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2011年4月10日 (日)

サンデー毎日大衆文芸 権威であり登龍門であり、作家を志す者のあこがれ。直木賞の先行型。

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 直木賞は大衆文芸の賞です。

 と、さっくり言っちゃえば、ああそうなの、で素通りしてしまいそうな一文です。でも、じっくり見つめてみましょう。じつは、この一文のなかには、さまざまな道のりや、信念や、混乱が無限に広がっているらしいんですよね。

 時代を巻き戻します。直木賞ができたのは昭和10年/1935年。そのきっかけになった直木三十五の死が、昭和9年/1934年。そこから、ほんの8年だけさかのぼります。

 大正15年/1926年。

 前年から白井喬二さんを中心に一つの同人誌が計画されていました。その『大衆文藝』創刊号が発刊されたのが、この年の1月1日付。大衆文芸にとって記念すべき年、とも言われます(って、結構、記念すべき年はいっぱいあるんですけど)。

 『大衆文藝』誌は新聞広告などもチラチラ出します。ついに大衆文芸陣営による文壇なぐり込みが始まったわけです。

 ほどなくして3月。白井さんのおかげで売れ行きを立て直してもらった『サンデー毎日』誌が、ひとつの懸賞募集記事を載せました。

 懸賞そのものは、当時から新聞雑誌の定番企画でしたから、別段、目新しくもありません。そこに「大衆文芸」の名を用いたこと。これが『サンデー毎日』の偉いところでした。

【サンデー毎日大衆文芸入選作一覧】

 大正15年/1926年3月7日号の表紙に、やや大きめに「千五百円懸賞 大衆文藝募集規定」の文字が躍ります。

 ところで大衆文芸って何ですの? そんな読者からの声なき声に、『サンデー毎日』はその募集記事で、単純明快に、こう解説してくれました。

「左の規定に依て『大衆文藝』創作の募集をします、翻訳を除く外新講談、探偵小説、通俗小説等構想は随意ですがサンデー毎日に掲ぐるものとして、興味本位のものを望みます」(「懸賞「大衆文藝」作品募集」より)

 新講談ってごぞんじですか? まあ何でもいいけどとにかく読者が食いつくようなもの送れ、ってことでしょうか。

 何でもいい。……ここが「大衆文芸」にとっての、始動直後にして重要な岐路だった。……と見えるのは、あとから歴史を追う者の勝手な見立てなんでしょう。まあ続けさせてください。

 じっさい「大衆文芸」という言葉には、大きく分けて二つの軸があります。

 ひとつは文学運動を指す姿です。

「大衆文芸が通俗文学とその本質を異にしている最も顕著なる特徴の一つを、我々は大衆文芸の積極的なる理論のうちに見出すことができる。言い換えると大衆文芸が明確なる文学運動として発足しているところにこそ、すなわち文学上における新しい主張と若々しい情熱とをもって、長い文学の歴史の上にその未だ現われなかったところのものを提唱し、樹立し、完成しようと意図したところにこそ、大衆文芸の真に大衆文芸たるの面目がみられるのである。」(昭和48年/1973年7月・桃源社刊 中谷博・著『大衆文学』所収「理論家としての白井喬二氏」より ―初出『大衆文藝』昭和16年/1941年1月号)

 通俗小説、読物文芸、新講談、そういった類の言葉と、大衆文芸とは何が違うのか。明確なる文学運動としてスタートした点なんだそうです。

 たしかに白井喬二さんは、大正13年/1924年ごろから意識的に「大衆」という言葉を、随筆などで使用し始めていたらしい。その結晶が大正15年/1926年の『大衆文藝』誌創刊につながるのだと。

 しかし、仮に白井さんが、大衆文芸の確立者であって、初期にあらわれた随一の理論家だったとしてもですよ。「おれたち、大衆文芸やるぜ」と宣言して、ババーッと広がるのであれば、苦労はありません。いくら大正デモクラシーだの、民衆たちの意識が高まっていただの、そんな時代背景があったとしても、です。

