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2011年3月の4件の記事

2011年3月27日 (日)

二科展入選 新聞に大きく取り上げられることでは、直木賞・芥川賞を凌駕した。

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 うちのブログで扱う「直木賞のライバル賞」は、大きく分けて4つあります。

 1つは、大衆文芸(やら中間小説やらエンタメ小説やら)の文学賞。賞の運営者がみずから、直木賞のライバルたることを目指すと発言したものもあります。しかし、多くは勝手にワタクシがライバルと見立てたものです。

 2つ目は、文学賞じゃないけど非常に直木賞っぽい賞。土門拳賞文藝春秋漫画賞などは、ここに属します。

 3つ目は、直木賞をはじめ文学賞はたくさんあれど、その起源と思われるもの。明治、大正、昭和初期に咲いて、はかなく散った、いくつかの試みのなかから、どんな性質が直木賞へと受け継がれていったかを知りたいと思っています。

 そして。4つ目。正真正銘のライバル。直木賞の運営者側が、はっきり名指しでライバル視した賞。

【二科展受賞者・入選数一覧】

 すでに扱ったところでいえば、文藝懇話会賞があります。それとともに、直木賞をつくった張本人が比較対象の俎上に乗せました。大変由緒正しき(?)ライバル。二科展です。

 そうです。菊池寛さんの有名な怒号をお聞きください。第1回(昭和10年/1935年・上半期)の直木賞・芥川賞を発表した翌月の「話の屑籠」から。

「芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があったのには、憤慨した。そのくせ、二科の初入選などは、写真付で発表している。幾つもある展覧会の、幾人もある初入選者とたった一人しかない芥川賞、直木賞とどちらが、社会的に云っても、新聞価値があるか。あまりに、没分暁漢(原文ルビ:わからずや)だと思った。そのくせ文芸懇話会賞の場合はちゃんと発表しているのである。

 尤も、新聞社のつもりでは広告関係のある雑誌社の催しなどは、お提灯記事になる怖れがあるというので出さないのであろうか。広告関係があると云う場合は、それだけ親善さがあると云うのではないだろうか。或は亦、広告関係のある雑誌社の記事などは、金にならない活字は、一行も使いたくないと云うのであろうか。

          ○

 むろん芥川賞、直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。その事は最初から声明している。しかし、半分は芥川直木と云う相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の擡頭を助けようと云う公正な気持からやっているのである。この半分の気持から云っても、新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいゝと思う。」(『文藝春秋』昭和10年/1935年10月号「話の屑籠」より)

 どうです。このひがみ根性。やっかみ。あるいは、自己中心的な物言い、と断じていいかもしれません。

 菊池さんは言いました。「新聞価値」。二科展の初入選と、直木賞・芥川賞の受賞、どちらに報道する価値があるか。……まあ、どっちもどっちという気がしないでもありませんが、しかし確かに二科展に対する当時の新聞報道は、そうとうデカい。「うちの賞のほうが……」とネタむ気持ち、わからんでもありません。

 二科展に限ったハナシじゃないんですよね。明治後期から大正、昭和はじめ……20世紀前半において、新聞のなかでの美術展の扱いは、そりゃもう、破格です。

 文展(文部省美術展覧会)からの、帝展(帝国美術院展覧会)、日展(日本美術展覧会)への移り変わり。官制の権威のもとに集う連中。それに反抗して始まった二科展。そんな権力闘争めいた動きを見るだけで、ワタクシも昂揚する口です。あなたもですか。

 まあ、そういったゴシップネタならば、新聞をにぎわすのも理解できます。そうではなく、毎年開かれる文展、院展(日本美術院展覧会)、二科展、その他の美術展の、審査員が誰になっただの、搬入が始まっただの、入選者が決まったので全氏名を紹介しましょうだの。そんな美術関連の記事に、紙面の多くが割かれていました。

 ブログ「Chinchiko Papalog」でも紹介されているように、一日に一万人規模で入場者を集めていた、大人気の美術展。いっぽう、うなぎ登りで部数を増やしていった日本の新聞各紙。「美術展で誰が入選したんだろう」といった興味が、大衆のなかで、ぐんぐん高まっていったと。大正から昭和。そんな時代です。

