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2010年12月12日 (日)

太平洋戦争下の文学賞 いつの時代も文学賞はきらびやか。そして残酷。

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 何ってったって12月ですから。日本中の人間がひとり残らず、69年前の12月を想起して、何事かを思っているその潮流に、うちのブログだけ乗り遅れるわけにはいきませんよ。

 むろん、直木賞の歴史のなかでも、特異な時代です。昭和16年/1941年以降の数年は。

 なにしろ、受賞者に、主催者から提供される時計(または代りの品)と賞金だけじゃなく、それ以外のものが贈られたのは、おそらく第16回(昭和17年/1942年下半期)~第18回(昭和18年/1943年下半期)の、3度しかなかったはずですからね。

 ってことで、今日の「直木賞のライバル」は、太平洋戦争開戦(昭和16年/1941年12月)以後にできた、いくつかの文学賞です。

【大東亜文学賞受賞作一覧】(昭和17年/1942年11月設定、昭和18年/1943年~昭和19年/1944年)

【歴史文学賞(奉仕会)受賞作一覧】(昭和18年/1943年6月設定、昭和19年/1944年)

【岡本綺堂賞受賞作一覧】(昭和18年/1943年8月設定、昭和19年/1944年~昭和20年/1945年)

【興亜文学賞受賞作一覧】(昭和18年/1943年8月設定、昭和19年/1944年)

【大陸開拓文学賞受賞作一覧】(昭和18年/1943年設定、昭和19年/1944年)

【文学報国会小説賞受賞作一覧】(昭和18年/1943年11月設定、昭和19年/1944年)

 本来、「太平洋戦争下の文学賞」などと、十把一からげで紹介すべきもんじゃありません。ひとつひとつの賞に特色があり、裏事情があり、笑うべきツボも違います。

 でもまあ、真の意味での「直木賞のライバル」は、日本文学報国会(文報と略します)です。その文報の関わった文学賞ってことで、ざざっとまとめてしまいました。各賞の関係者のかたがた、お許しを。

 なにゆえ文報がライバルなのか。……といえば、こやつら、直木賞も含め、芥川賞も何もかも、なくしてしまおうと考えていたからなんです。

 昭和17年/1942年6月の、小説部会において、さっそく「既成の文学賞を調査すること」が議題にのぼります。翌月には、「小説に関する文学賞統一の件」なんつう、不穏な提案がなされちゃいます。要は、直木賞だの芥川賞だの新潮社文藝賞だの、既存の文学賞は全部いっしょにして、文報が運営すりゃいいんじゃね? ってハナシです。

 ただ、そうはさせじと反対する勢力があったんでしょう。翌年の文報大会(昭和18年/1943年4月8日)までにはケリがつかず、ときの文報総務部長、甲賀三郎さんは悔しさをにじませながら(?)こんなことを言っています。

「審査部長河上徹太郎君が本会の用務を帯びまして支那に出張中でありますので、代理で御報告申上げます

 文学賞に付きましては相当に本会に於きまして独自の立場からこれを設定すること、並に既設文学賞を本会に委譲して貰うということに付きまして着々準備を進めて居りますが、まだ十分なる成果を挙げて居りません。これが実現に付きましては今後十分なる努力を致す積で居ります、今回は特に既設の芥川賞、直木賞、新潮賞、朝鮮芸術賞文学賞、有馬賞、この五つの賞を権威のある賞と致しまして本会がこれを認めまして、これに本会としましては、既に本賞がありますので副賞として贈呈することになりましたのであります。」(『日本学芸新聞』152号[昭和18年/1943年5月1日] 「文学報国大会 文学賞設定に至る迄の経過報告」より)

 このうちすでに有馬賞は、農民文学懇話会のスタートさせたものが、文報のなかに取り込まれてしまっており、やつらめ、まじで他の文学賞も委譲させる(=強奪する)つもりだったみたいです。

 それから一年たつうち、文報は宣言どおり、自前の文学賞をいくつもつくりました。なかでも、小説部会が、既存の賞の上を行って最高に権威ある賞にしよう、との気構えでつくったのが「文学報国会小説賞」です。

