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2011年2月 6日 (日)

文藝選奨(文部省文藝委員会・選) 100年前の文学賞、グダグダでした。そりゃそうです。だって文学賞だもの。

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 直木賞の源流をたどる旅。先日は、明治末期の「『早稲田文学』推讃之辞」を取り上げました。

 しかし、「推讃之辞」はまだ多くの点で、文学賞としての態をなしていませんでした。だれがどのように選んでいたかがわかりませんし。体裁はほとんど、文芸評論の延長線上にすぎません。

 「既成作家を対象にした、非公募の文学賞」。その最初期に現われた企画、といったら、やはり「推讃之辞」よりも「文藝選奨」のほうに注目するのが適切なんでしょう。

 文藝選奨とは……。「推讃之辞」のスタートから遅れること4年。明治45年/1912年の春に、たった一回だけ行われた企画です。

 【文藝選奨(文部省文藝委員会・選)受賞作・候補作一覧】

 明治44年/1911年5月。国家の組織である文部省の下に、民間人を集めて文藝委員会なる組織がつくられました。メンバーは17人。いずれも、文壇界隈で名をなしていた面々です。

 彼らのお役目のひとつは、すぐれた作品・作家を選んで、顕彰し表彰すること。彼らの選んだ作家には、文部大臣から賞金が贈られることになっていました。要は税金をつかって、国が作家に賞をあげる、ってことですな。

 さあ、この舞台設定だけですでに、いろんな興味がわきませんか。

 なにせ、日本人にとってほぼ初めての経験です。発表済みの文藝作品を俎上にのせて、委員どうしが議論のすえに、賞を決める。いったいそこで、どんなことが起こったのでしょうか……。

 くわしいことは、和田利夫さんの『明治文芸院始末記』(平成1年/1989年12月・筑摩書房刊)が、細かくネチっこく紹介してくれています。

 この本がまた、ドギモを抜く面白さなんですよね。著者・和田さんの、賞ゴトに対する不信感・不快感っていうフィルターがかかっていて、そこもまた読ませどころ。いや何より、充実した資料探索ぶり、めくるめく文壇ゴシップの積み重ねが、読む者を圧倒します。

 テーマは、国家による文藝(文士)保護。保護というのはつまり統制、に通じていますから、保護保護いっといて、国が気に入るような、薄っぺらな作品ばかりが手厚く優遇されることになり、逆に文藝の発展を阻害するんじゃないか、みたいな議論ですね。そのなかで、一人ひとりの文士が、どんな態度でどんな発言をし、事態がどう転んでいったのか……興味の尽きないハナシが濃厚に収められています。

 ワタクシが『明治文芸院始末記』に付け加えることなど、何もありません。この本を参考に、文学賞オタクとして、気になる点を二つほどピックアップして、先を続けます。

 ●優れた文学作品に賞金を授与する、って発想はどこから生じてきたのか。

 ●「文学賞」なる見慣れない劇を目のあたりにして、明治の人たち(ジャーナリズム)はどんな反応を示したのか。

 以上二点です。

 文藝委員会が組織されるより前、明治42年/1909年1月。文部大臣の小松原英太郎さんが、文士たちを食事会に招いて意見交換をはかったことがありました。そのとき、招待された一人が、文学賞のことを口にしています。これが、のちの文藝選奨への伏線となったのだそうです。

「席上、文芸院設立に積極的賛成の意を表したのに上田万年と上田敏の東西両帝大の上田がいた。万年の意見は、文芸の審査は第二義的なものとし、文芸奨励のためには文壇の功労者を文芸院に入れると共に、海外に漫遊させて文士の地位を高めたい、その為にも文芸院は必要である、というところにあった。敏の方は、英米の文芸に見るべきものがないのはアカデミーがないからで、独・仏・伊などでは何らかの保護を政府が与えている、日本もアカデミーを設立して文芸の保護を計られたい、と発言している。すると森鴎外が、ドイツのシルレル賞与金の話を持ち出した。」(『明治文芸院始末記』「一四、文芸院の設立は是か非か」より)