 美術展の話題は、今よりもっと強く新聞紙面の華でした。広津和郎さんは述懐します。

「樗牛賞がついたという事で小出君(引用者注:小出楢重)の名は一遍に人に知られたが、その当時は文展や二科に初入選したというだけで、今よりは新聞などで騒がれ、それが賞がついたとなると、大々的に書き立てられたものであった。そこで小出君のその百姓家の一室には各社の記者諸君が競争で出かけたらしいが、(引用者攻略)(平成4年/1992年10月・岩波書店/岩波文庫 広津和郎・作、紅野敏郎・編『新編同時代の作家たち』所収「奈良と小出楢重」より ―初出『天平』3号[昭和23年/1948年12月])

 ああ。まるで、文学賞受賞者に新聞記者が群がるさまを見ているようだな。

 入選したなかでも、とくに初入選した人は、こぞって紹介される傾向にありました。初期のころは、「若くして」とか「才媛が」とか、そういう入選者が取り上げられていました。

 では、昭和10年/1935年当時。じっさいに二科展記事はどんなふうになっていたんでしょうか。

 新聞は何紙もありましたが、菊池寛さんをイラッとさせたのは、おそらく『東京朝日新聞』でしょう。この新聞だけが、東京の主要紙のなかで唯一、第1回直木賞・芥川賞の決定を報じなかったからです。

 そしてこのときの、東京朝日の二科展入選者記事。ふつうに笑えますよ。菊池さんの言うとおり5名の顔写真付きです。入選のうちとくに優秀な人、を取り上げているわけじゃありません。報道の基準は「ほら、こんな意外な人物が入選したんですよ」っていう一点です。

コックさんお手柄

二科初入選の変種

長谷川勝人君

 二科初入選、美術の秋をいろどる色調の中から、葡萄のやうに新鮮な女性の姿や、風変りな努力の人を拾って見る、五点出品して二点初入選してゐる長谷川勝人君(三三)は麻布区龍土町のエフ・シュバリエ氏方のコックさんだ、御主人が外出する暇を盗んでは製作し是迄も五、六回出品してゐたがいつも落選、然し今度は全審査員が絶讃してゐる程の出来栄だ、」(『東京朝日新聞』昭和10年/1935年8月31日より)

 紙面でどれだけのスペースが二科展入選に割かれたか。試しに図にしてみました。比較のために直木賞・芥川賞の紹介記事も、同じようにつくりたかったんですが、先述のとおり、このとき東京朝日に発表記事はなし。一年後の第3回(昭和11年/1936年8月11日紙面)と比べてみましょう。

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 悲しいぜ、直木賞・芥川賞。

 二科展だって大正3年/1914年にスタートして、はじめの頃は、文字だけの入選紹介でした。しかし、10年もしないうちに「初入選」にスポットが当てられるようになり、とくに女性入選者の顔写真がデッカデカと載るぐらいに、報道価値を認めてもらうようになっていました。

 対して、われらが直木賞のほうは。菊池寛さんが亡くなる昭和23年/1948年までには、ついにそこまでの価値を得るには至りませんでした。

 文学賞としての権威はそれなりに付いたんですけどね。直木賞・芥川賞というと、誰でも思いつく要素――「新聞にデカデカと載る」、その地位を獲得したのは、ちっとも菊池寛さんの手柄ではなかったのです。残念。

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2011年3月20日 (日)

星雲賞 SFは文学の枠には収まらない。SF賞は文学賞の枠に収まる、のか?