 白井さんの言うことに、ほんとうに「大衆」が耳を傾けたのか。それは疑問でしょう。

 さあ、そこで第二の「大衆文芸」のお出ましです。第二といいますか、こっちのほうが時代としては先だったみたいですけど。

 マスコミ用語としての「大衆文芸」ですね。

 別名、レッテルとも言います。商売のための分類、でもあります。あれですか、「Jブンガク」みたいなものですか。とりあえず新奇な言葉を名づけちゃえ、そしたらバカな大衆どもが目を向けてくれるだろ、みたいな感じです。

 そもそも「大衆文芸」なる言葉の発生源には、長く長く、それこそ直木賞ができる前から長ーく伝えられてきた伝説があります。『講談雑誌』の編集者、生田蝶介さんが広告文を書くときに、はじめて「大衆文芸」を使ったのだと。ね。宣伝の観点から発生した(と言われている)のが、すごく興味ぶかい。

 白井さんも思い出しています。

「ぼくは新しい文学を唱えるにあたって、従来の国民、人民、民衆という呼び方は上から見下ろす語気を感ずるので、彼我平坦に立つ言葉として「大衆」をえらんだ。「大衆文芸」と四字にまとめたのは恐らくマスコミであろう。」(昭和58年/1983年4月・六興出版刊 白井喬二・著『さらば富士に立つ影 白井喬二自伝』「二十一日会と『大衆文藝』」より)

 ええと、マスコミ語としての「大衆文芸」。この場合は、大衆文芸がどんな作品を指すのか、どんな文芸ジャンルとして発展していけばいいのか、などはとくに関係ありません。くくることが第一の目的ですから。

「そのときの生田はこの〈大衆文芸〉という語を明確な問題意識で用いたわけではなかった。それ以前には〈民衆文芸〉という言いかたもあった。生田はその辺から漠然と、雑誌の目次コピー用に民衆を大衆と一字だけ取り替えて、〈大衆文芸〉なる語を発案した。」(平成17年/2005年11月・筑摩書房刊 大村彦次郎・著『時代小説盛衰記』「第四章」より)

 大村さんもバッサリ書くなあ。ほんとに明確な問題意識なかったのかいな。

 ただ、たとえば次のような新聞記事とかを読むと、ああ、ジャーナリズムの人にとっちゃ問題意識もクソもなかったんだろうな、という感じは伝わってきます。

「「大衆」は時代の合ひ言葉だ。今や大衆は、奪はれてゐたすべての権利、圧へつけられてゐたすべての欲求を奪還し、充足し始めた。文学もその例にもれるはずはない。」(『東京朝日新聞』昭和4年/1929年6月27日「文芸盛衰記 新興文学の巻(十五)新興大衆作家の群」より)

 大衆が読むもの、これすべて大衆文芸。乱暴です。大ざっぱです。「大衆」の響きだけをお借りして、何かが語られた気になってしまいます。

 何でもかんでも「大衆文芸」と呼ばれはじめました。それを提唱者の白井喬二さんらは黙して受け入れてしまいました。そこから大衆文芸の衰亡は始まった、と中谷博さんは言っています。

 そう。昭和になって何年かするうちには、「大衆文芸」って何を指すのか、早くもわからなくなってしまっていたのでした。

 その原因の一端を担っていたのは、確実に『サンデー毎日』でした。なにしろマスコミの一つです。機敏に「大衆文芸」の語に飛びつく先見性を持っています。「大衆文芸? 何でもいいじゃん」と言い放つぐらいの、無節操さも合わせ持っていました。

 こうして大衆文芸は、昭和10年/1935年に突入していきます。

          ○

 さて、ここで。大衆文芸に果たした『サンデー毎日』の功績を繰り返すのは、あまりにしつこいので、やめときましょう。事あるごとに『サンデー毎日』と千葉亀雄さんに感謝しすぎて、褒め疲れました。