 出ました。森鴎外さんです。

 日本の文学の世界に、文学賞なんちゅう化けモンをもってこようとした最重要人物のひとりです。

「文相の文士招待会に関する鴎外の談話摘要は、情報源が限られていることから、いずれも大同小異で、いちいち紹介するのも煩わしいくらいだが、一月二十日の『中央新聞』に載った記事には発売禁止についての発言もあるので、参考までに全文を掲げてみる。

森鴎外氏 独逸にはシルラー・プライスと称するものがあつて文芸を奨励して居る、これは一定の委員が設けられてあつて一年に一遍づゝ佳き作物を挙げて夫れに各一千馬党の賞与金を与へて之を表彰して居る、日本にてもこれを実行したならどうであろう これは実行が容易であらうと思ふ……之れに対しては当局者の答弁があつた、夫れなら日本は容易に出来る 来年からでも出来やうと思ふ……(引用者後略)(同書より)

 何といっても、鴎外さんですからね、ドイツの文学事情……と言いますか文壇事情に精通していた人です。その彼が、文学賞のない味気ない(?)日本の風土のなかに、突然繰り出した、欧州の文化。プライス。賞金。いわゆる賞。

 うん。それはいいんだけどさ。シルレル(シルラー)・プライスって何なの?

 当時の習慣を守るのなら、「シルレル・プライス」または「シルレル賞金」。そんな言葉を使って、ワタクシも気取ってみたいものです。でも、いまの我々にはわかりづらい。以後「シラー賞」と訳します。

 【シラー賞受賞作一覧】

 Schillerpreis(シラー賞)。こいつです。どうやら、こいつめが、直木賞をはじめとする日本の近代文学賞の、源流のひとつらしいのです。

 そしてまた奇遇なことに……、いや、必然なんでしょう。シラー賞とは何であったか。鴎外さんはそれを真似て日本に文藝選奨をつくりましたが、文藝選奨がたどることになる顛末を、はなから予感させるシロモノでした。

 いや、文藝選奨だけじゃありません。のちに日本でもたくさんの文学賞がつくられます。その多くが、文学賞ゆえに遭遇せざるを得なかった、愚かしくも楽しい事態……たとえば、賞運営の混乱とか、文壇内の争いとか、そういったゴシップ性を帯びていて、まさに文学賞の模範としてふさわしい行事、それがシラー賞なのでした。

          ○

 プロイセン(昔のドイツ)の劇作家、フリードリヒ・フォン・シラーは、1805年に亡くなりました。

 死してもなお、彼の作品はプロイセン人たちに愛されていたんでしょう。シラーに対する評価は、没後、さらにぐんぐん高まったんだそうです。

「ゲーテは、シラーが亡くなった一八〇五年から、彼自身が没する一八三二年まで、機会あるごとにシラーについて語り、彼の人柄を懐かしんだ。(引用者中略)当時ヨーロッパ的名声をほしいままにしていたゲーテその人が、倦むことなくシラーをほめたたえたのだから、シラーの評価が上がらないわけがない。ことに、人々の政治的関心が強くなり、ドイツ統一の気運が高まった一九世紀半ばには、シラーの声価はゲーテのそれをも凌ぐまでにさえなった。そのようなシラー崇拝熱がその頂点に達したのは、彼の生誕一〇〇年祭の年、一八五九年であった。」(平成6年/1994年7月・清水書院/センチュリーブックス 内藤克彦・著『シラー 人と思想』「おわりに」より)

 その1859年です。

 経緯はよくわからないんですが、「よしシラーを記念するのか、じゃあ俺が金を出してやるからシラー賞でもつくりたまえよ」、などと偉そうに言い出した奴がいます。プロイセンの摂政、カイザー・ヴィルヘルム1世です。

 シラー賞は当初、3年に一度、その期間に発表された優秀な戯曲(劇作)を選び、それを書いた劇作家を表彰する決まりで始まりました。年度の起算は翌1860年から始まったようで、最初の授賞は、設定4年後の1863年。フリードリヒ・ヘッベルに与えられました。

 ヴィルヘルム1世は、1861年にプロイセン王に即位します。まさか彼が一人で、候補になりそうな劇作を物色していたわけはありませんよね。そんな暇人じゃありません。予選選考をするシラー賞委員会が下にあって、彼らが推薦したものを、国王が認可して賞を与える。おそらく、そんなかたちだったのではと思われます。