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 SFファンは、何か特殊なのだそうです。

 ジャンルに対する盲目的な愛。「SFか・そうでないか」ですべてを計ろうとする価値観。あるいは、SFファン同士の強烈な仲間意識。そこから生じる閉鎖性。……みたいなものが、ハンパないのだそうで。

 そういう方々の賞、を今日は取り上げます。星雲賞です。昭和45年/1970年に創設され、以来40ン年。現存する日本SFの賞のうち、最古・最長のものになりました。

【星雲賞受賞作一覧】

 ワタクシはSF愛の薄い人間です。がっつりSFに魂を抜き取られてしまった方が読んだら、「んなこと知ってるわい!」程度のことしか、おそらく書けません。

 けへへ、文学賞偏愛者ってのは、その程度しか「星雲賞」のことを知らないのか、と思って笑っておいてください。

 さて。

 日本におけるSF賞。そのいちばん初めは、昭和40年/1965年にできた「日本SFファンダム賞」だったそうです。これが5年ほど続きます。昭和45年/1970年、奇しくもそれに取ってかわるがごとく、「星雲賞」が創設されました。

 どちらも、日本SF大会……SFファンたちが主体となって運営される年一回のイベントで企画されたものでした。

「――「SFファンダム賞」は「トーコン5」(引用者注:第9回日本SF大会)が最後になりましたね。

柴野(引用者注:柴野拓美) そうです。そしてこの時に今の「星雲賞」がスタートしました。(引用者中略)

 実は何年か後になって、この時のことを伊藤(引用者注:伊藤典夫)さんから謝られて面食らったことがあるんです。「自分が『星雲賞』を作ったことが、結果的に『日本SFファンダム賞』を潰した形になって、申しわけない」ってね。こっちは初めからそんな風には思ってなかったから、そこまで気をつかってくれていたのかと、かえって恐縮しました。

――第一回「星雲賞」のお膳立ては誰がやったのですか?

柴野 僕はよく知りませんけど、そもそものアイデアからすべて伊藤さんが中心になってやったんだと思います。確かあの時は事前に候補作品を示すのじゃなくて、会場に来た参加者に自由に投票してもらったんじゃなかったかな。」(平成9年/1997年11月・出版芸術社刊『塵も積もれば―宇宙塵40年史』「6 一つの節目――第一〇〇号とそれ以降」より)

 たぶんSF界隈では重大な事件だったと思います。独自の賞が立ち上がったんですもの。歴史のなかの一大事に違いありません。

 何つっても1970年代です。一般人の無理解に悩まされていた「SF迫害」の時期です。既存の文学賞の世界も、そういった一般の風潮から逃れることはできず、SFに対して賞が与えられることは稀でした。たとえば石川喬司さんは、昭和48年/1973年に半村良さんが泉鏡花賞受賞した折りに、このような紹介をしています。

「とくに注目されるのは、半村良の活躍である。秘境での宝探しという伝奇小説のパターンに新しい時代の息吹きを通わせたSF推理小説『黄金伝説』で第六十九回直木賞候補(SF作家としては五人目、九回目――星新一小松左京筒井康隆三回、広瀬正三回)、途方もないホラ話を繰広げたSF日本史『産霊山秘録』で第一回泉鏡花文学賞を受賞した。SF作家が賞をもらったのは、星新一の日本推理作家協会賞(68年)以来のことである。(昭和52年/1977年11月・奇想天外社刊 石川喬司・著『SFの時代』「SF界展望 SF界1973」より 太字下線は引用者)

 「五人目、九回目」といちいち指折り数えているサマが目に浮かぶようではありませんか! その姿を想像して、胸がジュンとしない人がいるとは思えません。涙がこぼれてきます。

 半村さんが『黄金伝説』で候補になったときに……いや、星新一さんや小松左京さんが出版界をにぎわせ始めたときに、直木賞が彼らに賞を与えていたら……。おそらくSF胎動期における、文学賞の様相は、すこし違っていたんじゃないかと思うわけです。

 ええ。文学賞なんて、たかが小さな文壇内の一行事にすぎません。そんな評価軸に何ほどの価値もないことは、年端もゆかぬチビッコでさえ知っています(たぶん)。それでも、SF界にぞくぞくと生まれる力作たちが、何ら表彰されないのは、さびしいかぎりです。

 そんな状況下、日本のSF賞は誕生しました。文壇のひとたちは誰もつくっちゃくれないので、アマチュアたちが自分の手でつくりました。偉いですね。しかもです。ファン投票の順位で決める、っていう既存の文学賞とは性質を異にした姿で生まれました。小説の部門だけでなく、「映画演劇部門」なんてものも設定しました。SF賞は、凡百の文学賞とはまったく違う路線を歩みはじめることになるのです。

