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2011年5月 1日 (日)

新田次郎文学賞 遺志によってつくられたことと、遺志どおりの賞であるかどうかは、まったく別。

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 去年(平成22年/2010年)の6月以来、いろんな文学賞を取り上げてきました。そのなかで人の名を冠したものは15個。今日で16個目です。

 これまでの15個の文学賞。それに直木賞と芥川賞を加えちゃいましょう。じつはみな共通点があります。

 本日の新田次郎文学賞は、それらとは歴然と異なる意味合いを帯びています。厳然たる違いがあります。

【新田次郎文学賞受賞作一覧】

 それは何か。……「文学賞をつくりたい、と強く思っていた人間の遺志を受けて設定された」ってことです。

 直木賞・芥川賞は、菊池寛さんが賞をつくることを発想しました。両賞だけじゃありません。「直木賞のライバルたち」でもろもろ視点を当ててきた賞は、ほぼ、故人の遺志とは関係のないところでつくられています。

 賞の名前に使われた当人たちは、知らないうちに祀り上げられているだけです。自分の名前の賞に口が挟めないばかりか、夏目漱石さん山本周五郎さんのように、生前、文学賞に対してツバを吐きケツを向けていた人たちまでも、あとに残った人たちの自分勝手な欲望のエジキとなってしまっています。

 ところが新田次郎文学賞は違うのです。新田次郎その人が、「文学賞があったらいいな、文学賞をつくりたいな」と切望していたことが、創設の根本にあるのです。

「「オレが死んだら、文学賞をほしいなあ、いい後輩を育てるために……」

 そう云い残した言葉が、頭の中をぐるぐると廻る。

 夫は、直木賞の選考委員をつとめていたが、ひたすらに後輩を育て上げるという観点から、その任に当っていたように思われた。力のある人を選び出して、その人に賞をあたえることによって、その人はよりいっそうの新しい力を出して伸びてゆくものだと、信じていた様子である。(引用者中略)

「あなた方、オレの文学賞を手つだってくれないかなあ……たのむよ……」

 夫は、仲よしの編集者によくこんなことを云っていた。多分、文学賞を私一人の手で作り上げることは困難だと判断しての言葉であろう。」(昭和56年/1981年4月・新潮社刊 藤原てい・著『わが夫新田次郎』「文学賞の設立を思う」より)

 新田さんが急逝したのは昭和55年/1980年2月。67歳でした。

 そこから妻の藤原ていさんが中心となって、文学賞をつくろうと活動を始めて、運営母体となる財団法人を設立。文部省から認可が下りたのが、新田さん没後まる1年たつ直前の、昭和56年/1981年2月のことでした。

 ていさんいわく「夫の希望していたような文学賞を作り上げようとひたすらに思いつめた」。ってことですから、新田賞の姿を見ることで、新田さんがどんな賞を望んでいたのかが、多少は推測することができそうです。

 たとえば、候補作は非公表、なところとか。

 新田さんがかつて、サンデー毎日懸賞や直木賞のときに、候補作一覧に自分の名前が入っていることで俄然興奮した、っていうのはよく知られているところです。そんな新田さんなら、候補が公表されることの功罪のうち「功」の重みも、じゅうぶん実感されていたと思うんだけどなあ。それが新田賞では封印されてしまっているのは、残念至極です。

 宮城谷昌光さんのエッセイ(『春秋の色』所収「君今酔わずして」)などを読むかぎり、候補者にはいちおう、事前に連絡は行くみたいなんですけど。飯尾憲士さんのように(いや、その年譜をつくった楜沢健さんのように)、自発的に証言してくれない場合は、永遠に候補者リストは不明です。

