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2011年3月27日 (日)

二科展入選 新聞に大きく取り上げられることでは、直木賞・芥川賞を凌駕した。

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 うちのブログで扱う「直木賞のライバル賞」は、大きく分けて4つあります。

 1つは、大衆文芸(やら中間小説やらエンタメ小説やら)の文学賞。賞の運営者がみずから、直木賞のライバルたることを目指すと発言したものもあります。しかし、多くは勝手にワタクシがライバルと見立てたものです。

 2つ目は、文学賞じゃないけど非常に直木賞っぽい賞。土門拳賞文藝春秋漫画賞などは、ここに属します。

 3つ目は、直木賞をはじめ文学賞はたくさんあれど、その起源と思われるもの。明治、大正、昭和初期に咲いて、はかなく散った、いくつかの試みのなかから、どんな性質が直木賞へと受け継がれていったかを知りたいと思っています。

 そして。4つ目。正真正銘のライバル。直木賞の運営者側が、はっきり名指しでライバル視した賞。

【二科展受賞者・入選数一覧】

 すでに扱ったところでいえば、文藝懇話会賞があります。それとともに、直木賞をつくった張本人が比較対象の俎上に乗せました。大変由緒正しき(?)ライバル。二科展です。

 そうです。菊池寛さんの有名な怒号をお聞きください。第1回(昭和10年/1935年・上半期)の直木賞・芥川賞を発表した翌月の「話の屑籠」から。

「芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があったのには、憤慨した。そのくせ、二科の初入選などは、写真付で発表している。幾つもある展覧会の、幾人もある初入選者とたった一人しかない芥川賞、直木賞とどちらが、社会的に云っても、新聞価値があるか。あまりに、没分暁漢(原文ルビ:わからずや)だと思った。そのくせ文芸懇話会賞の場合はちゃんと発表しているのである。

 尤も、新聞社のつもりでは広告関係のある雑誌社の催しなどは、お提灯記事になる怖れがあるというので出さないのであろうか。広告関係があると云う場合は、それだけ親善さがあると云うのではないだろうか。或は亦、広告関係のある雑誌社の記事などは、金にならない活字は、一行も使いたくないと云うのであろうか。

          ○

 むろん芥川賞、直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。その事は最初から声明している。しかし、半分は芥川直木と云う相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の擡頭を助けようと云う公正な気持からやっているのである。この半分の気持から云っても、新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいゝと思う。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年10月号「話の屑籠」より)

 どうです。このひがみ根性。やっかみ。あるいは、自己中心的な物言い、と断じていいかもしれません。

 菊池さんは言いました。「新聞価値」。二科展の初入選と、直木賞・芥川賞の受賞、どちらに報道する価値があるか。……まあ、どっちもどっちという気がしないでもありませんが、しかし確かに二科展に対する当時の新聞報道は、そうとうデカい。「うちの賞のほうが……」とネタむ気持ち、わからんでもありません。

 二科展に限ったハナシじゃないんですよね。明治後期から大正、昭和はじめ……20世紀前半において、新聞のなかでの美術展の扱いは、そりゃもう、破格です。

 文展(文部省美術展覧会)からの、帝展(帝国美術院展覧会)、日展(日本美術展覧会)への移り変わり。官制の権威のもとに集う連中。それに反抗して始まった二科展。そんな権力闘争めいた動きを見るだけで、ワタクシも昂揚する口です。あなたもですか。

 まあ、そういったゴシップネタならば、新聞をにぎわすのも理解できます。そうではなく、毎年開かれる文展、院展(日本美術院展覧会)、二科展、その他の美術展の、審査員が誰になっただの、搬入が始まっただの、入選者が決まったので全氏名を紹介しましょうだの。そんな美術関連の記事に、紙面の多くが割かれていました。

 ブログ「Chinchiko Papalog」でも紹介されているように、一日に一万人規模で入場者を集めていた、大人気の美術展。いっぽう、うなぎ登りで部数を増やしていった日本の新聞各紙。「美術展で誰が入選したんだろう」といった興味が、大衆のなかで、ぐんぐん高まっていったと。大正から昭和。そんな時代です。

 美術展の話題は、今よりもっと強く新聞紙面の華でした。広津和郎さんは述懐します。

「樗牛賞がついたという事で小出君(引用者注:小出楢重)の名は一遍に人に知られたが、その当時は文展や二科に初入選したというだけで、今よりは新聞などで騒がれ、それが賞がついたとなると、大々的に書き立てられたものであった。そこで小出君のその百姓家の一室には各社の記者諸君が競争で出かけたらしいが、(引用者攻略)(平成4年/1992年10月・岩波書店/岩波文庫 広津和郎・作、紅野敏郎・編『新編同時代の作家たち』所収「奈良と小出楢重」より ―初出『天平』3号[昭和23年/1948年12月])