 いいですねえ。SFは文学の一ジャンルなんかじゃないですもの。SF賞が既存の文学賞っぽくない誕生を遂げ、成長を続けていったのも当然かもしれません。SFジャンルの特質が如実に表れています。

 ほんとはSF賞も、プロの作家や評論家が選考するかたちで創設されて、おかしくありませんでした。以前、日本SF大賞のエントリーで取り上げた、福島正実さんによる賞創設の計画です。日本で最初のSF賞の計画、それは昭和40年/1965年。星雲賞ができる5年前でした。

「残念ながらこの賞は、けっきょく正式に制定されず今日に到っている――その間にさまざまの事情は介在したが、これが実現していれば、日本SF界のその後はまた、ちがったニュアンスをもつ発展のしかたをしたかもしれないのである。」(昭和52年/1977年4月・早川書房刊 福島正実・著『未踏の時代』「'65」より ―引用原典は平成21年/2009年12月・早川書房/ハヤカワ文庫JA)

 この肩の張りようが、福島正実さんだなあ、と微笑んじゃうところではあります。それはそれとして。

 福島さんの場合は、まず戦略を練る。賞がどの層にどういった効果を及ばすかを考える。そのために人選をして、舞台を整える……。イベント企画として非常に正しい進み方をしたと思います。

 しかし、想定どおりにいかないのが世の習い。といいますか、文学賞の習い、です。準備をこつこつ積んだプロのSF賞は途中で頓挫。いっぽうでは、何かとりあえず始めちゃったアマのファン投票の賞が、着実に根付いていく、という。

 最初はファン同士の集まりだったものが、なりゆきのまま運営していたら、次第に組織化して〈日本SF大会〉になり、それを10年つづけるうちに、これもおのずと「賞」が生まれていったわけです。この自然な感じが、星雲賞の特色であり、強みだと思います。

 星雲賞の特色といいますか、ファン同士がいつの間にか集まって結束し、そのジャンルを盛り立てる、っていうこの姿こそ、SF界では常識なのかもしれません。誰に教えられたわけでも、誰に影響されたわけでもない。SF者の本能として、愛好者同士の集合→グループ化→拡大→「賞」の創設、っていう過程を踏んだ、っつうことでしょうか。

「SFというものは読むためにあるのだから、一人で読んでりゃよさそうなものをわざわざあつまったり、ファンジンを出したりするのは、なにもアメリカがそうだから日本で真似をしてみたわけではない。日本最初のファングループ《宇宙塵》――といってもこれは同人誌的なカラーが強かったが――が結成された当時、アメリカでどんな風にやっているのか知っていたのは矢野徹さんだけだったのだし、《SFマガジン同好会》にしてもまったく独自の出発点からスタートして、いざアメリカの実情を知ってみたらおどろくほどよく似てた――ということなのである。」(平成7年/1995年8月・東京創元社刊 野田昌宏・著『「科學小説」神髄―アメリカSFの源流』「第6章 今昔ふあん気質考」より ―初出『SFマガジン』昭和43年/1968年3月号~8月号)

 と野田昌宏さんは、日本SF界のファングループの発生を回想しています。アメリカでも、プロ作家の決めるネビュラ賞より先に、ファンの決めるヒューゴー賞がつくられました。日本でも奇しくも同じ展開をたどり、日本SF大賞より先に、星雲賞ができました。

 そう。「奇しくも」かもしれません。ただ、「必然的に」と見たほうが面白いので、ワタクシは「星雲賞は自然のながれのなかで、必然的にできた」っていう見方を採用したいと思います。

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2011年3月13日 (日)

芸術選奨文部科学大臣賞・大臣新人賞 受けるのに「後ろめたさ」を感じる人がいる、歴史の重み。

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 先日、3月11日に文化庁から第61回芸術選奨の受賞者が発表されました。

