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2011年1月23日 (日)

戦記文学賞 戦争末期の末期、の余裕のない時期に、なぜか文学賞をやってる会社。それが文藝春秋社。

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 直木賞の主催団体は、日本文学振興会っていいます。公益財団法人です。昭和13年/1938年に菊池寛さん・佐佐木茂索さんがつくりました。

 要は、文藝春秋のダミー団体ですね。主たる活動は、ほぼ文学賞を運営することだけ、です。

 この団体が行なっている賞としては、以前、大宅壮一ノンフィクション賞(昭和44年/1969年創設)を取り上げたことがあります。

 振興会の公式ホームページをご覧ください。直木賞、芥川賞の他に、菊池寛賞、大宅賞、松本清張賞。……いまだ注目を浴び続けるものあり、気息奄々のものあり、って感じで並んでいます。

 今日の主役は、この会がつくったもう一つの文学賞のことです。公式ホームページには載っていません。

 ああ。今じゃ、ほんとうに誰も知らない闇に葬り去られてしまいました。昭和19年/1944年創設の、「戦記文学賞」です。

【戦記文学賞受賞一覧】

 直木賞・芥川賞の親は佐佐木茂索さん。大宅賞の親は池島信平さん。……だとするなら、戦記文学賞の親は、斎藤龍太郎(船田龍太郎)さんです。おそらく。

 おそらく、などと腰の引けた表現ですみません。

 昭和19年/1944年~昭和20年/1945年8月までは、記録という記録が少ない上に、「一億玉砕」教のことなど綺麗さっぱり忘れたい、みたいな事情もからんでいるらしくて。当時のこと……とくに、このころの文学賞について語ってくれる文献が、まあ少ないのです。

 たとえば永井龍男さん。当時、文藝春秋社の上層部のひとりでした。真剣に思い出す気持ちがあるのかどうか、よくわかりません。

「昭和十九年度に入ってからの(引用者注:文藝春秋社の)業績は、ほとんど無に等しい状態であった。

 言論の統制は、すでに沈黙すら許さぬ極点にまで達していたし、用紙の不足は底を突いていた。

 雑誌としての機能を失ったものは「文藝春秋」に限らず、すべてが僅かに形体を止めて、月々を糊塗しているに過ぎなかった。雑誌のみではなく、優先的に用紙の配給を受けていた新聞が、半ペラ裏表の朝刊のみという段階に追い詰められてきた。

 ただ、この間にあって、文藝春秋社の別個団体である日本文学振興会が、敗戦直前まで「芥川賞」「直木賞」の銓衡に当っていたことなどが、今日顧みて特筆に値するかと思われる。」(昭和34年/1959年4月・文藝春秋新社刊『文藝春秋三十五年史稿』「編集の自由のない時代」より 執筆担当:永井龍男)

 そうですそうです、直木賞・芥川賞が、戦中最後に授賞決定した第20回が、昭和20年/1945年の2月。たしかに特筆に値します。

 ただなあ。永井さんが知らないはずはないんだけどなあ。そのわずか5か月後のことですよ。『文藝春秋』誌が発行不能となって休刊状態に入り、文春社員の仕事といえば、「応召社員留守家族への送金、遺家族に対する手当送金というような事務」になってしまっていた7月。日本文学振興会が、文学賞の授賞を決めていたこと、ほんとに忘れちゃったのかなあ。

 昭和20年/1945年7月といえば、です。戦時中の文学賞の総本山(?)だった日本文学報国会だって、機能不全に陥っていました。直木賞の『オール讀物』どころか、芥川賞の『文藝春秋』すら、発行できないほど、出版も文壇もボロボロでした。え。そんなときに、文学賞ですよ。

 いったい何を考えているのだか。……もとい。文学賞バカが昭和20年/1945年の段階でもたくましく生息していた、っつうことに、ワタクシは涙さえ催してしまうのでした。

 「半ペラ裏表の朝刊」のみになった新聞ですが、そこにこんな記事が小さく載りました。

故里村氏に戦記文学賞

日本文学振興会では里村欣三氏の報道戦における殊勲とその壮烈な戦死に対し第一回戦記文学賞を贈ることとなり、近く記念品ならびに賞金五百円をます子
(原文ママ)未亡人に伝達する」(『毎日新聞大阪版』昭和20年/1945年7月20日より)

 同日の『朝日新聞』にも、「戦記文学」と誤植されながら、ほぼ同記事が載りました。

 で、そもそも「戦記文学賞」って何でしょう?