 まあ、ヴィルヘルム1世時代の事情は判然としません。ただ、少なくとも19世紀末~20世紀初頭のヴィルヘルム2世のころには、そうなっていました。

 民間の有識者たちが、「彼がいい」「いや彼のほうがいい」と選考する。でも最終的にお金を出すのは国家。……うん、これってまさに、森鴎外さんが文藝選奨として採り入れた、そのかたちまんまですね。

 ただ、シラー賞って、ほんとうに文藝奨励のためになっていたのか。西洋のすぐれた文化、としてお手本にするような類いのものだったのか。何の波風も立たず、平穏無事に立派な文学賞として崇められていたのか。……となりますと、じつは、どうも違います。

 そうです。ご存知のとおり、文学賞たるもの、無傷なわけがありません。

「この文学賞(引用者注:シラー賞)は授賞に関する規則が常に動揺して方針が色々に変化したがために、毎年規則正しく授賞されないことがあつて、ある期間には二十年ばかりも、授賞するに値する傑作が見当らないという理由で、授賞しなかつたことさへあつたのである。そして最近でも過去の十二年間は全然授賞したためしがなかつた。」(『文章倶楽部』昭和3年/1928年3月号「海外文壇のいろいろ シルレル賞と其の受賞者」より)

 3年に1度しか受賞しないのに、何度も何度も授賞作なし、を繰り返すとは。なかなかの混迷ぶりなのです。

 いや、授賞作なし、だけならマシです。シラー賞は、さらに上を行く大きな騒動を巻き起こした文学賞でした。

 その授賞傾向に満足できない連中が、また別のシラー賞をつくっちゃったんです。

 ゲアハルト・ハウプトマン、っていう有名な劇作家がいました。19世紀末、シラー賞委員会の人たちも彼の作品の優秀さを認めて、「今年の受賞適任者はハウプトマンしかいないよね」「そうだよね」と授賞を決めます。1896年のことでした。

 ところがどっこい。受賞主体でありオーナーでもあるヴィルヘルム2世君。ハウプトマンのつくる劇が大嫌いでした。ハウプトマンに受賞することを断っちゃいます。

 3年後の1899年。ふたたび委員会はハウプトマンを推薦。しかし、ヴィルヘルム2世ときたら、頑固おやじもいいところでして。またも、受賞はならんと拒否権を発動。

 ぬおう。やっぱ国が芸術のよしあしを判断して賞を決める、なんて笑止千万だよ。国は、気に入らない内容のものにはフタをしたがる。だったら、民間人の目で、ほんとうのシラー賞をあげようじゃないか、そうしようじゃないか。

 ……つうことで、1905年に Volks-Schillerpreis なんてものがつくられます。訳すと「国民シラー賞」。当然、ハウプトマンさんが受賞者のひとりに選ばれました。

 しかも、ややこしいことに、既存のシラー賞はなくなったわけじゃありません。1902年からは6年に1度の授賞、と規約を変えながら、存続していたらしいんですよね。20世紀に入ってからのシラー賞は、もうぐちゃぐちゃです。最後の授賞は1927年、3人に対して贈られたようなんですが、これが、どっちのシラー賞のハナシなのか、いまのところワタクシには判然としません。

 さらに。シラー賞の混乱は追い討ちをかけます。1920年から、今度はスイスでGrosser Schillerpreisなる賞が始まります。右を向いてもシラー賞、左をみてもシラー賞。世のなか、シラー賞だらけです(って、それは言いすぎ)。

 当時の日本人だってね。そりゃ混乱しますよ。

「一九二八年度の有名なシルレル賞は、イタリイの作家、フランチェスコ・キエザが、去る十一月十一日に受けたさうである。」(『文章倶楽部』昭和4年/1929年1月号「海外文壇のいろいろ シルレル賞」より)

 たぶん、その「シルレル賞」は、有名なほうのやつじゃなくて、スイスの歴史の浅いほうのやつです。

 森鴎外さんが、どの程度、シラー賞を知っていたのか。よくわかりません。でも、彼の作「椋鳥通信」(『昴』明治42年/1909年3月号~大正2年/1913年12月号)なんて、もう完全に、海外文壇ゴシップを網羅しただけのシロモノでして、こんなものを集める情熱の持ち主ですからね。おそらくゴシップ好きの鴎外さん、シラー賞のぐちゃぐちゃな感じもご存知だったのだろう、と思います。