 平成23年/2011年3月11日。この日は、芸術選奨発表などとはまったく別の重大なことが起こった日として、今後永らく日本人のあいだで語り継がれることと思います。

 ただし、うちのブログは、うちのブログとして本来の趣旨を踏み外さないことを守ります。直木賞とそのライバル賞に目を向けて、ツッコんで、笑うのみです。

 さて、芸術選奨。正式に言いますと、芸術選奨文部科学大臣賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞。漢字ばっかですね。

 「文部科学大臣」なる名称を含むその賞名が示すとおり、運営主体は国家です。今は文化庁がやっています。かつては文部省が主催していました。

【芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)受賞者一覧】

【芸術選奨文部科学大臣新人賞(文学部門)受賞者一覧】

 とりあえず文学部門にだけリンクを貼りました。他にも、現在、全11部門あります。それらのリストへのリンクは、当エントリーの最後にまとめて付けました。おひまなら、ご興味のある部分を、適宜ご参照ください。

 国家の関与する文学賞。……そうです。そこには明治以来、どす黒い歴史が横たわってきました。

 文学賞とは何でしょう。ひとがひとの作品を選別し、いいものを褒め称える。それだけで済めば素晴らしいんですが、残念なことに余計なモノがくっついてきます。

 お金を上げる、記念品を上げる。受賞者は持てはやされ、脚光を浴び、「○○賞作家」の肩書きが付き、世間から尊敬され、そういう人はまた何年かすると選別する側の役割を任されやすく、権威や権力と結びつき、名声を得る。……ロクなもんじゃありません。文学賞。

 そこに「国家が関与」のドラが乗っています。ロクなもんじゃない度、さらに倍、です。

 「作家たるもの、国家に飼い慣らされてどうする」みたいなハナシが出てきます。政治的な主義がどうこう、そんなことに税金を使うとはどうこう、……と受賞作の出来・不出来とは別の観点で、物を言い出す人が増えるわけです。

 明治期にも一回だけ文藝選奨が行われました。そのときを体験した正宗白鳥さんは言います。

「面白いのは、我々が賞金を贈与されるとか、洋行費が貰へるとかいふ噂が立つと、「彼等の愚作に対して、国民の膏血の結晶である租税の一部を割いて賞金を与へるのは怪しからん。」といふ非難が、何処からともなく、私などの耳にも入つたことだ。成程国民の膏血で小説なんかを肥さなくつてもいゝ訳だ。私など、そんな文句のついた金をあの時貰はなくつてよかつた。

 そこへ行くと、「文藝春秋」社の芥川賞や直木賞は、与ふる方も貰ふ方も、後目たいところがなくつて、気持よく授受し得られるだらう。」(昭和60年/1985年9月・福武書店刊『正宗白鳥全集19巻』所収「文学賞金」より ―初出『読売新聞夕刊』昭和10年/1935年8月17日「一日一題」)

 ほお、そうなんですか。直木賞・芥川賞。おカネの面では、たしかに後ろめたくないかも。

 でもなあ。やれ「文春の宣伝に過ぎない」、やれ「文春の手先を増やすための茶番」と、今でも攻撃され続け、果たして「気持ちよく授受」できるものかは、ワタクシはわかりません。

 ちょうど直木賞・芥川賞ができる頃、昭和9年/1934年に、文藝懇話会賞という賞ができました。これも国家の手垢のついた賞です。第1回のとき、警保局長・松本学さんが難色を示したのが原因で、プロレタリア派の島木健作さんへの授賞を見送った、みたいな事件を引き起こします。

 良識ある人たちは、鬼の首をとったかのように吠えました。「ほら、国家が関わると正しい作品評価などできないんだ」とか。「文藝懇話会と言いながら、そのカネはどこから出てるのだ、国じゃないのか、そんなもの嬉しがってもらう奴は、ホンモノの文士じゃねえや」などなど。わんさか野次が浴びせられました。

 しかも、ですよ。そんな国家の言うままに付いていった結果、戦争はボロ負け。

 明けて昭和22年/1947年。もうさすがに、作家たちの自由にさせてもらえるでしょ。と安心した(?)のも束の間、早くも国家による文学賞の動きが、むくむく起こり始めます。