 ただなあ。作家は褒められてやる気になる、つうのは新田さんの身に染みた経験だったでしょうからねえ。褒めることに特化した賞にしたのは、自然なことかも。

「外部の批評には以前ほど神経をとがらせなくなったが、やはり気にはしていた。このころ「読売新聞」の大衆文芸時評を吉田健一さんが担当していた。私はこの場でしばしば讃められた。(引用者中略)不思議なもので讃められると、更にいいものを書いてみようという気になる。これは、児童の心理と全く同じようなものだ。」(昭和58年/1983年4月・新潮社刊 新田次郎・著『完結版新田次郎全集第十一巻』所収「小説に書けなかった自伝」より ―初出『新田次郎全集月報』昭和49年/1974年6月~昭和51年/1976年3月・新潮社刊「自伝・私の小説履歴」)

 「ケナす選評」は省きたい。それなら落選すると決まっているいくつかの候補作を、わざわざ発表することもない。そんな判断なのかもしれません。

 ただ、ワタクシたちは新田次郎さんが具体的にどんな言葉で、文学賞設立の夢を語っていたのか、直接には知りません。先ほど、ていさんが何度も耳にしたっていう「いい後輩を育てるため」なる言葉を紹介しました。「いい後輩」。けっこう漠然とした表現です。受け取り方次第で、かなり幅があります。

 たとえば、サンデー毎日懸賞の主催者、『毎日新聞』は、この賞が設立されたときに、こう書きました。

「新田さんは、生前から「私が今日あるのは『サンデー毎日』の懸賞小説募集で『強力伝』を認めてもらったおかげ。機会がきたら後進に道を開きたい」と文学賞の設定を計画。」(『毎日新聞』昭和56年/1981年2月7日「「新田次郎文学賞」 「後に続け」遺志生かし 財団法人が、きょう発足」より)

 これはどういうことですか。文学賞っていろんな形態があります。サンデー毎日懸賞や直木賞、あるいは吉川英治文学賞。それぞれ仕組みも目的も異なります。もし、ほんとうに新田さんが「サンデー毎日懸賞」が果たしたような意味で、「後輩を育てたい」と思っていたのだとしたら、どうでしょう。まず公募型の賞にしなければ、遺志の半分ぐらいは無視しちゃうようなものです。

 あるいは、直木賞みたいなものをつくりたい、と思っていたかもしれません。デビューした後の作家に声援を送るかたちの賞。しかも、ベテランというより限りなく新人に近い人たちを対象に。事実、新田賞は当初、「新人賞」と受け取られていたフシもあります。

「大衆文学の分野で個人の名を冠した文学賞は、直木賞、吉川英治文学賞のほかに、江戸川乱歩賞、横溝正史賞、大佛次郎賞、新田次郎賞などがあり、これらは新人賞的性格が濃い。」(『朝日ジャーナル』昭和58年/1983年4月29日号 尾崎秀樹「文化ジャーナル 文学」より)

 既成作家を対象にする賞、となると、当然新田さんの頭のなかに直木賞の存在がなかったはずはありません。昭和53年/1978年下半期、第80回から直木賞の選考委員に就いているわけですし。もしも直木賞が、新田さん自身の考える「後輩を育てるための賞」に合致した性格・性質だったら、どうだったでしょう。「自分が死んだあとに、新しい文学賞をつくってほしい」などと熱望するんでしょうか。

 既存の文学賞に何かしら飽き足らないものを感じていたからこそ、新しい文学賞をつくりたかったのではないか。そう想像してみたくなります。

 では、新田さんは、直木賞のどの辺りに満ち足りないものを感じていたのか。彼の書いた選評をもとに、ちょっと考えてみることにしましょう。

          ○

 と、書いてから小一時間。新田次郎さんの直木賞選評の載った『オール讀物』を、本棚(っていうか本の積んである場所)から見つけ出すのに手間取りました。くたびれました。

 ええと、本来なら第80回~第82回、新田さんが参加した全3回分の選評を、全文引用したいところです。そうすれば、新田さんの律儀なところ、また作品の長所だけ引っ張りだそうとする姿勢を読み取っていただけるとは思うんですが。