 ああ。まるで、文学賞受賞者に新聞記者が群がるさまを見ているようだな。

 入選したなかでも、とくに初入選した人は、こぞって紹介される傾向にありました。初期のころは、「若くして」とか「才媛が」とか、そういう入選者が取り上げられていました。

 では、昭和10年/1935年当時。じっさいに二科展記事はどんなふうになっていたんでしょうか。

 新聞は何紙もありましたが、菊池寛さんをイラッとさせたのは、おそらく『東京朝日新聞』でしょう。この新聞だけが、東京の主要紙のなかで唯一、第1回直木賞・芥川賞の決定を報じなかったからです。

 そしてこのときの、東京朝日の二科展入選者記事。ふつうに笑えますよ。菊池さんの言うとおり5名の顔写真付きです。入選のうちとくに優秀な人、を取り上げているわけじゃありません。報道の基準は「ほら、こんな意外な人物が入選したんですよ」っていう一点です。

コックさんお手柄

二科初入選の変種

長谷川勝人君

 二科初入選、美術の秋をいろどる色調の中から、葡萄のやうに新鮮な女性の姿や、風変りな努力の人を拾って見る、五点出品して二点初入選してゐる長谷川勝人君(三三)は麻布区龍土町のエフ・シュバリエ氏方のコックさんだ、御主人が外出する暇を盗んでは製作し是迄も五、六回出品してゐたがいつも落選、然し今度は全審査員が絶讃してゐる程の出来栄だ、」(『東京朝日新聞』昭和10年/1935年8月31日より)

 紙面でどれだけのスペースが二科展入選に割かれたか。試しに図にしてみました。比較のために直木賞・芥川賞の紹介記事も、同じようにつくりたかったんですが、先述のとおり、このとき東京朝日に発表記事はなし。一年後の第3回(昭和11年/1936年8月11日紙面)と比べてみましょう。

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 悲しいぜ、直木賞・芥川賞。

 二科展だって大正3年/1914年にスタートして、はじめの頃は、文字だけの入選紹介でした。しかし、10年もしないうちに「初入選」にスポットが当てられるようになり、とくに女性入選者の顔写真がデッカデカと載るぐらいに、報道価値を認めてもらうようになっていました。

 対して、われらが直木賞のほうは。菊池寛さんが亡くなる昭和23年/1948年までには、ついにそこまでの価値を得るには至りませんでした。

 文学賞としての権威はそれなりに付いたんですけどね。直木賞・芥川賞というと、誰でも思いつく要素――「新聞にデカデカと載る」、その地位を獲得したのは、ちっとも菊池寛さんの手柄ではなかったのです。残念。

          ○

 もう少し、菊池寛さんと、彼が意識した二科展、について続けます。

 ええ、そりゃあ佐藤春夫さんの例を出すまでもありません。あるいは芥川龍之介さんと小穴隆一さんの厚い親交に目を向けるまでもありません。当時の作家たちにとって、二科会というのは、同じ町内のご近所さん、みたいな存在ではありました。

 と言いますか、文藝と美術なんて、ざっくりくくったら同じジャンル、っていうぐらいの近親性はあります。

 ただ、新聞と二科会と菊池寛、と来ますと、どうしても避けて通れない小説があるじゃないですか。せっかくなので、ひとつそいつをハナシのネタにしちゃいましょう。

 『真珠夫人』。菊池さんの通俗小説の代表作であり、通俗化路線の走りであり、また新聞小説に近代的な息吹を与えた(と吉屋信子さんは言う)作品です。

 連載された時期は、大正9年/1920年6月9日~12月28日。新聞小説の近代化、っていうか、新聞そのものの近代化が顕著だったのがこの時代なのだそうで。

「新聞界内部では、前期に引き続き各社の競争がくりひろげられ、とくに社会面でのスクープ合戦は、この時代が頂点をなしている。(引用者中略)

 政治部や社会部の組織が固まり、取材方法が確立したのも大正時代のことである。(引用者中略)

 十三年一月、大阪の毎日、朝日の二紙は、日本の新聞として初めて百万部突破の偉業を成しとげるが、これは両紙の全国制覇を表わす象徴的なできごとで、以後この両紙は全国各地に部数をのばして行く。」(平成15年/2003年5月・新泉社刊 春原昭彦・著『四訂版 日本新聞通史』「第五章 近代新聞の成熟期 大正時代」より)