 その不穏な動きにピピーンと拒絶反応を示した作家がひとり。隠れ文学賞マニアの中野重治さんでした。

「役人は隠しごとが好きだから、知らぬ人も多かろうが文部大臣賞というものがある。あるいは出来ようとしている。映画、演劇、音楽、文学、そういうものにたいし、その「いいもの」をえらんで、文学なら文学の発展をはげますため文学文部大臣賞をくれようというのである。予算の総額は十万円、文学の賞は金一万円である。国民の生活を破壊し、国民の文化を破壊し、国民の文学を頽廃と足踏みとにみちびいている今の政府の文部省、世界に恥をさらしたあの歴史その他の教科書の元締である文部省が、その大臣の名で文学賞を出そうというのである。」(昭和54年/1979年3月・筑摩書房刊『中野重治全集12巻』所収「文部大臣賞と文藝家協会」より ―初出『アカハタ』昭和22年/1947年12月18日~19日)

 中野さんの説明によれば、この文部大臣賞、文部省の芸術課員から日本文藝家協会に推薦作品を選定してほしいと依頼が来たのだそうです。内々に。中野さんは協会の常任理事だったんですが、んなことできるか!と猛反対。

 しかし、昭和22年/1947年11月。中野さんが欠席した常任理事会で、こんな決定がなされちゃいます。

「今般文部省より文部大臣賞設定に当りこれが銓衡推薦に就いて当協会に対し依嘱の申入れがあり去る十一月十四日の常任理事会において種々協議の結果文部省に協力すべく決定いたしました。」(同「文部大臣賞と文藝家協会」より 太字下線は引用者)

 出席した理事のうち、反対したのは佐多稲子さん一人だったそうです。

 文部省の芸術課。っていうのは戦後できた部署でして、初代課長が今日出海さんです。彼の発案で、昭和21年/1946年から年一回、芸術祭なるイベントを始めたばかりでした。昭和22年/1947年、今さんに替わって芸術課長の座についていたのは、檜垣良一さんです。

 当時、昭和22年/1947年の段階で、文部省には選奨費なる予算があったことがわかっています。その費用の具体的な施行策が、「映画、演劇、音楽、文学などへの文部大臣賞」として計画されていたわけですね。

 ただ、少なくとも昭和22年/1947年には、作家たちに反発や困惑を引き起こすだけで終わってしまったようです。中野重治さん、文藝家協会常任理事を辞任。そして結局、残った人たちでも、推薦作をまとめることはできなかった、と。

◇日本文芸家協会総会 は(引用者注:3月)三十日開かれ、協会に推薦を依頼された二十二年度文部大臣賞は選定困難のため返上することになり、協会運営のためつくられた協会の機関誌「文学会議」を一そう発展させるため別に文学会議社を設けることに決定、(引用者後略)(『朝日新聞』昭和23年/1948年4月1日より)

 ここでは「選定困難のため」って理由になっています。しかし翌年、今日出海さんは『日本読書新聞』で、

「先年文部省が文学賞を出そうとしたら、文芸家協会が政府からもらうべき筋のものではないといって断った。」(『日本読書新聞』昭和24年/1949年3月2日号「文学賞の流行」より)

 などと、威勢のいい表現をしています。実際はどうだったんでしょうね。まあ、中野さんの辞任以後もいろいろと反対の声が挙がったことは想像できます。

 では、文部省の「選奨費」はどのように使われたのか。昭和22年/1947年~昭和25年/1950年の4年間は、文学ヌキでの選奨となりました。芸術祭の参加公演のなかから、優秀な団体・個人に賞金を与える、ってかたちです。

 ええ、これはこれで、演劇関係者からは不評を買ったらしいですけど。

「昨年も一昨年も不評だった文部省主催の『芸術祭』が今年度も九月から十一月にかけて行われる。

(引用者中略)

