても忘れられないのは尤もである。さう云ふ意味から、安治君の父母から安治君の記念として、文芸賞金を制定することを僕に委託された。安治君が、文学好きの少年で、死のすぐ前まで「文藝春秋」を読んで居られた縁故に依るものらしい。

 とにかく、文芸に対して浄財が投ぜられたのは日本に於て、これが初てである。さうした意味で、かなり感銘してもいゝことだと思ふ。歌舞伎芝居のスワンソングに過ぎない遺物一吉右衛門のために、二百万円を投じて劇場を建てようと云ふ篤志家はあつても、文芸や新しい演劇のために、百円の金を投じようと云ふ篤志家がないとき、かうした文芸賞金の制定は欣ばしいと思ふ。授賞規定は文芸家協会で決定することになつてゐるが、相当権威のある賞金として、文運の進歩に寄与するやうになれば、更に欣ばしいことだと思ふ。」(『菊池寛全集 第二十四巻』「麹町雑記 文芸賞金」より ―初出『文藝春秋』昭和2年/1927年2月号 太字・下線は引用者によるもの)

 まじですか? 函館の金貸業の夫婦が、唐突に文学賞(文学賞金)の創設を思いついて、頼んできたんですか?

 可能性はゼロじゃありません。東京だろうが函館だろうが、当時、海外の文学賞のことは一応、知られていたはずだからです。たとえばノーベル賞とか。

 しかも渡辺家は、ほかの資産家の例にもれず、それまでも慈善事業への寄付などを積極的に行っていました。文学賞の基金としてくれ、って発想が安榮さんやカツさんの頭に湧かなかった、とは断言できません。

 でも、あやしい。何があやしいと言って、ほんとに文学賞金のハナシを先に渡辺カツさんが言い出したのかどうか。当時の新聞記事も、『文藝春秋』に載った文も、けっきょく菊池寛さん一人の証言しかありません。

 安榮さんはどう言っているでしょう。妻が菊池寛にお金を寄付したとき、彼は函館に残っていました。

「文藝家協会へ一万円寄附した青柳町の富豪渡辺安榮氏を訪れる氏は「妻は今月初め上京したのですが行く前に倅安次(原文ママ)の冥福を祈るため寄附したいといつてゐたので一切まかせて置いたからどうなつたかと思つてゐたがでは寄附しましたか……」と語つた」(『函館毎日新聞』大正15年/1926年10月21日「一切妻に任せて有ると 安榮氏語る」より)

 大したことは語っていないんですが、少なくとも「文学賞金のために寄付する」とは言っていません。

 文壇と無縁に生きてきた地方の40代の夫婦ですよ。もしもカツ・安榮夫妻が、これほど細かく文学賞の設計図を描いたうえで菊池寛さんのもとを訪れたのだとしたら、それはそれでエライことです。とりあえず一万円を寄付する。ただ全額を引き渡すのは3年後として、それまでは毎年利息の600円だけを支払う。その利息分で文学賞を運営してほしい、と。

 『東京朝日新聞』では、このあたりの経緯が微妙に異なっています。

(引用者前略)菊池氏は語る

『安治君は函館の資産家の息で非常に文藝好きな少年で学校も常に優等生で身体も極丈夫だったさうで日記を見ても安治君が自殺するに至つた原因が少しもわからないが多分死の神秘にあこがれて死んだら生きて居て解らない事がすつかりわかるといつた簡単な考へから死んだものではなからうかと思はれる』」(『東京朝日新聞』大正15年/1926年10月20日「死んだ息子の思出に一万円 文藝方面に寄付したいと菊池寛氏を訪れた老婦人」より)

 え? 何も知りはしない他人の子供の死んだ理由を、こうも不しつけに推測して心得たふうを装うたあ。さすが菊池さんだ。繊細さのかけらも感じさせない、これでこそ直木賞の創設者たるにふさわしい、と感動すら覚える発言です。

 それはそれとして、ひきつづき菊池さんは説明します。

「一万円の処分については年利六百円づゝを協会員の一般投票で毎年一二月頃新進作家中から人選して贈呈することにするつもりである、まだ協会員一同に相談して見ないが皆異議なく今までに一度も例のなかったこの文藝賞には賛成してくれることゝ思ふ」(同記事より)

 この記事のなかには、カツさんから文学賞のハナシが出たとは書いてありません。

 たしかに一万円を寄付したのは渡辺カツさん(と夫の安榮さん)の意思でした。でも、その使い道は、菊池寛さんのアイディアだ、と読めるんですよねえ。また、そっちのほうがシックリきます。寄付を受けた段階でこれだけ文学賞の構想を語れて、じっさいその通りに運営されたのを見るにつけ。

 しかも面白いことに、菊池さん、渡辺賞が実際に決まる前に文藝家協会の幹事をやめちゃっているんです。そして選考委員の座におさまっています。はじめに斬新なアイディアだけは出すが、具体的にどのようにかたちにするかには関心がなく、すぱっと人に任せてしまう、という。

