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2011年3月13日 (日)

芸術選奨文部科学大臣賞・大臣新人賞 受けるのに「後ろめたさ」を感じる人がいる、歴史の重み。

110313

 先日、3月11日に文化庁から第61回芸術選奨の受賞者が発表されました。

 平成23年/2011年3月11日。この日は、芸術選奨発表などとはまったく別の重大なことが起こった日として、今後永らく日本人のあいだで語り継がれることと思います。

 ただし、うちのブログは、うちのブログとして本来の趣旨を踏み外さないことを守ります。直木賞とそのライバル賞に目を向けて、ツッコんで、笑うのみです。

 さて、芸術選奨。正式に言いますと、芸術選奨文部科学大臣賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞。漢字ばっかですね。

 「文部科学大臣」なる名称を含むその賞名が示すとおり、運営主体は国家です。今は文化庁がやっています。かつては文部省が主催していました。

【芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)受賞者一覧】

【芸術選奨文部科学大臣新人賞(文学部門)受賞者一覧】

 とりあえず文学部門にだけリンクを貼りました。他にも、現在、全11部門あります。それらのリストへのリンクは、当エントリーの最後にまとめて付けました。おひまなら、ご興味のある部分を、適宜ご参照ください。

 国家の関与する文学賞。……そうです。そこには明治以来、どす黒い歴史が横たわってきました。

 文学賞とは何でしょう。ひとがひとの作品を選別し、いいものを褒め称える。それだけで済めば素晴らしいんですが、残念なことに余計なモノがくっついてきます。

 お金を上げる、記念品を上げる。受賞者は持てはやされ、脚光を浴び、「○○賞作家」の肩書きが付き、世間から尊敬され、そういう人はまた何年かすると選別する側の役割を任されやすく、権威や権力と結びつき、名声を得る。……ロクなもんじゃありません。文学賞。

 そこに「国家が関与」のドラが乗っています。ロクなもんじゃない度、さらに倍、です。

 「作家たるもの、国家に飼い慣らされてどうする」みたいなハナシが出てきます。政治的な主義がどうこう、そんなことに税金を使うとはどうこう、……と受賞作の出来・不出来とは別の観点で、物を言い出す人が増えるわけです。

 明治期にも一回だけ文藝選奨が行われました。そのときを体験した正宗白鳥さんは言います。

「面白いのは、我々が賞金を贈与されるとか、洋行費が貰へるとかいふ噂が立つと、「彼等の愚作に対して、国民の膏血の結晶である租税の一部を割いて賞金を与へるのは怪しからん。」といふ非難が、何処からともなく、私などの耳にも入つたことだ。成程国民の膏血で小説なんかを肥さなくつてもいゝ訳だ。私など、そんな文句のついた金をあの時貰はなくつてよかつた。

 そこへ行くと、「文藝春秋」社の芥川賞や直木賞は、与ふる方も貰ふ方も、後目たいところがなくつて、気持よく授受し得られるだらう。」(昭和60年/1985年9月・福武書店刊『正宗白鳥全集19巻』所収「文学賞金」より ―初出『読売新聞夕刊』昭和10年/1935年8月17日「一日一題」)

 ほお、そうなんですか。直木賞・芥川賞。おカネの面では、たしかに後ろめたくないかも。

 でもなあ。やれ「文春の宣伝に過ぎない」、やれ「文春の手先を増やすための茶番」と、今でも攻撃され続け、果たして「気持ちよく授受」できるものかは、ワタクシはわかりません。

 ちょうど直木賞・芥川賞ができる頃、昭和9年/1934年に、文藝懇話会賞という賞ができました。これも国家の手垢のついた賞です。第1回のとき、警保局長・松本学さんが難色を示したのが原因で、プロレタリア派の島木健作さんへの授賞を見送った、みたいな事件を引き起こします。

 良識ある人たちは、鬼の首をとったかのように吠えました。「ほら、国家が関わると正しい作品評価などできないんだ」とか。「文藝懇話会と言いながら、そのカネはどこから出てるのだ、国じゃないのか、そんなもの嬉しがってもらう奴は、ホンモノの文士じゃねえや」などなど。わんさか野次が浴びせられました。