佐々木孝丸(劇作家組合) 全く無意味だ。しかも聞くところでは昨年度の芸術祭ではあらかじめ文部大臣賞が決っていたという。実際、賞をもらったものゝなかには随分疑問のものもあった。芸術官僚と興行資本のなれ合いと情実におおわれたこの種の芸術祭には一般の大衆は何ら興味を示していない。」(『朝日新聞』昭和23年/1948年8月15日「「芸術祭」をどう見る? 興味なし・予算が少い・無益無害」より)

 んもう。何だかんだと文句をつけられ、作家たちからはソッポを向かれた恰好の、文部大臣賞。でも勇敢です。しぶといです。叩かれても、ウザがられても、折れない気持ちを持っていました。

 昭和26年/1951年春から、「芸能選奨」として、演劇、音楽、文学など(映画は昭和29年/1954年から)の各部門に賞を贈ることになります。

 ついに、文部大臣文学賞が世にお披露目となりました。

 文学部門とは言っても、最初の5年間は、じっさいは「児童文学部門」でした。事実そう表記していた新聞もあります。ところが第6回(昭和30年/1955年度)からは、文学の本丸・一般の文学も対象に加わりまして。

 ううむ。文士を気取る作家たちの、高熱な拒絶反応を覚ますには、5年の期間が必要だった、ってことなんでしょうか。

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2011年3月 6日 (日)

吉川英治文学新人賞 善行を続けているのに世に知られていない。うん、これは吉川英治文化賞を授けたい。

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 吉川英治文学新人賞ってごぞんじですか?

 このブログを読むような方にとっては、常識の範疇だと思います。ただし、世間一般からすると、ごく少数派です。希少種です。いうなれば、この賞を知っている人は、かなりの変わり者です。

 大衆文学(乱暴だけど、「エンタメ小説」って言っちゃいますか)を対象にした文学賞にも、ちょっとした歴史があります。そのなかで直木賞は、知名度と影響力の面で、長らくトップの座に君臨してきました。

 その牙城を崩そうと、新潮社が立ち向かいました。でも惨敗。角川書店も自前のものをこしらえました。でも廃止。だらしないなライバル会社。じゃあ、おいらがやりますか。……と、昭和55年/1980年にようやく重い腰を上げたのが、泣く子も黙るエンタメ小説界の雄、講談社だったわけです。

 【吉川英治文学新人賞受賞作・候補作一覧】

 重い腰を上げた、つう表現は、恣意的すぎましたか。この見立てには、オタクの妄想が多分に含まれています。気にしないでください。

 ただ、吉川英治文学新人賞(略して吉川新人賞)ができるまでの背景は、しっかり抑えておきたいところではあります。

 以前「吉川英治賞」のことをとりあげました。昭和37年/1962年、吉川英治さんがまだ存命中のとき、毎日新聞社がつくった公募型の賞です。

 昭和41年/1966年6月にいたって、この賞は、毎日新聞社から講談社(正式には、財団法人吉川英治国民文化振興会)に譲渡されることになりました。

 ほお。文学賞って、譲渡される類いのものなんですね。勉強になります。

「「吉川英治文学賞」の前進(原文ママ)である「吉川英治賞」は、昭和三十七年に毎日新聞社によって設けられた。(引用者中略)その後、毎日新聞社は、新人育成に発展することなく、薄らぎつつあった。

 そのころ、(引用者注:講談社の)野間省一社長は振興会(引用者注:吉川英治国民文化振興会)設立を志し、その事業の中心として、「吉川英治賞」の譲渡を毎日新聞社・上田常隆社長に申し入れた。

 その交渉は、星野哲次・講談社専務取締役と、狩野毎日新聞社取締役の間で行われ、「吉川英治賞」を大きく発展させるという意義を、毎日新聞社側が認め、昭和四十一年六月五日、両社共同の名儀で社告が出され、名称と基金は、前年設立された振興会(事務局・講談社内)に引き継がれることとなった。」(平成12年/2000年12月・講談社社友会刊『緑なす音羽の杜にIII―講談社と私たちの九十年―』 岩田マサ子「資料(12)財団法人吉川英治国民文化振興会設立の過程」より)