 ……さかのぼること、約1年前に文藝春秋社=日本文学振興会がつくった賞です。いま見ますと、先行するアニキ分、直木賞・芥川賞のことを、そうとう意識してつくったのだと思われます。

 昭和19年/1944年。このころの文藝春秋社の状況を、おさらいしておきます。

 それまでは長らく菊池寛(社長)=佐佐木茂索(専務、つまり実務のトップ)の二頭体制でした。ところが昭和18年/1943年4月、社内の右傾グループがその体制の転覆をはかりまして、茂索さんを追い出し、代わりに斎藤龍太郎さんを実務トップの専務に担ぎ上げます。

 茂索さんは「副社長」なる肩書だけを与えられて、もうイヤになってしまい、伊豆に疎開。いわゆる、ひきこもりですな。

 さて、実権を握った斎藤龍太郎さん。以前にも同じ箇所を引用しましたが、もう一度だけ。永井龍男さんが、このころの龍太郎さん像を描いています。ちなみに永井さんは、時局迎合とは距離を置きたがっていたグループ、つまり茂索さんの子分格です。

「五尺に足りぬ短躯に、四季を通じて結城紬の上下に袴を着け、端然たる姿勢を崩さぬ人であったが、日本編集者協会の会長として、文芸春秋社専務取締役として、時流の尖端に立った得意は想像以上のものがあったに相違ない。」(昭和52年/1977年3月・読売新聞社刊『自伝抄 I』所収 永井龍男「運と不運と」より)

 その龍太郎が実質上のトップ。『文藝春秋』の編集人は菊池寛の女婿・藤澤閑二。「戦記文学賞」がつくられた昭和19年/1944年5月は、そんな陣容でした。

 以下、『文藝春秋』に載った「戦記文学賞」の制定文です。

 資料の意味も込めて、全文引用します。汚ならしい戦時下の文面を読みたくないお食事中の方は、すっ飛ばしてください。

「大東亜戦争下、我国文人の使命も亦極めて重大にして、一管の筆能く崇高壮大なる聖戦の姿と精神とを把握し、百世に恥ぢざる赫奕たる文勲を樹てざるべからず。茲に日本文学振興会は戦う文学を振作し、優秀なる作品を表彰する目的を以て「戦記文学賞」を制定す。

一、大東亜戦争以後の発表に拘る戦記文学を左の二部に分ち、夫々優秀と認められたるものに対して年二回宛授賞す。

 一部 散文(小説、記録)

 二部 韻文(詩、短歌、俳句)

一、賞 各部賞品並に副賞金五百円宛

一、選者 佐藤春夫、齋藤 瀏、川端康成、山口青邨、火野葦平(交渉中)、上田 廣丹羽文雄

昭和十九年五月

財団法人日本文学振興会」(『文藝春秋』昭和19年/1944年6月号「戦記文学賞制定発表」より)

 この賞が、同じ文春発の賞でありながら、直木賞・芥川賞をライバル視している、とワタクシは見て取ります。

 なぜか。ひとつには、先に書いたような茂索グループと龍太郎グループの対立が背景にあるからです。直木賞・芥川賞ってのは、べったり茂索グループのものですからねえ。

 さらに言いますと、戦記文学賞と一つの名称でありながら、二部に分けて、二つの賞をつくろうとしているところ。一年に二回、授賞しちゃうぜっていう発想。賞金(副賞)を、直木賞・芥川賞と同じ500円に設定している、などなど……。

 この制定記事には、川端康成さんが「選者として」なる一文を寄せています。康成さんなりの勇ましさが表われています。

「戦記文学の今日の意義と使命は言ふまでもない。ただ文学者として思ふことは、多くの戦記が十分大切にされてゐぬ憾みはないか。民族の宝を散佚埋没に委ねてはゐないか。この賞によつて、今日のため、後世のためそれを尚大切にする発燭を得れば幸ひである。」(同号より)

 ほんとですよね、康成さん。「多くの戦記が大切にされていない」、なるほどなるほど。「後世のためにそれを尚大切にする」、ええ、後世に生きているひとりの文学賞オタクとして証言しますと、まあ、大切にされていないこと、甚だしいですよ。

 おっと。戦記文学が大切にされていないかどうかは、わかりません。でも確実に、「戦記文学賞」は大切にされていません。この賞も、文学賞なる催しモノが続くかぎり、なお大切に語り継いでいってほしいと思います。直木賞・芥川賞とともに。