 いちおう、過去、サンデー毎日やその入選者に触れたエントリーを参考までに。

 昭和10年/1935年当時の「サンデー毎日大衆文芸」について、よく知っている方の回想を引用しまして、直木賞に比して何ら遜色のないその権勢ぶりを紹介するにとどめます。

 カモン、源氏鶏太さん。

「「サンデー毎日」大衆文芸に応募、「あすも青空」が佳作入選し、活字になったのはその翌年(引用者注:昭和10年/1935年)であった。

 当時、「サンデー毎日」大衆文芸は、最も権威があった。ある意味で大衆文壇への登竜門のように思われていた。(引用者中略)

 入選すると、「毎日新聞」の殆んど一頁をつかって、そのことが紹介されるので、当時の文学青年にとって、入選することが最大の喜びと光栄であったといってもよかろう。私は、先にも書いたように、一生サラリーマンとして終るつもりであったが、生涯に一度でいいから「サンデー毎日」に入選し、そして、「オール讀物」に作品が掲載されることが夢であった。」(昭和50年/1975年11月・集英社刊 源氏鶏太・著『わが文壇的自叙伝』所収「わが文壇的自叙伝」より)

 権威。登竜門。夢。マスコミに紹介されてイイ気持ち。……ううむ。直木賞ができる前は、サンデー毎日大衆文芸がここらの役割をしっかり担っていたんだな、ってことがわかります。

 直木賞も、じつは最初は(第1回の受賞が決まるまでは)、サンデー毎日大衆文芸と似たような路線を姿に見せていました。

 直木賞ははじめ、一般からも原稿を募ったんですが、このとき、サンデー毎日常連組の何人かが、直木賞向けに応募していたわけですし。

 さらには『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号に載った、記念すべき直木賞規定。とくとご覧ください。

「『大衆文芸』とあるのは題材の時代や性質(現代小説・ユーモア小説等)その他に、何等制限なき意味である。」

 何か、『サンデー毎日』のいう大衆文芸と似ているでしょ。

 これについて、長谷川泉さんは大きく想像をふくらまして、エラいところまで到達しちゃっているんですが。

「「直木賞」作品そのものにも、SFや、私小説的傾斜や、実録的な傾斜や、歴史小説や、現代小説や、ポルノ風の風俗小説や、規準軸の体系の混淆はあるにしても、さまざまな縦・横軸の蕩揺はある。そのことは、直木三十五という文壇における特異な才能が開花してみせた拡がりである。「直木賞」は、血刀を杖に立つ直木三十五の心霊を受けているかのごとく見える。」(昭和52年/1977年6月・至文堂刊『国文学解釈と鑑賞 臨時増刊号 直木賞事典』所収 長谷川泉「直木三十五と「直木賞」の風雪」より)

 まじですか? ええ、ワタクシも直木賞の、いろんなジャンルに手を伸ばすとこ、枠におさまらないとこ、テキトーなとこ、大好きです。でも、それが「直木三十五の心霊を受けているかのごとく見える」とは……。長谷川さん、視力だいじょうぶですか。

 軸の蕩揺は、直木三十五さんの専売特許じゃありません。ワタクシは思います。「大衆文芸」の語を、都合のいいように解釈してしまう、マスコミ的な「大衆文芸」観が、その根本にあったのだと。もっと推し進めて、『文藝春秋』的、と言っちゃってもいいと思います。

 だって都合よすぎませんか? たかだか「大衆文芸」なる考えかたが生まれて10年。その言葉が生まれて10年ですよ。なのに、「大衆文芸って一作だけで決められないよね、作家として何年かの業績をもってしか優劣判ぜられないよね」だなんて。若々しい文学運動の人たちの発想とは、とうてい思えませんよ。根拠もあいまいだし。