 昭和41年/1966年。おりしも講談社が創業57周年、だっつうのに早くも「創業60周年記念事業」をおっ始めた年でした。そのうちの一つが『吉川英治全集』の刊行。ううむ、さすが英治作品っていうのは、講談社のドル箱です。

 そうですよ。だいたい、講談社の抜きん出た特長、といえば何ですか。岩波文化VS.講談社文化、と言われるように、講談社イコール、やみくもなまでの大衆路線でしょう。乙に澄まして野間文芸賞とかやっている場合じゃありませんよ。野間省一社長の旗ふりで、ようやく吉川英治文学賞を入手。昭和42年/1967年からエンタメ小説部門の文学賞をやりはじめたっていうのは、やや遅かったよな、と思わされます。

 ところが、この新生・吉川賞、なかなかのクセものでした。

 このとき、吉川賞は二つになりました。

 ひとつは「文化賞」。文化の向上に尽くした人々を顕彰する、というものです。しかも、あまり表彰される機会の少ない人たちに光を当てている。おお、吉川英治さんの人柄を偲ばせる貴重な試みだ、偉いなあ。……と、これは文句のつけようがありません。

 しかし、もうひとつの「文学賞」のほうは。その年度の優秀な文学作品に贈る。となりまして、以降ずらりとベテラン作家がとるための賞になってしまいました。

 うん。そりゃあ英治さんには、エンタメ小説界の発展を願っていた、っていう非常にザックリした遺志はあったんでしょうけども。そもそもの吉川賞の発端とは、かなり方向性がズレてしまったような。

「吉川賞は、毎日芸術大賞(賞金百万円)を受賞した故吉川英治氏が、毎日新聞社に寄託された賞金を基金に、文学の新人に道を開きたいという氏の意思にそって、創設されました。」(『毎日新聞』昭和41年/1966年6月5日「吉川英治賞を委譲 吉川英治国民文化振興会に」より 太字下線は引用者)

 文学の新人のために……。この英治さんの切なる思いは封印されてしまったわけです。

 それから年を重ねて14年。

 昭和54年/1979年は、講談社創業70周年。10年前にも増して、いろいろな記念出版、記念事業が企画されました。『愛蔵版 吉川英治全集』なんてのもその一つ。相変わらず英治さん、「周年もの」に名前を借り出されています。人気者です。

 この年の1月1日。各新聞に全面広告で、創業70周年の記念企画がずらーっと発表されました。目玉は『昭和萬葉集』刊行。賞関係でいいますと、「野間アフリカ出版賞」創設なんてなのもありました。

 この段階では発表されていなかったのですが、日がたつにつれ、「ええいこの際、文学賞にも手を入れちゃえ」と、後追いで文学賞の拡張が行われます。昭和54年/1979年10月号の『群像』で、「野間文芸新人賞」の創設を発表。年があけて昭和55年/1980年4月号(2月発売)の『小説現代』では、「吉川英治文学新人賞」の創設も公けになりました。

吉川英治文学新人賞創設について

 財団法人吉川英治国民文化振興会は、日本の典型的な国民文学作家として広く読者に親しまれ尊敬されてきた故吉川英治の偉業を記念して設立されたもので、故人が生前ひそかに希い続けていた遺志をうけて、昭和四十二年以来「吉川英治文学賞」と「吉川英治文化賞」の二つの賞を設定してまいりました。

 このたび講談社創立七十周年にあたり、前記二賞に加えて新たに「吉川英治文学新人賞」を設け、今年度より下記のような内容で実施することになりました。

一、対象作品

 毎年一月一日から十二月三十一日までに新聞、雑誌、単行本等に優秀な小説を発表した人の中から、最も将来性のある新人一人を選びます。

(引用者中略)

財団法人吉川英治国民文化振興会

株式会社講談社」(『小説現代』昭和55年/1980年4月号より)

 吉川英治の死から18年。毎日新聞の「吉川賞」が消えて14年。ようやく、新人のための吉川賞が蘇りました。

続きを読む "吉川英治文学新人賞 善行を続けているのに世に知られていない。うん、これは吉川英治文化賞を授けたい。"

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