 戸川貞雄さん、鼻息荒く語ります。荒すぎます。

「芥川・直木賞にせよ新潮賞にせよ、文学賞に対して過去の文学的業績による個人の文名を冠することは慎重考慮を要すべき事柄でもあるし、営利的な出版企業態の存続も許されない今日以後にかんがみ、この機会に一層いさぎよく文学報国会賞のうちに解消せしめては如何かと思う。」(『文学報国』15号[昭和19年/1944年1月20日] 戸川貞雄「権威と責任と 『小説賞』設定に就て」より)

 え、そうなの? 個人名を冠することが、時局と関係あんの? さすが戸川さん、飛びぬけた論理を持ち出してくるんだなあ。

 文報が設立に関わった文学賞の名前を見てみますと、文学報国会小説賞、文学報国会国文学賞、文学報国会詩部会賞、文学報国会短歌部会賞、大東亜文学賞、大陸開拓文学賞、興亜文学賞、歴史文学賞、うんぬん……。こういうセンスのかけらもないネーミングがよい、というのですから、どうにもハナシが噛み合いそうにありませんや。「役者の芸名は廃止せよ、みな本名にせよ」なんてことが、真顔で提案される時代ですもの、そりゃイヤになっちゃう人もいるでしょうよ。

 それでも、一葉賞だの、岡本綺堂賞だのの賞名は許可しちゃっているんだもんなあ。要は、芥川龍之介や直木三十五なんて、大した作家じゃなかったじゃないか、と言いたいのかな、戸川貞雄さんは。

 いずれにせよ、直木賞や芥川賞は、終始「文報賞」に組み込まれませんでした。名称も変わりませんでした。

 山本周五郎さんなど、「直木賞」を蹴ったからワイワイいわれるけど、もしこれが「文報賞」だったら、今ほど辞退劇が有名になっていたのかなあ。と想像せずにはいられません。現に、林房雄さんや大佛次郎さんが、大東亜文学賞をやんわり拒絶していたことなぞ、いま、ことさら注目する人もいないわけですし。

 ほんと、どうでもいいことです。賞なんて。ホクホク顔で受賞しようが、辞退しようが。

 でもね。なくならないんですよ、文学賞。統一主義者の戸川貞雄さんがいくらギャーギャーわめいても。太平洋戦争が始まって、小説など書いている・読んでいる場合じゃないだろ、って状況になっても。わんさかつくられる。つぶれてもつぶれても、新しいのが出てくる。

 平和であろうが、戦争していようが、文学賞は栄えるこの不思議。

 この一事をもってしても、文学賞には「人をワクワクさせる要素」と、ちょっと時代がたって振り返ってみると「人をウンザリさせる要素」が内在しているのだなあ、魅力的なはずだよなあ、と明瞭にワタクシには感じられてくるわけです。

          ○

 文報の関わった数種の文学賞、網羅できるほどの力もスペースもないので、ここではちょっとだけかいつまみます。

 と、唐突ではありますが、最近、孔子平和賞なんてのができたんですって? ノーベル平和賞を劉暁波さんがとったことに、中国政府が反発して、自前で急ごしらえしたのだとか、何だとか。

 相変わらず面白いですなあ賞の世界は。賞で張り合ってどうするんだ。……って言葉を投げかけてあげましょう。日本人に。

「ノーベル文学賞■昭和十四年以来戦禍の陰に中絶してゐるに反し、わが日本文学報国会制定大東亜文学賞が■■戦■の中に全東亜民族の魂の結集を■■してゐるその国際的意義はまことに大きいといはねばならぬ」(昭和61年/1986年10月・明治大正昭和新聞研究会刊『新聞集成昭和編年史 昭和二十年度版I』所収 「輝く大東亜文学賞 きのふ晴れの授賞式」昭和20年/1945年1月25日毎日東京より 「■」は判読不能箇所)