 のちの直木賞・芥川賞の創設と、ここら辺にも類似性があるんですよね。

          ○

 そうそう。果たして渡辺賞は、どの程度、昭和9年/1934年に構想された直木賞・芥川賞に影響を及ぼしたのでしょうか。

「「芥川賞」「直木賞」も、金額は少いが、日本に於ける文学賞金の先駆となれば、幸いであると思っている。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号 菊池寛「話の屑籠」より)

 文学賞金の先駆? よく言うよ、って感じですが、このボケっぷりが菊池寛さんの身上かもしれません。たった10年弱前に、自分が中心になって設定した企画を完全無視できてしまうところなんぞが。

 大正から昭和にかけて、菊池寛さんの文藝家協会(と、その前につくった小説家協会)に対する情熱は、上がったり下がったりを繰り返していました。

 大正10年/1921年に、小説家協会の結成を画策。

「菊池が大正十年になっていよいよ小説家協会結成に向けて動きはじめたのはなぜか。

 この当時の菊池は純文学、戯曲、通俗小説のすべての分野で成功をおさめ、文字通り順風満帆といってよかった。(引用者中略)忍苦の無名作家時代から、ようやく現在の成功を手にした菊池だけに、「落伍者」となることは最も恐れるところだったはずである。この文壇的淘汰に対する懸念、これが菊池の不安の原点だったのではなかろうか。」(『青山学院大学文学部起要』37号[平成8年/1996年1月] 片山宏行「菊池寛・文藝家協会設立までの経緯」より)

 せっかくつくった小説家協会、でも大した仕事をできないまま数年が過ぎます。関東大震災(大正12年/1923年)を経て、菊池さんの「協会熱」が再燃しました。

「大正十三年頃になって、菊池は小説家協会の再興を考えはじめる。(引用者中略)

この呼びかけに応じるように、片岡鉄兵、加宮貴一、金子洋文、尾崎士郎、横光利一佐佐木茂索、佐々木味津三らが実務係として参加することになった。顔ぶれからわかるように、ほとんどが『文藝春秋』傘下の若手である。また本部も文藝春秋社内となり、小説家協会の再興は、いわば『文藝春秋』を基盤とした新たな文壇の図式の上に進められたと見ることができそうである。」(同)

 その後、渡辺賞を置き土産にして、菊池さんは文藝家協会の中枢から身をひきます。影の支配者、ではあったかもしれませんが、実務は残った面々にまかせて。

 渡辺賞は最初の約束どおり、まずは3年間つつがなく実施されました。そして昭和5年/1930年になり、1万円がまるごと協会の手に入った、かどうかはわかりませんけど、

「最近幹事会を開いたが(引用者中略)渡辺賞は今後四年目に一回金額を増加して与へることになり」(『読売新聞』昭和5年/1930年2月21日「文藝家協会新決定事項」より)

「今年度から右六百円を協会は保管し毎年贈らずに五ヶ年に一回位にして五ヶ年分三千円を一名乃至三名位に贈呈する方法に改めた右は受賞者が一時的に文壇的飛躍を為すが如き場合を考慮し数年に亘って真に実力と文学的功績ある作家に贈呈せんが為であると」(『読売新聞』昭和5年/1930年12月9日「文藝家協会渡辺賞の授与方針変更」より)

 どういうことですか。よしと思って新進作家にあげたら、すぐに駄目になる、そんな文学賞はイヤだ。無難に安全に贈れるよう5年ごとに決めよう、ってことですか。ずいぶん後ろ向きな決定ですな。

 現実、その5年後(4年後?)にはとくに渡辺賞が話し合われた気配はありません。その代わり、文藝家協会をとりまく状況はかなり変わっていました。

 文藝家協会の幹事を務めた直木三十五さんなどが、また別に内務省と接近して、似たようなグループを形成していきます。文藝懇話会です。

 文藝懇話会は、これはこれで昭和9年/1934年2月、何かしら賞金(文学賞)を設けることを考えはじめます。まもなく直木三十五さん死去。

 果たして菊池寛さんの頭のなかに、7年半前、自分のもとを訪ねてきた函館の婦人の姿が思い出されなかったのか、どうなのだか。

 亡くなった人間のことを思って、文学賞金をつくる。渡辺賞は、もやもやっとするなかで消えてしまいましたが、その考え方を日本の風土のなかで受け継ぐ新たな文学賞が、昭和9年/1934年に生まれます。

 直木賞と芥川賞。……この二つの賞が誕生するに当たって、渡辺賞の記憶がほんとになかったのかなあ、少しはあったんじゃないかなあ、と想像は膨らみます。物忘れの激しい気分屋の菊池寛さんはともかく、佐佐木茂索さんだって、渡辺賞の選考委員のひとりだったんですもの。

 渡辺賞から直木賞・芥川賞へ。このバトンタッチについては、まだまだこれからの研究課題です。

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