 第80回(昭和53年/1978年・下半期)では、冒頭まず、直木賞選考の方法の説明から入っています。

「私にとって直木賞選考委員会は初体験だった。第一次選考ではまずそれぞれの候補作品を残すか落すかについて各選考委員の意見が求められた。第二次選考では残すことに決った作品について、一つ一つ内容について審議され、そして第三次選考において多数決により、直木賞が決定した。この間二時間を要したのは候補作品が全部力作だったから、どれにするか決めかねての議論が続いたからである。」(『オール讀物』昭和54年/1979年4月号 選評「力作ぞろい」より)

 最初に前提から説明して、その後、自分の意見を語る。なかなか律儀な方です。

 この回、新田さんが推したのは、阿刀田高『冷蔵庫より愛をこめて』、安達征一郎『日づる海日沈む海』、小関智弘「地の息」の3作。褒めています。対して受賞作2つを含めた他の候補作に関しては、くわしい言及を避けています。

 ひょっとすると、初参加の直木賞で、自分の推したいものが拒否されたこと。これが別の新しい賞をつくりたい、との欲求をさらに高めた一因かもしれませんね。……などと、これは完全なる想像ですが。

 で、この選評の締めはこんな感じ。

「残念ながら以上の三作は推す委員が少なかったから落ちてしまったが、力作ぞろいのときには止むを得ないことだと思っている。この三作だけではなく当選作を含めた他の五篇もすべて玄人の域に達しており、優劣の差が際立って見えるというものではなかった。」(同号より)

 受賞作も候補作も、そんなにレベルが違わないぞ。落選作のなかにも、受賞作に劣らない作品・作家はいるじゃないか。……そんな実感は、次の選考会でも、きっと新田さんのなかで重く蓄積されたにちがいありません。

 その第81回(昭和54年/1979年・上半期)の選評。

(引用者注:受賞2作以外の)他の六篇の作品は、やはり候補に上っただけあって、みな水準以上のできばえのものばかりであった。当選作二作と比較してその評価の差は僅少であった。次回の捲土重来を切望する。」(『オール讀物』昭和54年/1979年10月号 選評「直木賞に新風」より)

 ふたたび妻のていさんの回想をお借りしますと、直木賞選考にあたる新田さんの姿は、こんな感じだったそうです。

「沢山の候補作品を細かく読み上げ、アンダーラインを引き、その個所を比較検討し、自分が納得するまで、選びぬいていた。」(前掲『わが夫新田次郎』より)

 ここまで検討し尽くした末に、選考会に臨んだところで、自分の納得した結果になるとは限りません。まあ、自分が推さなかった作品が受賞するならまだしもです。あろうことか、直木賞といえば新人作家に勇気と希望を与えるもののはずなのに、だれにも受賞させないで終わる、なんていう醜態すら経験させられます。新田さん参加3回目のことでした。

「最後の最後まで残った「革命商人」(深田祐介)は、(引用者中略)企業小説として文句のない出来栄えだった。六篇中もっともよく人間が書けていた。描写も勝れていた。特に企業を巨大な人間像としてとらえた点に感服した。これこそ直木賞だと予想していたが、いざこの作者に賞を与えるかどうかになると意外に多くの反対意見が出て、論争になり、やむなく決を採ったところ五対三で、直木賞は見送りとなった。私はこの作者が近いうち、更に勝れたものを書いて捲土重来、間違いないことを確信している。」(『オール讀物』昭和55年/1980年4月号 選評「予想はずれ」より)

 新田次郎文学賞は創設以来30年、一度も「授賞作なし」がありません。そこに、新田さんの思いが息づいていると信じたいところです。何だかんだ難はあろうが、賞は作家に力を与えるもの。一人でも多くにその体験を味わわせてあげるのが、賞の存在価値なんじゃないか、と。

          ○

 新田賞が創設されたのは、もちろん、妻・藤原ていさんの活躍と思い切りがあったればこそ。それはそれで尊重すべきだと思います。

「残された金額の全部を基金へつぎ込むことを私は主張した。夫の希望をかなえるために、残したお金を使うのは、当然のことだと考えたからである。

 しかし、関係してくれた人達はそれに反対した。私の年齢を考えて、これから一人で生きてゆくためには、多少は手許に残しておくようにと注意をしてくれた。(引用者中略)周囲の人達の言葉を聞いて、遺された金額の中から、私の生活費だけを、取り除くことに決心をした。」(前掲『わが夫新田次郎』より)