 大東亜文学賞、輝いていたそうです。馬鹿っぽくていいですねえ、ノーベル賞と比較しちゃう辺り。

 この賞は、「大東亜」の諸地域に住んでいる作家が書いた作品のうち、日本・満洲・中国・南方といった地域ごとに委員会を置いて、各地域から優秀な作品を選定して表彰しようじゃないか、っていうもの。戦中3度おこなわれた「大東亜文学者大会」の第1回目(昭和17年/1942年11月)で提案され、設置が決まり、その後、第2回(昭和18年/1943年8月)、第3回(昭和19年/1944年11月)において、授賞発表が行われました。

 いや、馬鹿っぽくていい、などと楽しんでいる場合じゃないですか。これ、罪つくり文学賞の最たるもの、らしいです。

 大東亜文学賞と日本文壇、について数多くの示唆を与えてくれる作家に、中薗英助さんという人がいました。

 彼の語る大東亜文学賞は、その多くは第1回次賞を『貝殻』で得た袁犀さんにまつわることです。ただ、そのとき候補にあがり第2回次賞となった梅娘さんのハナシも触れられていたりします。どちらも、中薗さんの紹介によると、こうなります。

「袁犀はわたしと同年の天才的作家だったが、以前に抗日地下活動容疑者として日本憲兵隊に拘留されていたことがあり、横光利一推薦によるとされた大東亜文学賞授賞は、むしろミューズの神の悪戯というべきであったかもしれない。

 しかし、神の悪戯にしては、彼が払わねばならなかった代償はあまりにも大きい。中国の解放後、李克異という新しい筆名で再出発しながら、大東亜文学賞が仇になって反右派闘争から文革にかけて反動文人とされ、四人組追放後に名誉回復されたのもつかの間で病死する。」(平成6年/1994年2月・岩波書店刊 中薗英助・著『わが北京留恋の記』所収「大戦下北京の文学」より)

「梅娘もいったん台湾に渡り、夫龍光(引用者注:柳龍光)の死後は北京に帰ったものの、スパイ容疑で収容所に入れられ、子供二人は病死、さらに出所後も大東亜文学賞受賞が仇となって、文革による漢奸文人としての迫害を受けつづけたという。」(同書所収「戦時下に揺れた文学者たち」より)

 ううう。文学賞が仇となり、のリフレイン。追放だの迫害だの、身震いするような単語への結びつき。

 「○○賞作家」のレッテルを貼られて、っていうのはよく聞くフレーズではありますが、そこに国家間の対立みたいのがからんでくると、とうてい始末に負えません。

 中薗さん見るところ、なぜ袁犀『貝殻』があのとき次賞になったのか、確実なところは解明されていないのだそうで、『北京飯店旧館にて』や『北京の貝殻』などの連作小説で、ぐいぐい追求しています。文学賞マニアとしては、あの芥川賞候補作家(ほぼ自称)の江崎磐太郎らしき人が登場する場面に、ついキュンとしてしまうわけですが。

「「ぼくは東京をすてて気楽になったが、袁犀くんはわざわざ東京へ行ってもらったんだ。これから、大変な苦労をするだろうなあ、と同情するよ」

 と、最後に檜口がしみじみと慨くようにいった。

 檜口はそれから一年もしないうちに、彼の嘆く地の果ての異郷に病み、やはり同人だった親友の長部に看取られながら、粟粒結核で帰らぬ人となってしまった。学芸欄に彼が扱った授賞の是非を紙面で戦わせた論争は、三回ほどつづいたけれど、わたしは何一つおぼえていない。ただ、袁犀はこの賞で大変な苦労をするだろうと予言した檜口の言葉だけをおぼえていた。」(平成4年/1992年10月・筑摩書房刊 中薗英助・著『北京飯店旧館にて』所収「銭糧胡同の日本人」より ―引用文は平成19年/2007年1月・講談社/講談社文芸文庫から採った)

 江崎さんのことは措いとくとして、何としても胸にじーんとくるのは、袁犀さんの未亡人が、主人公と対面したときのところでしょう。なぜ、じーんとくるか。同氏の『貝殻』が大東亜文学賞次賞になったのは横光利一が推薦したからだ、と言われていて、未亡人もそれを信じているんですが、それが、あくまでも噂レベルにすぎないからなんです。