 しかも、ですよ。そんな国家の言うままに付いていった結果、戦争はボロ負け。

 明けて昭和22年/1947年。もうさすがに、作家たちの自由にさせてもらえるでしょ。と安心した(?)のも束の間、早くも国家による文学賞の動きが、むくむく起こり始めます。

 その不穏な動きにピピーンと拒絶反応を示した作家がひとり。隠れ文学賞マニアの中野重治さんでした。

「役人は隠しごとが好きだから、知らぬ人も多かろうが文部大臣賞というものがある。あるいは出来ようとしている。映画、演劇、音楽、文学、そういうものにたいし、その「いいもの」をえらんで、文学なら文学の発展をはげますため文学文部大臣賞をくれようというのである。予算の総額は十万円、文学の賞は金一万円である。国民の生活を破壊し、国民の文化を破壊し、国民の文学を頽廃と足踏みとにみちびいている今の政府の文部省、世界に恥をさらしたあの歴史その他の教科書の元締である文部省が、その大臣の名で文学賞を出そうというのである。」(昭和54年/1979年3月・筑摩書房刊『中野重治全集12巻』所収「文部大臣賞と文藝家協会」より ―初出『アカハタ』昭和22年/1947年12月18日~19日)

 中野さんの説明によれば、この文部大臣賞、文部省の芸術課員から日本文藝家協会に推薦作品を選定してほしいと依頼が来たのだそうです。内々に。中野さんは協会の常任理事だったんですが、んなことできるか!と猛反対。

 しかし、昭和22年/1947年11月。中野さんが欠席した常任理事会で、こんな決定がなされちゃいます。

「今般文部省より文部大臣賞設定に当りこれが銓衡推薦に就いて当協会に対し依嘱の申入れがあり去る十一月十四日の常任理事会において種々協議の結果文部省に協力すべく決定いたしました。」(同「文部大臣賞と文藝家協会」より 太字下線は引用者)

 出席した理事のうち、反対したのは佐多稲子さん一人だったそうです。

 文部省の芸術課。っていうのは戦後できた部署でして、初代課長が今日出海さんです。彼の発案で、昭和21年/1946年から年一回、芸術祭なるイベントを始めたばかりでした。昭和22年/1947年、今さんに替わって芸術課長の座についていたのは、檜垣良一さんです。

 当時、昭和22年/1947年の段階で、文部省には選奨費なる予算があったことがわかっています。その費用の具体的な施行策が、「映画、演劇、音楽、文学などへの文部大臣賞」として計画されていたわけですね。

 ただ、少なくとも昭和22年/1947年には、作家たちに反発や困惑を引き起こすだけで終わってしまったようです。中野重治さん、文藝家協会常任理事を辞任。そして結局、残った人たちでも、推薦作をまとめることはできなかった、と。

◇日本文芸家協会総会 は(引用者注:3月)三十日開かれ、協会に推薦を依頼された二十二年度文部大臣賞は選定困難のため返上することになり、協会運営のためつくられた協会の機関誌「文学会議」を一そう発展させるため別に文学会議社を設けることに決定、(引用者後略)(『朝日新聞』昭和23年/1948年4月1日より)

 ここでは「選定困難のため」って理由になっています。しかし翌年、今日出海さんは『日本読書新聞』で、

「先年文部省が文学賞を出そうとしたら、文芸家協会が政府からもらうべき筋のものではないといって断った。」(『日本読書新聞』昭和24年/1949年3月2日号「文学賞の流行」より)

 などと、威勢のいい表現をしています。実際はどうだったんでしょうね。まあ、中野さんの辞任以後もいろいろと反対の声が挙がったことは想像できます。

 では、文部省の「選奨費」はどのように使われたのか。昭和22年/1947年~昭和25年/1950年の4年間は、文学ヌキでの選奨となりました。芸術祭の参加公演のなかから、優秀な団体・個人に賞金を与える、ってかたちです。

 ええ、これはこれで、演劇関係者からは不評を買ったらしいですけど。

「昨年も一昨年も不評だった文部省主催の『芸術祭』が今年度も九月から十一月にかけて行われる。

(引用者中略)