          ○

 謎につつまれた戦記文学賞。その第1回にしてたったひとりの受賞者が、里村欣三さんだ、っつうのも何かの星の巡り合わせなんでしょうか。

 なにせ里村欣三といえば、別名「謎多き男」。……彼については、ワタクシもよく知りません。

 それでも高崎隆治さんとか、サイト「里村欣三を求めて」の家主さんとか、信念と情熱でもって彼の人生を調べている方々がいらっしゃいます。すばらしいハナシです。

 里村さんは出世作「苦力頭の表情」の発表が、大正15年/1926年だそうですから、そこから数えても、死ぬまで20年弱。途中、『第二の人生』が、芥川賞(第11回 昭和15年/1940年・上半期)に推薦されたりしました。新潮社文芸賞第一部(第4回 昭和16年/1941年)の候補にもなりました。受賞には至らず、ずっと賞とは無縁でした。

 まあ、文学賞と無縁であって、特段、何の文句もありませんけども。

 その里村さんの唯一の(?)受賞歴が、死後贈られた戦記文学賞。なんか、ふさわしい展開だなあ。

 と言いますのも、里村さんの生涯は、その多くが「戦争」との関係で成り立っている、と言って過言じゃないからです。

「同じプロレタリア作家であった黒島伝治や立野信之らは「渦巻ける烏の群」や「軍隊病」などの反戦・反軍小説を自己の軍隊体験にもとづいて書いた。里村欣三はそのような反戦・反軍小説を一篇も執筆しなかった。むしろ、戦争が始まると従軍作家となり、『兵の道』(昭和十六年十月三十日発行、六芸社)や『熱風』(昭和十七年十月二十日発行、朝日新聞社)などの戦争小説を多く書いた。だが、里村欣三は、大正十二年以来、昭和十年に自首するまで、十二年間にわたって徴兵忌避者として、わが国の文学者の中で、軍隊を拒否したただ一人の作家だったのである。また、戦時中、多くの作家たちが陸軍や海軍の報道班員として徴用され従軍したが、不運にも戦死したのは里村欣三ただ一人だけである。」(『文化評論』平成2年/1990年2月号 浦西和彦「書評 知られざる文戦派作家の生涯 高崎隆治著『従軍作家 里村欣三の謎』」より)

 この浦西さんの文章。何がすごいと言って、これまで「海軍の報道班員として徴用された」と言われてきた直木賞作家、神崎武雄さんの戦死を、まるでなかったかのように書いているところですよね。「大衆文学出のペエペエを作家と呼ぶなんて、そんな恥ずかしいことできない」ってことなのか、「神崎さんの徴用は、里村らさんら有名人の徴用とは別種のものだ」との確信があるのかは、知らないんですけど。

 で、里村さんです。

 徴兵忌避。その後一転して自ら志願して兵となり、押しも押されぬ戦記作家になったと思ったら、終焉の場所も、また第一線の戦場。

 徴用作家が従軍中に死んだ、っていうインパクトもあったのでしょう。戦記文学賞が授けられます。でもすぐに戦争が終わり、その後は「どうせ死んじゃった人のことだし、ゴタゴタのなかで誰が決めたのかもわからないし、いっそなかったことにしてイインジャネ?」みたいな方向に向かったのか、里村欣三の戦記文学賞受賞に触れる人は、ほとんどいなくなりました。

 里村さんの死の直前まで彼といっしょに行動していた今日出海さんは、のちに書きます。

「里村君とは私の文字通りの戦友として終結した。(引用者中略)戦死にはならず、戦病死と軍医に診断されて死んで行った。今日、八月十五日、戦没者慰霊祭の日に彼の遺族は招かれたろうか。恐らく招かれまいと思う。彼の生涯はいつもこういう風に日向に出ない役廻りばかりしていた。」(昭和56年/1981年5月・中央公論社刊 今日出海・著『隻眼法楽帖』所収「里村欣三の戦死等々……」より)

 日向に出ない役廻りかあ。

 ワタクシ自身は、文学賞がすべて名誉である、とは思いません。思いませんけど、賞と無縁の男、戦争とともに一生を終えた男、里村欣三さんに、最後にひとつぐらい花を添えてあげてもいいと思います。そして、それによって川端康成さんが祈念していたように、後世にまで残れば万々歳です。

          ○

 昭和20年/1945年。2月に、第20回の直木賞・芥川賞が決まりました。

 このときの芥川賞受賞作「雁立」を読んで、かつての選考委員(戦後、また復活する)宇野浩二さんは、その不出来ぶりに、芥川賞終わったな、と感じたらしいです。交流のあった岩手の作家、佐藤善一さん宛てでこんな手紙を送っています。(以下、佐藤善一宛て宇野浩二書簡の引用文は、昭和53年/1978年12月・毎日新聞社刊 佐藤善一・著『わたしの宇野浩二』より)