「姚錦女士(引用者注:袁犀の未亡人)も運ばれてくる料理の方はそこそこにして、次から次へと隣席のわたしに質問を浴びせかけてきた。

「横光利一先生は当時、『貝殻』をどのように読まれたのでしょうか? わたしは、それをとても知りたいと願っていますわ。なぜって、文学賞に推薦したのは、横光先生だったといわれておりますから」

「………」

「横光先生は新感覚派の作家ということですが、阿部知二先生はちがいますか? 阿部先生の日本文学界での知名度はどんなでしたか? 克異は阿部先生とは何度も会って、親しくさせていただいたらしく、阿部先生について書いた文章も残していますわ」

「………」

(引用者中略)

「夏目漱石先生の作品は、あのころもう中国には紹介されていましたけれど、先生はまだ生きておられるのでしょうか? 生きていまも日本文学報国会に属していらっしゃるのでしょうか?」

(引用者中略)

 未亡人の脳裡には、亡き夫袁犀をめぐって、明治から昭和十年代にまで及ぶ文学者が、脈絡もなく勢ぞろいしていた。文学賞を受賞することによって、日本の文学界とどういうかかわりをもったかを、年表制作のために調査したいらしく、その必死な熱意にわたしは圧倒されてしまった。」(同「銭糧胡同の日本人」より)

 未亡人の熱意に、ワタクシも圧倒されました。いや、ワタクシの場合は、たった一つの文学賞が、両国の状況が変わり数十年もたっているのに、そこまでの熱意に転換しうるパワーを持っていたことに、圧倒された、と言ったほうがいいかもしれません。

          ○

 ふつう「歴史文学賞」というと、新人物往来社が昭和52年/1977年から始めたそれをイメージすると思います。

 まったく同じ名称の「歴史文学賞」が、昭和18年/1943年に創設されていました。けっこう大々的に創設発表をやったらしいです。

「財団法人奉仕会ではこの度歴史文学賞を設定、十日午後五時華族会館でその発表会を行った、文学者側から武者小路実篤、久米正雄、藤森成吉ら四十余名が出席、席上同会会長荒木貞夫大将、久米文報事務局長の挨拶あり八時半散会した」(平成7年/1995年7月・新聞資料出版刊『新聞集成昭和編年史 昭和十八年度III』所収「歴史文学賞設定」昭和18年/1943年6月11日毎日大阪より)

 なんでこの時期に「歴史文学」なのか、つう問題は大原祐治さんが『文学的記憶・一九四〇年前後 昭和期文学と戦争の記憶』(平成18年/2006年11月・翰林書房刊)の「第一章 歴史小説の死産」あたりに述べられていることと関わってきそうです。

「「歴史小説」をめぐる議論は一九三〇年代以来、「大衆文学」と「純文学」の接合という問題から出発しながらも、そうした境界線をめぐる議論においてはっきりとした解決を見ないまま、いつの間にか日中開戦後の「国民文学」待望論へと接合してしまっていた。

(引用者中略)

とりわけ戦時下の時代において、このジャンルに属すると見なしてよい作品の数が急激に増大したことも事実であり、だからこそ歴史小説を「戦時下の芸術的抵抗」と見なすような文学史記述がなされ続けてきたのでもあろう。」(同書より)

 ええと、大原さんの論述とは何ら関係のないこんなブログで引用してしまって恐縮です。

 まあ、昭和10年代、歴史小説はどう把握されていたか、芸術的抵抗なのか、って問題はあると思います。そこに、荒木貞夫率いる奉仕会が、文報とタッグを組んで、ひとつの文学賞を立ち上げた、というエピソードを乗せるだけで、もう戦時下の歴史小説が、とたんに胡散くささを身にまとってしまうのですから、「文学賞」の負のオーラ、ただものじゃありません。