佐々木孝丸(劇作家組合) 全く無意味だ。しかも聞くところでは昨年度の芸術祭ではあらかじめ文部大臣賞が決っていたという。実際、賞をもらったものゝなかには随分疑問のものもあった。芸術官僚と興行資本のなれ合いと情実におおわれたこの種の芸術祭には一般の大衆は何ら興味を示していない。」(『朝日新聞』昭和23年/1948年8月15日「「芸術祭」をどう見る? 興味なし・予算が少い・無益無害」より)

 んもう。何だかんだと文句をつけられ、作家たちからはソッポを向かれた恰好の、文部大臣賞。でも勇敢です。しぶといです。叩かれても、ウザがられても、折れない気持ちを持っていました。

 昭和26年/1951年春から、「芸能選奨」として、演劇、音楽、文学など(映画は昭和29年/1954年から)の各部門に賞を贈ることになります。

 ついに、文部大臣文学賞が世にお披露目となりました。

 文学部門とは言っても、最初の5年間は、じっさいは「児童文学部門」でした。事実そう表記していた新聞もあります。ところが第6回(昭和30年/1955年度)からは、文学の本丸・一般の文学も対象に加わりまして。

 ううむ。文士を気取る作家たちの、高熱な拒絶反応を覚ますには、5年の期間が必要だった、ってことなんでしょうか。

          ○

 いかん。芸術選奨(文学部門)の成立ちだけで、ずいぶんと文量を費やしてしまった。

 でも面白いんですもん。「国家による賞」への作家の拒絶反応について、もう少しだけ書かせてください。

 大臣賞は今年で61回目です。これまで表立ったものだけで、4人の辞退者が確認できます。昭和43年/1968年から始まった大臣新人賞でも辞退した人がいて、プラス1人。ワタクシが調べ切れてないものや、報じられていないものを含めれば、きっとこの数は増えるでしょう。

 辞退者のなかで、小説家・詩人・文芸評論家は4人います。

 むろん、物書きだからといって国家嫌い・賞嫌いな人ばかりではありません。おのれの信念に従って胸を張って受賞している人もたくさんいます。ただ、大臣賞の歴史には、「辞退」もしくは、「もらうにしてもいろいろと気を遣う」っていう一本、大きな流れを見ることはできそうです。

 辞退した方々。その辞退の理由を引用してみましょう。

 まずは第19回(昭和43年/1968年度・評論その他部門)の武田泰淳さんです。

「芸術選奨をもらわなかったのは“作家としての立場”というよりも、もらうような気持がなかったからです。ともかく「もらえないから、もらえない」といっただけで、深い意味があると思われると困る。(引用者中略)

 別に反官僚ではない。作家同士で、偉い作家からもらうというなら話はわかるが、どんな人物か全然わからないのだから、もらいようがない。反抗するのではなく、関係がない。火星人と地球人くらい関係がない。火星から賞をくれるといっても答えようがないと思う。好きとか嫌いというより前のことで、どういうお考えの人か知らないわけだからどうのこうの思いようがないわけです。(引用者中略)

 しかも、僕が一番困るのは、こういうことが騒がれると、もらった方に僕の仲のいい人がたくさんいること。そういう人たちはとてもいい人だし、確かにいい仕事をなさったからもらった。僕は反感もなにもないが、たまたま意見がましいことをいうと、その人たちを傷つけることになる。意地悪して僕だけが威張っていい子になると二重の売名になってしまう。いくらなんでもそれはよくない。」(昭和47年/1972年8月・筑摩書房刊『武田泰淳全集16巻』所収「作家にとって反逆精神とは何か」より ―初出『三田文学』昭和44年/1969年6月号)

 ムチャクチャ気を配っています。「何でもらわないんだ!」とたくさん怒りの声も寄せられたんだそうで。辞退するならするで、ひと苦労です。

 つづいて第32回(昭和56年/1981年度・文学部門)の谷川俊太郎さん。

「谷川俊太郎氏は「僕の賞を推薦してくれたのは、非常に世話になった先輩であり、辞退はその先輩に失礼になるので、理由について僕の口からは言いたくない」と、事実上のノーコメントだった。」(『毎日新聞夕刊』昭和57年/1982年3月3日より)