 そうさシラー賞を見てごらん。授賞作なしって結論は、特殊でも何でもないんだ。あげる算段がつかなきゃ、あげなくたっていいんだ。それが文学賞ってもんだ。つうかさ。文学賞なんて、国家の都合でいくらでもネジ曲げられる、その程度のもんなんだ。

 ……と、そこまで見通して、シラー賞のことを政府に提案したのだとしたら、鴎外さん卓見、お見事ね! と言えるんですけども。さて実際はどこまで考えていたんでしょうねえ。

          ○

 文学賞なんて、迷惑のかかる人がいるんだから、早くやめたらいいのに。……と、つい思いたくなるのは、報道機関なる暴力装置がこの世に存在するからです。

 でも、なくなりません。文学賞。しぶといですね。

 直木賞はともかく、芥川賞が最初のころ、ほとんど人びとの話題にのぼらなかった。っていうのは、「ほとんど」の意味の取りかたで、真でもあるし偽ともいえます。でも、ほとんどの新聞は取り上げなかった、というのは真っ赤なウソです。

 ジャーナリストは、人のウワサをして何ぼの職業ですからねえ。文学賞なんちゅうご馳走を前に、我慢できるほど大人ではありません。

 明治45年/1912年3月。日本に文学賞なんて行事が根づいていなかった頃。えっ、国が文藝作品(小説、詩、戯曲、エトセトラ)の優劣を決めて、賞を決めるの、まじで? こうしちゃいられんぞ、と新聞記者たちはワクワク胸を躍らせました。

 審議に加わった文藝委員のひとり、佐々醒雪さんは言います。

「実は委員会の議事は絶対の秘密といふことに相なりをり、従つて世間に評判せられしものが、果して尽く予選に上りしや否や、或はその外にも予選に入りしものなかりしや否やといふことだに、公言致し難き次第に候(引用者後略)(『中央公論』明治45年/1912年4月号「文藝委員会予選作物について」より)

 そもそもどの作品が候補になったのか、誰が何を推したのか、そういったハナシは絶対の秘密、なんだそうです。

 なぜ秘密にするのか、同じく文藝委員の姉崎正治さんは解説します。

「一々の委員が各々所見を公表することと相成ては結局誰々は何の作を推奨し何の作を排斥したりとの事を公表する結果となり委員相互の感情問題をも伴ふ次第に有之委員会を破壊分裂する目的ならばいざ知らず左ならぬ限りは相控へざるを得ざる儀と信じ候(引用者後略)(『中央公論』同号より)

 要は、選考理由とかを公開しちゃうと、せっかくの仲良しクラブにヒビが入るのよね、ってことでしょうか。俺は気骨ある文士、である前に、和を尊ぶ日本人である、と。……ははあ、早くも文学賞のもつ後ろ暗さが、ここから、かいまみえますなあ。

 それで本当に候補作は極秘。なのかと思いきや、新聞各紙、文藝選奨の決まる前から、バンバン、候補作やら下馬評やらを載せちゃっています。煽っています。書いている記者のワクワク感が伝わってきます。

「小説の部にては夏目漱石氏の「門」島崎藤村の「家」永井荷風氏の「隅田川」の三は当選間違なかる可く坪内逍遥博士は沙翁劇「オセロ」「ロメオとジュリエット」の翻訳か或は文藝協会の経営者としてか二者其一を選奨せらるゝこと疑ひなしと噂す」

「文部省側の言分に依れば今回選奨は文藝上の傑作を選奨する為なるは勿論なるも事情に通ぜざる家庭や地方の教員などに於ては文部省が選奨したる作品なれば必ず文藝上の傑作なるのみならず道徳上亦健全なる模範なるべしと早断し其結果文部省に向つて非難の起るは勿論子弟教育の上にも害毒を流すことなしとも図られざれば這般誤解の生ずる虞なき時期に達する迄成可く普通道徳と並行する作物のみを選奨したき希望なりと然れど(引用者中略)此の如き文藝以外の標準に重きを置きて行はるゝビクビク議決は結局文藝の骨抜選奨となつて現はれ世間の嗤笑を買ふに止るべし(引用者中略)お伽話や教訓物語の作家に非ざる限り今後の文藝家は寧ろ文部省の選奨に漏るゝことを以て名誉とせざる可らず云々と某々文士等は傲語せり」(『東京朝日新聞』明治45年/1912年2月2日「選奨作家と作品 結局は骨抜選奨か」より