 いや、歴史文学賞をつくった人たちは、それはそれで真剣に、歴史小説のことを考えていたのでしょう。胡散くささ、などと一言で切ってしまっては申し訳ないことです。

 真剣に考えていたんですよね。白井喬二さん。

「この時期、もう一つ東亜と名のつく会があった。大東亜文学賞というのであった。賞である。(引用者中略)戦争と文学賞、どういう因縁があるのか知らないが、選考委員になってくれとたのまれたが、ぼくは「選考委員はおことわりするが、個人の意見を述べるだけでよければ作品は読みましょう」と答えた。(引用者中略)

 ぼくは太宰治の「実朝」という作品をえらんだ。実朝が別当公卿に刺される前後のことが書いてある。まだ太宰治がそれほど高名でなかったころだが、哀感みなぎる佳作だった。しかし当選の発表をみると「実朝」は二票しか入っていない。ぼくは選考委員を辞退しているのに一票を投じたことになっている。他の一票は柳川という陸軍大将だった。」(昭和58年/1983年4月・六興出版刊 白井喬二・著『さらば富士に立つ影』「文学報国会の発足」より)

 しかしまあ、文報小説部会の幹事長なんちゅうものを務め、文報中枢にぐっさり関わっていたはずなのに、ここまであやふやな記憶しか残していないのですから、どこまで白井さんが本気だったのかよくわかりませんよね。

 だって、柳川平助陸軍大将が、大東亜文学賞の選考委員などほんとに務めていたの? 太宰治『実朝』が候補作? 柳川×『実朝』といったら、それは歴史文学賞のことじゃないか、と思うのですけど。

 『実朝』に二票しか入らなかった、そのうちの一票を柳川さんが入れたものだった、という証言も信じたいところではあります。でも、なにぶん白井発言の信頼性が低すぎます。次に掲げる『文学報国』紙の信頼性と、どっちが高いんでしょう。

「三月二十二日に華族会館で開かれた最後決定となるべき委員会は各銓衡委員が真剣に討議検討した結果、太宰、板東、林、中澤四氏の著書が同点で残り、座長柳川平助閣下に一任後、遂に『阿波山嶽党』と決定したものである」(『文学報国』27号[昭和19年/1944年6月1日]「歴史文学賞は中澤氏の『阿波山嶽党』」より)

 この歴史文学賞を含む十三種の文学賞の合同授与式は、昭和19年/1944年7月10日に行われました。そこでは最後に、文報常務理事・白井喬二さんその人が発声して聖寿万歳を奉唱したことになっているんですけど、たぶん白井さん、そんなこともきれいに忘れちゃったんでしょう。

 思い違いや忘却は、これは如何ともしがたい。とくに、戦時下の自分の言動について、あやふやな証言しかできないのは白井さんひとりの問題でもないし、さらに言っちゃえば、文学賞のことなど、いちいち覚えている人のほうが異常……と言えなくもありません。

 おっと。ごめんなさい、袁犀未亡人の姚錦さん。文学賞をあげるほうは、テキトーな思いでテキトーに授賞していたのだとしても、受けたほうは、忘れるわけにはいきませんよね。

「戦時下の文学者たちは侵略戦争を推し進めた国家の要請に便乗して見事に踊ってしまった。踊らなかった者など皆無、といった状態であった。そして戦後、踊ったことをケロリと忘れてしまっている。(引用者中略)

 中国ではこの大会(引用者注:大東亜文学者大会)に踊った文化人の何人かが戦後、漢奸として処罰されている。たとえば銭稲孫は一九四六年一〇月、懲役一〇年、公権剥奪六年の判決を河北高等法院で下されている。

 尾崎秀樹は、柳雨生、陶亢徳の二名が一九四六年に反逆罪で三年の刑をうけたと書き「華北、華中から派遣された中国人作家は、ほとんど漢奸として実刑をうけたに違いない」とのべている(前掲『文学』(引用者注:一九六一年五月号))。林柏生が死刑になったことは既述した。」(平成7年/1995年6月・青木書店刊 櫻本富雄・著『日本文学報国会 大東亜戦争下の文学者たち』より)

 文学賞においては、授ける者は常に安全圏にいて、授かる者はときに危険にさらされる。……といった一般論を、つい思い浮かべちゃいました。

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