 やはり、しれーっと辞退、ってわけにはいかないようです。理由を口にすると、先輩に失礼になる、ふむふむ、文学賞っつうのは要らぬ気を遣わせる野郎だなあ。

 谷川さんより前に、第26回(昭和50年/1975年度・評論その他部門)で辞退した小田切秀雄さんの声も、聞いておきますか。

「日本の国・政府についてはいろいろの思いがあって受けられないが、一つだけいえば近代いらいの日本文学はもっぱら自分の力で成長してきたもので、政府からは多年にわたり圧迫を受けて苦しんで来ただけだ、ということがあり、その長い歴史の重みからしても、政府からの賞は受けるわけに行かぬ、という辞退理由の一つをも(引用者注:文部省からの電話に対して)のべた。なお、だれが選考したのかとたずねたら、中村光夫丹羽文雄の二人がこれを推したとのことだった。のちに何かの会でこの二人に会ったとき、せっかくわたしなどの本を推してくれたのに断ってすまなかった、といわないではいられなかった。」(昭和63年/1988年4月・集英社刊『私の見た昭和の思想と文学の五十年(下)』「大資本のバラ色の夢、わたしの理想」より)

 小田切さんは、永井荷風が芸術院会員をやすやすと受け入れたことに失望したくらいの人ですから、辞退の理由も明解です。ある意味、国による褒賞を断る人間の、正統的・伝統的な対応といえるかもしれません。

 対して、立場上すんなりと受け取るわけにはいかなった受賞者の方の回想を二つばかり。

 ひとりは壺井栄さんです。第2回(昭和26年/1951年度)の文学部門で受賞しました。

「文部大臣賞になったときには、私たちの立場として吉田内閣の文部大臣から賞をもらうということはどうだろうという意見が、一部の人たちから出たりしたのです。私、そういう考え方も正しくないとは言わないのですがね。それでそういうことを聞いたときに、どうしようかと思ってちょっとつまずいたんですが、友だちにも相談して、結局うけることにしました。純粋にいって、気もちのよいことではないとしてもこういう時代の中で生活している以上、それはそういうものとの妥協という意味でなく、その中での一つの勝利とも考えられますから。だって、文部大臣は、戦争や再軍備に反対する小説に授賞したのですから。」(平成10年/1998年12月・文泉堂出版刊『壺井栄全集11』所収「私が世に出るまで」より ―初出『新女苑』昭和29年/1954年1月号)

 この考え方は前向きですね。「勝利」。……にしても栄さんも迷ったのかあ。そりゃそうでしょう。

 もうひとりは平野謙さんです。第9回(昭和33年/1958年度)評論その他部門を受賞。

 先の小田切さんの回想にも、平野さんが恩賜賞をもらうときのハナシが出てくるんですが、ここはご自身に語ってもらいましょう。下記に引用した「文学者の声価」では、明治の『太陽』人気投票で、夏目漱石が金杯受領を拒否したんだよ、みたいなエピソードから始めて、何だかダラダラと言い訳がましく書いています。カワイイ人です。

「夏目漱石のようにいえば、早い話が芥川賞、野間賞、新潮賞その他の文学賞なども、すべて成りたたぬ道理である。今日でもわが親愛する山室静なら、あるいは敢然として受賞を拒否することも考えられるが、私などはとてもそんな元気はない。現に、先年私は文部省からささやかな賞金をもらった。さすがの私も受領すべきや否やについては、中野重治に相談した。中野さんはいただきますというのじゃなくて、もらってやるという態度で受けたらいい、という意味の返事をしてくれた。無論、この場合も、中野さんが断わるべきだネといったとしたら、果して私は断わっていたかどうか、われながら怪しいものである。」(昭和50年/1975年8月・新潮社刊『平野謙全集5巻』「文学者の声価」より)

 小田切さんの回想によると、平野さん、恩賜賞を受けるときもいちおう気にして、小田切さんに「事実上了解を求め」るみたいな電話をかけてきたそうです。

 バサッとおのれの一存で受賞か辞退かを決めればいいのに。でも、そうはしかねるシロモノ。大臣賞にはきっと、他の賞とはまた違った澱が、その体内に充満しているんでしょう。