 でも、この根拠薄弱なところが直木賞です。直木賞の魅力です。

 そして、言葉だけが一人歩きして、あとはどうとでも解釈されてしまう。「大衆文芸」の魅力でもあります。直木賞と大衆文芸。やはり不可分な関係です。

          ○

 最後は、ちょっとハナシが逸れます。いつものことですが。

 「大衆文芸」って言葉は、いつだれが最初に使ったのか。その難問の件です。

 今までのところ、「これだ!」と断言してきた人はあまりいません。ワタクシも断言できません。伝聞だったり、人の文章を参照することしかできないからです。

 おそらく断言しているのは、笹本寅と大村彦次郎とwikipedia、ぐらいでしょう。

「「大衆文藝」なる言葉が、最初に、公に使用されたのは、大正十三年春、「講談雑誌」の目次の扉に、「見よ、大衆文藝の偉観!」と広告文にあらはれた時だつた。」(昭和9年/1934年3月・橘書店刊 笹本寅・著『文壇手帖』「白井喬二の巻」より ―初出『時事新報』昭和7年/1932年7月)

 言い切っています。自信満々です。

「まづこの大衆文学なる名称の適否のせん議であるが、その前に一体この語はいつ頃から用ゐられ始めたかを調べて見ると、存外古くずつと震災以前にさかのぼるらしい。当時博文館にゐた生田蝶介氏が講談雑誌か何かの新聞広告に用ゐたのが最初ではないかといはれる。(大佛次郎氏談)」(『東京朝日新聞』昭和3年/1928年4月14日 木村毅「大衆文学談議」より)

 ほお。大佛次郎さんも証言しているのか。

 で、上の笹本寅さんの文章に真っ向、異をとなえた人がいます。八木昇さんです。

「通説に拠れば、大正十三年春の「講談雑誌」の目次扉に「みよ大衆文芸の偉観」と印刷されたのが文献上の初見と見做されてきたが、実証の結果、この説があてにならなくなり、混沌としている。(引用者中略)筆者が更めて調べた結果、笹本寅等のいう事実はないことが判明した。春という漠たる言葉を拡大して大正十三年一月から六月号のどの目次扉をみても、右にいう文章は一言半句も見出し得ない。」(昭和53年/1978年3月・白川書院刊 八木昇・著『大衆文芸館』所収「「大衆文芸」の名称起源」より)

 こうまで言ってくれているのに、いまだ一般的には笹本説は覆っていないんですね。どなたか覆してくれませんか。いや、「『講談雑誌』の何年何月号にたしかに載っている!」と確定させてくれるのでも、いいんですけど。

 大正13年/1924年より一年さかのぼりまして、関東大震災が起こる前。少なくとも大正11年/1922年から大正12年/1923年の新聞広告では、盛んにこの「見よ!~」の宣伝文が使われていたことは確認できます。『講談雑誌』(博文館)と、その競合誌『講談倶楽部』(講談社)が、競うよう に、見よ見よ、言っています。

「見よ見よ本号の四大眼目」(『講談雑誌』2月号広告 『東京朝日新聞』大正12年/1923年1月10日)

「見よこの大飛躍!読めこの大読物!」(『講談雑誌』4月号広告 『読売新聞』大正12年/1923年3月12日)

「見よ!講談落語界の本家本元本誌の目覚しき活躍振り」(『講談倶楽部』7月号広告 『東京朝日新聞』大正12年/1923年6月10日)

「見よ!復興の気運漲る本誌の大盛観!!」(『講談倶楽部』新年号広告 『読売新聞』大正12年/1923年12月27日)

 ここまで見てもらいたがっていたのに、なぜ今となって、初見すら確認できない状況になっているのか。悲しいぜ、講談読物の雑誌たちよ。

 広告を見た感じでは、「偉観」という意味では、『講談雑誌』より『講談倶楽部』のほうがずらっと作家名・作品名を多く並べていて、元気あるなあと思わされます。実際、『講談倶楽部』は『読売』の広告で「四月号の偉観」(大正12年/1923年3月9日)なる文言を使用していますし。

 見つかるとしたら、やはりその1、2年間のどこかでしょう。いや、やっぱり八木昇さんの推察するように、笹本寅さんの記憶間違いで、そんな宣伝文は存在していないのかも。いやあ、伝聞による説、つうのは真偽の見極めが果てしないなあ。

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