 年々、新聞紙面における二科展の扱いでも、徐々に、紙面映えする女性や、オモシロ経歴の持ち主の初入選者が現われはじめた。そんなころです。

 たとえば大正10年/1921年なら、こんな感じ。

「今年の二科展に新しい異彩を加へた初入選の露国婦人ワリア・ブブノワは帝大理学部講師小野俊一氏夫人アンナ・ブブノワの姉で一九一四年にペトログラードのイムペリアル・アカデミー・オヴ・アーツ七年の課程を了へブドージュニックの

名誉ある学位

を受け目下莫斯科(原文ルビ:モスクワ)のヒストリカル・ミューゼアムの研究員となり傍女子大学に考古学の講師を勤めて居る、(引用者中略)

今一人入選の栄に浴した中野きよ子は今年十九歳昨年佛英和女学校を

卒業した許り

の才媛である、」(『東京朝日新聞』大正10年/1921年9月6日「二科に入選の二閨秀」より)

 言うまでもなく二人の女性の、大きな顔写真入りです。

 こんな時代の新聞小説『真珠夫人』。そこにひょっこり菊池寛さんは「二科会」を登場させています。主人公・瑠璃子の兄、唐沢光一なる画家を描くにあたって。

 唐沢光一とは、小説のなかでどのような役割を請け負わされている人物か。……「華族」という旧来の権威をみずから捨てます。貴族院で活躍してきた父からは、「画などというものは、男子が一生を捧げてやる仕事では決してない」と蔑まれる、そんな芸術の道で生きていこうとします。金銭面においては、危機に陥った父親・妹を、何ら助けてやることができません。

 しかし、時にヒロイン、時に悪役となる妹・瑠璃子の姿を、芸術のもとに落とし込む力量の持ち主ではありました。最終的には「芸術」が勝利するんだね。と思いきや、その力だって、どこにも発表されなければ意味がありません。いや、高い会費を払わなければ入れない音楽会とか、帝劇のボックス席とか、そういう限られた人間のみを対象とした場でもまた、不足です。

 ってことで、菊池寛さんは、物語の最後に、「芸術それは大衆の目にさらされてこそ、輝きを放つのだ」って思いを、大衆たる読者にむかって念押ししています。

「記憶のよい読者は、去年の二科会に展覧された『真珠夫人』と題した肖像画が、秋の季節を通じての傑作として、美術批評家達の讃辞を浴びたことを記憶しているだろう。

 それは、清麗高雅、真珠の如き美貌を持った若き夫人の立姿であった。しかも、この肖像画の成功はその顔に巧みに現された自覚した近代的女性に特有な、理智的な、精神的な、表情の輝きであると云われていた。その絵を親しく見た人は、画面の右の端に、K.K.と署名されているのに気が付いただろう。それは、妹の保護のもとに、芸術の道に精進していた唐沢光一が、妹の横死を悼む涙のうちに完成した力作で、彼女に対する彼が、唯一の手向けであったのであろう。」(『真珠夫人』「破裂点」より ―引用出典は平成14年/2002年8月・文藝春秋/文春文庫)

 だいたい、記憶がよかろうが悪かろうが、新聞の読者に向かって、二科展に出た作品のことをさも「知ってるでしょ?」と言うがごとく説明する態度がねえ。大正9年/1920年ごろの新聞読者は、二科展を近しいものだと感じているよね、っていう共通認識がそこに、まざまざと感じ取れるわけです。

 二科展のもつ「報道価値」、ほぐしていえば、大衆に対する高いアピール性、とでも言いましょうか。最初は「初入選という事実」だけで十分だったものが、年を追って飽き足らなくなっていって、その人たちの顔、生い立ち、今の生活、などまで掘り下げないと「報道価値」になり得ない。その過程を菊池寛さんは、つぶさに見ることのできる時代に生きていました。

 彼自身は、直木賞・芥川賞をつくったとき、二科展入選みたいな「報道価値エスカレーター」に乗せることができる、それだけの潜在的な質がある、とは思っていたんでしょう。ただ、文学賞にどうやったら、大衆に対する高いアピール性を持たせることができるか、そのやり方がわからなかっただけなのだと思います。

          ○

 あ。ここまで来て今さらですが。二科展には、入選とか出品とか、そういうもの以外に授賞制度があったんですね。

 いちおう「賞」と聞くと食いつくタチなもので。二科展における「賞」を、ざざーっとご紹介しておきたいと思います。

 『二科七十年史』(昭和60年/1985年・二科会)という、大変充実した参考になる資料があります。元・日本経済新聞記者にして、芸術選奨取り消し問題で自らの顔に泥を塗ってしまった瀧悌三さんが「二科七十年史 物語編」を書いております。「単行本四冊分」というぐらいの分量で、それはもう、読みごたえアリすぎの文献です。