 財団法人の設立認可がおりると、ていさんは7,000万円近い新田さんの遺産を、財団へ寄附します。

「この行為を愛情物語りであるとか、物好きだとか、批判する人はいる。しかし、どのような声があっても、そうした言葉を聞く耳は私は全く持ってはいない。」(同書より)

 文学賞、なんちゅう嘲笑や軽蔑の対象になりがちなものに、ぽーんとお金をなげうった遺族の人たちの行為は、得がたいものとして、ワタクシは忘れますまい。

 で、そのことと、新田賞の今の立ち位置や運営姿勢とは、またハナシが別です。

 今のままでイイのか、新田賞! とつい声をかけたくなってくるんですね。

 長部日出雄さんなどという直木賞とって10数年のベテランに受賞させたころ(第6回)から、オヤオヤ、とは思っていましたけど。

「昭和六十三年六月二十七日には第七回新田次郎文学賞贈呈式があったが、『ハラスのいた日々』の中野孝次氏と『F1地上の夢』の海老沢泰久氏のふたり受賞だった。この賞も亡くなった新田さんの遺志を奥さんの藤原ていさんがついで、回をかさねるにしたがって、賞の性格もはっきりしてきて、文学賞のおおいなかで特徴のあるものになってきた。(平成1年/1989年9月・三一書房刊 三木章・著『わがこころの作家』所収「人間は謙虚で庶民の典型 十余の職を転々、作家になった半村良氏」より 太字・下線は引用者によるもの)

 ふーむ。「賞の性格もはっきりしてきて」ですってよ。どうはっきりしたんだろう。

 新田賞は、デビューまもない作家とか、文学賞を受けた経験の少ない作家とか、そういう人に絞って贈呈したらいいのに。創設の意図……もっと言っちゃえば新田さんの遺志(から類推される思い)からすれば、そういう性格のほうをはっきりさせればいいのに。どうも違うみたいなんですよねえ。作家や編集者たちの意図は。

 去年の新田賞では、選評担当の阿刀田高さんが、こんなドギモを抜くほど絶妙な表現を使ってくれました。

帚木蓬生さんはすでに充分過ぎるほどの実績を担う作家である。新田賞は中堅どころの作家に「さらに頑張って!」と応援を送ることを第一義として設けられた文学賞である。だから帚木さんがそれに適うかどうか、議論はあったが、これまでの作風とはちがったタイプに挑戦した、という点がプラス要因となった。

 その一方で故・新田次郎さんが強く願った新鋭への“後押し”のようなものを松本(引用者注:松本侑子)さんにそえて賞のバランスを取った、というのが実情である。」(『小説新潮』平成22年/2010年6月号「第二十九回新田次郎文学賞決定発表」 阿刀田高「選評 賞としてのバランス」より)

 さすが組織のトップに立つ人っていうのは、他人を不愉快にさせない心配りの効いた文章をお書きになるんですなあ。

 しかし、何ですか。阿刀田さん。ほんとですか。「新田賞は中堅どころの作家に「さらに頑張って!」と応援を送ることを第一義として設けられた」って。そのあとの文章と併せて読むと、つまり新田賞とは新田さんの願いをそのまま反映させた賞ではなかった、と言えるわけじゃないですか。これはこれは。驚きました。

 新田賞は中堅作家向けの賞。うええ。これはイヤだなあ。やけに文学賞ピラミッドが意識されているようで。そんな断言しないでくださいよ、阿刀田さん。悲しくなるじゃないですか。

 日本の文学賞、とくにエンタメ向けの賞のなかでは、新田賞は数少ない「遺志によってつくられた賞」なんですから。遺志の強く反映された賞であってほしい、と遠くから祈るばかりです。

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