「どうぞ、もう権威のなくなりました(誰もいふやうに)芥川賞のことなどをお考へにならずに、アタマにお入れにならず、お忙しいでせうが、御創作を、あせらず、ゆっくり、おすすめ下さいませんか。」(昭和20年/1945年7月27日付)

「芥川賞のことですが、(引用者中略)荷物がつきましたら、本その他の中に今度の芥川賞作品の出てゐます「文藝春秋」を入れておきますから、それをごらんになりましたら、こんどの芥川賞作品のつまらなさがお分かりになりますが、」(同年8月10日付)

 で、問題は戦争が明けた8月、9月です。ここから先、昭和24年/1949年夏まで、直木賞も芥川賞も中断した、っつうのが、いま流布している公式情報です。

 いや、敗戦後まもなく、『文藝春秋』誌上に、第21回(昭和20年/1945年・上半期)が決定したと発表されていたじゃん、どうしてそれを無視するの? ……と、福島鋳郎さんが『戦後雑誌発掘』(昭和60年/1985年8月・洋泉社刊)で指摘されていました。これも以前ご紹介しました

 くどいようですが、日本文学振興会が当時、きちんと発表した公式文章、全文引用しておきます。ここまではっきりと活字になっているのですから。福島さんの疑問も、もっともです。

「第卅一回(ママ) 芥川龍之介賞 直木三十五賞 に就て!!

日本文学振興会に於ては、戦災による万難を排し銓衡に着手せるも、雑誌の発行皆無、文壇各位に委嘱せる推薦作品も殆ど皆無の為、委員一致の意見として、今回は授賞者なしと決定せり。次回を期して、目下銓衡に入りたるにつき候補作品として推薦に値するものは本会に御送附願ひ度、各位の御協力を切望する。

昭和廿年十月

財団法人日本文学振興会」(『文藝春秋』昭和20年/1945年11月号より)

 このとき同誌のトップは、国家の手先・斎藤龍太郎さんは退き、永井龍男さんに代わっていました。もう戦後のことです。今なお、この回を無視するに当たって、「戦争中のことは忘れたほうが、何かと都合がいい」みたいな言い訳は通用しないはずです。

 ほんとうに委員全員に意見を聞いたのか? という疑惑はあります。ただ、昭和20年/1945年決定のこの回も、それまでどおり、文壇やジャーナリズム方に、候補作推薦のお願いをしていたのは、間違いないらしいです。

 先の宇野浩二さん。佐藤善一宛の手紙、8月27日付にこう書いています。

「僕は、やはり、あなたの最近のお作では『月と柿と栗』が一ばんよいと思ひましたので、あれが「新文学」に出ましたら、いつか申し上げましたやうに、信用は絶対にしてをりませんが、こんどの芥川賞推薦カアド、に書きたいと思ってをります。一と月ほど前に来ましたのには、推薦カアドになしと書きましたが――」

 おお。8月27日の一ト月ほど前って言えば、まだ戦争が終わってない頃じゃないですか。

 さすが日本文学振興会だ……。雑誌の発行が無理な状況のなかで、戦記文学賞を開催しちゃう根性は、伊達じゃないぜ。昭和20年/1945年、『文藝春秋』誌は出せなくても、直木賞も芥川賞も、やる気マンマンだったんですね。

 本業が壊滅状態にあろうとも、文学賞は残そうとする。そんな日本文学振興会=文春、好き。

 でも、『「一億特攻」を煽った雑誌たち 文藝春秋・現代・婦人倶楽部・主婦之友』(昭和59年/1984年5月・第三文明社刊)の著者でもある高崎隆治さんは、怒っていました。文春は、昭和20年/1945年~昭和21年/1946年ごろの『文藝春秋』の一部を、じっさいは発行していたものまで含めて、勝手に休刊・欠本あつかいしている連中だ、とうてい信用ならぬと。

 なかなかの食わせモノのようです、文藝春秋。第21回(昭和20年/1945年・上半期)は、ほんとうなら「受賞作なし」でしょう。復活第1回第22回とするのが正解でしょう。つまり木内昇さんと道尾秀介さんは、第144回じゃなく、第145回目の直木賞の受賞者、なんです。

 まったくなあ。昭和20年/1945年、文学賞史において空白といわれた時代に、懸命な努力で戦記文学賞や、第21回直木賞・芥川賞を開催してくれているのに。きちんとした資料を残しておいてくれない日本文学振興会=文春、嫌い。

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