 二科展の賞については、そのなかの記述をお借りします。

「二科展を計画した時の規則に「陳列されたる作品に就ては審査を行はず」という一項があった。賞を定めたり、作品の間に優劣を決めたりといったことは一切やめ、平等に扱うという精神であったようだ。しかし渡辺六郎という人から入選中の優秀作に奨励金を贈るという申し出があったので、十月二十六日鑑査委員一同は協議して、十亀広太郎と硲伊之助とにその奨励金を贈ることにした。これが二科賞の起こりである。(引用者中略)

 渡辺六郎は、渡辺銀行の経営者の一人、すなわち、渡辺銀行を経営する渡辺一族の者である。(引用者中略)石井柏亭は前から渡辺六郎に支援され、洋行の時、資金の援助も受けた。渡辺六郎を通じ、銀行関係などに絵を購ってもらうこともあった。(引用者中略)かように渡辺六郎はパトロン的であったが、自ら水彩を描き、柏亭の弟子でもあった。」

 この「二科賞」、当時の新聞では「二科賞金」と表記されていました。……つうのは、昭和初期まで日本では「賞」といえば「賞金」のこと、という文学賞の歴史と相通ずるものがありますね。

 そして、もうひとつ。文学賞の世界では、まだこの当時、人名を冠した賞名はなかなか見かけないのですが、美術の世界では、バシッと人の名を冠しちゃっています。「樗牛賞」。

「樗牛賞は樗牛会が賞金を出した。樗牛会は文芸評論家樗牛高山林太郎(明治五年―明治三十五年)の遺産を管理していた団体と推せられる。

 大正四年樗牛会は樗牛全集の売り上げの利益をもって有為の美術家を保護する目的で樗牛賞金を贈ることを決め、日本美術院と二科会にその賞金を提供した。

(引用者中略)

 二科賞は作品本位で決められたが、前歴や技量水準等から作品よりも作者に贈るという場合もあった。しかし、樗牛賞は奨励賞の性格のものだった。以後の精進を期待するという意味が籠められていた。両賞の格付けは、二科賞の方が上位で、樗牛賞を先に受け、次いで二科賞を受けるというのが、後になる程多い。」

 ええと、樗牛会が、高山樗牛の遺産を管理する団体だったかどうかは、よくわかりません。一応、その発足当初は、まったく別の目的をもった団体だったはずなんですが。

「卅六年十月発表趣意書及規約

故高山樗牛歿しよりまさに一ヶ年の今日吾等同人相寄りてこゝに樗牛会を組織し敢て大方の賛助を請ふに至りし所以のものは畢竟故樗牛のために紀念事業を起こし其紀念の庭園を以て宗教文芸に志ある人の自由なる集会所となし此に依て亡友の志業を継紹せむと欲する微意に外ならず想ふに清新の気風、宗教、文芸の勃興天才の憧憬等は吾等の推奨を俟たずして自から生れ出でんことは自然の数なるべけれども聊か亡友の紀念事業を中心として精神上の文明の為に努力したき念願と故人に対する吾等の友情とは期せずして同人の一致する所なり終に左の如き規約の下に樗牛会の成立を見るに至りぬ願くは吾等の愚衷を洞察してこゝに此挙に賛同あらん事を江湖諸兄姉に祈る」
(明治38年11月・樗牛会刊『清見潟に於ける樗牛 附、樗牛会第二報告』より)

 姉崎正治さんが事務一切を担当していたようです。目的は、樗牛を記念する庭園を鎌倉あたりにつくろうぜ、そのために講演会とかその他事業をやってお金を集めようぜ、みたいな感じですか?

 樗牛会をつくった中心人物、姉崎さんは、こんなことも言っています。

「欧米にはシルレル会ゲーテ会等の如き一人の人を中心とせる会合あれど、我国には今迄是を聞かざりき、」(大正4年/1915年6月・有朋館刊『樗牛兄弟』所収 姉崎正治「高山樗牛と日蓮」より)

 ははあ。出ましたね。欧米の真似。だったら樗牛会が、賞金を出して○○賞金でもつくろうか、といった発想に至るのも、何だかうなずけるような。

 いや。樗牛会といっても、仙台にも弘前にも「樗牛会」ってのがあったようですし、あるいはまったく別の樗牛会が、二科・院展の樗牛賞のパトロンだったかもしれません。

 いずれにしても、その樗牛会は美術展にはお金を出ました。んじゃあ、新進文芸家保護のためには、なにがしか賞金を出さなかったのか。そこはかなり気になるところではあります。

 大正期の美術展のにぎわいぶりを知るにつけ。文壇よりも画壇のほうにお金を出したほうが目立つし、取り上げられる機会も多いでしょう。いまこうして、直木賞オタクが、二科・院展の樗牛賞に食いついているんですから、樗牛会の試みは、ある意味成功だったのかもしれません。

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