 イベントとして、あるいは賞として、クセのある臭みを発しています。まったく。こういう文学賞が魅力的でないわけがありません。

          ○

 芸術選奨は、はじめ「芸能選奨」と称されていました。その時分は、文学部門は児童文学が対象だったようですが、「芸能」を「芸術」と改称したとき、椎名麟三さんという一般の文学を書く人にも門戸が開かれました。

 昭和31年/1956年(年度でいえば昭和30年/1955年度)のことでした。いったいこのとき、どうしてこのような変節が起きたのか。今後の文学賞研究の課題だと思います。

 まあ、「芸能」ならまだしも「芸術」と言われた日にゃねえ。純文壇への門戸は開かれたんですけど、大衆向けの小説を書いている人を評価する動きは、ながらく訪れませんでした。

 大衆文学畑で最初に、この賞を受けたのは誰か。「文学部門」じゃなかったんですよね。

 創作物をネタにした「評論その他部門」の尾崎秀樹さんでした。評論とか研究、つうのは何か高尚な活動に映るんでしょうかねえ。正宗白鳥さんは以前言っていました。「文学研究者に与えられる賞金は免税されるらしいが、実作家への賞金からは税金をとる、ってそりゃおかしくない?」。その気持ち、わからんでもありません。

 その後、尾崎さんは芸術選奨の「文学部門」や「評論その他部門」のレギュラー審査員みたいになります。他の文学賞なども含めて、選考委員会にはなくてはならない人材、だったそうです。

「文学賞選考というのは、難しい場合が多い。選考委員の意見の一致を得て、受賞が決まればいいが、意見が対立した場合、収拾が難しい。(引用者中略)

 そういうときに、尾崎のような当たりのやわらかい、融通無碍な人物がいると、決定的対立を防ぐ働きをしてくれる。場を纏める重宝で重要な役割を果たすことになる。こういう人は、ある意味ではなくてはならない人なのだ。」(平成21年/2009年9月・実業之日本社刊 峯島正行・著『荒野も歩めば径になる―ロマンの猟人・尾崎秀樹の世界』「第十五章 文壇の世話役」より)

 ただ、大衆文学に造詣のふかい尾崎さん一人がいたところで、芸術選奨みたいな場で、大衆向け小説にお鉢がまわってくる機会はなかなかありませんでした。なにせ「芸術」ですし。純文壇の人たちだって賞ゴトはお好きでしょうから他に回したくなかったでしょうし。

 大臣賞は、野間文芸賞や谷崎賞のライバルと言えるかもしれません。ちょこちょこと直木賞作家もお相伴にあずかることはありますが、基本、純文学系の賞です。昭和43年/1968年に大臣新人賞ができましたが、まあ、これとて大臣賞の子供みたいなものです。

 「新人」と付いている賞だから、そろそろ直木賞とカブることがあってもよさそうなのに。でも、なかなかそういう選考結果にはなりません。

 大臣新人賞とは。……芥川賞の候補に何度もなっているけどとれないね、みたいな頑張っている作家を救済する賞。あるいは、芥川賞をとったあと次に踏むステップ。そんな意味合いが今のところは濃厚です。

 まあ、別段それで何の文句もありません。直木賞で扱う小説は、芸術とは遠く離れたところにあるものですし。それでいいと思います。

 「国家が関与する賞」としての存在感も、だんだん薄れてきました。ときどき、和田義彦さんときみたいなオチャメなことやらかしますし、油断していると足元をすくわれるかもしれないので注意は必要ですが、芸術選奨も徐々に他の賞一般にまぎれていく。そして、他の文学賞ではできないような独自の方向性を模索していってくれれば、文学賞ファンとして、言うことはありません。

          ○

〔平成23年/2011年3月15日追記〕

 白石知雄さんもブログ「仕事の日記(はてな)」で、今年の「評論その他部門」や、昨今の「音楽部門」などについて書かれておりました。リンクを張らせていただきます。
http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110311

 ほんと、各部門さまざまな経緯があるんでしょうねえ。

          ○

芸術選奨文部科学大臣賞

芸術選奨文部科学大臣新人賞

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