 これを下馬評と言わずして何という。文学賞が行われるとなれば、どうしても事前に予想したくなってしまう、という今の我々も持っている予想欲を、ああ、明治のみなさんもお持ちだったのですね。

 3月3日、選考会当日の『東京朝日』では、最終候補8名の名前とその候補作を列挙して、しかも、坪内逍遥(雄蔵)、正宗白鳥、島崎藤村、夏目漱石、木村鷹太郎、与謝野晶子、各候補者の顔写真まで、ご丁寧に並べて紹介する始末。

 結局、選奨作なし。それでは恰好がつかないので、坪内逍遥に文藝功労賞として賞金贈与。……ってなふうに、かなりみっともない選考結果に落ち着きます。

「予選作品の一たる夏目氏の『門』に就ては(引用者中略)官僚派より夏目氏の傑作は寧ろ『猫』なり今頃『門』を推薦するは同氏の為に惜しむ可きなりとの反対あり復非官僚派より最近一年間の刊行物に就てのみ選奨を行ふ次第なれば斯る心配は無用なりと駁したれども多数を以て官僚派の勝利となれり」(『東京朝日新聞』明治45年/1912年3月4日「文藝委員会の表裏 文部当局の悪辣 文藝委員の激昂」より)

 うわあ。こんな授賞反対の論拠、さんざん直木賞の選評でお目にかかったことがあるぞ。今度の候補作より、以前のアレのほうが全然よかったよ、みたいな。もうこのフレーズは、文学賞界の古典として、慣用句として、認定したいですよね。

 それはともかく。

 結果が結果だったものですから、もう新聞記者やら雑誌ライターのみなさん、楽しそうです。文藝委員会のダメさ加減、文藝選奨なる企画の無意味さ加減を、嬉々として攻撃しはじめます。ほんと、うれしそうです。人は、どうして攻撃するとなると、こんなに力強くなるんでしょう。

 評論家・金子筑水さんの目にも、こいつら楽しんでいやがるな、って映ったみたいです。

「過日の文藝委員会事件以来、文藝の奨励といふことが、またまた八釜しい時事問題と成つた。(引用者中略)多数の新聞雑誌は、殆ど面白半分に、此の問題を取扱つてゐる。文部省の高圧手段とか、文藝委員側の敗北とか、委員会其のものゝ不必要とか、大抵そんな浮ついた調子で、此の問題を迎へてゐる。」(『太陽』明治45年/1912年4月号 金子筑水「文藝奨励問題」より)

 そうでしょうそうでしょう。文学賞を前にしたら、面白半分にとらえてしまう、もう人間の本能かもしれませんね。ワタクシなぞは、面白全部ですけど。浮ついた調子。まったくです。そうさせてしまうのが、文学賞のパワーです。

 文藝選奨は、その後、文藝委員会が解散しましたので、1回きりで終わりました。

 以来98年。鴎外が参考したシラー賞も、文藝選奨も、もうありません。

 しかし、直木賞や芥川賞や、その他たくさんの文学賞が、あとを受け継いでくれました。いまなお、文学を愛する方がたのサンドバッグ役を、多くの文学賞が引きうけつづけてくれています。

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コメント

ついつい覗きに来てしまいます。。
これからも応援してます(*・`ω・)q

投稿: 駒込の美容室からカキコミ | 2011年2月 6日 (日) 23時07分

一応直系の後継者は芸術選奨の文学部門になるはずと思うのですが、予想などされているのは見たことがないですね(笑)

投稿: 毒太 | 2011年2月10日 (木) 02時40分

毒太さん、

そこにお気づきになりましたか……。
「予想欲」は、すべての文学賞に当てはまるわけじゃないんでしょうかねえ。

芸術選奨はもうすこし、事前の盛り上りがあってもよさそうに思うんですけど、
受賞決定以外で新聞ネタになるのが、だいたい、辞退か授賞取消しになったとき、ぐらいなものという……。

投稿: P.L.B. | 2011年2月10日 (木) 23時05分

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